第二節 あさひ映す あさひ映す
将軍としての職責に目覚めた実朝は、幕政にたずさわる上で義時と意見をたがえることが多くなります。叔父と甥、幕府執権と将軍、二人の関係に変化がきざします。
幼君と呼ばれた実朝が、どれほどの自立を勝ち得るか。義時は陰で主君を支えつつ足をひっぱるような、矛盾した行動に出ざるをえません。
承元三年(一二○九)、十八歳になった実朝は、所領に関する裁断や朝廷との折衝など、将軍としての職務の幅を拡げ始めていた。
そんなある日、侍所別当の和田義盛が、
「御所、折り入ってお願いにあがりました」
と、実朝のもとへ参じた。
本拠にしている上総国の、国司の職を望みたいというのだ。
実朝はさっそく義時に相談した。言外に、この老臣の願いを叶えてやったらどうかと含みをもたせながら。
しかし、執権の叔父は、
「関東の国司の任用は、源家の一族か北条の者に限られ、故殿が御家人を推薦することはありませんでした。御所は、父君の前例を変えようとなさるのですか」
と、案外な返事である。
実は、国司の件は、彼が以前より義時へ内々に願い出ていたものを、のらりくらりと回答を先送りにしていたのだ。これに業を煮やした和田が、直に主君へ申し入れたのである。
「そもそも御所は、和田金吾(義盛)が国司に相応しい人物とお思いですか」
義時は彼を遠回しに否定し、
「何か失態でも侵せば、推薦する幕府が恥をかくのです」
口にせぬでも、目で迫まる。
名門三浦一族の流れとはいえ、従弟である宗家の義村と違い、義盛の官吏としての能力は低い。侍所の別当にあっても、平家追討の際、西国の兵糧不足に嫌気がさし、戦線を離れようとした前科があった。彼を別当に任命した頼朝公もあとあと後悔したのだろう、親の服喪を理由に中断させていたが、やつは公の逝去のどさくさにまぎれ、当時、別当職にあった梶原景時を一族ごと滅ぼし、再任してしまったのだ。もっとも、事件の後ろでは比企氏や三浦宗家が糸を引いており、そのころ、まだ青かった己れは、武将同士の権力争いの恐ろしさを思い知ったものである。
後日、和田義盛は国司を望むにあたり、実朝へ願書を提出した。そこには治承以来の勲功を書き連ねた上、「私はもう長くはありませぬ。このまま死んだならば成仏することもできませぬ。どうか将軍家の力で国司にしてくださいませ」と結ばれていた。
これを実朝から見せられた義時、わざとらしくため息をついた。愚かな金吾が幕府の重職にあるだけでも僭越だのに、国司を所望するなど図々しいにもほどがある。
「冥途の土産に国司を望まれても困りますな。それで務まるほど国司の任は楽なものではありません」
生前の頼朝も御家人が国司になることには慎重だった。
朝廷から特段の権威を与えられ、税の取り立てを主な任務とする国司は、幕府内での力関係に大きな影響を及ぼす。己れは相模、弟時房は武蔵の国司であるが、我らは頼朝公の縁戚であり、能力もその任に耐えうると自他に認められているからだ。あんな義盛とは一緒にされたくない。
だのに、実朝は、
「金吾は自分でも言っている通り、先が長いわけじゃないし。それに私も、長年幕府のために働いてくれた金吾を喜ばせたいな」
義盛の甥の胤長は実朝の近習で、和田の人々にわるい印象はない。
「それに先日のこともあるしね」
三日前、実朝は父の位牌を祀る法華堂で、故梶原景時とその一族の法要を行った。
近ごろ大倉では怪異が続き、また夢に亡き父が現れ、
「善行をもって怨霊をなだめよ」と告げられたとして。
これを勧めたのは義時である。
族滅という言葉を使われる梶原一族であるが、わずかに生き残った者たちが幕府に出仕している。彼らには自分たちだけが生き延びた後ろめたさ、それを強いられた恨みがある。その感情が幕府への叛意に転化されてはうまくない。
「景時は晩節を汚したが、彼が生涯幕府に尽くしてくれたことは忘れてはいない。そなたたちを蔑ろにはしない」という主君の内意を暗に示すのである。怨霊とは死者のそれではなく、生者の鬱屈を言い代えたもので、このようなとき夢のお告げはいい方便だ。法華堂に参じた誰もが了承の上、梶原の法要は執り行われたのである。
しかし、これに反感を覚える御家人もいる。
それは梶原一族を滅した者たち、和田を筆頭とする者たちである。
梶原は頼朝の旗挙げ時、平氏の味方となった敵対者だった。
「そんなやつをなぜ、佐殿は重用するのだ」
累代の御家人らは怪しみ、さまざまに噂したが、その答えは単純で、梶原が官吏として優秀だったからだ。それが義盛のような武骨者にはわからない。
今になっても主君が梶原の生き残りに気を配るさまに、
「御所は、叛乱者の残党を重んじるのか」
反発を覚えるのは想像できた。
実朝はそんな彼らへの慰撫もあって、
「折を見て、朝廷に推薦してみるよ」
和田義盛のために我を通した。
この鎌倉では全てが将軍家の是非で決着づけられる。
