第四節 雪月花 夢の途中
本章で、この物語も終わりを迎えます。
実朝は公暁の凶刃に倒れますが、志なかばというより、むしろ人生の絶頂で幕をひくことがができた、しかも雪の社殿で星々と自分を慕う人たちに見守られながら、というシチュエーションは、実朝にとってこれ以上ない美しい最期だったのではないでしょうか。(あくまで、この物語のなかでは、ですが)
しかし、生き残った人々、義時を始めとする武将たちは突然に主君を奪われ、絶望のふちに立たされます。美しい夢のあとには、みにくい現実が横たわるばかりです。しかし、義時たちはそれを一つずつ克服していき、武士の世界を確立していきます。
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この物語はネット公開後も改稿が続けられ、筆者逡巡の末、ファンタジー要素を注入、歴史小説 → 歴史ファンタジー小説となってしまいました。読者が読み進めているうちに物語のジャンルが変わるという事態に、筆者としてはお詫びを申し上げるほかありません。冒頭・ラスト・中盤(海への納経後の……)にくっついたシーンは「歴史小説を読もう」と思っていた方に戸惑いを与えたかもしれません。申し訳ありませんでした。
建保七年(一二一九)正月、新年を迎えて二十八歳になった実朝は、一日からの一連の行事の合間に、母の尼御台のもとへ訪れていた。
母の住む大御所は女性が多く、正月ともあって皆、華やかに着飾り、目にもにぎやかだ。母も叔母も袈裟に凝った刺繍をほどこし、新年特有の晴れやかな気色をまとっている。
実朝の御前へ酒肴が次々と運ばれてくるが、行事としての新年の挨拶は一日に済ませている。今日は身内だけの席で、実朝はすっかり寛いでいた。
新春の宴は女性ばかりで、おしゃべりに花が咲く。御所女房の誰それが結婚するとか、御家人の彼それがこの春官位を得られそうだとか。
そんなか、正月らしく一人ひとりの年齢が話題にのぼった。
「お互い一歳ずつ年をとりましたね」と母が笑いかければ、
「姉上、それは言わないようにしましょうよ」と阿波が合いの手を入れる。
家族で一しきり笑いさざめいたあと、尼御台は実朝をしみじみと見ながら、
「あなたは私の子のなかで一番の親孝行をしてくれましたね」
と言った。
「どうしてですか。私は母上を悲しませてばかりいましたが」
実朝が不思議そうに聞き返すと、
「だって、私の子のなかで一番の長生きをしてくれているではありませんか」
母の笑みに実朝は言葉が詰まったが、それを見た阿波の尼がするりと話題を変えた。
「鶴岡の別当殿のことはお聞きおよびでしょうか、暮れに別当殿と会った侍が、伸びかけの髪をおかしく思ったそうですよ」
公暁は千日修行を始めてから一度も髪を剃っていないというから、実朝は若い甥の頭を想像して微笑んだ。
「確か、肩に届くくらいの長さになった、ということですよね」
参籠中でも甥の礼儀正しさは相変わらずで、実朝の昇進による八幡宮への拝賀が続くなか、将軍家の内習のたびに代参を寄越し、挨拶を欠かさない。
その際、彼の使者から本人のようすはいろいろ聞いていた。
日々、己れを高めようと修行に励む若者の姿は、想像する実朝の胸に好ましく映り、
――髪が伸びたついでに、そのまま還俗させて、私の家督にすることだって……
以前、公暁を鎌倉から追い出したころとは状況が変り、実朝も義時を始めとする幕府内の重臣たちを説得しうる自信があった。将軍家督の件は今のところまり姫の出仕話にからめて進められているが、彼女が上皇のもとで必ずしも男児に恵まれるとは限らない――と、そこまで考えた実朝だったが、別に今、無理に解答を出す必要はなかった。
――今後、じっくり考えていけばいいんだ。
当のまり姫のことも今年中に目途が見え、実朝には何の憂いもなく、新年にふさわしい晴れやかな気持ちでいられた。
そうして、しばらく尼御台たちとおしゃべりに興じたあと、
「母上、それでは、そろそろ……」
実朝が目配せすると、母はみなまで言わせず、手を叩いて、侍女を呼んだ。
彼女らが運んできたのは女性の装束一揃えである。
人払いのあと、実朝は気心の知れた阿波に着替えを手伝わせる。紅梅の襲に花菱の柄を合わせた袿は、華やか過ぎないかと心配したが、
「まぁ、私の若いころそっくり」
「本当にお似合いですわ」
「もっと早くに試せば良かったわね」
実朝の美しい女装姿に、二人の老婦人は、はしゃぐ気持ちを隠せないようである。
自分もつられて、心が浮き立ち、
――本当に、どうして、もっと早くに気付かなかったのかな。
まんざらでもない実朝の女装は、これからお微行で街へ出ようと、そのための工夫である。
