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第一節 策士眈々 女将軍

 歴史上の源実朝は真性ホモセクシャルです。学校の先生は教えてくれませんが。(日本の歴史上の人物では別にめずらしくもないせい?)

 とはいえ、筆者にとってそれをそのまま描くには抵抗があったので、「実朝の女性疑惑」から、この物語は始まります。

 はたして、実朝は男なのか女なのか、義時とともに推理していってください。

 千幡が加冠を終え、京の上皇(後鳥羽院)から頂戴した(いみな)『実朝』を名乗り始めたころである。

 鎌倉の御家人たちは、

「正直、北条殿には千幡君がおられ、しかも男児で良かったな。どうにか外戚の地位を守ることができたのだから」

「いや、それどころか、幕府で比肩する者はおらぬようになったではないか」

 北条一族が新将軍の後ろ盾として、幕府の中枢を占めるようになった事実に、

「千幡君がいたからこそ、であろう」

 彼らはしたり顔でうなずく。


 源頼朝と北条氏の妻の間には、他に娘が二人いたが、いずれも早逝している。

 実際、正妻腹の弟がいなければ、伊豆に隠棲させられた頼家が、翌年、当地で謎の死を遂げることはなかっただろう。もとより、比企氏の娘が生んだ彼の嫡男一(いち)(まん)と張り合い、北条が戦いを仕掛けることはなかっただろう。

「せめて千幡君が男でなければ」

 頼家と比企氏への同情が変じたのか、やがて鎌倉には奇妙な噂が流れた。

「実のところ、将軍家は女だ」

「北条の画策で、本当は女児だった末っ子を男児としたのだ」

 そうして人々が改めて実朝に注目すると、(くだん)の噂が奇妙でも何でもないことに気づく。己れらが戴く将軍家は、誰が見ても少女にしか見えぬ少年であったから。


 幕府執権の北条義時は、甥にまつわる噂に飽き飽きしていた。

 下野(栃木県)の足利義兼に嫁いだ次姉が、第一子に男児を生んだ際にも、

「北条は己らの血をひく後継者が欲しいばっかりに変成(へんじょう)男子(なんし)の法をつかった」

 と、いいように噂されたが、

――北条(われら)はいったいどんな一族だと思われてるんだ。

 御家人らの根拠のない噂は、北条が父の代で突如躍進したことへの嫉妬が多分にある。無名の土豪だったくせに、将軍家の外戚というだけで幕府内で大きな顔をすると。

 父時政の器量は文治元年(一一八五)の義経(よしつね)追討の際、朝廷との折衝に遺憾なく発揮された。以来、当時の法皇(故後白河院)でさえ一目おいたものを、むしろ関東者のほうが彼を疎ましがった。