義時とて、それを覆すことはできない。
「御所がそうまでおっしゃいますのなら」
義時にこれ以上抗う気はなかった。本気で義盛を貶めようとするなら、主君に嫌みを言わずとも他にいくらでも方策はあった。
ところが、数日後、鎌倉の盛り場で騒動がおきた。
梶原景時の生き残りの息子、家茂が小壺の浜で遊女をからかって歩いていた、その帰り道、土屋宗遠という御家人に殺害されたのだ。場所が場所だっただけに、
「女のことで争ったのか」と人々は噂したが、当の宗遠は八十過ぎのおじいちゃんである。
彼はすぐさま大倉の侍所に出頭し、別当の和田義盛へ殺害に使用した太刀を提出すると、
「かねてよりの宿願でした」と申し出た。
武士の処罰は侍所、しかも土屋は義盛の縁戚であったため、実朝は義盛へ預けた。しかし、いつまで経っても宗遠の取り調べは進まず、実朝がようやく報告を受けたのは翌月も半ばになってからである。
義盛が宗遠の申し状を取りついだが、これを読んだ実朝は呆れた。
申し状には宗遠曰く、
「私めは初代将軍家の御時より勤行を尽くして参りましたが、一方の家茂は謀叛人梶原景時の息子であります。私には何一つ疾しいことはないため、自ら武器を提出致しましたのに、こうして拘束を受け、面目を失うはめになりました。私の献身とやつの不忠、その差は歴然としております。いったい御所はどちらをとるおつもりですか」
事件の動機をうやむやにして、己れの正しさだけを言い募る。
「金吾、これに付け加えることはないか」
実朝は眉をひそめたが、義盛は済ました顔で、
「土屋の言うことは全くその通りにあります」
つまり、土屋の申し状は和田一族の総意なのだ。
――梶原の生き残りを大事にして、和田を蔑ろにしたら、どうなるかおわかりですか?
と、主君に迫ったのである。
しかし、蔑ろにされたのは実朝の方だ。こんなふざけた申し状を渡され、それを許せというのか。
実朝の頬が紅潮する。最近収まっていたかんしゃくの虫がむずむずと動き出す。体調を崩す予兆のようなものがあって、そんな時期は自分の思うとおりにならないと苛立つことが多いのだ。
傍らで一部始終を伺っていた義時は、
――面倒なことになったぞ。
うんざりしながらも、ふと思いつく。
「御所、今日は十三日です」
「それがどうしたの」
「故殿の月命日です」
義時の指摘に、実朝の肩から力が抜けた。
叔父はこの状況で、実朝と義盛、双方の面目を立てようとしていた。
義時の深慮に感謝しつつ、実朝は和田に命じた。
「わかった。土屋三郎の申状に許すべき道理はない。けれど、父上の月命日に免じて今回のところは許そう」
和田の無理が通り、けれど、実朝の面目もどうにか保った。
義盛はゆっくり頭を下げると、実朝の前から退出した。
彼の背中を見送りながら、義時は思った。
――金吾にしては上出来だな。故殿の月命日に裁定をぶつけるとは。
いや、義村あたりの入れ知恵だろうか。三浦ほどの家格であれば、義時に泣きを入れ、取りなしを頼むなど彼らの矜持が許さぬだろう。
「……治承以来の武将って何だか、怖いね」
実朝が、義時へ聞かせるともなく呟いた。
――今ごろ気づいたか。
国司推挙を願い出ながら、義盛がこの儀に及んだのは、主君への示威行為に他ならない。
武威をもって己れの正しさを通すに、将軍家が相手でも臆せず。
――いったい、この鎌倉の真の主は誰なのだ。
実朝も、義時も、鎌倉という土地にある己れの居場所の危うさを、認めずにはいられなかった。
――とはいえ、幕下(頼朝)も旗揚げの間もなくは、配下の者になめられていたな。
義時は記憶をさかのぼった。
十代のころ、自分は頼朝を尊敬の対象として見上げていたが、今思えば義兄も関東武将たちのいじめにあっていたのである。
頼朝は十四歳まで都の貴族社会で暮らしたため、この東国でも公家風の所作が抜けなかった。それを高貴だと称える武将がいた一方、武家の棟梁として相応しくないと渋る武将も少なくなかった。加えて、頼朝は兵としても将としても戦場で真に役立ったことはない。いざ合戦となっても、まずはうがい手洗いをして神仏にお祈りを捧げる、味方に駆け参じてくれた武将を涙を流して迎える――関東方の総大将として担ぎあげられても、合戦の指揮を執るのは側近の武将、それくらいしかできることはなかったのである。けれど、周囲のがんばりと本人の天性により、次第に関東の長者(統率者)としての地位を固めていった。貴族の洗練をそのままに、武家の泰然豪気を身につけて。
だが、何人かはいつまでも頼朝を軽んじ、態度にも示した。
上総に国府次官を代々受け継ぐ、その名も上総介広常という男がいた。正確には、権介(準次官)だが、平家方の上司の介(親王任国の上総では実質の長官)とそりが合わず、和田義盛に勧められて頼朝の旗下に参じた。しかし、頼朝をいつまでも流人あがりと見下し、主君の御前でも下馬の礼をとらぬなど、横柄な態度を改めなかった。