「それでは、行って参ります」
実朝が尼御台の居室からそっと抜け出すと、廊をいくつか折れた先に、かねて申し付けられていた女性二人と行き合う。若い女房たちは、実朝が何者かは知らされていない。
ただ、「御所の貴人がお微行に出かけるゆえ、お供せよ」と言われ、髪を下ろし、上着で髪の裾を隠した将軍家を壺装束の上臈女房と信じている。
美しい貴人が市女笠を被るのを手伝い、垂れ衣を下ろしてさし上げると、美女が二人に声をかけた。
「さぁ、出かけましょうか」
「あの、どちらへ?」
この人いったい何者かしらと、恐る恐る伺う侍女たちへ、
「私にもわかりません」
美女は意味ありげにほほ笑み、女たちを戸惑わせた。
濡れ縁から庭におりる実朝へ侍女が付き従う。しっかりした足取りで向かった裏門には、侍二人が待ち構えていたが、彼らもやはり何も知らされずに、貴人の微行を警固せよと申しつけられていた。門から少し行ったところに馬が用意されており、実朝は侍たちに手伝われながら騎乗した。子どものころに習った乗馬の勘はそれほど鈍ってなかった。
「馬の気の向くまま、そぞろ歩きを楽しもうと思います。あまり遅くならないように気をつけますから、そなたたちも楽しんでください」
轡を小者にとらせ、街の方角へと向かった。
いつもは輿や牛車で出かける鎌倉の街を、女装して馬の上から眺める不思議。
垂れ衣で顔を隠しているが、やはりいつもより、街の息吹が身近に感じられた。
――私はもっと、この街を知らなければならない。
恥ずかしながら、鎌倉の主としてようやくそのことに気付いた実朝は、母たちに相談し、昨年の暮れから密かに手はずを整えた。
そして、今日、ついに街へ出た。
御家人らの邸宅が並ぶ通りから、下々の住む商人街へ。
気の早い梅の香が漂ってきたかと思えば、食べ物や人の汗、泥の匂いが鼻をつき、もの売りの掛け声、遊び女たちの歌声が聞こえてくる。
街は匂いも喧騒も猥雑だった。初めてのお微行に、わくわくした気持ちが抑え切れない。
往来の人々は、街の風景から少し浮いた実朝の一行を、大家の夫人の買い物か何かと気を遣って道を譲る。
一行が南へ下り続けると、潮の匂いを含んだ風が、傘の垂れ布を払った。
実朝は頬を海風にさらされながら、藍に翡翠がまだらにかかった海の色を望んだ。
浜に着くなり、侍女が、
「こんなに美しい海の色なんて、初めてみましたわ」
と、おおげさに褒めたが、追従ばかりでもなかったろう。
陽光に輝く春の若みどりは、海にも訪れるものと知り、久しぶりに浜へ訪れた日の佳きめぐりあわせに、実朝は自分を幸運だと思う。
「――ねぇ、なんで海の色に、明るいのと暗いのがあるの?」
子どものとき、浜に連れて来てくれた近習へ問うた言葉を思い出す。
あの日も今日と同じように、この美しい海の色を見ていた。
その近習は、やさしく諭すように、
「冷たい海の流れと、暖かな海の流れが混じり合っているからですよ」と教えてくれた。けれど、幼い実朝の瞳には、きらきらと輝く海のきらめきは宝石そのものだった。
「あのね、海のそこには竜王さまのご殿があってね、そのご殿はぜんぶ宝石でできているんだよ。そのかけらが流れ流れて、海面まで広がって、だから、あんなにきれいにかがやいているんだよ。きっとそうだよ」
小さな主人が得意になって言うさまへ、近習は、
「私は海のお城に参ったことはありませんが、千幡君の言うとおりでしょう。海の底にはさぞ美しい竜王さまの御殿があるのでしょうね」
と、頬笑みながら合せてくれた。
二十八歳の実朝は、あのときの近習の笑顔を思い出そうとしたができなかった。でも、それは当然のこと。記憶をたどれば、幼い自分は近習の乗馬の前鞍に乗っていたのだから。
けれど、実朝の耳の奥で、壮年の武将のゆっくりとした語り声が蘇ると、目の前の海がぱぁっとあざやかな音をたてた。記憶の紗から解き放たれた、光の粒の一つひとつが笑いかけるように、金色の輝きを放った。
自分を千幡君と呼んだ、あの穏やかな声の主、
――あれは叔父上だ。
二人が、将軍でも幕府執権でもなかったころの――
あの日の前年末、体調を崩した父頼朝は、回復する見込みもなく病床で年を越した。
御所中の人々が息をひそめるなか、彼らの無言のざわめきは、小さかった自分を不安な気持ちでいっぱいにさせた。なのに、大人たちはそれぞれの役割に忙しく、人々から取り残された自分はいっそうの寂しさを覚えた。
そんな幼い千幡の気持ちを察し、叔父は大倉から由比ヶ浜へ連れだしてくれたのだ
美しく輝く海を目の前に、
「千幡君も私も次男です。同じ次男どうし、このさき何があっても仲よしでいましょう」
