第二節 あさひ映す 死に至る病い
本節で、この物語のヒロイン(性別不明ですが)の実朝が中心となって動き始めます。これまでのほほんと生きてきた実朝でしたが、大病をわずらったことをきっかけに、将軍家としての自覚に目覚めます。
しかし、幕府の頂点に戴かれる実朝は、あいかわらず武士の本来と乖離していた。
弓馬の道に全く感心のない将軍家に対し、
「どうか武家の棟梁らしく、御家人らの武芸を奨励してください」
義時がしつこく言うので、実朝は南面で彼らの相撲を覧ることにした。幕府内の武張った御家人たちを顕彰するという、叔父の意図は十分理解できた。
実朝は、彼らへの褒美として鎧につかう色革や矢羽根、砂金などを用意したが、試合のあとは勝敗に関係なく下賜するつもりだった。勝った者も負けた者も、将軍の御前で披露するほどの勇者である。分け隔てなどしたくなかった。
けれど、武芸一辺倒のやつらは勝負に負けたとなれば、
「どうせ、このあと何もないんでしょう」
主君の心遣いを知らず、さっさと家に帰ってしまい、慌てて呼び戻す、ということをくり返した。
――この人たちには、礼とか節といったものを身につけさせなければいけないな。
彼らを統制することの難しさを痛感するのだった。
承元二年(一二○八)、十七歳になった実朝は、正月そうそう高熱を出して寝込んだ。
大倉の皆を心配させながら、数日後いったんは回復し、安心した尼御台は八幡宮へお礼参りに出かけた。けれど、病は月末になってぶり返す。阿波の局が寝ずの看病にあたるものの、熱が下がる様子はない。医師の薬も効果なく、数日が経つころには全身にぷつぷつと発疹があらわれ始めた。
「これは……」
阿波の局は言葉を失った。このときまだ意識のあった実朝は、
「疱瘡だったんだね……」
ため息をつくようにして言った。
疱瘡(天然痘)は致死率の高い伝染病である。御所内の別棟に住む家族は「うつってはなりませんから」と見舞いに行くことも停められた上、大御所の母は別邸への渡御を勧められ、半狂乱になったという。
この数年で三人の子を立て続けに失った母の取り乱しようは、容易に想像できた。
疱瘡は実朝が生まれた年に都鄙で大流行し、先代頼家も罹患した。頼家は周囲の献身によりどうにか生還したが、病弱な実朝に命の保証はないのだから。
加えて、疱瘡は残酷な病気だ。たとえ生き残ったとしても発疹が膿みただれ、あばたとして残ってしまうのである。自分の美しさを自覚する実朝には、なおのこと辛く、
「お気弱になられますな。疱瘡は以前、お身内が罹っていれば軽くすむとか。発疹も掻いたりしなれば、ふつうの傷のように治ってしまうということですよ」
叔母でもある乳母の言葉も慰めにしか聞こえず、病いは病い以上に実朝を苦しめた。
二月三日の八幡宮のお神楽は、中原広元へ代参を命じることもできたが、十日ごろには意識も途切れ途切れとなり、
「いっそう、このまま死んでしまいたい」
苦しみでうわごとまで言い出した。周囲の人々が心ばむなか、その声すら出なくなり、水も飲み下せぬようになった。疱瘡の症状が体内にまでまわったのである。
人々は、
「これはもう、駄目かもしれない」
いつ、どうなってもおかしくないと御所中が息をひそめる。
逆に、近国の御家人たちは、
「将軍家がご危篤だと」
「すわ、一大事だ」
大騒ぎで鎌倉に集まった。
実朝に何かあれば幕府の勢力地図に大異変が起きる。しかも一昨年猶子とされた善哉はまだ九歳である。家督となりえるのか、今のうちに近付いていたほうがよいのか、だが、勇み足で将軍家や尼御台の恨みを買ってもいけない――それを見極めようと、御家人たちの間でさまざまな憶測が飛び交った。
「そんな、あの子はまだ生きているのですよ」
御家人たちの薄情さに、ふだんは気丈な尼御台も涙を流した。
孫の善哉はかわいい。けれど、今は実朝の命を信じたい。
しかし、現実は非情だった。
「お恐れながら、将軍家の後継について、お言葉を頂けませんか」
幕府執権たる義時が言いにくそうに訊ねた。
尼御台は悲しげに弟を見た。