「北条殿は顔がよくて得をしたな」

 男女を問わず美形好きだった法皇から気に入られたことをあてこする。

 器量違いもいいところだ。

 木曽義仲でも源義経でもなく、頼朝公が頼朝公たりえたのは、時政という舅がいたからこそだろうに。

 もっとも、この手の噂は北条に限ったことではない。

 源氏が壇ノ浦に沈めた安徳天皇も実は女児であったとか、成り上がりの平清盛が、入内(じゅだい)させた娘の懐妊に同じく変成男子の法を修したとか。

 それゆえ、天皇ご自身も、

「自然の(ことわり)を捻じ曲げたため、ご成長のうちに徐々に女体にもどってしまわれた」

「いや、もともと女児として生まれたものを平相国(清盛)が周囲を騙して男児として育てたのだ」

 などと噂された。

 しかし、それはただの噂とも言えなかった。

 源平合戦後、幕府方から取り調べを受けた天皇の近侍たちは、

「肩まで伸びた御髪(おぐし)がゆらゆらとして、まるで女童のような」、

「白い額や気品あるお顔は、むしろ女児の風情で」

 と、入水前の幼君について証言している。

 天の理を自分たちに都合良くつくりかえようとした平家は、天罰のように間もなく滅亡した。

 もし父時政が、義時のあずかり知らぬところで彼らと同じことをしていたなら、己れも道連れとなって天罰を喰らうのであろうか。


「――将軍家は女だ」

 侍所前の廊で、御家人たちの話し声を耳にした義時は歩みを止めた。

「何しろ、武芸にいっさい興味を持たないし」

「女房たちと絵合わせや和歌づくりばっかりやっている」

「男の近習(きんじゅ)だって、歌などつくるなよなよした奴ばっかりじゃないか」

 御家人らが主君の悪口を言い合っていると知り、このまま侍所に入ろうか迷った。

 しかし、

「将軍家は今年十六歳(じゅうろく)になるってのに、御台所(みだいどころ)に何もしていないじゃないか」

「奥手なんだよ。それに御台所だって十五歳(満十三歳)なら、まだ女にもなっていないかも」

「いやいや、御台所ばかりじゃない。御所女房のなかで手を出された女がいるか」

 話題が主君の寝所内のことに及び、義時はさすがにまずいと思った。

 実朝が将軍の位に就いたころ、少女のように可愛らしいとは、まぁ、褒め言葉のうちであった。武士の棟梁として相応しからずも、

「今はまだ女児(おなご)のようではありますが、数年も経てば、父君や兄君に似た美丈夫に――」

と、誰もが大目に見ていた。

 けれど、将軍家は男らしくなるどころか、年を経るごとに肌の色は白さを増し、濃い睫毛が縁取る瞳は陰影を深め、体つきは背が伸びれば伸びたた分だけ、ほっそりとたおやかになっていくのである。頬の産毛も柔らなままで、声変わりもない。

――もともとが、病弱のせいか。

 いや、義時でさえ、ふと見る甥のうなじに妙な色香を感じてしまい、

――やはりあの噂は本当なのか。

 と、疑っているくらいなのである。

「だいたい、あんなきれいな男がいるか」

「女のなかにだって、あれほどの美人はなかなかいないぞ」

「じゃ、本当に女だったら、どうする?」

「それは、やっぱり……」

 義時は心ならずも、咳払いをして侍所へ顔を出した。幕府の最高権力者たる執権殿に悪口(あっこう)を聞かれたと、慌てて口を噤んだ(やから)は、やはり実朝の寝所番であった。