そう言った叔父は後のできことをどれほど予測していただろう。
あの日の風の匂いは、今日と変らぬものだと気づき、実朝は、幼き日に見た海から、現つの海へ自分を引き戻した。
「――そうだ。この辺りで春を探しません? おもしろいものを見つけた者には褒美を授けましょう」
実朝は供人たちに言った。
「春、ですか?」
「お歌でもお詠みになるんですか?」
侍女たちは戸惑う。庭園であれば早咲きの梅、山野であれば福寿草やまんざいなどが咲いていようが、浜風はまだ冬のものだ。生業の人々の影がちらほら目に着くだけで、海辺に春など見当たらない。
そんな供人たちへ、実朝は笑いながら、
「よくごらんなさい。そなたらが春と感じたものでいいんです」と促す。
彼らも貴人のたわむれに付き合うつもりになったろうか、
「では、波打ち際に寄せられている海松はどうでしょう」
侍女の一人は水際まで近づくと、腰をかがませ、海藻をつまんだ。
「こんなに小さくとも青々としています」
「そう、それでよいのですよ。」
実朝は、古歌にある『海松』と『見る』をかけた恋歌を思い出して、口ずさみかけたがやめた。
もう一人の侍女が、
「ならば、あの男たちはどうでしょう」
指さすほうを見れば、海人が網の繕いをしている。
「なるほど、初漁ですね」
実朝はうなずいた。
もう海から帰ってきたあとだろうか。初魚は新年の祝いとして海の神に捧げられ、今年一年の豊漁、海の安全が祈念される。供物とされた魚は初饗と呼ばれ、神から賜りものとして、後に漁夫自身が食すのである。
それから、実朝は、馬の轡をとる小者へも訊ねた。
「どうですか、そなたも感じる春はありませんか」
貴人の女性からふいに声をかけられた小者は、慌てて、
「で、では、あれを」
何を思ったか、指さした先には、巨船の残骸があった。
とっさに侍女たちの顔が強張る。見て見ぬふりをしていたものを、と。
二年前、幕府が宋の工人につくらせた唐船。
本来の役目を果たすこともできず、空しく浜辺で朽ちて行く、今は無残な廃墟。
その周辺を子どもたちが遊び回っていた。
これを見た実朝は、少し考えるように首をかしげたが、
「なるほど、穏やかな陽気に誘われて出たきた若芽のような子どもたち、ですか」
と言って、馬を進めた。
巨船には大きな穴がいくつも空いていた。おおかた近所の者が薪や家の材にするため、切り取っていったのだろう。その大穴を、子どもたちが歓声をあげながら出たり入ったりしている。とび出した梁にぶら下がって揺らす子どももいて、この上もない遊具となっていた。
「大丈夫かしら? 危なくないかしら」
と、心配げに見守る実朝の脳裡に、再び幼き日の光景が蘇った。
あの日も、自分はこの浜で子どもたちが遊ぶさまを眺めていた。潮風の寒さにさらされぬよう、気遣う叔父の腕と上着の袖にくるまれながら、彼の胸から顔を出すようにして。
大倉では、自分の遊び相手は年上の大人しい女童が多く、屋外での追いかけっこや相撲に興じることはなかった。千幡は目の前の子どもたちを羨ましく思った。親指の先を噛み、子どもたちから目を離すことができなかった。そんな自分の物欲しげなようすに、背中の叔父は、
「よいのですよ、あの者たちと遊んできても」
その日もまた、お微行だったから。
実朝の記憶は二十年の時を越えて蘇る。
――そうだ、あの日こそ、『初めてのお微行』だったんだ。
「えっ、いいの? おじ上!」
驚く千幡に、先に鞍から下りた義時が手を差しのべた。
馬上に残された体は一気に寒さを覚え、急いで叔父の手を借り、地面に降り立った。
自分は子どもらの輪を見ながら、ちょっとだけ不安になって、
「ねぇ、なんて言って、入ればいいの」
「大きな声で『入れて』と言えば、よいのですよ」
義時は千幡の目の高さまでしゃがんで、笑いかけた。
自分は叔父の言葉を信じた。
砂の上を駆け出して、子どもたちの近くまでくると勇気を出して、
「いーれーてー」
大きな声で言った。
浜の子たちは、目をまんまるくして千幡の方を見た。びっくりするほどかわゆらしい、見るからに高貴なお子さまから声をかけられのだ。
仲間同士で顔を見合わせると、好奇心いっぱいの目で、
「おまえ、どこの子だ」
一番年かさの子が訊ねてくる。
だから、自分はもう一度勇気を出して、
「大倉の子だよ」
と、大きな声で答えた。
「なまえは何ていうんだ」
「千幡だよ」
「しょうぐんけのお子と同じなまえじゃないか」
「そうだよ、ぼくは将軍家の子だよ」
「すげぇ、しょうぐんけの子か」
子どもたちは、さらなる好奇心で目を輝かせた。
このとき遠くで見守っていたはずの叔父の耳に、子どもらの会話は届いていただろうか。
――もし届いていたら?