そんな彼を、梶原景時が囲碁に誘い、隙を見て手ずから斬り殺した。なお、広常の遺領はすぐさま頼朝に没収されたが、まったく、この主従、おそるべき阿吽の呼吸である。
義兄が梶原を重用したのは、己れが命じずとも主君の意を汲み、汚い仕事を引き受けてくれたゆえだ。
しかし、
――だからといって、梶原のように、俺が御所のため金吾を殺すわけにはいかぬし。下手を打って、返り討ちにされても嫌だし……
不届きな義時とは違い、かつて頼朝を担いだ者たちは、主君に対して不遜な態度をとる輩があれば容赦なく誅殺し、『武家の棟梁』の威厳を保った。
頼朝の旗揚げ時の年齢は三十四歳。その年で、必ずしも人間はできあがってはなかった。
辺地の流人から突如、関東武将の御輿に担ぎあげられ、徐々に源氏の総大将に相応しい風格を身につけていったのだ。『鎌倉殿』の完成にどれほどの年月がかかっただろう。
それを思えば、甥のことはもっと長い目で見てもよいように思えた。
ただ、実朝の病弱はあいかわらずで、今年も秋の放生会に体調を崩して欠席した。季節の変わり目のせいか去年も同様に出御を見合わせていたから、
――なぜに、体を鍛えようとせんのか。武芸の一つでも身につけようと思わんのか。
と、義時を悩ませるのである。
十一月に入って間もなく、実朝は小御所の東面の庭で、和田常盛を始めとする弓の名手らに射芸を行わせていた。庭の広さに限りがあるため、競技は切的。二寸(約六㎝)四方の小さく切った的を串に取り付け、地面に差したものを射る。的が小さいだけに腕力より狙いがものをいう競技だ。例によって義時から、
「和歌などのお好きなことを禁じるわけではありません。けれど、好きなことばかりでは御家人らに示しがつきません。特に近年は弓馬のこととなるとなおざりに過ぎます」
と、諌められてのことである。
以前、義時が相撲の勝負を御所の恒例行事にしようと図ったが、結局、数回開いたのみで定着しなかった。そこで再び、実朝に武芸を推奨させようとしたのだ。
霜月の寒さに、あまり気乗りしないまま顔を出した実朝は、炭櫃にかじりつくようにして庭を眺めた。準備の間、男たちもおしゃべりに興じながら、指がかじかまぬよう焚火に手のひらを炙らせている。
実朝は室内を見渡した。兄頼家が若君と呼ばれたころに暮らしていた小御所は、今も当時の名残りが刻まれている。磨きこまれた柱の傷は、やんちゃな兄が小刀を振り回してつけたものだろう。明媚な山水の屏風に染みがついているのも、よく見れば子どもの指のあとだ。
――この小御所は、兄上の御子も住んでいたのだっけ……
目の前の板敷きの上を、走り回る子どもの姿が浮かんだ。
「御所」
義時に促されて、実朝は庭の切的へと目をむけた。
報償の品は負けた者が勝った者に差し出すということであるが、これは以前、相撲の勝負で実朝が勝ち負けに関係なく褒美を与えたことが、義時に引っかかった。
「御所のお心遣いはわかりますが、勝者の気持ちも考えてみてください。これが実際の合戦であれば問題になりましょう」
幕府の蓄えが余分に出るということもある。諫言された実朝は機嫌を損ね、それもあって相撲の観覧は尻つぼみに廃れたのだ。が、今回は賭け物をするということで腕自慢の武将たちは俄然張り切った。義時も幕府の蓄えが減らぬことに内心ほくそ笑む。
やつらは狙いどおりに的へ当たれば、
「よっしゃ、見たか。俺の妙技を」
外れれば、
「くっそう、俺は遠矢のほうが得意なんだよ」
勝っても負けてもうるさい男たちである。
競技は盛況のうちに終わり、当初気乗りしなかった実朝もそれなりに楽しめた。
三日後、負け組たちが賭け物を持って御所に集まり、実朝へ献じた。
鷹の羽や柄に凝った彫ものをした小刀、金地の扇や小硯などの品々に、和田常盛ら勝ち組たちが目の色を変える。
「あの鷹の羽、奥州産だな。俺、欲しい」
「じゃあ、小硯は俺んだ」
やいのやいの騒ぎ出し、それを実朝が近侍に命じて分け与える。まるで山賊の頭になったような気分である。
――でも、これが武士の棟梁の本質なんだろうな。
合戦で敵から奪った領地財物を配分するのは首領の役目である。父はその役を果たしたが、真に平等に行き渡らせるのは至難の業だ。どこかにしわ寄せが行き、不平不満が生まれる。それを上手に慰撫する場合もあれば、力づくで承認させたり、先手を打って滅ぼすこともある。全ては坂東武者という都の洗練からかけ離れた蛮族どもの統治のために。
そうして、力で力を制した父は、紛れもない蛮族の王だったのだ。
もちろん自分が父のようになれるとは思わない。父が持っていたものを引き継いでいるとは思えない。 けれど、今日、苦手だった武辺者たちをそば近くに寄せたことで、もっと公平に御家人たちと接しようと心に決めた。これまで歌の上手ばかり贔屓にしていたことを反省した。
公平と言えば、負け組の男たちの、
「おい、その扇は俺んだからな。大切に使えよ」