「今、この時期にですか。まるで、先代のときと一緒ですね」
五年前、原因不明の病いで頼家が危篤となった際、実家の北条はすぐさま比企氏討伐に動いた。一族を滅し、全てが終わったあと皮肉にも頼家は回復し、妻と嫡男の死を知らされたのだ。怒り狂う息子を抱きとめた尼御台は、
「母上が命じたことですか!」
頼家から憎悪の目で見返された。
あのときの我が子の目が今でも焼き付いている。
けれど、弟の義時はなおも迫る。
「人心を落ち着かせるためには、尼御台の御言葉が必要なのです」
頼家は我が子を後継者にすることが当然だと思っていた。しかし、正式な発表の時機を逃し、母の実家に覆されたのである。
――これを今に当てはめれば……
善哉の下には腹違いの弟が二人いる。また、尼御台には認めたくない事実だが、実朝には異母兄となる亡き夫の庶子がおり、西国で僧籍にあった。これを考えれば、何か企てる者があらわれるやしれない。
「……わかりました。それでは、あの子の後継には、善哉をと……」
喉を絞るように、尼御台は答えた。
義時は無言でうなずくと、尼御台の邸を去った。彼とて、今この状況で後継者の名前を発表することは憚られた。しかし、鎌倉の御家人たちのざわめきを鎮めるため、
「何事も心配なきよう、全ては順当に図られる」
そっと、尼御台の意図を流した。このときの彼には余裕があった。
善哉はまだ幼い。北条に対抗しうる相模の名門三浦氏に養育されていたが、自分は血の繋がった大叔父であり、祖母たる尼御台も北条の人間、いかようにもできると。
幕府執権の呟きは、瞬く間に御家人たちに広まった。
「順当、ということは、やはり、次は善哉どのか」
その一言で、取り取りだった御家人たちは一斉に三浦義村の邸へ向かった。善哉の乳母夫へ早くもすり寄ろうと、御所のすぐ西側にある三浦邸へ人々の流れが生まれる。
その浅ましさ。
まるで実朝の延命が誰からも望まれていないような光景――尼御台は苦しみ、孫の善哉をわずかに憎んだ。
義時はこの状況を目の当たりにして、
――我々は愚かだった。どうしてもっと早く、善哉を取り込まなかったか。
そして、御所と三浦の邸が川を挟んで隣接していることに、
――もし、善哉が次代の将軍家となれば、御所と三浦の邸は一体化するのだろうな。
それはとりもなおさず、三浦が幕府の実権を握ることを意味していた。
三浦は御所の一部に、御所は三浦の一部に――その図を頭から振り払うことができず、この日から義時は、三浦と善哉の関係に警戒の目を向けるのだった。
御家人らの仕打ちに翻弄される尼御台に代わり、実朝のそばでは、阿波の局が懸命の看病を続けていた。自分にうつることを恐れぬ乳母の献身が、神仏の御心を動かしたのだろうか。やがて実朝は回復に向かった。
実朝は意識を取り戻すと、
「お願い、鏡を持ってきて」病床から乳母に乞うたが、
「もう少し良くなってからになさいませ」
阿波は主人の頼みを拒んだ。
しかし、鏡など見なくとも実朝にはわかっていた。自分がどのような姿になっているか。双の腕を見れば発疹のあとが無数に残っている。これが全身に散って瘢痕として残るのだ。
「心配したほどには残りませんでしたね。お顔もお化粧をすればわからないくらいです。掻きむしらなかったのが良かったのでしょう」
乳母の慰めも、実朝には届かなかった。
――もう嫌。
まわりの大人たちは実朝の生還を喜んでいる。生きているだけで良かったと。
けれど、
――どうして、放っておいてくれなかったの。どうして神仏に祈ったの。
美しいものが好きで、美しい自分が好きだった。周囲の人々が武家の棟梁に相応しからぬ自分を愛してくれたのは、美しさゆえだ。醜くなった自分を誰が愛すだろう。
かつて人々は実朝の肌の透明な白を、月光の色に例えた。
――けれどもう、そんな人はいなくなる。
若さゆえの傲慢さで、人生を美しいままに過ごせると信じて疑わなかった実朝には、醜い自分など、とうてい受け入れることはできなかった。
十日ほどして発疹の化膿が落ち着いてくると、実朝は医師から入浴の許可を得た。