義時がどんな顔をしていたか、実朝は想像するだけでもおかしくなった。
「よし、しょうぐんけの子、いっしょに遊ぼう」
叔父の言ったとおり、自分は子どもたちの輪にすぐに入ることができた。
追いかけっこや浜遊び――貝を拾い集めて大きさを競ったり、棒きれで砂浜に絵を描いたり、意味もなく穴を掘ったり、山をつくったり。
さすがに、千幡の高価な衣装に臆したか、相撲だけは相手にしてくれなかったけれど。
渚に小さな足跡をつけながら、思う存分、友だちと走りまわった。
寒さを忘れ、波音に負けぬくらい大声をあげてはしゃぎまわった。
やがて遊び疲れたころ、叔父が小者らと一緒に迎えに来てくれた。
千幡は小者に抱き上げられながら、義時の前鞍にまたがり、
「また来るね」と、友だちに手を振って約束した。
大倉の御所に帰った千幡は、夜、全身に熱っぽさをおぼえた。
――やだな、また熱が出ちゃうかな。
けれど、叔父や友だちが叱られちゃいけないと考え、
――阿波たちにはだまっていよう。
寝てれば朝までにさがるかもと、さっさと自分から床についた。
いつもは目ざとい乳母から何か言われるかなと思ったが、
「浜遊びでお疲れになりましたか……」
特に詮索されることもなく、衾をかけてもらった。
そのあとは、いつものやさしい気だるさに包まれながら、深い眠りに落ちた。
翌朝、思ったとおり熱は下がっていた。千幡は気持ちよく起き出し、
――よかった。何ともなくて。今日も、あの子たちと遊ぶんだ。おじ上にたのんで、また海につれてってもらおう。
すっかりうれしくなって、友だちの待つ浜辺へ心を馳せた。
けれど、千幡の胸のわくわくはつねにない気色に押しとどめられる。周囲の大人たちのようすがおかしい。御所中が尋常でない気配に満たされていくなか、やがて、
「千幡君、お気をしっかりお持ちくださいませ。先ほど、お父上が……」
乳母は声を詰まらせると、そのまま泣き伏した。それが合図だったかのように、他の女房たちも袖で顔を覆い、千幡の周りは嗚咽に包まれてゆく。
鎌倉殿ご逝去――
その衝撃は鎌倉どころか東国中、いや日本中を嵐となって吹き荒れた。大人たちでさえ、自分の身を守るのにせいいっぱいだった。千幡は風のなかの小さな木の葉となって、めまぐるしく映りかわる景色を、身をちぢめて見ていることしかできなかった。
兄の家督相続、次姉の早逝、母の狂乱――事々(ことごと)の連続は、千幡の浜遊びの記憶など簡単に奪い去っていった。
一緒に遊んだ友だちの笑顔も約束も、全て夢のなかのできことのように。
そうして、大倉の日々の暮らしのなかで二度と思い出すことはなかった。
あれからちょうど二十年、
――どうして忘れたままだったんだろう、初めて友だちができて、あんなにうれしかったのに……
実朝は、子ども時代に果たせなかった約束を、今になって申し訳なく思った。
目の前の子どもたちを眺めながら、
――年回りからして、あの子たちの子どもだとしても、おかしくないんだよね。
一世代という時の流れに胸をひたすものがある。
と、その目の先で、船の梁がばきりと音を立て、ぶら下がっていた子どもが砂の上に投げ出された。実朝が息をつめて見守るなか、その子は心配してかけ寄ってきた仲間に体を起こされる。泣きながら体の砂をはたいてもらい、
「大丈夫だよ。いたいのいたいのとんでけ」
年上の子に慰めの言葉をかけられると、その子はすぐに泣きやみ、、うんうんとうなずくしぐさ。それから突然走りだし、笑顔で仲間たちと追いかけっこを始めた。
「――あの分なら、けがなどありませんね」
実朝が安堵して言った。
春の海辺に子どもの笑い声が溶け込んでいく。
何の憂いなくじゃれあうさまは、この世の楽園そのものだった。
子どもらにつられるように自然笑みがこぼれ、実朝はかたわらの従者に言った。
「そなたは今日一番の春を見つけましたね。約束通り褒美をとらせます。名は何と言う」
新春の空はどこまでも青く、雲ひとつなかった。
晴れやかな気持ちでお微行を終えた実朝だったが、例年、火災の多い時期にあって、七日に広元邸付近、十五日に時房邸付近と、周囲数十軒に及ぶ大火事が立て続けにおこった。
実朝と義時は見舞いや手当てに駆けまわり、それらがようやく一段落したころ、西国から下向した公卿や殿上人の一行が到着した。右大臣に就任した実朝の八幡宮拝賀に随行するためである。実朝は礼を尽くして彼らを歓待した上、豪華な謝儀を贈り、都人を喜ばせた。