悔しがりつつ、楽しそうな様子を見て、
――こういう公平もあるんだな。
義時の作法を学ぶのである。
その後、実朝は宴の支度をさせた。
酒も肴もふんだんに用意させたので、勝ち組も負け組も大喜びである。
「将軍家、恐縮っす」
「かたじけないっす」
相変わらず礼やら節やらが身についていない連中だが、すでに彼らは実朝にとって愛すべき部下となっていた。実朝が武将たちへ笑いかけると、彼らもまた瓶子を振り回して主君へ笑い返すのである。
それからは互いに盃へ酒をなみなみと注ぎ、呑めや歌えのどんちゃん騒ぎである。
義時が真面目くさって、
「えー、これを機に、我ら御家人一同ますます武芸に励み、世の安寧に心を尽くせば、関東の礎は末永く盤石なものとなろう。皆の者、心して――」
訓示を垂れても、誰も聞いちゃいない。
気がつけば、大倉周辺の御家人たちも酒肴を持ち寄り、大宴会となっていた。
実朝も勧められるまま盃を干し、好い加減に酔っ払い、主従入れ乱れて舞い踊る。
そのうち裸踊りを始めるやつが出る始末で、
「いかん、将軍家が何かされる前に救出しろ」
唯一素面の義時が近習に命じ、主人を寝所に送らせた。
ふらふらとおぼつかない足どりで両脇を支えられながら、実朝はご機嫌だった。
野蛮で乱暴で、すぐ主君をなめてかかる武将たちであるが、そう悪い人ばかりでないことがわかった。宴では、常盛や朝比奈から次々と瓶子を勧められ、
「従弟の平太(胤長)がいつもお世話になっております。ですが、私らだって、もっと早くに御所とお近づきになりたかったです」
「今後も、我々と親睦を深める機会を増やしてくださいよ。お歌のお仲間ばかりでなく」
「みんな、御所のことが大好きなんですから」
今まで、ろくに口も聞かなかった彼らに親しげにされ、
「わかったよ、わかった。私もそなたたちのことが大好きだ」
実朝の口から素直な言葉が出た。
――私は、この人たちから嫌われていたんじゃないんだ。
うれしくて涙ぐみそうになった。さらにうれしいことに、いつのまにか宴会に交じっていた和田義盛が酒を注ぎに来て、
「御所、儂は御所を誤解しておりました」
前回の件を泣いて詫びたのである。
「儂は弱い人間です。酒の力を借りねば、本当のことを言えませなんだ。えぇ、儂はずっと、将軍家に謝りとうございました」
実朝はびっくりしながら、
「えぇ、そう? でも、私には何のことかわからないけれど」
と、惚けられるほどに、酔いはこのとき回ってなかった。
「あぁ、御所のお心遣い、ありがたき幸せに存じます」
義盛は実朝の手をとって礼を述べる。息子たちから、
「おい、親父、調子に乗って御所の手ぇ握るなよ」
「全く年寄りだからって油断できねぇぜ」
言いたい放題に言われるが、当の義盛は立ち上がって、
「将軍家に武運長久を!」
舞でも舞おうとしたのか、しかし足がもつれ、その場によろよろと尻もちをついた。
「あぁ、これだから年寄りはしょうがねぇな」
一族の者に抱きかかえられて帰宅していった。
床についた実朝は、眠気と昂揚のあいだでうつらうつらしながら思った。
主従の距離は難しい。近すぎれば馴れ合い、遠すぎれば心通じ合わない。そして、実際の体の距離と心の距離は、案外等しいものらしい。
――今日は、両方の距離が近すぎたかもしれないけれど。
実朝は満ち足りた気持ちで、酒睡に抱かれていった。
将軍家と御家人の間に育まれる心の紐帯――
けれど、義時だけは一人置いてきぼりにされた気分だ。
――仕掛けたのは俺なのに。
今日までの根回しや段取り、切的の射手に和田常盛らを選んだのも義時に考えがあってのことだ。
実朝ではないが、我が身を蔑ろにされたような気分は数日経っても抜けなかった。
――少しは俺の苦労に報いてくれてくれてもいいよな。
この機会に、伊豆時代からの郎党のうち功績のあった侍を、御家人の身分に準じてほしいと将軍家へ願い出た。まさか己れの申し出を拒まれるとは想像もせず。
しかし、実朝は叔父の申し出に、とんでもないという顔つきで、
「叔父上の言葉とも思えないよ。よく考えてみて。もし、叔父上の言うことを許したら、彼らの子孫は由緒を知らずに幕府内で過分な望みを抱くよね。後難を招くもととなるだろうから、私には許すことはできないよ」
と、彼の申請を拒んだ。
――なんでだよ。
義時は実朝を見返した。
己れの優秀な郎従を、無位無官のままにするのは惜しいとした、このどこが悪いと。
ここに、実朝と義時の齟齬があった。
――自分の郎党を御家人と同等に扱えなんて、叔父上はどうかしているよ。まるで北条が将軍家に並ぼうとするようなものじゃないの。
義時の、出自より実績を見てほしいとの思いは伝わらず、
「とにかく、この話は聞かなかったことにするよ。叔父上も二度と口にしないで」
十八歳の主君が四十七歳の臣下に対して厳命する。義時は心底悔しくてしかたなかったが、将軍家が一度決定したことは覆せず、黙って引き下がる他なかった。