薄暗い浴室のなかで、実朝は侍女の目を盗むようにして自分の裸体を眺めた。闘病中、痕が残らぬよう発疹を搔くなと言われ、どんなに痒くても、それを守った。
けれど、実朝の体の処々に、瘢痕が濃く薄く残っていた。
両の手のひらで、頬をなでる。阿波は未だ鏡を見せてくれなかったが、体にあるものと同じものがあることがわかった。実朝はぽろぽろと涙を流し、膝に顔をうずめた。
――私は今、一番きれいな年なのに。どうして……
個我の憐憫に囚われた実朝は、涙を抑えることができなかった。
疱瘡が完治したとはいえ、実朝の体調は全快とはいかず、その後も、ぐずぐずと床に着いた。閏四月にも危険な状態に陥り、またも周囲の御家人たちが騒ぎ出す。
少し前に、尼御台が実朝の名で、八幡宮に神宮寺を造営するよう沙汰したが、どれほどの効験があったろうか。
「いいえ、生きているだけでいいのです」
我が子でありながら見舞うこともままならず、母は神仏に祈る他ない。
翌月、実朝は床から出られるようになると、京の使者に対面するなど少しずつ日々の職務に戻るが、しかし、その後も気鬱が続いた。
鎌倉の街は、武士、商人、農民、その他身分にかかわらず万人が不安に駆られていた。
土地の主と天の気は連関するのか、梅雨時だというのに雨が一滴も降らなかったからだ。稲の育ちが危ぶまれるまま、六月に入っても日照りは続いた。他の作物を育てようにも十分な水がなければ種も播けない。このままでは秋の収穫を失い、その先にあるのは飢えと死だ。
実朝に代わって政務を処理していた義時は、こらえ切れずに進言した。
「御所、少しは民草にも目をお向けください。どれほど彼らが苦しんでいるか、御所にはわからぬのですか」
義時は、いつにない口調で甥に迫った。
「将軍家の気鬱が天の気に作用し、日照りが続くと言われているのですよ」
甘ったれの甥の目を覚まさせたかった。
その肩をゆさぶって現実を見せてやりかった。
自分は周囲の人々の献身で命を救われながら、庶民の命の危機に思い至らぬとは――
「それでも鎌倉の主ですか」
叔父の気迫に、実朝の意識も徐々に覚醒する。
前庭に目をやれば地面は干からび、表面が砂で覆われている。下部らの水遣りでは追いつかず、植栽もところどころ枯れ始め、季節の花も見当たらない。御所の庭でさえこうなのだ。庶民の田畑がどうなっているか、想像はつく。
自分が殻に閉じこもっている間に進んだ事態の深刻さに、実朝は我に返った。
「私に雨を降らせる力はないけれど、私にできることはない?」
「もちろん、あります」
庶民に届く食糧の調査、商人たちの不当な値上げの防止、年貢の減免の検討など、将軍自ら沙汰することで迅速に行われる事柄はいくらでもある。実朝は叔父の補佐を受けながら、鎌倉の主としての職務を遂行した。
義時はさらに、鶴岡八幡宮の供僧に雨乞いを命じるよう実朝に勧めた。
「人事を尽くして、あとは天に祈るのみ――とはいえ、これも人事のうち。将軍家の民を思う心を知らしめるために必要なことです。御所が神仏に祈ることで、民は主君と心を一にしていると安心しますから」
実朝は叔父の勧めに従った。
将命が下されると、八幡宮の僧らは大挙して江ノ島に集まり、竜穴に祈った。
竜穴とは海蝕によってできた洞窟のことで、父頼朝が寿永元年(一一八二)に水神たる弁財天を勧請した神社の本宮がある。また、母の実家とも縁深く、建久元年(一一九○)、祖父時政が一族の繁栄を祈念しに訪れた際、竜の鱗らしものを見つけたとか。
神仏混淆の神宮寺は、八幡宮の別当が同職を兼ねていたため、此度の祈祷となった。
翌日、供僧の祈りが届いたか、天は大地に甘雨を与えた。
感激した実朝は、義時に言った。
「奇跡だね。偶然とは思えないよね。だって、お祈りをしてから、たった一日で雨が降るなんて」
「そうですね。江ノ島明神の神竜は、僧侶が大嫌いですから」
「え?」
実朝には叔父の言っている意味がわからなかった。