「どこで誰が聞いているかわからぬ。仲間内だけだと思って油断するな」

 顔を伏せる若者たちは、夜の将軍警固を任されるだけあって、皆弓馬の名人――だからこそ、己れの武勇が評価されにくい昨今、主君への不満を口にしていたのである。

「将軍家は女だ」とは、「むしろ女であれば許せるが、なぜあんななよなよした男が我らの主君なのだ」という彼らの不満の裏返しだ。

 義時は、このまま入室するのも気まずくなると思い、くるりと(きびす)を返した。

 去り際、

「俺もそう思う」

 無表情で言って、彼らの反応も見ず侍所を後にした。

――一つ、二つ、三つ。

 歩を数える彼の背中に、若者たちの笑い声が弾けた。


 甥の実体が男であるのか、女であるのか、確認するすべのない義時である。

 ただ確実に言えるのは、

――将軍家の心は女だ。

 昨年の暮れ、千葉一族は(とうの)平太重胤という実朝の近習(きんじゅ)が、義時の邸に訪れた。

 この男は歌の上手で実朝の一番のお気に入りだったが、半年前、暇をとって故郷の下総(千葉県北部)に帰ったまま、数ヶ月経っても鎌倉へ戻らなかった。

 重胤とは十五歳違い、ふだん父のように兄のように慕っていた実朝は、寂しがって歌を詠み、帰倉を促した。だのに、重胤はすぐには帰らず、田舎で遊び呆けて遅参したのだ。

「なんで、呼んだときにすぐ来なかったの。どうして、今ごろになって来たの!」

 実朝はかん高い声で彼を叱りつけた。

 可愛さあまって憎さ百倍。

 実朝は自分を蔑ろにしたと怒り、重胤は謹慎するはめになる。

 以来一月以上が経ったが、将軍家の許しはない。

「相州殿(義時)、どうにかしてください」

 義時は、重胤に泣きつかれて、へきえきした。

――何だか、男女の色恋のもつれに巻き込まれたような。

 少年将軍になつかれる重胤は、源平合戦を知らぬ世代で、つるっとした肌を持つ男だ。

――御所はこういう男がお好みなのか。

 けれど、重胤からは、そのような気配は全く伝わってはこない。

――とすると、御所の完全な片思いか。

 それどころか、帰倉の催促に遅れるなど、主君としてもなめられているのである。

 義時は甥を不憫に思うしかない。

 重胤は主君の不当を訴え、

「ふだんは穏やかでやさしい方なのに、時々、かんしゃくを起こすんですよ」などと言いつける。

 義時は姉一家を思い出し、

――あの母の子にして、あの父の子にして、あの兄の弟だからな。

 と、納得するが、

――どうせ、この男も将軍家の一番のお気に入りとかで、慢心があったのだろう。自業自得だ。

 すっかり面倒くさくなった。

 しかし、

「お願いします。相州殿だけが頼りなんです」

 必死ですがる彼の瞳に、自分の若いころが思い出された。

――まったく、将軍家からの催促に遅れる、この男も男だ。田舎によっぽど()い女がいたんだろう。

 重胤は三十歳。いい大人が付きっきりで少年の相手をするに、時には休息も必要だ――そう思えば同情することもできた。

「まぁ、宮仕えに理不尽はつきものゆえ、将軍家相手では、これも勤めと思ってこらえねばな」

 義時は年長者らしく諭し、

「御所のことだから反省の意を込めた歌でも詠んでしばらくすれば、ご機嫌も治るだろ」

 そう言って、筆を勧めた。「俺が渡してやるから、少しは安心しろ」

 義時に励まされた重胤はその場ですらすらと一首詠み、彼に渡した。故郷の雪景色を詠んだものらしいが、歌心のない義時には、さっぱり意味がわからない。

「ほう、下総ではもう雪が降っているのだな」と感心して見せるが、

「いえ、真白な雪のように私の忠誠心に汚れはありません、という意味です」

 言わでもいいことを言われ、義時は内心苦虫を噛みつぶす。

 取りあえず、一緒に大倉の御所へ参じ、門の外に重胤を待たせた。

 ちょうど実朝は南面(南庭に面した謁見の間)に出ていたので、彼の歌を披露し、

「平太もたいへん反省しているようです。何とぞ、お許しくださいますよう」と、進言する。

 甥の将軍家は、

「ふうん」と、不機嫌そうにみせつつ、今日も今日とて愛くるしい。

 長い睫毛をぱちぱちと瞬かせながら、気乗りしなようすで渡された歌を二度三度口ずさんだ。が、その口調の弾み具合で、ご機嫌の復調が感じとれる。

――本当はもう、心の中では許しているんだろ。自分の面目のために放置したけど、もっと早くにきっかけが欲しかったんだろ。

 義時は、ぐずぐずと女みたいに煮え切らぬ甥の面目を施すよう、

「東平太は将軍家にお会いできずに寂しい思いをしております。どうぞ、これをきっかけにお召しになりませんか」と取り成す。

 実朝は手元の扇をいじくりながら、

「平太が本当に寂しいって言ったの? 疑わしいけどね。でも相州がそこまで言うのなら」と、渋々のようにうなずいた。

 義時はさっそく近侍に重胤を呼ばせた。門の前でうろうろしていた彼は、大急ぎで南庭にやってきた。

 このころには実朝の機嫌もすっかり良くなり、

「下総はどうだったの」

 古里の冬枯れ、雪の朝、鷹狩りのようすを聞き、重胤もこれに丁寧に答える。

 義時も半刻ほど雑談に付き合って退出したが、後から重胤が追いかけて()

「相州殿のおかげで御所からお許しを得ることができました。このご恩は一生忘れません」ぺこぺこと頭を下げて、礼を述べる。

「もういいから。気にするな」と義時は片手を上げて制し、御所を出た。

――これで、面倒見のいい男と、噂が立ったら嫌だな。

 彼は面倒くさがりの面倒見ぃであった。  


 初代将軍源頼朝が幕府を開いた鎌倉は、相模国(神奈川県)の南東に位置し、由比ヶ浜を南に、残る三方を丘陵に囲まれた天然の要害だった。頼朝の曽祖父八幡(はちまん)太郎(たろう)義家ゆかりの地は武家の都にふさわしき一方、街並みは京の都を模し、南北を貫く若宮大路を中心に大路小路が経緯(たてよこ)に伸びる。若宮大路の突き当たりには鶴岡八幡宮が鎮座し、その東には、幕府の中心施設となる大倉御所や政所、周辺には義時を始めとする有力御家人の邸が並び、その南には一般の侍の家々、さらに海岸に向かって庶民の街が形成されていた。


 鎌倉が武家の中心地となって三十年近く、人間の男であれば心身ともに成熟した壮年期にあたる。しかし、この街の主人(あるじ)におわす今将軍は壮年でも成熟でもなく、ややもすれば御家人どもからなめられた。もっとも、当の実朝から見た彼らとて、壮年のくせに成熟していない輩ばっかりだった。


 承元元年(一二○七)、八月十五日、鶴岡八幡宮では、鎌倉の一大行事である放生会が行われようとしていた――が、その直前、連中はやらかした。

 この日は朝から小雨が降っていたものの、至要な神事にあって延期されることは許されない。しかし、実朝がすでに支度を終え、参拝に向かうという段になっても、隋兵役の御家人数名が触りを申し立てて現れなかったのだ。

 おおかた、

「こんな雨の日に参拝なんて面倒だな」

「毎年同じことをやって何が楽しいやら」

「功徳を積むとか言って、わざわざ捕まえてきた鳥をまた放すなんてバカげてる」

 連中は隙を見せれば、すぐに怠ける。

 おかげで実朝は、代わりの者が来るまで数刻のあいだ待ちぼうけを喰らわされた。

 鶴岡の神事は毎年滞りなくことに意味がある。鎌倉の主人は誰かと見せつけるに。

――これでは逆馬(さかうま)もいいところだ。


 放生会への出御は、実朝が将軍位に就いて以来、代替わり直後の混乱、兄の服喪、自身の体調不良と取りやめが続いていた。それが、昨年ようやく将軍家御出と相なり、今年も幸いにして支障なく参拝の、はずだった。

――なのに、どうして!

