第二節 あさひ映す 和田の男(むすこ)
実朝の運命の相手、和田朝盛が再登場、存在感をしめします。
一方の義時は、父の時政から実朝の秘密について思わせぶりなことを伝えられます。
将軍家は男なのか、女なのか。
実朝をめぐって、二人の男が暗躍します。
自由闊達な和田の男たちは、実朝の兄、先代の頼家からも愛された。
彼の退位のちょうど三年前、この日と同じように鎌倉の浜辺で笠懸がもよおされていた。
射手は結城朝光・海野幸氏・和田常盛らと、皆、弓の名手、上位三名が拮抗し、勝負は引き分けとなった。これに、負けず嫌いの常盛が、
「くうぅ、もう一度勝負致しましたら、必ずや私が勝ちましたものを。畢竟、ご褒美の名馬は私のものになりましたものを」
彼の心底に、皆が笑い崩れた。
「お前は本当に正直な男だ」
頼家も声を立てて笑った。
彼も十二歳のとき、富士の巻狩りで大鹿を射止めたほどの腕前である。また、弓に限らず体を動かすことを好み、部下も武芸に秀でた者をそばに置いた。
季節は秋、澄んだ青空に雲一つなく、風が穏やかに吹いていた。
「せっかくの海日和りだ。沖まで出ないか」
頼家の提案に皆、喜んで賛成する。主従は気心の知れた遊び仲間だ。
青灰色の海へ船を漕ぎ出し、酒杯が廻される。酔いも手伝い、宴もたけなわとなったころ、常盛の弟、朝比奈三郎が水練の達者だと話題にのぼった。
「和田兵衛尉、それは本当か。そなた、水練なら弟に譲れるんだな」
頼家が常盛を見て、からかった。これに、
「えぇ、弓も相撲も私の方が上ですが、水練なら弟に譲ってもいいかな、ってとこですが」
と、兄が胸を張れば、隣に坐していた弟の朝比奈も、
「弓はともかく、水練と相撲は兄にも負けませんよ。鎌倉の御家人のなかで、私に敵うやつはいないんじゃないかな」と、自信満々に答える。
謙遜を知らぬ和田兄弟へ、さすがに年長の江間四郎が、
「おい、鎌倉殿の御前だぞ。少しは遠慮しろ」とたしなめたが、その目は笑っている。
主君の頼家も「いいから、いいから」と手を振った。
裏表のない和田兄弟を誰もが愛したが、その性質は和田一族の皆に共通した。
油断も隙もない謀臣ばかりの宿老のなかで、彼らの父、和田義盛は頼家にとって心許せる数少ない武将だった。一族の長、義盛の父は三浦氏の長男であったが、宗家は正妻腹の弟、義村の父が継いだ。しかし、義盛は自らの武勇で頼朝から取り立てられると、父の実家と並ぶほどの権勢を得、頼朝亡き後は頼家の執政を支える十三人の宿老の一人に選ばれている。
とかく、比企氏ばかりを贔屓していたように言われる頼家だったが、執政の前半は、他氏への気配りを怠ってなかった。
「悪いな、兵衛尉。船の上で相撲は無理だ。朝比奈三郎、そなたの泳ぎを見せてもらおう」
頼家から視線を向けられた朝比奈は、
「承知!」
早くも袴の紐に手をかけ、上着も下着もばっばっと豪快に音を立てる脱ぎっぷりである。
赤銅色のみごとな体を露わにし、朝比奈は下帯の張り具合を確かめると、勢いよく海へ飛び込んだ。
船が傾き、水飛沫とともに若者たちの歓声があがった。
「大丈夫か、冷たくはないか?」
主君の問いに、海面から濡れた顔を出した朝比奈は、
「へっちゃらです。海水ってのは、二月前の温さなんです。潜っていたほうがあったかいぐらいですよ」
それから、肉づきのよい腕を振り回すと、
「さぁ、見ててください」と言い残し、沖へ向かって泳ぎ始めた。
鮮やかに抜き手をきる強靭な肉体は、房総の荒波を泳ぎ慣れた海の男のものだ。
真っ向からの波にも屈することなく。
「あいつ、何もんだよ」
「魚かよ」
皆が目を見張るなか、朝比奈は沖と船とを数町(数百メートル)も往復すると、船近くまで戻り、仲間たちへ白い歯を見せて笑った。
海の勇者は己れの泳力を存分に見せつけ、満足したかと思えば、
「俺、素潜りも上手いんです!」
と言うなり、両手の先を揃え、音を立てて海面を割った。体をまっ直ぐに伸ばし、朝比奈はぐんぐんと海の底へ吸い込まれるように黒い影となって遠ざかり、やがて点となって消えた。
一同は歓声をあげ、青黒い海の深みへ目を凝らした。
しかし――
それからどれくらい時間が経ったろう。
ぱちゃぱちゃと波が叩く船べりから、人々は一心に海面を見つめていた。
朝比奈のみごとな潜水のわざに、最初は歓声をあげていた人々も、次第に気を揉みながら波間を凝視する。
爽秋の相模の海はさほど荒れてなかったが、
――酒など呑ませて、大丈夫だったか。
さすがに心配になったころ、突然、船の反対側から大きな水音が上がった。
驚いた一同が振り返ると、
「みんな、心配したか?」
満面の笑みの朝比奈が海面に浮かんでいた。
「もう! お前はっ」
「心配させやがって!」
一斉に怒り笑いして、皆が一方の舷に寄った。
急な移動に船が大きくかしぎ、「おっとっとっと」
よろめく人々。
船頭が慌て、船体の姿勢を回復させたから良いようなものを、
「三郎! 俺たちに何かあったら、どうしてくれるんだ!」
常盛が本気で怒り出したので、朝比奈は頭を搔くほかない。
そんな彼へ、頼家が笑いながら訊ねる。
「朝比奈、おまえ、どこまで潜った? 海の底にでもたどりついたか?」
主君の問いに、朝比奈はぱっと目を輝かせた。
「はい、海の底の竜宮城を見てきました」
「何!」
「すっごい美人の乙姫に会ってきました」
「嘘だ!」男たちはわめいた。
「本当ですって、おみやげに玉手箱までもらってきましたよ」と言いながら、手元を見て、
「あ、ない!」朝比奈は両手をあげておおげさに驚いた。
「残念、浮き上がってくるときに落したんです」
朝比奈の大ウソに、
「んなわけねぇだろ!」
兄の常盛が怒鳴った。
一同は、腹をかかえて笑った。
頼家も、目じりに涙を浮かべながら、
「そうか、残念だったな。では、代わりに、みごとな水練のわざを見せたそなたへ褒美をとらせよう。今日、俺が乗ってきた馬でよいか」
「本当ですか! 御所!」
喜ぶ朝比奈に、兄の常盛が口をとがらせ、
「ちょっと待ってください。御所! 三郎にだけずるいじゃないですか! 私だって、御所の馬が欲しいです!」
相撲で勝負をつけようと言い出し、これを面白がった頼家が、笑い騒ぐ一同を陸へ連れ帰るのだった。
短命で陰惨な事件の多かった二代将軍頼家の時世、人々の記憶のなかで、この日の出来事はきらきらと健やかな輝きを放っていた。海と太陽に愛し愛された和田の男たちの活躍のゆえだ。
けれど、浜遊びの一行のなかで、最も年若だった朝盛の影は薄い。
すでに頼家の近習として出仕していた彼は、この後の父と叔父の相撲対決も、主君のかたわらで見守っていたはずだが、朝盛の姿は真昼の月のように人々の印象に残らなかった。
陽気で快活な和田一族のなかにも例外はある。朝盛自身、己れが日の光にかすむことを自覚していた。
その日、実朝と数年ぶりに再会した彼は、真夜中、東に昇る下弦の月を眺めながら思った。
――今将軍は、私が佞臣と呼ばれていたことをご存じない……
しかも、罵倒の相手は将軍家の母、尼御台である。朝盛が頼家に仕えていたころ、息子をわるい遊びに誘うと、他の近習と一緒くたに呼ばれ、子ども心に傷ついたものだ。
今将軍とは違い、何事にも活発な頼家は、政務を独断で進める、酒色に溺れていると、一部の長老たちから素行を問題視されていた。
そんな我が子かわいさに十歳やそこらの子どもをつかまえて『佞臣』とは、ものすごい転嫁だと大人になればわかる。もっとも、尼御台から見れば、成人の息子と十歳やそこらで夜のらんちき騒ぎに加わる自分は恐るべき子どもだったのだ。主君の取り巻きたちと好き勝手やっていた渦中には気づかなかったが。
あのころは、自分たちが世界の中心だった。何をやっても許されると――