一月二十七日――
数日前、新年の晴天続きが嘘のように大雪が降り、一尺(三○cm)ほど積もった、と思えば、昨夜ふたたび降雪に見舞われ、朝までの積雪は二尺に達した。
本日は八幡宮拝賀のため、大倉では重臣たちが集まり、行事の延期の可否が問われた。
「この雪なら延期をしても罰はあたらないでしょう」との意見も出たが、義時は、
「多少、時刻が遅れたとしても、本日中に拝賀を終えてほうがよろしいでしょう。御所」
今日は日本中の武将が大勢の郎党を従え、この鎌倉に集結している。後日、日を改め、再度彼らを呼び集めるなど、かえって面倒だ。公家どもへの接待も経費がかさむ。義時は実朝の承諾を得ると、大行事の敢行を命じた。
大倉から八幡宮への道路の雪は大急ぎで片づけられたが、将軍家の出立は遅れに遅れ、行列は酉の刻(午後六時ごろ)に大倉を出発した。
一行は京よりの殿上人、前駆の御家人、近衛府の官人を先に、新右大臣実朝の牛車が進む。牛車の周りを車副の従者たちが囲み、ついで隋兵、雑色、検非違使、公卿らが続く。道中には諸国からの将兵が整列し、その数は一千騎にのぼった。
行列は八幡宮の一の鳥居をくぐり、神域に入る。
月末のこととて、月はか細く。今宵は浄闇のなか、参拝がなされようとしていた。
境内や建物の屋根は雪で覆われ、かがり火に浮かぶ世界は色も匂いもなかった。
源平池の反り橋のみぎりで檳榔毛の牛車が停まる。殿上人のそれぞれが、簾をあげ、榻(踏み台)を置き、沓を差し出し、そうしてようやく杓を手にした実朝が現れた。
坂東の武将たちは嫌ったが、牛車や輿の乗駕は許されし貴顕のみ、ましてや社内へ乗り入れを許されるのは――実朝はそれを人々に見せつけねばならなかった。
御家人たちが誰一人手を触れることなく車を降りた将軍家を、義時が待ち構えていた。
彼は今宵、御剣役として供奉する。主君が公家に束帯の裾をさばかせるさまを見守りながら、ふと、実朝が参道の先、遠く石段の上階に座す本殿を見上げたので、つられて顔を上げた。源氏の守護神たる八幡大菩薩を祀る本殿の上空には、星々が静かにこちらを見下ろしていた。
しんと張りつめた気色のなか、行列はゆるゆると息白く進み始める。
やがて一行が中門の仁王門をくぐろうとしたとき、実朝が足を停めた。
そして、武将たちに命じる。
「前駆と隋兵役はここへ留まりなさい」
大臣の位をえた将軍家は、御家人らと一線を引こうというのだろうか。
取り残される隋兵らは、途方に暮れたような顔で互いを見合ったが、腹心たる義時は、己れだけは別格と、甥とともに足を踏み出した。しかし、実朝は、
「右京兆、そなたもだ」
義時は裏切られたような気持ちで主君を見た。
昨年、甥は自身の昇進を、関東武将の地位を向上させるためだと言っていた。
けれど、
――我らは、御所をあまりにも高い場所へ祀り上げてしまったのか。自分たちの手の届かぬところへ。
そう思って主君を見れば、毅然と顔をあげ、何か強い意志をもってこちらを見返していた。
凛とした実朝の眼差しは清冽にすぎ、疑う彼を凍りつかせるには十分だった。
義時の視界のなかで、ふいに実朝の身が遠のく。それはあざやかな幻のように――
白き闇のなか、黒の束帯姿を浮かばせる。
実朝の静謐な佇まいに、初めて威厳というものを覚え、義時はその場を動くことができなかった。それは他の御家人たちも同様だった。
前駆、隋兵のなかには息子の泰時や、塩谷朝業、東重胤もいたが、実朝は彼らに一瞥もくれず、拝殿に向かって歩いていく。
そうして、石段の手前では公卿すらも残し、灯りを掲げる源仲章を先導に、わずかな供人だけで階段を上がっていった。
義時たちは中門からそのようすを見上げた。仲章がもつ松明の灯りがゆっくりと石段をのぼり、やがて、本宮の楼門のなかに消えた。
そうしてしばらく経つと、無事、拝賀を終えたのだろう、仲章の灯りが再び石段をゆっくりゆっくり降ってくる。
下襲の裾を引きづりながら、こちらへ歩を進める実朝の姿も、下階に並ぶ篝り火によって少しずつ明瞭になる。
参道に整列する公卿の前を、会釈しながら通り過ぎる主君の顔がこちらを向いた。
灯りに照らされた実朝が、武将たちへ晴れやかな笑みを送る。
ここでようやく、御家人たちは主君の意図に気づいた。