 実朝はかんしゃくをおこしそうになるのを必死でこらえ、

「今後は諸役配当の交名(きょうみょう)(名簿)に従って、しかるべき采配を振るいなさい。もう二度と間違いがあってはならないよ」と、側近の二階堂に命じなければならなかった。

――まったく、何でこんな当たり前のこと、わざわざ言わせるの。


 行列がようやく出発したのは申の刻(午後四時ごろ)、舞楽は夜に入り、松明を焚いて敢行された。雨も上がった満月の下、舞人たちが篝り火に照らされながら踊るさまは夢幻のように美しかったが、実朝は終わりを待たずに御所へと帰った。


 後日、実朝は先の怠慢(たいまん)武将らを大倉へ呼び出し、義時や同じく政所別当(長官)の中原広元らと事情聴取を行った。

 だが、連中は反省の色を見せるどころか、欠勤の理由に、

「おばあちゃんが死んじゃったんです」

「急にお腹が痛くなったんです」

 などと、子どもでも思いつきそうな言い訳を口にした。


 しかも、皆が皆、芸のない言い訳をするものだから、最後のほうに残った御家人のネタは尽き、吾妻四郎助光という御家人は思い余って、

「鎧をネズミにかじられちゃって、着るものがなかったんです。せっかく晴れの日に用意したのに」

 苦しい彼の言い訳に、一同は「いくら何でも」と呆れかえった。


 実朝も怒るのを通り越して、

「吾妻四郎。そなたは自分がどれほどの罪を犯したことか、わかってないようだね。いい? まず、参拝の隋兵をなまけたこと、軽薄にも儀式のためだけに新品の鎧を用意したこと、先祖代々の鎧を軽んじたこと、武具の管理を怠ったこと――」と一つひとつ指折りながら、

「いったい、いくつか数えてみた? 私がせっかくそなたを隋兵に選んだのに、四郎は私に恥をかかせたんだよ。そもそも隋兵の役は行粧を飾るべきものではないでしょ。そなたは武士の本質を忘れてるよ」

 主君らしくたしなめたが、これをかたわらで聞いていた義時は、

――武士の本質を忘れてるって、どの口が言うんだよ。

 こっそり実朝にも呆れた。


 結局、助光は以降の出仕を停止させられる。主君をなめたらどうなるか、規律を緩めればすぐに付け上がる御家人どもへ、いわば見せしめである。

 そうして今回も、義時は助光に泣きつかれるのだ。

「そんなに私が悪いんですか」

「いや、いくら何でも、あの言い訳はひどすぎた」

「だって、みんなが先に私の考えた言い訳を言ってしまうから、他に思いつかなくって」

「自業自得じゃないか」

 邸に押しかけて来た助光を、義時は突き放そうとした。

 けれど、彼は涙ながらに、

「お願いです。相州殿、将軍家に取りなしてください」

 少し考えれば、こうなることは予想できたはずだのに、(のう)()りんの武士にほとほとうんざりする。しかし、泣きつかれればこちらとて何かせずにはおられぬ。

「わかった、わかった。折を見て御所にとりなしてやるから、今日のところは帰れ」

「本当ですか。相州殿は何てやさしい方だ」

 涙をうれし涙に変る助光だった。


 彼が帰ったあと、義時は思案に暮れた。

 やつは重胤とちがい、武芸一辺倒で気の効いた歌など詠めぬ。正月の八幡宮の弓始めには、射手として選ばれるほどであるが、肝心の将軍家が弓馬の道に興味がないと来ている。

――さて、どうしたものか。

 面倒なことを引き受けてしまったと内心ぼやく義時である。

 