しかし、そんな時間は長くは続かなかった。
次第に将軍家と執権の仲が険悪になり、頼家の病いを機に、先手を打った北条が比企氏を滅ぼし、頼家は将軍の位を剥奪され、伊豆に送られた。その間、自分は子どもながらに主君を守ろうと、父や祖父をたよったが無駄だった。
頼家の没落は自身の没落につながった。尼御台に憎まれたため、年齢も家格も釣り合いながら、新将軍の近習になることはかなわず、ようやく実朝の側近くに参じることができたのは、京へ花嫁をお迎えに上がる若武者の一行に選ばれたときだ。
将軍家への拝謁のため、大倉に参じたあの日、上座の少年の顔を見て驚いた。
目の前の主君は、容儀華麗を集めた一行の、誰より美しかったからだ。
白く透きとおった肌、濃い睫毛が翳らす円らな瞳、小さな唇。
だが、そんな色や形とは別のところに将軍家の美しさがあった。この世のものではないような――というのは、きっと少年らしからぬ少女のような含羞があったせいだ。
「わぁ、こんなにたくさん、きれいな男の人たちが集まったの、私はじめて見た」
声にこそ出さないが、少し頬が紅潮していたのも少女めかせていた。自分はよく女の子みたいだとからかわれていたが、御所はそれ以上だった。
だから、
――俺よりも女みたいなやつがいる。
当時、奥手でなかなか背が伸びないことを気にしていた自分は何だかほっとしたものだ。
将軍家の美しさを表すのであれば、今なら、零えかな、という言葉をあてるだろう。
触れれば落ちる繊細な花のように、どこか危うげで。
ただ、そのころは、
――都のお姫さまみたいだ。
と、単純に思った。都のお姫さまなぞ見たこともなかったくせに。
おかげで迎えに行った御台所を垣間見たとき、ひどく不細工に思えて困った。
帰東後は、御迎えの一行に選ばれたことで、自分にも道が開けるのではないかと期待したが、一度排除された人間が再び浮き上がることは容易ではなかった。御所内でも実朝の側近くに侍ることは叶わず、二十歳を前に世捨て人のような気持ちになり、父の領地に退いた。
上総で所領の管理を手伝いながら、なお歌づくりを続けたのは、先代の頼家から手ほどきを受け、そのよすがとしたかったのか、当代の実朝も歌を好むと聞き、どこかで繋がりたかったのか、今となっては自分でもわからない。
風のたよりに、今将軍もますます歌の道に励んでいる、京の藤原定家に師事した、などと聞くたびに心が揺れたが、
――もう別の世界の人だ。
自分を殺した。
昔から言うではないか、水面に映る月をすくう真似などするなと。
けれど今日、その月のような麗人がさらに美しくなって目の前に現れた。
そして屈託なく話しかける主君の、瞳の奥に宿るものを捉えたとき、自分へ向けられた関心を二度と手放すまいと誓った。
実朝が三浦から帰ると、鎌倉では儀式や訴訟に明け暮れる多忙な毎日が待っていた。
翌六月、相模の丸子川で御家人同士がささいな口論から諍いを起こし、一族郎党による籠城戦にまで発展したと報せを受けた。
実朝はすぐさま和田義盛と三浦義村を現地へ向かわせたが、今回は三浦が副えられたせいか、義盛もどちらの味方をするということはなく、群集する兵士らを何事もなく解散させたという。
穏便な処理が素早くなされ、夜までに報告を受けることができた実朝は二人を労った。しかし、そもそもの諍いの原因を聞かされて驚く。件の御家人どもは仲良く川に涼みに出ていたところ、雑談がいつしか先祖の手柄話となり、やがて、どちらの先祖が偉いか退くに退かれず、太刀を抜いたというのだ。
実朝は頭を抱えた。
――口げんかから合戦を始めようとするなんて、いい年した大人がそんなに熱く見境いなくなるもの?
武力をもった危険な輩を野放しにはできない。しっかり懲らしめようと、実朝は執権の叔父を呼んだ。
「勇士とは本来、国家を守るために身を修めるものでしょう。それなのに、私の武威を争い、ややもすれば合戦を催すなんて不忠の至りだよ。最近とみにそうだ。これって、私がなめられているせい?」
義時は「それもありますね」と言いたいところをぐっとこらえ、
「いいえ、故殿のころは敵方との戦さを専らにして、味方同士で相争う暇がなかったのです。けれど、兵乱が一段落した今なお、戦士、兵士といった連中は、戦いによって己が地位を見極めたがります。口が出て手が出て、ついでに刃物が出れば血を見るのが当たり前なのです」
「そんな…… 平和な時代だからこそ無用な小競り合いが起こるってこと? 世の中が落ち着いてきたなら、それに自分を合わせればいいのに」
「武士の本性など、簡単に変えられるものではありません。ただ、私のように取りつくろうのがうまい者がいる一方で、世の変化に順応できぬ者が、今回のような騒動を起こすのです」
戦乱の世に必要とされ、表に出てきた荒武者たちは、平和の世には不要となる。居場所を失った彼らは己れや先祖の功績に拘泥する。そこまで考えて実朝は、はっとした。昨年より義時が画策している守護職交代の根本は、そこにあったのではないか。
であれば、叔父の狙いは、三浦や千葉ばかりではない。
実朝は、愚直で裏表のない笑顔を自分に向けてくれる老人を思い浮かべ、叔父の言わんとすることに、息苦しさを覚えた。
義時はその日のうちに、
「今後、私闘を企てた者は所領を没収し、御家人の列から外す」
と、武将たちに厳命した。
和田義盛の嫡孫、三郎朝盛は、主命により鎌倉へ戻ると、ただちに実朝のそば近くに仕えた。かつて自分を佞臣と呼んだ尼御台に出仕を知られれば、必ず反対されると危惧したが、近習の増員をいちいち相談するほど主君母子は密着しておらず、何の妨げもなかった。
朝盛にとって数年ぶりの鎌倉の街――
彼は父常盛の邸に居を置くつもりだったが、父の従弟、胤長が、
「俺の邸は御所のすぐ隣だから、うちを宿所にしろよ」と言ってくれた。
彼は気のいいやつだ。
ただ、実朝の近習として長いため、何事も先輩づらで教えたがり、
「お前の肌って生白くないか。俺だって、もとは色白だけど、夏はちゃんと黒いだろ。お前も、もっと表へ出ろよ」などと口が余計で、ときおり朝盛を鼻白ませる。
胤長は、長い手足のせいで全体がひょろりとした印象だったから、
「おまえの名前は胤長でなく、ひょろ長にしろ」と、一族のなかでもからかわれていた。
二十代半ばの彼には三歳の娘もいるが、いつまでも若者気分である。
いや、これは和田の人全てに言えることだ。
いくつになっても体の大きな童子。
――だけど、俺は違う。
自分は和田の直系であるが、彼らとは一緒にされたくなかった。
歌の上手として、すでに実朝の覚えはめでたい。その上、将軍家のおそばで諸事をそつなくこなし、秋を過ぎたころには同僚たちからも一目置かれるようになっていた。
十一月も下旬に入ったころ、御所に雪が降った。実朝が興がり、歌会を催した。
朝盛も当然のように呼ばれたが、同じく近習のなかで歌詠みとして知られる、東重胤の横顔をそっと見た。実朝の一番のお気に入りと言われる彼に、
――ふうん、俺の方がずっと若くてきれいだけどな。
今日は歌会とて、いつになく張り合う気持ちが高まった。
承元三年(一二一一)三月、京より使者が到着し、
「去る九日、年号を『建暦』に改めた」との詔書を持参した。
改元は不穏な世情や天変地異などの凶事を断つべく行われるが、西国では奈良の興福寺や比叡山の衆徒(僧兵)どもが騒ぎを起こしたという。先月、山門(比叡山)が、敵対する三井寺を焼くとの風聞があり、興奮した奈良の衆徒どもは、平清盛が建立した京の三十三間堂に押し入った。平氏が興福寺を焼いたと、三十年越しの報復である。衆徒どもは警固の兵をしばり上げ、宝物庫を破り、銀の薬師像や宝剣を盗んで逃げたという。