自分たちを置いて、公家らの列にまぎれた実朝は、彼らよりも高みにある本宮の神前に拝した。そして再び下階へ降り、公家らの前を進み、自分たちのもとへ向かい来る。
それは、
「京の公家どもから、どんなに高い位や官職を授けられようとも、私はそなたらのもとへ還ってくる。いつだって私は、そなたらと一緒だ」
将軍家は、身をもって至誠を示したのだ。
義時は胸が熱くなった。
――始め、つれなくして後からやさしくするって、そんな手業、どこで覚えたんだよ。
遠くに見える笑い顔の実朝は、今にもこちらへ駆け寄りたそうに。それを束帯に邪魔されてじれったそうに。
中門の御家人たちこそ、駆け寄って、主君を抱きしめたい衝動に駆られていた。
けれど、今宵は、お行儀良くしろと口を酸っぱく言われている。
彼らは耐えに耐えた。今しばらく待てば、主君はこちらにたどり着く。そして前駆や隋兵たちに守られて参道を下り、鳥居前で待ち構えている一千騎の軍勢と合流し、国々の将兵と一になって御所に還るのだ。それはまさに、武家の棟梁に相応しく。
誰もが胸を高鳴らせ、こちらへ歩みくる実朝を見守った。
己れが主君と一になることを疑ってなかった。
そこへ、突然、男の奇声が響いた。
山伏の頭巾のようなものを被った法師が、実朝に走り寄った。
法師は実朝の下襲の裾を踏みつけると、手にしていた太刀を振り上げた。
「御所!」
中門の隋兵たちは、いっせいに駆け出した。
けれど、彼らから主君の体は遥かに過ぎた。
実朝は、御家人らの目の前で男の凶刃に倒れた。法師の仲間らしき三、四人の僧侶が、先導役の仲章を斬り、供の者を追い払った。整列していた公家らは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。混乱の最中、法師の一味は姿をくらまし、義時がたどり着いたときには、大勢の御家人が実朝の周りを囲んでいた。義時が彼らのなかに割って入ると、
「御所、御所」
息子の泰時が実朝を抱え起こし、揺さぶっていた。
義時は見た。
実朝の顔は血の気を失ってなお美しく、満ち足りたように微笑んでいた。
山伏姿の法師は、堂に籠っているはずの公暁だった。彼はごく少数の者だけを仲間に引き入れたために、企てはその実行まで外部に漏れることはなかった。
実朝暗殺の直後、公暁は養育者であった三浦義村に手勢を催促したが、彼は自分の乳母夫を見誤った。三浦はすぐさま義時に報せ、彼を討った。三浦は養い君の宿願よりも、幕府への忠誠を選んだのである。
「公暁はなぜ御所を殺した! 鶴岡八幡宮の別当職、鎌倉で最高の聖職者の地位を与えられたというのに!」
激昂する義時の問いに、三浦義村は答えない――答えられなかった。
甥の死に狼狽え、平静を失いかける幕府執権に、彼は顔を背けた。
三浦の横顔はひどく痛ましげで、
――俺は、この男に哀れまれたのか。
それに気づいたとき、義時は少しだけ冷静になれた。
そして、自分の発した問いの答えに思い至る。
八幡宮寺の別当など、前将軍の子息たる公暁にしてみれば実朝の影にしか過ぎない。
望まぬままに裏の世界に押し込められた者は、表の、光の世界を渇望する。和田朝盛という男の例がある。彼は実朝の威光を利用して表の世界で力を振るおうとした。
しかし、公暁は違った。
二年前、子のない実朝から鎌倉へ呼び出され、思わせぶりな態度をとられ、若い彼は、どれほど期待に胸を膨らませたろう。
表の世界へ、光の世界に迎え入れられるのだ。
将軍家の甥として、八幡宮寺の別当として、いや、次代の将軍家としての未来すら期待できた。――けれど、彼の希望は、異母妹の出仕話に打ち砕かれる。上皇の妃となったまり姫が皇子を産めば、自分などとうてい太刀打ちできない。
外界と遮断された薄暗い堂のなかで、青年はどれほどの苦悩を味わったか。
実朝の両天秤の残酷さは、義時が一番よく知っている。
追い詰められ公暁は実朝の存在を突き破り、自ら将軍に就くことで光を見出そうとした。
将軍の叔父あっての己れだのに、影が光を犯して自ら滅びたのだ。
「御所は、臣下を巻き添えにさせぬため、敢えて中門に隋兵を残したのではないか」
「ということは、御自身の死を予感していたということになるのか」
「そういえば……」
実朝の日ごろの慈悲を知る者はさもあるかのように噂したが、あの夜、中門にいた御家人たちは激しく反発した。御所の真意を捻じ曲げるな、主君はまぎれもない武家の棟梁となって、我らのもとへ還ろうとしたのだと。