数日後、南面での評議の席にて、義時は各国守護の職務怠慢を議題に上げた。
彼は、先の一件はなかったように、澄ました顔で、
「このところ平和が続いていることは良いことですが、おかげで諸国の守護人らはすっかり気がゆるんでいるようです。群盗らが隙をねらって蜂起し、村や荘園の者たちが安心できないと国衙に訴え、訴状がこちらに届いております」
叔父が読み上げる訴状を、実朝も真剣に聞いていた。国の守護たる者がその名の通りの役目を果たさねば、彼らを統轄する幕府の威信が問われる。
「守護人たちはしっかりやってくれていると思っていたけど、実際は違っていたんだね」
「代々の由緒に従い、守護職を一人に固定してしまったのが良くなかったようです。年限、人数を決め、当番制にして務めさせるというのはいかがですか」
守護人には、相模は三浦、下総は千葉、下野は小山と各国の名門を充てていたが、これを改めれば、当番の年によって治安の良し悪しが一目瞭然となる。守護人一人ひとりに緊張感が生まれ、治安も向上するだろうと。
「あるいは、国々に詳細を訪ね、不心得者の任を改めてはどうですか」
今回、義時の根回しはなかったようだ。その場にいた者たちは一様に驚き、
「お待ちください。それでは代々、国の守りとなっていた我らを蔑ろにするようなものではありませんか」と、反論の声が上がるが、
「何も理由なく、蔑ろにするというわけではない。職務に懈怠ある者を守護職から降ろすのにどのような障りがある」
義時は落ち着いて答えるが、実朝には波瀾の予感がした。
案の定、
「いや、やはり、土地の由緒というものを軽んじてはなりませぬ」
「私からすれば、その由緒やら相伝やらという言葉が懈怠を生んでいるように思えるが」
「それは誤解でしょう。由緒の地、相伝の地であるからこそ、職務に対して心を尽くせるということになりませんか」
折り目正しい異論の者たちは、それこそ相伝を許された諸国の名門である。
上座の実朝は、彼らのやりとりをはらはらしながら聞いていた。
叔父の言い分はわかる。また、心情も。義時は一介の土豪の次男という立場から、己れの才覚や努力、運によって、今の地位に登りつめた。それはまた、既得権益の上に胡坐をかいていた貴族から、領地や官位を武士へ分け与えた頼朝の業績にも重なる。
我々関東の人間は京の支配を退けて、新しい武士の秩序を築こうとしたのではないか、それなのに由緒だの相伝だの、古臭い了見にしがみついているのはどういうことだ、と。
実朝は今ようやく、前回義時が言わんとしたことを理解した。また、この機会に名族らの勢力を削ごうという彼の狙い、そして、幕府執権の叔父がどう努力しても手に入れることのできない、由緒や相伝といったものを生まれたときから備えている彼らへの感情も。
――叔父上は、それを誰かに気づかれている、ということに気づいてないのか。
幕府の最高権力者の提案に、名族らの反論は続いた。
「貴族から認められた領地と権益、確かにその通りではありますが、もとより先祖が開拓し、子孫である我らが守っているものを何の障りがありましょう」
血統による統治が最も正しいと譲らず、
「北条殿とてそれはおわかりでしょう。ご先祖から受け継がれた代々の土地の大切さを」
敢えて義時の苗字を出され、実朝はひやりとした。北条は伊豆のはずれのちっぽけな土地、しかも、それを義時は父親から簒奪しているのだ。
「それがいかがした。土地への愛着と統治の能力は別物ではないか。私は自分に能力がないとわかれば、素直に身を引くが」
義時のもの言いはいつになく権高く、それは弱点を突かれたことの裏返しだった。
実朝は逡巡した。
追い詰められた叔父の味方をしたい、けれど権門たちの言い分もわかる。
公平な処断をせねばらぬのに、至らぬ自分の弱さを突きつけられる。
――私に裁定などできないよ。
どちらが正しいなどない。あるいはどちらも正しいのだ。
険悪な空気に耐えかねた実朝へ、意外な相手が助け舟を出した。
三浦義村、彼は権門のなかにあってただ一人発言を控えていたが、
「ここで言い争いになっても仕方ありません。いっそうこれを機に、守護職任命の際に下された幕下の御文などを集めてはいかでしょうか。それにより元来の職を安堵されたものか、勲功による恩賞であるか、根拠を区別致しましょう」
自分はすぐにでも提出できると、義村が言う。
「わかった。ではまず近国の者から命じるとしよう」
実朝はほっと息をついた。
義村に救われたのは自分ばかりではなかっただろう。
けれど、
――これで、叔父上も随分と敵をつくったなぁ。
根回し好きの義時も、今回の議題と相手ではそれも果たせず。評議の席でぶつける他なかったのだろう。
後になって、実朝はこっそり義時に訊いた。
「叔父上、いいの? 下野の小山判官と仲がわるくなっても」