――何だか鎌倉の御家人がかわゆく見えるな。
このところ実朝は、所領関係の訴えをいくつも解決して自信を深め、余裕をもって西国を見ていた。
奈良の衆徒どもは、自分たちが潰した仏像の銀を売って犯罪が露見したくせに、「追捕、不当なり」と蜂起した。まったく、仏弟子を名乗るならず者の集団である。
お恐れながら上皇が京を厭い、熊野詣でをくり返す気持ちがよくわかった。
実朝は都の御家人に使者を遣り、京城の警固を強化するよう命じた。
反して、関東はしばらく落ち着きを見せている。
実朝が病いで寝付き、周囲を慌てさせたり、
和田義盛の召捕が不当だと取り沙汰されたり、
父頼朝が奥州平泉を征服した際、御家人らへ配分した宝物について調べさせると、皆が「なくした」(本当は売り払った)と言い訳して実朝を呆れさせたり――
それは鎌倉の日々(にちにち)であった。
九月半ば、実朝はいつになく気だるく床に伏していた。しかし、その間、鶴岡八幡宮で慌ただしい動きがあった。甥の善哉が、八幡宮寺の別当、定暁の手によって出家したのだ。
何も聞かされていなかった実朝には、まさに寝耳に水。
甥の善哉を後継者として遇して五年、十二歳となった彼の元服を考えていた矢先だった。
ただ、思い当たるふしはあった。
二年ほど前、母の前で善哉の元服のことを口にすると、
「まだ十歳ですもの、もっと先に延ばせないかしら」
実朝としては早々に甥へ家督を譲り、肩の荷を下ろしたかったが、そう母から懇願されれば、
――確かに、早過ぎる元服は不憫かもしれない。
自分の意向ばかりで善哉への配慮が至らなかったと反省し、
「それでは、私を先例に、あの子が十二歳の年に加冠を果たしましょう」
また、譲位については元服後しばらく様子をみてからと、母と取り決め、義時や義村にも伝えていた。
ほんの一、二年の違いであっても、子どもには年相応というものがある。
前年、近習になったばかりの朝盛に訊いても、
「私も十歳で元服を致しましたが、若年での加冠は人様より早く、いろいろな経験をするということで、良くも悪くも、でございます。ただ、自分の子どもには人並の時期にさせてやりたいと思っております」
彼には人知れぬ苦労があったのだろう、曖昧な笑みを浮かべた。
だから、実朝は、自分の選択は間違っていないと思っていた。
それを今年に入ってから、母が、
「善哉をもう少し童形のままでいさせたいの」と言い出したのだ。
母の迷い。
それは理解していたつもりだった。善哉の父頼家はつねに母の実家へ反抗し、また北条も彼の妻の実家を滅ぼし、本人を廃嫡した。頼家は最後まで祖父と母を恨み続けた。
「いずれ私の気持ちをあの子はわかってくれる」と願いながら、和解の機会は永遠に失われ、母の愛憎は虚空をさまよっている。善哉の元服、その先にある将軍就任が現実味をおび始めると、気丈な母も心が揺れたのだ。また、母の相談相手は、実朝の乳母でもある妹の阿波の局、彼女は夫を頼家に殺されており、善哉が実朝の家督となる未来を手放しで喜んではいない。姉の迷いに、明るい答えを出せるものではなかった。
その上、六月の初旬に実朝が急病となった際、
「今度こそ危ないらしい」
例によって、鎌倉の御家人らが御所と三浦邸の間を右往左往し、母を苦しませた。
善哉は何一つ悪いことなどしていない。けれど、善哉を遠ざけたい母の心理に、巧みにつけ込んだ者がいたのだ。さらに、実朝が伏せっている時期を狙って。
実朝は思うところあって母の住む大御所に向かった。
先触れもなく訪れた我が子に、尼御台も全てを察したように居室へ迎え入れた。
「善哉のことですね。いえ、今はもう公暁と」
師の定暁から一字を与えられた法名は、何も知らぬ善哉へ、この世の栄達を諦めよと、大人たちが押しつけたものだ。本来であれば今ごろ元服を済ませ、実朝の一字を与えられていただろうに――
わけもわからず高僧の剃刀を頭皮に受けた甥の気持ちを思い、実朝は涙がにじんだ。
けれど、涙を浮かべていたのは自分だけでなかった。
母は心のうちを吐き出すようにして、
「もう、あの子の姿を見るのが辛かったのです。健やかに育っていくあの子を……」
父と母の子は、なぜか体が弱く短命だった。自分たち夫婦はともに健康でありながら、生まれてくる子が病弱だったことは、母親としての負い目を覚えさせるのだろうか。
二人目の姉が死んだとき、
「姫は都の間者に殺されたのです! 医師になり済まして、薬に毒を盛られたのです!」
母は狂人のように口走ったという。そのころ次姉には入内話が持ち上がっており、それを阻止しようとする公家らに命を狙われたのだと、母は誰彼となく言い募った。
今は落ち着いて現実を受け入れられるようになった母だが、それはそれで、十代で死んでいった娘たちの短命に思い悩むのだ。実朝は今年二十歳になったものの、相変わらず体が弱い。いつまた姉たちのようにと。
「世の中には子どもより孫のほうがかわいいという親がおります。けれど、私はそうではない。あなたの命が脅かされるたびに、善哉の存在が浮かび上がる。それが嫌なのです」
このところ、実朝は母に会ってやれなかった。自分はあと数年で解放されるとの思いから、将軍としての職務に集中し過ぎていた。これも善哉が自分の後を継いだとき、彼の負担を少しでも軽くさせてやりたかったからだ。
けれど、職務の忙しさ、また面白さに、満足に母を気遣うことを忘れていた。
母がここまで追い詰められているとは気づきもしなかった。
「……ごめんなさい」
実朝は母のそばに座り直すと、彼女の肩に手を置いた。
「寂しい思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
泣き沈む母へ、謝り続けた。
母の心の隙につけいった者、それは叔父の義時に他ならない。
今年に入ってから実朝に任せる政務を増やし、自身は少しずつ権限から手を引く素振りを見せた。治道の規範を学んでほしいと、唐の皇帝と群臣の政治談議を編んだ『貞観政要』を勧めてくれた。実朝は喜んで侍読(教育係)の源仲章を召し、読み合せを始めたが、
――今思えば、私の自立を促してくれたわけではなかったんだ。
実朝から家族に関わる時間を奪い、暗躍する義時の行動の底にあったのは、将軍家に最近とみに接近している三浦一族の存在である。
そして彼の警戒心は、三浦義村が養育している善哉に向かった。
四月半ば、叔父は三島神社の祭礼のため伊豆に下向した。実朝の代参に自ら名乗り出てくれたが、今年に限ってなぜだろうと不思議に思っていた。
祭礼は口実だった。伊豆には義時の父にして前執権の時政が健在だった。
恩讐なかばする親子がそこで何を話し合ったか。
最も警戒すべき相手が、最も信頼できる相手となることを、またその逆もあることを、実朝は身をもって知るのだ。
同月二十二日、公暁は修行のため、京へ送られることになった。
頼朝の庶子である貞暁が高野山におり、弟子に迎えられるのだという。
幕府内の力関係、京都との結びつき、母の心情――
叔父が数カ月の根回しのすえ築き上げた現実を前に、なすすべがなかった。
京への出発を前に、挨拶のため南面へ現れた公暁は、くりくりの坊主頭が切ないほど愛らしかった。
互いに了承の上であったものならばと、思わず目頭を指でおさえたが、ふと、実朝は自分の涙が欺瞞以外の何ものないことに気づいた。
公暁のおどおどとした目つき、早くこの場を去りたがっている仕草に、
――私は今までこの子に何を与えた。
己れの後継者として気にかけつつ、母に言われるまま衣服や玩具を贈り、ときおり御所へ呼んで話を聞く。それだけのことしかしてこなかった。今、目の前にいる少年の態度はどうだ。この子は血の繋がりによる親しみさえ覚えることもできないでいるのだ。