だが、それを言いつのれば言いつのるほど、喪失感に打ちひしがれる。
実朝が死んだ夜から、御家人たちは次々に出家した。その数は七、八十人にのぼり、彼らのなかには塩谷朝業や東重胤の姿もあった。
武将たちがどれほど実朝を慕っていたか、実朝の死にどれほど絶望したか。
「これから、我らは何を支えにしていけばいいんだ」
「もう武家の世は終わりだ」
義時も彼らと同様だった。
――なぜ、俺は、あの日、あの大雪で、拝賀をとめなかった! であれば、御所は今頃……
己れの目の前で、己れの運命そのものだった実朝を奪われ、義時は気が狂いかけた。
だのに、幕府の体裁を整えなおすという役目に、出家することも許されない。
将軍家督は誰とする? 公暁の弟? 将軍家を自ら手にかけた者の弟が許されるはずはない。連座となって、流刑か死罪だ。
頼朝と北条の血をひく者はいなくなってしまった。
――いったい、北条はどうすればいいんだ。
義時に答えは出ず、一族の時房や泰時とともに苦悩する。
御家人たちのなかには、頼朝の庶子、貞暁を思い出す者もいたが、彼は西国での僧侶としての生活が長すぎた。貞暁は俗界での栄達を強く拒んだ。その上、公暁と子弟関係にあったことを考えれば――
鎌倉の武将たちは、主なき幕府に途方に暮れた。
そんななか一早く己れを取り戻したのは、実朝の母、尼御台だった。一時は生きる屍であったものを、男たちの体たらくに、また女性であったからこそ、
「まり姫がいるではありませんか」
彼女に唯一残された孫娘の名前を上げた。
男たちは失念していたが、まり姫も紛れもなく頼朝の血を引き継いでいる。また、女性であれば連座もまねがれる。母が比企氏とて、それが何ほどのものであろう。
尼御台は、
「昨年、京で卿二位どのにお会いしたとき――」
信子の甥にあたる親王殿下の東下話と、まり姫の縁組を重臣らに披露した。
幕府の重臣たちは、すぐさまこの話に飛びつき、京へ使者を送り出した。
「しかし、このような時機に、院が皇子の東下を許してくださるものでしょうか」
人々は懸念した。
そして、実朝の従兄で、頼朝の弟全成の血をひく阿野時元の存在が浮かびあがる。彼はまた阿波の局の息子として北条の血を受け継ぐ。義時は我が身を奮い立たせた。
「すぐに阿野へ報せを」
しかし、義時の使者と行き違うように、駿河の阿野から時元蜂起の報せが届くのだ。
なぜ――
「なぜ、今なのだ? 何もせずにおれば、こちらの沙汰を待っておれば、ただそれだけで良かったものを!」
義時はすぐさま、鎌倉から軍勢を送り出した。
源氏の家督争いが兄弟従兄弟間の殺し合いを生んだ歴史を考えるなら、皇族将軍の東下話を聞かされた時元が「次は俺か」と恐怖するのは当然だった。彼の父、また異母兄も、頼家の代替わりに殺されている。ありもしない己れへの征伐に怯え、結果、真に己れへの征伐を招いた時元は、鎌倉の軍勢に攻められ自害する。彼の過ちは彼のみに留まらない。無関係だった彼の弟も連座により誅殺されるのだ。
関東のごたごたに、京の上皇の心象は悪くなる一方だった。卿二位の提案も、
「皇子の東下話など、初めて聞く」と不快感を露わにし、
「天皇の子を都鄙に立てるなど、国を二つに分けるようなものではないか」と退けられる。また、「主君が簡単に殺されるような荒戎の土地へ、我が子を送るなど考えただけで恐ろしい」とも。
京の人間が東国をどのように見ていたか、幕府の重臣たちは忘れていた。
未開の、野蛮の、言葉も通じぬの――
ただ、上皇も、さらなる幕府の混乱は望んでいなかったのだろう。
「もし、どうしても将軍家督を望むのなら、摂関家の子を与えよう」とお言葉を下され、上皇の甥にあたる左大臣家の九条教実を勧めた。教実は右近衛少将として、すでに昇殿を許された殿上人、次期将軍家として申し分のない人物である。
これに、幕府の人々はすがりついた。
重臣らが集まる群議に、三浦義村が進言した。
「これ以外に方法はありません。左大臣家の少将殿(教実)を御迎えにあがりましょう。左府の母君は故殿の姪御にあたられますし、少将殿の母君も故殿の姉君の御孫にあたられます。皇子を迎えることができないのであれば、少将殿をお育てして将軍家に戴くのが、もっともではありませんか」
義時は頷いた。他にどうすれば良いのだ。