下野の豪族、小山朝政は義時の友人で、その弟の長沼宗政・結城朝光も旧知の仲だ。
ただでさえ友達と呼べる武将が少ない叔父を、実朝は心配した。
当の小山は帰郷して南面になかったが、今日のことを知らさられれば、親友の義時が裏切ったと感じるだろう。
「けっこうです。私は幕府のことを考えて発言したのです。第一、これは私の以前からの持論でした」
義時は生まじめに答えて退出していったが、その背中が少し寂しそうに思えた。
――大人って悲しいな。こうして友だちを減らして行くんだね。
自分には主従の関係を越えた歌の仲間がおり、最近では武勇の者たちともうまくいっている。その余裕で叔父に同情しかける実朝だったが、少し考えてぞっとした。
――叔父上のいなくなった友人って、皆、殺されているじゃないか。
小山朝政は義時の数少ない友人である。
大倉に御所が造されたころ、寝所番仲間の結城から紹介され、彼以上に親しくなった。関東の南の人間とは違い、己れとは何の柵みがないのも気が許せた。
小山の三兄弟の容姿には特徴があった。かつて毛国と呼ばれた下野の生まれで、毛人の血が色濃く入っているのだ。長男の朝政がその特徴をもっとも強く受け継ぎ、眉庇や頬骨がぐっと前に出た彼の異相に、南関東の人間はたいてい驚く。次男の長沼の髪は濃い黒の癖っ毛で、なぜか兄弟の下にいくほど毛人の特徴は薄まり、結城は程のよい美男子だった。しかし、年齢を重ねるごとに兄らに似、目鼻立ちが濃くなっていくのがおもしろかった。
外見とは別に、朝政の性格は良い意味で厳格で、何事も責任をもって職務を遂行した。大倉ではうんざりするような連中が幅を利かせていた当時、京勤めの経験をもつ彼は諸事に明るく、また、男兄弟の長男のせいか頼りがいがあって、若いころの義時は実の兄のように慕った。
朝政が自身の血についてどのような思いを抱いているかわからない。だが、東国の武人は、毛人を弓馬に秀でた種族として畏敬の念を持っている。
ただ、そんな特別な血をひいた朝政を慕う一方で、
――俺は出自に対する負い目から、群れの中の異質な者へ親しみを覚えてしまうのか。
己れの親友への思いを疑うことがあった。
翌十二月も半ば、南面は実朝の御前に、近国の守護人らが補任の際の下文を持参した。
そのなかで、まず下総の千葉成胤が、
「先祖千葉太夫は元永年中(一一一八~二○年)より当庄の検非違所の長官にあったため、父常胤は故殿から下総一国の守護に任じられました」
と申し出れば、相模の三浦義村は、
「祖父である三浦介義明は、天治(一一二四~一一二六年)以来、相模の諸事に参与し、幕下は父義澄へ祖父同様に検断(警察・軍事・裁判)を営むよう仰せになりました」
下野の小山朝政は、
「基となる御下文はありません。今から四百年ほど前、嚢祖下野少掾豊沢は当国で検断のような職についておりました。さらに秀郷朝臣が天慶三年(九四○)に押領使として叛徒の平将門を討つべく、朝廷より官符を授かって以来、十三代二百七十年の間、中断した例はございません。ただし、建久年間に父から職を譲られた際、故殿より安堵の御下文を賜りました」
さらに付け加えて、
「全く新恩の職はなく、先祖からの相伝を故殿に安堵されたものです」
ご不審を払拭しましょうと、朝廷よりの官符や各書状を進めた。
そのほかの国々の守護人らも頼朝の下文を将軍家へ提出した。
実朝から見ても輝かしい由緒の数々は、関東の名門たちが一丸となって新興勢力の北条を威圧するかのようだ。
――これを叔父上はどう思うんだろう。
そっと義時の表情を伺ったが、叔父の顔からは何も読みとることはできなかった。
実朝は、視線を御家人らに戻した。
「父上は各国の事情を見極めたうえで、守護人を任じたわけだね。それを私の代で変えてしまって良いものかな」
今将軍といえど、侵すことが許されぬ世界がそこにはあった。
「やっぱり、守護人を小さな咎で責め立てて、たやすく職を改めてはいけないよね。うん。今日はいいものを見せてもらったよ。守護職にある者たちはこれまで以上に務めに励み、多発している群盗の討伐にあたってほしい」
実朝は一人ひとりに目を合せるようにして言い含めた。
承元四年(一二一○)二月々(つき)末、朝降った雨が止んだころ、和田義盛の邸から火が出た。炎は雨上がりの湿った空気をものともせず、激しい北風にあおられ、民家数十軒を焼いた。
義盛は春の除目で国司の選から漏れ、落胆していた時期だっただけに踏んだり蹴ったりである。ちなみに彼の邸は、数年前にも隣接していた縁者の土屋義清の邸ともども火災にあっていた。
――今度は土屋の邸は大丈夫だったかな。
義清は例の土屋宗遠の養子だったが、彼自身は落ち着いた初老の武将だ。実朝の信頼も篤く、この正月には八幡宮への参拝に御剣役として供奉している。実朝は、和田義盛への見舞いの使者を遣って、ついでに土屋の邸の様子も見に行かせた。
一通りの処置を見届けたあと、実朝のそばに侍していた義時が、