――血が繋がっていれば分かり合える、心が通じ合うなど、嘘だ。
人は人のために、どれくらい時間をともにしてきたか、体を動かすことができたかで、情が生まれるのだ。公暁に私への情などない。私の勝手な思いなど迷惑に過ぎぬのだ。
そして私も――
本当に善哉のことを思うのであれば、なぜ今、この少年を引き止めない? 幕府内の力関係も母の心情も全て投げ打てばいいものを。
その事実に気づいたとき、実朝は自分の心が冷めていくのを感じた。
「京まで、どれくらいかかるか知っている? まぁ、馬で行くのね。いつの間にか馬に乗れるように…… そう、師の僧都さまと一緒に。いいなぁ、私も都には一度行ってみたいと思ってるけど、体が弱くて。えぇ、そうね、楽しんでらっしゃい。高野山の兄上にも、よろしくと伝えてね」
自分の言葉の空々しさに心が凍えそうになる。八歳も年の違う甥との会話など続くものではなく、いつしか言葉が途切れ、
「付き添いの侍を五人ほどつけてあげましょう」と言って、下がらせた。
公暁のほっと安堵した顔。
実朝には甥の後ろ姿を黙って見送る他なかった。
遡ること、四月、義時は三島神社の祭礼のため伊豆へ帰郷していた。
頼朝公旗挙げの際、三島の祭日に山木判官を襲撃して勝利し、以来、当社は格段の信仰を得た。正月は二社詣でと呼び習わし、伊豆山神社とともに代々の将軍家が参詣している。とはいえ、当代の実朝が、そのすぐそばの北条まで足を運んだことはない。義時とて、あまり来てほしいとは思わない。それは北条の人間全てに底通することだろう。
何かのはずみで将軍家が北条に立ち寄り、このちっぽけな土地を、
「ここが北条の苗字の地です、我々の本拠です」と、胸を張って言えるものではない。
だが今日、義時はその北条へ、父に会うために戻った。
緑に囲まれた父の邸は、開府時に鎌倉へ居を移す前の数倍に増築されていたが、やはり名越の邸に比べれば人の訪いが少ないせいか、心なし寂しげに見える。
義時は年に一、二度、病いを理由に故郷へ帰り、その度々に父と会っていた。
だから、時政の居室へ通されても、
「父上もお変わりなく、お元気そうで何よりです」
己れが放逐した相手に何食わぬ顔で挨拶することができた。
「今日は父上に相談があって参りました」
折り目正しい息子の作法に、時政は笑いながら、
「ほう。執権殿に相談されるとは、儂も引退するにはまだまだ早かったということか」
と、きわどい戯れ言を口にする。
父の傍らに牧の方はない。継母は京に嫁いだ娘をたより、ここを出て行った。義時としてはこの邸で継母の姿を見なくてすみ、清々(せいせい)する。
「相談とは何だ」
時政に促され、義時は善哉の処遇について語った。また、乳母夫である三浦義村への懸念も。父は、
「相談があるなどと言ったが、四郎、すでにそなたの心は決まっておるのだろう」
お見通しだといわんばかりに、息子の目を見た。
「そなたが三浦を許すはずがないからな」
「許す、許さないの話ではありませんが」
「いや、一度追い抜いた相手に道を譲れるはずはない。特に相手が三浦であればな」
相模の大領主であった三浦に父時政が取り立てられ、その誼みで代々の通字を頂戴し、義時と名づけられた己れである。
義盛・義村・義時――よく似た諱の並びのなかで、当時、最も身分低く、それを屈辱とも思っていなかった。
「――おい、四郎」
「はい、御曹司」
「狩に行くから、お前もついてこい。お前は弓が下手だからな、俺が鍛えてやる」
「はい、ありがとうございます」
義村が己れを呼び捨てに命じ、己れが義村に言われるまま従う。三十余年後の今、誰が信じただろう。自分とて思い出すだけで吐き気がする。たが当時、十四歳の義時にとって、同い年の義村はすでに弓馬の名手にして、和歌や学問にも長けた憧れの存在だった。
母方の縁をたより、元服のため父とともに訪れた三浦の邸で、同年同士、すぐに気が合い遊び回った――主従として。
義村と義時、同じ一字を得たことが誇りだった。
「御曹司の一の家来になりたい!」
あのころ、本気でそう思っていた。
数年後、関東が中央政権へ反旗を翻した際、旧主の正統を担ぎあげた三浦一族は、時政が頼朝を婿としていたからこそ取り立てたのだ。そうして関東の雄族は、自分たちの領地を真に自分たちのものとするため、中央の不当な支配へ戦いを挑んだ。
だが結果はどうだ。
三浦を筆頭とする関東の武将たちは、みごと中央からの支配をひっくり返したはずが、気がつけば、自分たちは北条という一土豪に全てをひっくり返されていたのだ。
己れらが取り立てた存在に支配される――三浦の憎しみは察してあり余った。
――隙を見せればひっくり返される。
義時が思うことは義村の思うことだ。やつが善哉を利用して再び浮かびあがろうとしていることはわかりきっていた。だが、義村は幕府の重臣だ。彼を切ることはできない。
であれば、善哉を鎌倉から遠ざける他なかった。
「いいじゃないか。前将軍の息子はまだ二人もいるのだから」
目の前の時政が煽るように言った。
頼家の残る二人の息子は同腹で、母親は義村の弟に再嫁している。しかし、なさぬ仲をはばかり二人は別々の家で養育されていた。とはいえ、三浦が利用しようと思えば――
ここで、ふと、思い至る。この機でなければ訊けぬことがあった。
「将軍家督に今将軍の御子、という選択は念頭にないのですね」
父は一瞬、言葉を選ぶような目つきをしたが、
「御所は子どものころから体が弱かった。ゆえに、早々に家督を決めておいたほうが鎌倉の安寧に寄すると思ってな。将軍家の御子といっても、何しろ、子どもは天からの授かりものゆえ…… そうだ、善哉のことだ。そなた、善哉を亡きものにする覚悟はあるのか」
どきりとすることを父は言った。
「いや、そこまでは。出家させて、京にでも遣ろうと思っているところですが」
父は話の核心を逸らせようとしているかと思ったが、そうではなかった。
「となると、それを反対するのは御所ご自身であろう。事前に相談などしたら必ず出家の話は潰されるな」
「えぇ、ですから、善哉の出家は、御所には内密に進めようと思っています」
いつまでも頼りなく思っていた甥も、このごろ考えるところあったか、関東の長者らしく振る舞おうとしている。義時も甥を見直す気になり、その分、善哉はますます不要に思えた。
しかし、当の実朝はやたらと善哉への譲位にこだわるため、己れの企みが完遂して後、全てを報告するのだ。尼御台には妹を使って心情に訴え、御家人らには利権をちらつかせ承諾を得る。
根回し、段取り、阿吽の呼吸――…
自分の得意で三浦義村の鼻をあかすことを考えると、今から胸が高鳴ってしまう。
「であれば、御所は月の中頃、よく寝付くゆえ、そのころを狙って動け」
時政は父親らしく助言する。まったく誰が知らせるのやら、昨今の鎌倉事情にくわしい。
ただし、
「御所は月の中頃どころか、月の始めにも具合が悪くなって大騒ぎですよ」
ここで義時に引っかかるものがあったが、時政はかまわず続けた。
「将軍家には同じ寝付くでも、大騒ぎになるのと、静かに床に就かれているのと、二通りあるのではないか。そして、毎月一度、月の中ごろは静かに寝付く」
毎月一度という言葉に、義時は額に手を当てた。
――父上は何を言おうとしているんだ。
時政の目は息子の胸を読み、
「いや、善哉の出家の時期のことを言っているんだ」
読みながら、なお、とぼけけようとする。
義時が、月の半ばで思い出すのは、八幡宮の放生会である。