「江ノ島の竜は昔、女性に変身して名僧の読経を聞きに行き、そこでうっかり竜体を見られてしまいました、寺の僧侶たちは驚き慌て、大騒ぎとなり、以来、竜は仏僧を嫌うようになりました、との謂れがあります。昨日は大勢の僧を行かせましたからね。効果てき面でしょう」
義時は平然として言うが、竜神を怒らせて雨を降らせるというやり方に、
――なんて罰あたりな。
実朝は開いた口がふさがらなかった。けれど、叔父は意に返すふうもない。どんな手段を使ったとて、雨は雨である。
大地を潤し、草木を育てる雨。
民は喜びのあまり、雨のなかを走り回った。
僧侶の祈祷をありがたがり、それを命じた将軍家を崇める。
その声は清雨の潤いとともに、実朝のもとへ届いた。
人々の感謝の言葉を聞かされた実朝は、数か月ぶりに心が慰められ、
――私が何かしたわけじゃないけれど。
細めた眼を前庭にやった。
枯れかけていた植栽も雨に濡れ、生き返ったように陰影を濃くする。
――助かった。これで、生き返ったよ。
植物たちの声が聞こえてきそうである。
生きとし生けるものの喜びの歌。
実朝はそれを書きとめようと、侍女に筆を用意させた。文机に向かい、しかし、すぐにその手をとめた。もっと大切なことに思い至ったからだ。
実朝は傍らの阿波の局へ、
「病気のときはよく看病してくれたね。しかも付きっ切りで。それこそ、叔母上にまで病気をうつしてしまったら、大変なところだったよ。ありがとう」と礼を述べる。
それから筆を持ち直して、
「母上と御台に文を書こうと思うんだ」
この数カ月、どれほど心配をかけただろう。母と妻の心に少しでも報いたかった。
十月、尼御台は伊勢の熊野権現への参拝に出発した。
宿願(個人的な望み)として我が子の健康を祈念するためだ。
今年五月、上皇が熊野へ御幸される際、鎌倉から名馬や旅の調度を献じた。御台所の兄、坊門忠信も上皇に供奉するため、信子も自分の侍を供人として送った。この侍は帰倉後、熊野権現の霊験あらたかなことを女主人へ報告し、これを信子から伝えられた尼御台は、ぜひにと思い立ったのである。
熊野は古来より神仏習合の霊場で、浄不浄を問わず、女人や非人の参詣を拒ばなかった。この強大な寺社勢力は現世の聖俗を超越し、前別当には頼朝の叔母が嫁いでおり、かの源平合戦では紀伊半島の水軍を統べ、源氏方として屋島や壇ノ浦で大きな役割を果たした。
――これも、何かの御縁よね。
熊野の三柱の祭神のうち、熊野速玉大神は薬師如来の化身とされている。
今年は実朝が疱瘡を患い、何度も寝付いた。今はすっかり元気になっているが、いつまた体を壊すかわからない。しかも、実朝はたった一人生き残った我が子だ。
――それにしても、なぜ私たちの子は、皆、病弱なのか。
長男の頼家も何度か大病に遇い、娘二人は二十歳を迎えずに逝った。
自分は子どものころから頑健で、五十歳を過ぎても病気知らずである。夫も五十三歳まで生き、晩年むし歯に悩まされたくらいで、まず天寿を全うしたといえる。
ただ、夫の兄弟たちは源氏の内訌によって殺しに殺され、自分の妹二人も嫁ぎ先で早逝していた。
まるで自分たち夫婦の強運と引き換えのように。
――何かの祟りとは思いたくないけれど。
夫は平氏や奥州藤原氏を討伐し、実家の北条も幕府内で多くの氏族を蹴落としてきた。
彼女は自分が今ある場所へ辿りつくまでに、いくつもの屍を踏み越えてきたことを自覚している。
それに――
実朝は特別だった。
長男の頼家は幕府の草創期、右も左もわからぬうち、夫の乳母だった比企尼の一族に取り上げられ、愛情を十分に注げず、お腹を痛めた母としての後悔と未練があった。
けれど、当時の父は、
「せっかく、将軍家の外戚となったのに、これでは次代での地位が危ぶまれる」
何としてでも男児の二人目を欲しがった。尼御台が次の出産で女児を生むとひどく落胆し、数年後に実朝を妊娠したとき、鶴岡八幡宮へ男児誕生を祈り、お腹の子が女児であったときのことを考え、変成男子の法を修した。
この法は平相国も中宮の懐妊の際に用いたと聞いていたので、気が進まなかった。