 彼が手をこまねいているうちに、その年も十二月となった。

 曇天から白いものがちらつく大倉の御所では、御家人たちが実朝に近侍しながら、

「寒い、寒い」

「何か、あったまるものありませんか」

 と言って、将軍家を囲み、酒宴となった。

 ちょうど義時も伺候していた折で相伴に預かるが、

――昼間からのん気なものだ。

 と、つくづく思う。

 寝殿から外の景色を眺めると、よく手入れされた前庭が広がっている。

 雪雲に()を遮られ、墨絵のように色味を失いかけた世界。

 そこへ突然、青鷺が舞い降りた。

 人々が驚くなか、鷺はすぐに飛び立った――と思えば、寝殿の屋根にとまったようだ、頭上から鳴き声が聞こえる。皆、珍しがってぞろぞろと庭先に出て屋上の鷺を見あげた。

 将軍家が真っ先に、

「きれいな鷺だね。誰か捕まえられる?」と一同に訪ねた。

 義時は、

「網を投げるという手がありますが、ここからだと届かないでしょう。かと言って弓だと射殺してしまいます」

「殺してしまうのはかわいそうだよ」

「弓の名手であれば、殺さずに羽だけ射抜いて、捕えることができるでしょうが」

 弓の名手といえば近習の結城朝光である。義時がそばにいた彼に目をやると、しかし、結城は、

「申し訳ありません。ちょうど指を痛めまして」と、頭を下げる。

 そこで、

「吾妻四郎を呼びましょう。(せん)に御所の御不興を買った輩ですが、鷺を生きて捕えるなど、あの男にしかできません。やつは御所のお許しをえるため、いつも門のあたりをうろちょろしています。すぐに呼んできましょう」

 義時はここぞとばかり、助光を推した。

「吾妻四郎か……」実朝は少し思い悩むようであったが、

「わかった。もしも生きて捕えることができたら出仕を許すことにしよう」

――よし、きた!

 自分の思惑通りの流れに、義時は心のなかでほくそ笑む。先ほど結城へ目配せして辞退させたのも良かった。青鷺の登場こそ偶然だが、

――吾妻、この機をものにしろよ。

 義時は心のなかで祈った。

 屋上の青鷺は、人間たちの思惑など知らぬげに毛づくろいをはじめる。


 実朝の使いに呼ばれた助光は、すぐさま主君のもとへ参じた。

「不肖の身に此度の大任をお授けくださいまして、きょうえ……」

 と、言いかけるのを、

「し! 大きな声ださないで。鷺が逃げるよ」

 実朝は口唇に人差し指をあてながら、小声で叱責した。

 義時は、そんな甥のしぐさに、

――こういうのが、いちいち女くさいんだよな。

 少し腹立たしくなった。

――しかも自分に似合っていると自覚している。でなけりゃ、こんなかわゆらしい仕草ができるものか。

 だいたい、御所の取り巻きたちがわるいのだ。

 実朝の歌仲間の御家人、京下りの女房などは、主君が美人だというだけでちやほやし、男でも女でもない透明な美しさを月の光などに例えて誉めそやすのである。

 そのせいで、義時がやんわり武芸の鍛錬を勧めても、甥は全く聞きやしない。

「武家の棟梁なら太陽の下で運動しろ、筋肉をつけろ」とずばり言えたらどんなにいいか――


 さて、助光である。

「それでは」と目礼すると、用意の弓矢をかまえ、(きざはし)の下から屋上の鷺を狙った。

 人々が息をつめて見守るなか、彼の弓からひゅっと飛び立った矢は、鷺の体をかすめて彼方へと去った。

「あぁーあ」人々は落胆の声をあげた。

 けれど、鷺はぐらりと体を傾けると、力なく翼をはばたかせながら、瓦の上をすべった。ばさりと地面に落ち、起き上がろうとするが、それに助光が素早く駆け寄った。彼は難なく鷺を捕まえ、周囲から、

「おぉっ」

「やったな」

 人々の喝采を受けながら、将軍家へ進呈した。

 実朝が鷺を見ると、左目から少し血が出ていた。

「大丈夫? 目を痛めていない?」

「眼ではなくて、瞼のほうですね。大丈夫です。しばらくすれば、見えるようになります」

 助光は得意満面である。

「最初から鳥の体に当てようと思っていません。矢羽根を鳥の目に当てて驚かせ、生け捕りにしようと思っていました。いやぁ、狙いどおりでしたよ」

 彼の弓の腕に、近習たちも感心し、

「本当に、この役は吾妻四郎にぴったりでしたな」

「ちょうど御所の近くにいて良かった」

 辞退した結城も「私ではあぁはうまくいかなかったでしょう」と同僚を称える。彼は謙遜のできる男だ。

 将軍家も「よくやったね」と美しい青鷺を得て、ご満悦である。

 助光は得意になって、鷹の矢羽根の自慢話を始めた。


――いい気なもんだ。こっちは冷や冷やしたぞ。

 義時は胸をなでおろす思いである。

 助光は出仕をゆるされた上に御剣を下賜された。また、この一件は将軍家が歌や絵合せばかりでなく、武勇の者もきちんと評価できることを御家人たちに知らしめ、実朝を軟弱だと陰口を叩いていた輩へも、主君を見直させる良いきっかけとなった。