毎年八月十五日、実朝はよく具合いがわるいと言って参拝をとりやめた。疱瘡の痕を理由にしていた時期もあったが、その前後の年も休みがちだった。しかも八幡宮の他の祭事には出席しているため、疱瘡を理由にするのは本来おかしい。 怠慢武将、吾妻四郎の件はその年のうちに解決しており、それでへそを曲げて、というのでもないだろう。
――だが、待てよ。
へそを曲げるといえば、床に就かぬまでも、実朝は月の半ばは機嫌がわるくなり、よくかんしゃくをおこした。
――あれは、ただのかんしゃくではなかったのか。
義時は拳を握りしめ、「それで、御所は、本当は……」
さすがに口ごもる息子へ、
「儂だって本当のことは知らぬ。生まれたときに『男児であられました、めでたや』と、聞かされただけだ。儂は御所の繦褓など替えたことなどないからな、確かめようがない。ましてや長じてからのことなど……」
父は、この後に及んで責任逃れを図る。
姉が実朝を懐妊した際、名越の邸を産所に定め、乳母を身内で固めたのは、時政その人である。
――全て、父上の意のままではないか。
義時は、つい責めるような口調で、
「よくも、京都から嫁をとろうなど考えましたね」
後妻牧の方に嫁取りを仕切らせ、上皇の義妹を関東に下向させるなど、実朝が女であれば、京への反逆以外の何ものでもない。
しかし、
「違うな。御台所の下向についていえば、院が望まれたことだ」
時政の片頬があがる。
上皇はご自身が即位した際、皇位の象徴である三種の神器を平家に奪われ、正式な手順を踏めぬまま天皇となった。さらに平家の滅亡後、八咫鏡と八坂瓊勾玉は取り戻したものの、正当な作法で天皇となった兄、安徳帝とともに草薙剣を西海に沈めてしまった。
草薙剣は天皇の護身の呪物にして武威の象徴である。上皇は長ずるにつれ、ご自身の王者としての資格に欠落を感じられた。公家のたしなみである和歌や書、蹴鞠などに優れた才能を発揮なされたが、それだけでは飽き足らず、剣術に弓馬の業、刀剣づくりを習得されたが、それは何かの穴埋めだったか。また、頼朝公の娘を後宮へ入れることに御執着なされ、天皇時代に将軍一家が上洛した際、使者を遣って大姫に対面させている。
頼朝公の母は熱田大神宮の宮司の娘、当社は草薙剣の原型が祀られていた。御剣に縁ある血統と武士の頂点を極めた彼こそ、上皇にとって護身と武威の象徴だった。そう考えれば、頼朝公の娘に対する院の御執心は理解できた。大姫もその妹も早逝したため、後宮入りは叶わなかったが、上皇は御血縁をもって武家の長者と結び、御自身の欠けたるを補い遊ばそうとしたのだ。
「仙洞の申し入れを断れるはずがなかろう」
当時、兄の服喪にあるべき実朝へ、急き立てるようにして、信子を送り出した理由も、上皇の心逸りが反映されたかもしれぬ。公武の婚姻がつねに何者かの意志で覆される例にあれば。
「誰も彼も、ないものねだりさ」
時政が笑う。
父の笑いが諦念であるのか皮肉であるのか、それはすでに義時の関心の外であった。
七年前、この伊豆で前将軍の頼家が死んだとき、鎌倉ではさまざな噂が飛び交った。
「恐ろしいのう、北条は我が孫まで殺したか。仮にも大将軍にあられた方を」
「しかも風呂場で殺されたとは、祖父にあたる義朝公にちなんでのことか」
「風呂場というのは我々が一番油断する場所だからな」
頼家の死は義時にとっても突然のことで、これがもし時政の陰謀であれば、
――俺は父の企てから外されたのか。
当時、別の意味で恐れをなした。
さらに人々は息をひそめて言った。
「お体には、そうとう抵抗したあとが残っていたそうだが」
「知っている……」
ここでたいていの者は口をつぐみ、しかし我慢できぬといった複雑な顔になって、
「奇妙なことに御首級ではなく、男のしるし(・・・)を取られていたらしい」
うなずく人々の表情も複雑である。かつての主君が睾丸を奪われるなど、
――なぜ、そんな殺され方をされねばならぬのか。
――手を下した者の意図は何なのか。
また、我が身にかえれば、
――俺はそんな死に方したくないよ。
といった思いが、彼らに複雑な顔をつくらせるのである。
義時も当時は、何かの悪い冗談ではないかと思ったが、実朝の秘密に触れた今となっては、うなずけるものがあった。
頼家を鎌倉から追放する際、奪還を恐れた時政は、彼の輿の前後を三百騎の兵で厳重に警固した。だが同時に、頼家の世話をするための女性を輿で二張、女騎で十五騎、付き添わせた。頼家の私は保障しようとしたのだ。さらに伊豆に到着後は、北条の縁者の女を彼のそば近くに侍らせた。今度こそ、北条の女から将軍家督を産ませよう、実朝の欠けたるを補おうと――そのためだけに生かされた頼家だったが、結局、一年後に殺されている。あの殺され方は、実朝の欠陥を知った上で、
「北条から将軍家督を産ませることはできぬ。これで終わりだ」
時政に対する暗殺者の挑戦だったかもしれない。
義時はさまざまな思いを抱えて鎌倉へ戻った。
前将軍の近習であった和田朝盛は、大倉で無為の日々を過ごしていた。
今将軍に仕えるまでは順調だったが、それ以上は思うほどのことはできず、親族の胤長と同じように、自分は実朝にとって近習の一人に過ぎなかった。
――俺は平太などとは違うはずだ。御所がもっと俺を見てくれれば……
胸のうずきをおさえながら、主君のかたわらに侍った。
今年の四月、永福寺でほととぎすの初音が聞こえたと、報せを受けた実朝は臣下をつれ、そぞろ歩きを楽しんだ。
永福寺の壮麗な伽藍は奥州平泉の中尊寺を模し、頼朝と敵対した弟の義経や藤原泰衡ら奥州ゆかりの人々を供養するために建立された。二層の本堂は奇観にして、二階堂はこの付近の地名となり、当地に住む京下りの右筆の苗字ともなった。
あいにく、その日はほととぎすの初音には出会えず、近習たちは恐縮したが、
「そなたらが謝るものでもないでしょう。新緑の美しい季節に永福寺へ訪れることができて私は満足しているよ」
多忙な折だからこそ良い運動になったと、皆を慰めた。
「ほととぎすの初音は、近くに住む二階堂判官に任せよう」
二階堂行村は故頼朝公の母方の縁戚にあたり、鎌倉では屈指の歌詠みだった。
この日の将軍家のお供は彼の他に、北条泰時や藤原範高など錚々たる重臣、歌人らで、若輩の朝盛が声をかけられなかったことも納得していた。しかし、彼らのなかに東重胤の名を見つけ、
――なんでこいつが呼ばれて、俺が呼ばれない。
不満が渦を巻いたものだ。
さらに将軍家の歌仲間には、もう一人別格がいた。
宇都宮頼綱の弟で、塩谷氏に養子に入った朝業という武将である。
兄の頼綱は藤原定家からも一目おかれる歌人で、塩谷本人も歌才に恵まれたが、彼は誰もが知る苦労人だった。彼は十代で父親と死に分かれ、後見役の祖父が公田横領の疑いで朝廷に訴えられると、兄とともに連座し、他国へ配流となる。幸い、頼朝の働きかけにより早期に赦免され、それゆえ朝業の源家への忠誠心は誰よりも篤かった。
しかし、頼朝が卒し、頼家の代になってからも重用されたことが、仇となる。
阿野全成が謀叛の疑いで生け捕られた際、主命により預かり人となるが、その後の全成の誅殺、頼家の廃嫡を考えれば、幕府内の彼の居場所は決して心地良いものではなかった。
さらに、兄の頼綱が北条時政と牧の方の娘を妻としていたため、時政失脚の折、一族は謀叛を疑われ、族滅の危機に瀕した。縁戚の小山一門が奔走して事なきを得たものの、出家して京に隠棲した兄に代わり、一族の再建を一人で背負うこととなる。
そんな苦労人の塩谷朝業であったが、主君の実朝が彼を疎かにしなかった。
もちろん、彼の歌才を惜しんだことが大きいが、実朝には「不遇な人間ほど手を差し伸べなくてはならない」といった志めいたものがあり、これを察した和田朝盛は、
――俺だってそこそこ苦労しているのに、なぜ、御所はもっと目をかけてくれない。
焦燥を覚えて久しい。