「自邸の失火によって街を焼いたのです。和田殿に過失はないでしょうかね」
義盛の傷口に塩を塗るようなことを言う。
「誰だって好きで火事にするような人間はいないよ。叔父上が何と言おうと、私が金吾を問い詰めることはしないからね」
老臣をかばう甥へ、義時はふうとため息をついてみせる。
「別に和田殿をいじめるつもりはないのです。けれど、このところの和田殿の行いには目に余るものがありますから」
昨年末、和田義盛はまたもやらかした。
鎌倉在住の御家人が、隣家の人妻と密通し、大騒動に発展した事件があった。
発端は、三浦氏庶流の武将が偶然、通りで出会った人妻に一目ぼれし、自分の邸へ連れて帰ったことだ。この人妻もどうかしていて、男のもとに何日も泊まり続けた。
寝取られた夫は「妻がいなくなった」とおろおろするばかりだったが、互いの邸は通りをはさんで真向かいにあったため、不倫はすぐに発覚する。
当然、夫は怒り狂うが、これに相手の間男も反発した。
武力で決着をつけようと、両家は互いの一族が馳せ集まり、あわや合戦となる。
報せを聞いた実朝は急いで使いを遣り、侍所の義盛を呼んだ。
けれど、使いは間もなく戻り、
「別当殿はすでに合戦の支度をなさり、手勢とともに当地へ向かっているとのことです」
と報告し、実朝は「さすが、侍所別当」と安堵しかけたが、使いは、
「いいえ、違うんです!」と首を横に振った。
なんと同じ三浦の一族だからと、間男のほうへ味方についたのだ。
慌てて叔父の北条時房に命じ、両者をなだめさせて事なきを得たが、
「――本当に、和田殿のような方が侍所の別当にあるのは、いかがなものでしょう」
義時の嫌みに、かばう気も失せる。
彼の望んだ国司の件も、春の除目に間に合うよう実朝は京へ使いを出した。これを伝えると、義盛は手を打って喜んだが、結局、彼は選から漏れている。
「叔父上、何かしましたか」
実朝が思わず胸の疑問を口に出すと、義時がむっとして、
「私が何をするというのですか。おおかた和田殿の人為りが京へも伝わったのでしょう」
「どうだろう。金吾は私の言ったとおりにしたのかな」
関東の武将が「国司にしてください」と言って、都の公卿が「はい、わかりました」と言いなりになるわけではない。彼らはそれ相応の見返りを求めてくる。いわゆる賄賂であるが、それとても作法に則ったものでなければならない。義盛は何か公卿らの機嫌を損ねるようなことをしたのかと気を揉んでいたところだ。
叔父の義時は、
「私が、和田殿の国司の件に関わることはありませんから」
どうぞご自由にと、冷たい。
このごろ、実朝が和田や三浦の一族と仲が良いのをすねているのだろう。
――三浦介とは相祖父にあたるのだから、もっと仲良くすればいいのに。
義時の長男泰時と義村の女の婚約は二十年ほど前、本人同士は童にして、仲人は、今は亡き父頼朝である。北条が伊豆の一土豪であったころを考えれば望外の縁談だったろうが、父としては、舅の一族と関東屈指の名門三浦を対等とすることで、突出する勢力を抑制する、妻の実家を引き揚げる、といった意図があったろう。ただ残念なことに、泰時夫婦は数年前に離縁している。
実朝は折を見て、義時と時房を歌会に呼んだ。義時は和歌があまり得意でないが、最近どこか不満げな叔父との仲を修復したかった。宴を催すことで叔父たちへ、
「私は自分の根となる北条を蔑ろにしないよ」と伝えるためだ。
義時にも実朝の気持ちが通じたのか、
「将軍家もだいぶご成長なさいましたな」と言われたが、いつもの澄まし顔で返すので嫌みなのか本気なのかわからなかった。
母方の実家との関係はこれにより少しは風通しがよくなったが、となると、今度は他の御家人から、
「将軍家は、このところ執権殿にばかり気が向いている」
と、不公平に思われてしまった。臣下のご機嫌をとるのも大変なのである。
五月、実朝は三浦義村に誘われ、彼の本拠三浦三崎に遊びに出かけた。
三浦へは父が健在だったころも家族で何度か遊びに来たが、海上で管弦の宴を催すなど義村にはずいぶんと楽しませてもらった。当地には、実朝が父から受け継いだ桃の御所、桜の御所、椿の御所と、その名も麗しい三つの別荘があるが、今回は花の季節を違えたため、義村は海上に船を浮かべ、往時と同じように管弦の宴を開き、実朝を喜ばせてくれた。
「御所、楽しんで頂いてますか」
と、瓶子を勧める義村へ、
「もちろんだよ」
ほてる頬を潮風になぶらせながら、実朝は満足げに笑った。
それから義村の腰のあたりにまとわりついている七、八歳の少年を見た。
挨拶はすでに済ませていたが、少年は幼いながら義村の嫡男である。幕府内の勢力争いで前妻と離縁し、後妻を娶ってもうけた子どもだ。
――三浦と叔父上は境遇が似ているな。