そもそも、変成男子とは、五障の身ゆえ成仏のかなわぬ女性の体を男身に変えること。法華経にある八歳にして悟りを開いた竜王の娘が、衆目の前で男子に変じて成仏し、妙法を説いたことに由来する。
本来、仏の功徳や本人の修行によって得られる奇特を、一族の繁栄のためにと修験者へ金品を積んで祈らせるなど許されることだろうか。あまつさえ、その男児を天皇にした平家は、数年のうちに滅びたではないか。
しかし、父は平相国と同じことを強いた。
数年前、下野の足利へ嫁いだ妹が妊娠した際にも、父はこの法を試していた。生まれた子は男児だったため、すでに庶腹から生まれた長男を押しのけて嫡子とさせている。
これに味をしめたのか、
「何も案ずることはない。私にまかしておくがよい」
そう約束した父に何の根拠があったろう。
自分は気乗りせぬまま承諾したが、それを今もって後悔している。
足利の妹は早くに亡くなったが、甥はすくすくと育ち、無事、成人した。けれど、妹の死には恐ろしい噂がつきまとった。
後継ぎを出産後、夫の留守中に再び妊娠した妹は、帰郷した義兼に不貞を疑われ、身の潔白を証明するため自害した。義兼が膨らんだ妻の腹を割いてみると、大量の蛭子がうじゃうじゃと這い出た。彼の妾が正妻を陥れるために妖術をつかったことが暴かれ、義兼は怒りのあまり妾を八つ裂きにした――この噂を聞かされた尼御台は激しく怒った。妹はごくありふれた病で死んだものを、それを、
――おもしろおかしく話をつくられ……
しかし、冷静になって考えてみれば、この噂は奇妙に符合がそろった。
異常な出産、人智を超えた力、そして、蛭子。
蛭子は古代の神話にあるように、イザナギとイザナミが交媾をあやまったために生まれた畸形児だ。おそらく北条が変成男子の法を修したことをどこかで聞き知った者が噂を流したのだ。我らへの悪意に事実を反映させて。
尼御台は、実朝の秘密を決して外へもらすまいと心に決めた。足利の妹のように、我が子をうす汚い噂で穢れさせてはならない。幸い、阿波の局を始めとする乳母や女房たちは北条の近親者で固めており、皆、口が堅く、信頼できる。
ただ、今案じるのは実朝の体のことである。そのために、熊野へ出立したのだ。
鎌倉ではならぬかと。
鶴岡八幡宮を始めとする鎌倉の神社仏閣は、幕府の繁栄と源氏の祖先を供養するために建立されたものだ。北条の過ちを過去に遡って正してほしい、我が子を本来の健やかな体に戻してほしい、そう願うのは、僭越のような気がした。実朝が源氏将軍であることを考えたとしても。いや、考えればなおのこと。けれど、そんな尼御台にあっても、我が子の本来とは何か、北条の過ちをどこまで遡ればよいのか、定かではなかった。
十二月、母が沙汰した鶴岡八幡宮の神宮寺が完成した。実朝は明日の開眼供養を前に、内習いのため宮寺へ訪れた。八月の放生会は体調不良を理由に参拝を控えていたので、久々の将軍出御となる。安置されたばかりの薬師像を拝観し、実朝は静かに祈りを捧げた。
薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主にして、衆生の病苦、不具を取りのぞく医薬の仏として崇められていた。家臣らは、主君の礼拝を開眼前にと不思議がったが、明日の法要では世の安寧を祈ることになっている。今日の祈りはごく私のものが含まれる。
――旅先の母上が無事に帰国できますように。
自分も母も鎌倉の主人、女主人、そして鶴岡八幡宮は鎌倉の守護神である。何の問題もない。が、これにこっそり付け加える。
――私の顔の瘢痕が目立たなくなりますように。
心身ともに回復したといえ、己れの容貌への未練はまた別である。私中の私と自覚しながら、神仏へすがりたい心を押さえることはできなかった。
最後に、もう一人の鎌倉の女主人、妻信子の祥福を祈って、その日の参拝を終えた。
数日後、尼御台が鎌倉に帰り着くと、実朝夫婦が仲良く出迎えた。
互いに元気な姿をみとめ、喜び合う家族であったが、
――これで、この夫婦に子どもが恵まれれば申し分ないのだけど……
子宝祈願などさらに僭越と、熊野に祈念しそびれた尼御台であった。