翌年の春、御所の梅の木に初花が咲いた。早朝、それを見つけた実朝はまだ夜が明けきる前に、寝所番だった朝盛を召し、梅一輪を塩谷朝業へ送り遣わせた。
朝盛も、実朝のそこそこのお気に入りである。祖父の国司の件との兼ね合いか、すこし前に主君の推薦で兵衛尉に任官していた。
――だのに、何で俺が、こんなことを――…
使いっぱしりの上、男が男へ梅花を贈ることに腹が立った。
梅は百花に先駆けて咲く花の兄、対して花の弟は菊の花。
花の兄弟はつまり男色の意である。
――誰も教えてやらないのか。いや、本気の本気なのか……
何しろ、実朝は、
「送り主が私だって言ってはだめだよ。『誰かに見せん』と一言だけ言って、返事を聞かずに帰っておいで」と、古歌を踏まえて命じた。元歌の意味は『あなた以外の誰に届けるの。この花の色も香りも』と、万人に通じる恋心を歌ったものなのだ。
春の寒に震えながら、朝盛は使いっぱしりの役を終えて御所に戻った。
梅花を受け取った塩谷は、花の送り主が実朝だと察し、さっそく自分の使いを遣って、主君へ返歌を献じた。それを実朝がうっとりと口ずさんだので、かたわらにいた朝盛にも内容が知れた。
「将軍家が私のために折って下さった梅の初花は、香りもうれしさも我が身に余ります」
主君への敬意をしめつつ、実朝の恋だか厚意だかをさりげなくかわす大人の歌であった。
朝盛からすれば、率直に過ぎる歌である。
何のひねりもないのは、元歌を受けてのことか、あるいは、
――御所にも理解できる歌を送ったのか。
彼はときおり主君の歌の才能を疑うことがあった。
実朝の歌は心情も風景もまっすぐに歌ったものが多い。京の歌の師、藤原定家などが、「将軍家の素直なお心がにじみ出ているようで素晴らしいですな」と、お世辞に言うのを真に受け、なかなか上達しないのである。
塩谷は実朝の程度に合せたのか。それとも、歌の朋友のあいだに技巧は必要ないということなのか。
ただ一つわかったのは、二人がそれほど深い関係ではないということだ。
本物の恋人同士であれば、歌中に二人にしかわからぬ品々を置くはずである。
ただし、今後二人の仲が進展しないとも限らない。
それが自分には恐ろしい。主従が色恋で結ばれるとき、そこに途方もなく強い絆が結ばれることを彼は存知していた。
朝盛は、先代頼家の死にざまを聞かされたとき、男色のもつれによって殺されたのだと直感した。旧主は伊豆で死ぬ前、中野五郎というかつての遊び仲間を恋しがるあまり、立場を忘れ、彼を召したいと母の尼御台に申し入れた。当然、願いは受け入れられず、むしろ仇となって中野は流罪に処された。尼御台の『佞臣』への憎しみを考えれば当然の処置であるが、頼家はそれすらも思い至らぬほど、中野を求めたのである。
――女だけで我慢できなかったばっかりに。
頼家が伊豆でも複数の妾を置いたのは承知している。さらに身の回りには北条にとって無害で気の効いた男たちも侍っていただろう。そのなかの誰かと恋仲となった末に、彼は殺されたのだ。男色の主従が強い絆で結ばれる分、破綻した際の憎悪は男女のそれをはるかにしのぐ。それは出世や利権など心情だけではすまされない部分も同時に破綻するからだ。
幽閉中とはいえ前将軍の頼家が、過去の威光をちらつかせて近習の心と体を弄ぶ。
相手とて全くの下心がなかったとは言えぬだろう。だが、それが叶わぬと知ったとき、愛が憎しみに転じたとておかしくはない。
可愛さ余って――…
ゆえに、男色の生死をかけた帰着は理解できるのだった。
朝盛が実朝の近習となり、さらに納得いかなかったことは、主君の寝所と寝所番の隔たりである。頼家に仕えていたころ、幼い自分は寝所番にこそならなかったものの、夜に召されたときに見た主君と当番の距離の近さに、驚きつつも納得したものだ。
心と体、両方の――
けれど、実朝の寝所番はなぜか二人組で、寝所どころか庇の間を挟み、遠く離れた濡れ縁に座すのだ。 弓と故簶(矢筒)をかたわらに。
朝盛は寝所番を仰せつかって間もなく、
「これでは、寝所番の意味がないでしょう」
先輩の胤長に言ったが、相手はぽかんと見返しただけだった。
昼は重臣たちに囲まれている将軍家へ、夜は身分を越えてそば近く侍る。だからこそ、若い世代との紐帯が生まれるというのに。
「だいたい、寝所に誰もいないなんて、何かご用のときは誰が承るんですか」
「いや、ご寝所には乳母殿や女房殿が一緒にお寝みになるし、寝ずの番の女性もいるから」
幼小期の添い寝の習慣が、御所に移ったあとも継続され、改めるきっかけなく今に至っているらしい。
――まるで、女主人の対屋ではないか。
朝盛は呆れたが、
「だって、お体が弱いから何かあったときのために、女手のほうがすぐに対応できるからってことだろ。まぁ、考えてみれば変だよな」
将軍家という頂上の人を相手に、胤長の思考は鈍い。
――一緒に寝るのが中年の女性ばかりだなんて、将軍家は女も男も知らないんだろうな。
主君の夜の生活の薄々(うすうす)を知るのだった。
朝盛が足踏みを強いられているころ、実家の和田を含む三浦一族は、さらに実朝へ接近していた。
三月、実朝は尼御台と御台所を誘って、三浦三崎の御所へ遊びに出かけた。一昨年訪ねたときは花の時期を違えたので、今年は女性たちを喜ばせようとこの季節に向かった。
船のなか、晴れやかな笑顔を見せる母や妻を、実朝はいっそう取り持った。
「ねぇ、御台、初めての船旅はどう?」
「海風が気持ちいいです」
「そう、良かった。父上がいらっしゃったころは家族そろって舟遊びをしたんだよ。それから、三崎の御所は桜、桃、椿とあって。ね、母上」
「なつかしいわ。故殿が手ずから植えた桜はどれくらい大きくなっているかしら」
「それは着いてからのお楽しみということですね」
「私も楽しみです」
実朝一家の船旅は、にぎやかに過ぎた。今回は、叔父の義時や時房、中原広元なども従っていたが、例のとおり、三浦義村が船上で管弦の宴を開いてくれた。
「楽しいなぁ、鎌倉の海でもできればいいのに」
実朝は何気なく呟いたので、義時にも聞こえていたことに気づかなかった。
三浦から帰倉して数日が経ったころ、実朝は、由比ヶ浜に近い前浜の土地を、和田常盛や同族の土屋義清らへ分け与えた。昨年末、和田義盛はとうとう「国司の件は諦めます」と言い出し、春の除目でやはり落選した。自邸が火事に遇うなど不運が続いているので、この老人を何とか慰めてやりたかったが、理由はそればかりではない。
「金吾の邸は、周囲に一族の家が建て込んでいるから、火事の被害が広がりやすいよね。御所からは遠くなってしまうけど、広い前浜のほうへ越しなさい」
そもそも土屋が現在の邸地に移る前は、鎌倉の街の北西、亀谷に居を構えていた。
当地は源義朝の旧邸跡で、父頼朝が亡くなった翌年、母が源氏の菩提寺を建てたいと、土屋に立ち退いてもらった経緯がある。
――何だか、また叔父上にえこ贔屓と思われてしまうかな。
と気にかけつつ、鎌倉の街の安全や御家人の心情を考えて沙汰したのだ。
五月に入って間もなく、北条がらみで実朝の眉を顰めさす事件がおきた。
義時の次男朝時が、御所女房へ艶書を送って受け入れられなかったため、深夜、局から誘い出して思いを遂げた。しかも相手は信子の官女で、父親は佐渡守という出自である。
これを聞いた実朝は、
「次郎(朝時)は御台の女房を相手にいったいどういうつもり? 妻として生涯の伴侶にするのならわかるよ。でも、これってただ弄んだだけだよね。それを私が許すと思う?」
と、久しぶりに声を荒げ、彼を糾弾した。
朝時は一つ年下の従弟で、自分はそれなりに目をかけてきたつもりだった。
――なのに、何で私や御台を裏切るようなまねをするの!