義村も没落した前妻の実家と縁を切り、前妻腹の嫡男をその座から外した。影響は北条に嫁していた前妻腹の娘にも及び、娘は泰時と別れ、三浦の庶流に再嫁している。ただ、泰時夫婦の離縁は、両家の家風と家格の違いが根底にあったことも想像にかたくない。
比べても仕方のないことだが、北条と三浦とでは今日のようなことで格の違いを見せつけられてしまう。三浦の人々は名門ゆえに和歌や管弦に秀で、船遊びをする洗練さを持つ。
その一方で、相模の大武士団を統率し、自身も勇将として名を馳せる義村は、故郷の統治も行き届き、三崎の港は大いに賑わっていた。
鎌倉では義時に頭が上がらぬようだが、三浦では代々の領主、水軍を組織して全国津々浦々に拠点をもつ彼の一族は、海運で巨万の富をなしていた。
三浦という土地と氏族には、鎌倉や北条が持ちえぬものがあり、
「羨ましいな、三浦は」
実朝がふと呟くと、義村の目がすっと光った。
「では将軍家、このまま三崎の御所に御渡りになられ、当地を武士の都になさいますか」
「あ、いや、そう意味じゃなくて……」
実朝が慌てて体を起すのを、義村はふふと笑いながら、
「冗談ですよ。将軍家には鎌倉という武士の都がおありですから」
しかし、義村が言うと冗談に聞こえない。
営中で執権の叔父が相当の警戒心をもって接する相手だ。
――油断してはならないな。
と、自分に言い聞かせる。
実朝が油断してもいい男たちは他にいた。
一行が海から上がると、浜では暑いなか、和田一族が笠懸の準備をしていた。
「御所、歌や音曲だけではなく、弓馬のことも忘れてしまっては困りますよ」
「俺たちの妙技を見てください」
射手となる常盛や胤長が大声で叫ぶ。
長い腕を大げさに振る胤長は実朝の近習だが、彼のすぐ横に見覚えのある青年がいた。
「えっと、和田兵衛尉(常盛)の長男の、三郎だよね」
その色の白さと唇の赤さで思い出した。
六年前、御台所のお迎えの一行に、容儀華麗として選ばれた和田三郎朝盛である。
彼はその後、御所内で何度か顔を見かける程度で、いつのまにか自分の前から姿を消していた。以来、三年ぶりくらいか、朝盛は、控えめな笑みを浮かべながら、
「私のようなつまらぬ者を覚えてくださいまして光栄にございます。本拠上総の領地経営のため、長らくご無沙汰致しまして面目次第もございません。本日は将軍家にお目通りが叶い、恐悦の至りに存じます」
和田一族らしからぬ慇懃さである。
――さすが、容儀華麗……
実朝が驚いて見つめると、朝盛はするすると進み出ながら、
「将軍家におかれましては、ますますお美しくなられ、今さら私など、おそばに寄るのも気後れ致します」と、お世辞を口にした。
実朝は赤くなった。容姿を褒められたのは久しぶりだったから。
「三郎こそ、ずいぶん変わったね。背も高くなったし、すっかり男らしくなって……」
少年が時を経て男らしくなるのは当然なので実朝は口ごもるが、その横合いから近習の胤長が口を挟んだ。
「ずるいぞ、三郎、御所にお近づきになろうとしているな。お前は歌が上手だし、顔もいいから、油断したら御所を三郎に取られてしまう」
と騒ぐ。そんな胤長へ、
「おいおい、もとから御所はお前のもんじゃないだろう」
常盛が従弟を小突くが、胤長の言葉に実朝は救われる。
「そう、三郎は歌が上手なの」
「とんでもないことです。私の歌など将軍家に披露するほどのものではありません」
朝盛は場の風に合わせ、少し砕けた口調に改め、目を細めた。
子どものころは大きな瞳が印象深かったが、青年となった彼の眼は白目がちの切れ長である。 実朝が年齢を聞けば、三つほど年上だった。初めて出会ったときは同い年くらいだと思っていたが。
「御所、三郎は弓の名人でもあるんですよ。何年か前、正月の御的始めで射手に選ばれてるんです」
常盛は息子を自慢するが、朝盛本人は、
「いえ、先代の近習のころ、一度だけ末席を汚した程度です」
「そう、三郎は兄上の近習をしてたのね」
「えぇ、小さいかったせいで面白がられ、そこそこの腕でも選ばれてしまったのです」
常盛も胤長も、八幡宮の祭事では射手の常連である。
特に、胤長はその長い腕で幾度も一番手に選ばれている。そんな余裕からか、
「お前も鎌倉に来れば、きっとまた選ばれるさ」と、朝盛をからかう。
常盛も息子へ、
「ちゃんと鍛錬はしているのか。歌ばっかり詠んでいないで」
これが父親としての本音であろう。
実朝は微笑して、
「三郎は和田の嫡男なんでしょ。だったら鎌倉に来て、私の近習をしなさい。そうでない方がおかしいよね」と命じた。
これに胤長が、
「えぇっ、やぶ蛇」と天を仰いだので、その場の誰もが笑い声をあげた。
「申し訳ありません。礼儀知らずの一族で」
朝盛が和田を代表するように頭を下げたから、
「そこが私の好きなところなんだよ」
実朝は彼の涼しげな目を見つめた。
この日の笠懸は盛況のうちに終わった。
夜に宴が用意されていたが、さすがに疲れて断った。和田の人たちは全身全力でじゃれようとするから、つき合いきるのは大変なのだ。