――御所には、俺のことも褒めてほしいくらいだ。

 内心ぼやく義時だが、御家人らは、そんな彼を『とりなし上手の相州殿』と評判した。

「相州殿は将軍家の叔父上だけあって、立派な方だ」

「よし、俺も何かあったら、相州に頼もっと」

 彼の人望は高まり、

――何だか、面倒なことになったぞ。 

 と思いながら、まんざらでもない義時だった。



 どこかまだあどけなさを残す将軍の甥と、そんな主君を裏から支える執権の叔父―――

 二人の関係は、今のところ良好だ。

 けれど、義時には、いずれねんね(・・・)の甥が性に目覚め、己れを翻弄する将来を予測しえた。

 京の朝廷や仙洞(上皇の御所)ほどではなかろうが、この鎌倉でも、主君の性が幕府を揺さぶり支えるという矛盾を、頼朝と頼家、二代の将軍に仕えた彼は存知していた。

 とはいえ、

――御所のその(・・)相手が、男だか女だかは、俺だって予測できんな。

 そもそも実朝には信子という幼な妻がいるのだが……


 将軍家が御台所(正妻)を迎えたのは三年前にさかのぼる。兄頼家の逝去から間もなくのころ、御家人たちは少年君主を武家の棟梁としてもの足りなく思い、

「御家督のこともありますゆえ、そろそろ将軍家のご嫁娶(かしゅ)についてお考えを伺わせて頂こうか」

 当時の執権にして外祖父たる時政に迫った。

「とんでもない。将軍家はまだ十三歳(満十二歳)ではないか」

 時政は柄にもなく慌てたが、

「何をおっしゃる、執権殿。源家の将来を考えれば、早過ぎることはありませんな」

(さきの)将軍家であれば、来年くらいに妻妾をおいたではありませんか」

 父のかたわらで彼らの言い分を聞いていた義時は「あれは比企氏の横暴だ」と思ったものの、それを言えばやぶ蛇になるので口をつぐんでいた。外戚としての優位が、どれほど妬みの対象となるか身に沁みていたから。

 これに時政は、

「いやいや、恐れ多くも将軍家はまだまだご幼稚ゆえ、娘の尼御台(実朝の母)もご嫁娶はもっと先にしたいと望んでおる。私としても、それに同意するところで」

「そう言いながら、抜け駆けなどなさいませぬよな」

「抜け駆けなどと、人聞きの悪い。はははは……」

 笑って流そうとする父の横顔が少し引きつっていた。

 この後の時政の行動は素早かった。孫の嫁取りにすぐさま動き、

「どこぞの御家人が御所の寝所に娘を送り込む前に、北条(われら)から御台所を出さねば」

 と、息まいた。

 かつて比企氏は頼家の外戚となるべく、年端もいかぬ長女が月のものを迎えると、早々に頼家の寝所へ忍びこませた。当時は比企氏の醜い執念を呆れもしたが、今、父自身が何かに追い立てられるような執念で、北条の縁者から御台所候補を求めた。

 時政が狙いをつけたのは、亡き娘の嫁ぎ先、下野の名門足利義兼の娘で、実朝とは従兄妹同士にあたる。けれど、これを伝えられた尼御台やその妹は、

「いいお話ではありますが、いくらなんでも早過ぎます」

「御所のご成長をしばらく見守ってからでも」

 すぐに反対の声を上げたが、時政に容易く退けられた。

 当の実朝は自身の嫁娶について一切関知することなく――


 幕府執権の独断は他の御家人から猛反発を受けた。

「あれほど、抜け駆け無用と申したのに!」

「北条は源氏の血を己れの血で薄める気か!」

「御堂関白の真似ごとか!」

 二百年ほど前、御堂関白こと藤原道長は、娘らを三代の天皇へ入れ、朝廷の実権を握り栄華を極めた。先に倒した平家の総帥平清盛も、彼に倣って娘を天皇の后にし、一族の繁栄の(いしずえ)とした。ゆえに、源氏累代の家臣がそのような反応を見せても無理はなかった。

 しかし、そんな彼らも、

「では、将軍家の御台所はどこから出すか」となると、互いに牽制し合い、

「将軍家の御台所となれば人品、家柄、容姿、いずれも欠けては困るからな」

「御所のご意向もいかがいたす。故殿(頼朝公)もご自身でお選びになられたではないか」

「だが、それはまだ伊豆におられたころのこと。将軍家の縁談となれば――」

 さまざまな意見が議論されるが、上滑りも(はなは)だしい。

 何しろ、誰もが、

「我が家には将軍家と頃合いの娘がおりまして」と言いたいのをこらえているのである。

 しかし、それを言ってしまえば将軍家外戚への野心を知られるため、皆、用心しているのだ。坂東武者の習性である「言いたいことを言う」ことができず、彼らの鬱屈はたまる。


 そこで、またも時政の登場である。

「御台所は坂東の武家から選ばず、京都の公家の息女のなかから選ぼう」と、妥協の道を示すのだ。

「将軍家は京の姫君をお望みである」とつけ加えながら。

 もちろん、これは時政の方便であり、御家人たちもお見通しだった。けれど、皆、比企氏で懲りていた。将軍家の舅、外祖父という似た者同士でいがみ合い、武力による衝突をおこすなど二度とご免だった。己れが将軍家外戚となる夢は(つい)えるが、他の御家人にその座を譲ることもない。