実朝の怒りを察知した義時は、息子を素早く義絶した。
もちろん朝時のことを思っての処置だったが、
「たかが御所女房と付き合っただけで、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないんだ」
息子は恨みがましい目で父親を見た。
「俺は無理やりじゃない。あの女房は誘いに応じて局の外で会ったんだ。その時点で合意の上だったのに」
「俺もそう思う」
義時は内心、息子に同情していた。自分の二十歳ごろの所業を思い出せば、
――俺より大人しいくらいだよ。
だが、同情ばかりもしていられぬ。
「もう少し自分の身を弁えられんのか。まず、父親に対する言葉遣いを改めろ」
義時がきつく叱ると、朝時は不貞腐れたように横を向く。
そんな息子を見上げて、
――いつの間にか、俺の背を越えたな。
このところ、朝時とはろくに顔を合わせることもなかった。次男は親類や友人の家を泊まり歩いて邸に寄りつかなかった。大倉の侍所にもあまり姿を見せないと長男の泰時から聞かされている。比企氏を母に持った次男は、御所に居場所がないらしい。
義時は息子の立場を思えばこそ、
「お前、ここが正念場だぞ」
思わず、苦虫を噛み潰したような顔になる。そんな彼の表情に、
「こんなときばっかり、父親面して……」
朝時の呟きは、それこそ彼の口のなかで噛みつぶされたので、義時には届かなかった。
もとより、朝時は、父親の邸に自分の居場所を見失っていた。
彼は母親の実家の良さから長子の泰時を差し置き、十一歳まで義時の嫡男として扱われていた。にもかかわらず、父の実家と母の実家が殺し合いを演じた末、その特権を失ってしまったのだ。母は邸を出て京都で再嫁した。長庶子だった兄泰時が北条の嫡男となるが、これが驚くほど良くできた人間で、腹違いの自分やその下の重時にまで同腹同然に接してくれるのだ。十歳も年が離れているから張り合うこともできず、
「こう言っては何だか、相州は太郎がそのまま後継ぎとなって正解だったな」
周囲の噂を聞くにつれ、朝時はこのまま消えてしまいたくなった。
父は「俺にはお前の気持ちがわかる」などと言い聞かせようとするが、信じない。何しろ、この男は母との離縁後一年も経たずに若い女を娶ったのだ。
父ばかりではない。同腹の重時にも腹が立つ。泰時や伊賀の方によくなついていたが、弟がそうできるのは家の急変が幼いうちに起こったからだ。
けれど、そのころの自分は、分別はあっても何か行動するには幼く、大人たちの喧騒をただ眺めていることしかできなかった。
――生活が荒むのは当たり前じゃないか。
朝時にも義時にもわかり過ぎるほどわかりやすい構図である。
だが、父子はそれをどうすることもできなかった。
義時は以前それとなく、将軍家に朝時をお側に近づけたい旨ほのめかしたが、
「私は次郎にはずいぶん目をかけてきたつもりだけど、まだ十分じゃなかった? 御家人のなかには梶原の孫とか、畠山の縁者とか、まだまだ不遇な人たちがたくさんいるでしょう? 次郎は相州という立派な親もいるから、恵まれているほうだよね」
朝時を梶原の孫などと同列に扱い、話にならない。自分の従弟だというのに、えこ贔屓が足りない。もっとも、実朝に多くの影響を与えている姉の尼御台や妹の阿波の局は、息子を奪われた、夫を殺されたと比企氏に恨みつらみを持っている。実朝も知らず知らずに感化され、その結果が今回の事件ではないか。
「――何で、男女の色恋にまで、口出しされなくちゃいけないのでしょうね。お(・)父上」
朝時が嫌みたらしく言葉を改める。
「俺もそう思う」
義時は、この程度のことで大騒ぎする実朝の器の小ささに、
――やっぱり、まだ処女なのか。
と疑ったが、息子には全く別のことを言い聞かせた。
「お前は自分がどれほど危ないことをしたかわかっておらんな。いいか、俺の若い時分はともかく、そなたが生まれたころ艶聞がらみで落命された方がいたんだぞ」
朝時が生まれた年、甲斐源氏の安田義資という武将が、寺の法要の最中、女房らの聴問所へ艶書を投げた。宛て人の女房は後難を考え同僚にも明かさなかったが、件のできごとはその日のうちに頼朝の耳に届き、「不謹慎である」として翌日、義資は梟首された。処罰は彼の父義定にも及び、所領を没収された上、翌年謀叛を企んだとして誅殺されている。
御所に近い小町通りに面した義定の邸は、頼朝から義時へ、
「四郎、そなたは子どもも増えて今までの邸は手狭になったろう。やるぞ」
と、気前よく与えられたが、内心喜んでいいのか、当時はとても複雑だった。
ただの艶聞を頼朝に耳打ちし、事件にしたのは梶原景時だった。
息子の嫁が目撃したものを伝えたというが、主君のためなら泥をかぶることも厭わぬ彼だっただけに、裏で何があったかわかったものでない。
男女の色恋とて政治の俎上にあげられれば、生死に関わるのである。
義時は朝時を必死で説得した。
取りなし名人の彼も、相手が我が子となれば、かえって適わず、
「とにかく、ほとぼりが冷めるまで伊豆以外の田舎に隠れてろ。いつか必ず、お前を呼び戻すから」
故郷伊豆がだめなのは、そこに逼塞した者はたいてい非業の死を遂げるからだ。
義時は駿河国富士郡へ息子を下向させた。
従弟の艶聞による実朝の勘気は、近習の朝盛にも伝わった。
――将軍家の器量が計られてしまうな。処女みたいだ。
朝盛は、皆が思うようなこと思った。
しかし、実朝がまだ誰のものではない、という推測は彼に勇気を与えた。
六月の蒸し暑い晩だった。
丑の刻(午前二時ごろ)、御所の西方から男らの叫び声が聞こえ、続いて怒号や刃を打ち交わす音が響いた。その夜、寝所番にあった朝盛はねれ縁で居眠りをしていたが、騒動の声に、はっと目を覚まし、
――御所内で乱闘か、将軍家を狙ったものか。
騒ぎは西の侍所の方角からで、前庭の衛士たちにも緊張が走った。
朝盛もとっさに傍らの弓へ手を伸ばしかけたが、これから将軍家をお側でお守りするに室内では邪魔なだけだ。寝所番も形骸化されて久しく、本来必要なものとそうでないものの区別がなされてない。相方の荻野三郎も同じ思いだったらしい、弓の名手だというのに手もせず立ちあがり、
「どう致しましょう。塗籠にお移り頂きましょうか」
主君の身を案じる荻野はまだ十代の、少年といってもいいくらいの年ごろだった。
彼は年長者の指示を仰ぐように朝盛を見た。
「いや、この騒動が御所を狙ったものであるなら、ここにいらっしゃっては危険だ」