 京の姫君ならばと、幕府の宿老らもしぶしぶ許す。


 しかし、蓋を開けてみて驚いた。お相手は上皇の叔父にあたる(さきの)大納言、坊門信清の息女というたいそうなお姫さまであった。さらに信清は娘二人を上皇の後宮に入れていたため、恐れ多いことに我らの御所は上皇と相婿になるのだ。

 (せん)の足利の娘とは比べものにならず、

「関東にとって、これほどの良縁なかろう」

 時政は得意げに言ったが、御家人たちは殺気立った。


 坊門家といえば、時政が後妻牧の方との間にできた娘を嫁がせており、花嫁は時政の娘婿の妹にあたるのだ。坊門家と北条の娘同士の交換、両家は二重の姻戚として結びつこうとしているのである。

「どちらにしろ、北条の縁者ではないか」

 してやられた御家人たちは悔しがったが、相手が京都の名門、天皇の縁戚たれば、手の出しようもない。

「ずるいぞ、北条!」

 彼らは地団太を踏む他なかった。


 御家人らの時政に対する悪口は義時の耳にも届いた。当然、義時の彼らへの振る舞いもぎこちないものとなったが、ただそれは、

「私も北条出身とはいえ、今回の将軍家のご嫁娶については……」

 父親の行いに戸惑いを見せるような素振りである。

 御家人たちは、この縁談に彼が全く関わっていなかったこと、むしろ父の後妻に口入れを許したことに思い至る。


 足利の娘と坊門家の姫君、その精彩の違いは、時政の前妻腹と後妻腹の違いだった。

 生まれの遅い娘ほど嫁ぎ先の格が上がる。

 なぜか。

 それは時政の出世に連動したから。

 また、時政の出世は婿の頼朝の出世と連動したから。

 己れの長女が流人と結ばれ、流人の婿が武家の棟梁に担ぎあげられ、その覇権が朝廷にも及び、舅の彼も同時に引き上げられるという次第。時政の、そして牧の方の権力の根源は、前妻の娘に拠りながら、前妻の子どもたちをしのいだ。しかも、坊門家の姫君が身寄りのない関東へ嫁入りすれば、当然、牧の方が後見役となり、その権勢が尼御台すら超えることも予測できた。

「――……」

 御家人たちは北条氏内の動静を黙って見守ることに決めた。


 十月、坊門家の姫君をお迎えするため、幕府は、名門御家人のなかから、容儀(ようぎ)華麗(かれい)――見た目もお行儀も良い若者を選び、京へ上らせた。

 出立の前、彼らは御所へ挨拶に参じた。

 時政の末子政(まさ)(のり)を筆頭に、結城朝光、畠山重保、和田朝盛らが名を連ねたが、この容儀華麗という条件は、京出身の牧の方の口添えである。ふだんあまり仲の良くない尼御台も珍しく継母の意見に同意したそうだ。

 鎌倉の御家人たちも、

「なるほど、そのへんの猪武者などが迎えに行ったら、お姫さまが怖がって『東国などに行きたくない』なんて言われたら困るからな」と納得する。


 だが、そこには彼らの京への複雑な思いが見え隠れした。

「関東にも、洗練された美しい男がいるのだ」

「都人にあっと言わせたい」

 京への対抗心と、その裏には京風の価値観の浸透があった。

 年長の引率役の結城は別格として、兵乱が一段落した平和の世では若者の見た目も変るらしい。親世代の無骨な気風は抜かれ、肌はなめらかで顔の造作も体つきも柔らかい。

 武勇よりも美意識が優先される傾向――

 将軍家に限らず、坂東武将の質の変化を、義時は覚えるのだった。

――坊門家の姫君が下向すれば、いっそうこの傾向が進むのであろうな。

 義時は己れの去就とも重ね合わせた。


 一方、大人たちの思惑も知らず、主君の実朝は、勢ぞろいした美男子から出立の挨拶を受け、ご満悦だった。南面で若武者たちを見送ったあと居室へ戻ると、乳母(めのと)の阿波の局がさっそく近寄ってくる。彼女は母尼御台の妹にして、父頼朝の異母(おと)(うと)阿野全成(ぜんじょう)の未亡人、その縁で実朝が生まれたときから仕えていた。

「いずれも素敵な若者ばかりでしたでしょう。御所は、どの殿御がお気に召して?」

 内緒話めいて耳元で囁き、それからいたずらっぽい目で見る。

 初心(うぶ)な親戚の子をからかう叔母そのものである。

「えっ、私はそんな目で見ていたわけじゃないから」

 実朝は思わず頬を染めた。というのも、少し気になる少年がいたからだ。年は同じくらいで色白いの、唇がやけに赤い女の子みたいな男の子だった。

――なんて、私が思うのも変かな。


 和田常盛の嫡男で三郎朝盛と名乗った少年は、じっと見返す大きな瞳が印象深く、ときおり繊細そうに伏し目がちになるのも、他の者とは違っていた。なぜか今まで、御所で会うことはなかったから、友だちになりたいと素朴に思っただけなのに。

「そんないじわる、どうして言うのかな」

「あら、変な意味で言ったのではありませんのよ」

 叔母の目はますます細まるのである。

 

 しかし、翌十一月十三日、京から突然の訃報が届く。

 去る五日、十六歳の北条政範が急死した。道中体調をくずしながら、行列が遅延することを恐れて無理をしたらしい。飛脚から報せを受けた政範の両親、時政夫婦は、これを容易に受け入れることはできなかった。

 数日後、政範の従者が帰着し、遺体は京都東山の麓に葬ったと知らされ、ようやく息子の死が現実のものとなる。

「そんな、あの子にもう二度と会えないなんて」

 牧の方にとって政範はたった一人の息子である。

 先月、容儀華麗の筆頭に選ばれ、誇らしげに出立していったばかりだのに。

「なぜ、具合のわるかったあの子を無理に連れて行ったの! 宿にでも留めておけばよかったものを」

 母は従者をなじった。「この役立たず!」

 罵声を投げつけられた従者は、

「若君は、お迎えの一行に迷惑をかけまいとして、我らの注進をお聞き入れくださいませんでした。せめて同行の方々がお気遣いくだされば、若君もご無理をなさらなかったはずです。これには武蔵前司殿もお怒りになられました」

 武蔵前司こと平賀朝雅は、在京の御家人にして夫婦の娘婿でもあった。

「何、前司殿が」

 朝雅は牧の方のお気に入りで、少し前に伊勢・伊賀の平氏を討伐した功により、京都守護の職を得ていた。彼の母は比企氏の出だが、氏族内の勢力争いにより、北条についた経緯があった。

「はい。前司殿が京に到着した一行をねぎらうために宴を開き、そこで若君の病気を知ったのです。若君をご心配のあまり前司殿が皆さまを責め、そこで畠山の六郎殿(重保)が返答をして口論となりました。周囲の方々がお止めになったのですが、その翌日、若君はお亡くなりになったのです」

「畠山の六郎……」

 時政は武蔵の名門畠山氏にも前妻の娘を嫁がせていたため、死んだ政範と畠山重保は叔父甥の間柄だ。

 政範の従者に誘導の意図があったかわからない。しかし、牧の方の怒りの矛先は、畠山重保に向かった。重保が継娘の子であるのも、我が子と年が近いのも腹立たしく、

「重保のほうが、死ねばよかったのよ」

 牧の方の悲嘆はねじれにねじれた。重保への恨みは日ごとに醸成され、この数カ月後、幕府重臣同士の血で血を洗う大殺戮へと発展するのである。


 翌十二月、東国武将の不和の種をつくった花嫁の一行は、何事もなかったように鎌倉へ到着した。

 坊門家の姫君は東下にあたって、京の人々から随分と憐れみを受けた。

 上皇の御従妹が野蛮な東国へ、蛮族の王に捧げられるのだと。

 鎌倉の首脳が選びに選んで送りだした若武者たちの容儀華麗など、都人の心情に少しの影響も与えなかった。


 けれど、将軍の御所へ迎えられた当の花嫁は、花婿の実朝を一目見て驚いた。

「よろしく、御台、これから末ながく仲良しでいようね」

 と笑いかけられ、思わず、ぽぉっと頬を染めた。我が(つま)は容儀華麗の若武者どころか、京の公達にもいないような美貌の少年だったから。

 将軍実朝十三歳、御台所信子十二歳。

 二人はまだまだ本当の夫婦となる年齢ではなく、周囲も期待してない。

 実朝が信子のもとへ訪れるときは絵合わせや貝合わせで遊び、夜の臥所をともにしても物語りやくすぐりっこをして笑い合い、やがて手を繋いで眠るという、仲の良い姉妹のような健やかさであった。


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