寝所の奥は壁を厚くぬった塗籠になっており、妻戸を閉じれば堅固な砦となる。が、それも相手の員数による。そのまま袋の鼠となってしまうかもしれないのだ。
「小御所の方へお渡り頂き、そちらの塗籠をお借りしよう」
小御所は騒動の西侍から最も遠く、下手人を避けるに今一番の方法だろう。朝盛の提案に荻野は頷き、二人は将軍家のもとへ駆けつけた。母屋と庇の間との境は、真夏にあって障子は外され、衝立や几帳が目隠しとなっていた。
朝盛は衝立の前で蹲踞すると、
「侍所で騒動がありました。叛徒が御所を狙っているかもしれません。直ちにこちらを出ましょう」と声をかけるが、内側の女房たちは慌てふためき、
「どうしましょう」
「まだお支度が……」
一瞬、荻野と顔を見合わせた。しかし、朝盛のほうが慎みに欠けていたらしい。
「急いでおります。ご無礼をお許しください」
素早く立ち上がって衝立のわきを進むと、女房の一人が悲鳴を上げた。寝乱れた姿のためか、だが、中年女性にかまっている暇はない。朝盛は几帳の奥に体をすべり込ませると、守るべき主君を見下ろした。
床から半身を起したばかりの主人は、薄い小袖のせいか昼に見るよりいっそう華奢だった。思わず、着崩れた胸元に目が行ってしまったが、それをかたわらの女房がさっと上衣をかけて隠した。けれど、女房の機転も朝盛にとって大して意味はなかった。
「ご無礼を」
実朝の体へ屈みこみ、上衣ごと素早く抱えあげた。
――なんて軽くて、細い……
朝盛は驚きを隠しながら、
「女房殿、小御所の塗籠まで案内頂けますか」
かたわらの女性を促して、相方の荻野へは、
「そなたは私の後ろを守ってくれ」
言い終わらぬうちに走り出していた。
先導の女房殿はよほど修羅場をくぐり抜けてきた女性らしい。暗闇の中、手燭をたよりに地べたを素足で走ることもいとわず、無主の小御所へと朝盛を導いた。
この建物は普段から人少なで、西侍の騒ぎが嘘のように静まりかえっている。
塗籠の妻戸の前にたどりついた朝盛は、主人を抱き上げたまま、
「私は部屋のなかで御所をお守りします。荻野殿は戸の外で警固を、女房殿は東侍へ、御所がこちらにいらっしゃることを報せてください。ただし、せっかく小御所に隠れているのですから、大げさな警備はかえって危険です。女房殿もこちらに戻らず、安全が確かめられるまでどこかに隠れていてください」
朝盛の指示に二人は深く頷いた。女房は東の侍所へ向かって走り出し、荻野は太刀の柄に手をかけながら、傍らの夜陰に紛れる。
朝盛は実朝の体を抱え直して妻戸の隙間にすべり込むと、戸を閉め、鉤をかけた。
塗籠は宝物や衣類調度を納める蔵であり、主の寝所としても使われる、機密性の高い部屋だ。明り取りの窓から洩れる月の光を求め、朝盛は奥へと分け入った。
この部屋は、悪しきものから邸の主人を守る霊的な場所でもある。けれど、実朝の体は先ほどから震えが止まらない。腕の中で縮こまり、上衣を顔まで引き上げていた。
朝盛は月の光を受けとめながら、ゆっくりと板敷きに座り、己れの胡坐のなかに実朝の腰を下ろした。
「もう、怖いことなんてありませんよ」
静かに声をかけながら、実朝の上衣をそっと剥ぐ。
主人の顔の青さは月光のせいばかりではないだろう。
朝盛は、うつむきかけた実朝の顎をとらえて、しみじみと見た。本人が気にしているという疱瘡の痕はさして目につかず、細い顎と大きな瞳がほどよく釣り合っていた。彼は、誘われるようにして、実朝の顔に自分の顔を落とすと、その唇を吸った。
目を閉じることも知らない実朝の震えはいっそう高まり、奥歯がかちかちと鳴る。
「もう安心なさってもよろしいのに、なぜ震えているのですか。こんなに蒸し暑い晩だというのに」
実際、朝盛の全身はひどく汗ばんでいた。
「暑さで息苦しくはありませんか」
己れこそ、喉が渇いて仕方がないくせに。
朝盛は右手で実朝の胸元をくつろがせると、そのまま小袖の内にすべり込ませ、
「あっ」と小さく叫ぶ実朝の耳へ、
「しっ、静かに」唇を寄せた。
「あなたの秘密は誰にも言いません。だから、私の言うことをきいてください」
朝盛の右手が、主君の胸の上を這い弄う。
全てを予感したのか、実朝の睫毛に涙が溜まりはじめた。
朝盛の左腕が、ゆっくりと主君の体を横たえさせる。
実朝が目をつむると、涙が珠となって転がり落ちた。
侍所の騒動は、宿直の御家人同士が枕相論をきっかけに刃傷沙汰に及び、双方の郎従から死人を出し、主人二人も怪我を負ったという。異変はすぐさま侍所別当の和田義盛に知らされた。
「将軍家の一大事じゃ」
義盛は一族郎党を引き連れ、御所に踏みこむと、張本と思われる侍を片っぱしからひっ捕らえた。当然、無関係な者までもが縛りあげられ、
「えー、俺じゃねぇよ」
迷惑なこと限りない。
騒ぎは騒ぎを呼び、鎌倉中の御家人が大倉に群集し、
「どうした、どうした」
「何があったんだ」
「将軍家はご無事か」
合戦前のような大騒ぎとなった。
「大丈夫だ。御所は今、安全な場所におられる」
「騒動のもとは、御家人同士のただの喧嘩だ」
興奮する人々を、真夜中に呼び出された義時がなだめる。
彼らを帰し、御所内の安全が確認されてようやく、義時たちは小御所の塗籠へ主君を迎えに行くことができた。
真夏ゆえ、すでに夜は明け、蝉たちが鳴き始めていた。
部屋の前で警固にあった荻野が妻戸を叩き、その旨を伝えると、扉がゆっくりと開く。
人々の視線のなかへ、朝盛に抱きかかえられた実朝が現れる。よほど恐ろしかったのだろう、上衣に埋もれるようにして、ぐったりと臣下の体にもたれかかっていた。
「御所は気分がすぐれぬようすです。すぐに手当を。乳母殿はいらっしゃいますか」
朝盛が言い終える前に、阿波の局が人ごみをかき分けるようにして駆け寄った。
「御所、どうなさいました。もう大丈夫ですのよ」
実朝に声をかけながら、朝盛を見つめる。
彼は乳母を見返して、
「私が寝所までお運び致しましょう」
主君を抱いたまま、朝の日の光りのなかへ力強く足を踏み出した。
次の日、騒動の張本たちへ流罪が言い渡された。御所内での狼藉はことに重罪であると、裁定は速やかに行われた。ただ、その場に実朝の姿はなかった。気分がすぐれず寝所から出られぬという。
「無理もないですわ。昨夜、あんなことがあったのですから」
阿波の局が、実朝をなぐさめるように言った。
だが、その後も実朝の体調はぐずぐずと優れなかった。
月半ば、常陸国から所領問題で訴えがあったが、裁定を全て広元に任せた。
――変だな。これまで張り切って南面に出ていたのに。
義時は不思議がったが、今日が十五日だったことに気づいて、妙に納得してしまった。