教実が右近衛少将といっても、摂関家の嫡男たれば元服も任官も幼少のうちに済ませている。今年十八歳のまり姫より年下とのことだが、恐れ多くも上皇と先帝の母君は九歳差、今上帝と中宮は五歳差である。贅沢は言えまい。
しかし、京都との折衝中、朝廷と幕府の間に齟齬が生じ始める。主君の死に足もとを見られた幕府は、上皇が愛妾に与えた土地の地頭を改めるよう命じられた。これを京の使者から告げられた義時は、当然のように突っぱねた。そもそも、上皇の使者藤原忠綱という男は、実朝の弔問のため尼御台へ遣わされたものを。
――我々もなめられたな。
しかも、忠綱は自ら養育していた左大臣の弟、基家を将軍家にしたいと画策した。
上皇の使者でありながら、上皇の意に反した行動をとる。
「これが京ぶりというものなのか」
昨年、尼御台が卿二位に戸惑いを感じた以上に、幕府の重臣たちは彼に振り回された。鎌倉の武将らは苛立ち、京でも院の近臣らが仲間同士で牽制し合い、混乱を深める。
当然、教実の東下話も暗礁に乗りかけた。
やつらは、
「少将殿は摂関家のご嫡男であらせますから」と渋り始めたのである。
都鄙の間に入った鎌倉の使者は焦り、
「こちらは以前より左大臣家の若君を将軍家の家督にと望んでおります。しかしながら、どうしても少将殿をお許し頂けないのでしたら、左府殿はたくさん御子さまがいらっしゃるそうですから、下の弟君を……」
もちろん教実が一番である。が、こちらが願い出る以上、譲歩もせねばならなかった。
京都も、ようやく幕府の要請を聞き入れることにしたらしい。摂関家の嫡男ではなく、その弟君の三寅を東下させることに決定した。占いでまり姫との年回りも良いと言われ、幕府の重臣たちも納得した。
六月二十五日、京を出発した三寅は大げさな行列を従えて、翌七月十九日、鎌倉へ到着する。大倉の南、義時の邸内に新造した御所へ一行が入ると、街の人々は身分の上下に関りなく邸の前をうろついた。
彼らは、未来の将軍家を、
「三寅さまは、正月寅の月、寅の年、寅の刻にお生まれになったから、その名がついたそうだ」
「お小さいときから、普通の子とは違うって評判だったってさ」
「ご幼名ということは、まだ元服前か、今年でいくつだ」
「去年が寅年だったから、十四歳(満十三歳)か」
わいわいと大声で噂し、門番に追い払われる。
だが、彼らが邸内に入り、御輿のなかにおわしたお方を見たら仰天しただろう。
御輿の簾が掲げられ、小柄な女房がさらに小さな御子を抱いて現れると、
「左大臣家の三寅どのにございます」
その御子こそ、昨年寅年に生まれた、まだおむつもとれぬ赤ちゃんが――三寅だった。
そもそも三寅の兄教実とて御年九歳のお子さまだった。
義時も、摂関家の子息の元服、任官の異常な早さは聞いていたが、教実が六歳で元服を済ませていたと知って呆れる他なかった。もちろん彼は、三寅の年齢を下向前に聞かされていたが、この時点ですでに朝廷より宣下がくだされ、一介の武将に覆せるものではなくなっていた。
義時がこの事実を重臣たちに告げると、
「何が『年回りがいい』だ!」
「京はどこまで我らを愚弄する気か」
彼らは悔しさで地団太を踏み、転げまわって泣いた。
三寅は坂東武者の希望のはずだった。多少幼くとも良い、尊敬する頼朝公の縁戚である摂関家から関東が引き取り、自分たちの核となる主君にお育てする、頼朝公の御孫まり姫と妻合わせて子息をもうけ、次代の将軍家督へと繋げる、そんな彼らの夢を粉々に打ち砕いたのである。
京の核たる上皇のなめきった態度。御自身は即位の不完全を補おうと、頼朝公の血統に執着したくせに。しかし、実朝の死により、上皇は頼朝と関東への畏怖を失ったのである。
公家どもは、実朝のことを、
「右大臣の身で凶徒に殺されるとは何事だ。御剣役もそばにおかなかったなど、愚かにもほどがある」と非難さえした。
――坂東武者、恐るるに足らぬ。
当然、まり姫の出仕話もなかったことにされた。
「すまない、俺が余計なことを言ったせいで」
三浦義村が義時の前に進み出て、うなだれる。
「おまえのせいじゃない」
二人は手を取り合って、悔し泣きに泣いた。
坂東武者の朝廷への怒りは極まり、結果、彼らは団結した。
二年後、承久の乱と呼ばれる上皇との戦いは、幕府軍の大勝利で終わった。
大敗した官軍のうち、首班の近臣らは断罪され、上皇は隠岐へ、新院は土佐へ流された。この二か月前、慌ただしく譲位された四歳の今上帝は即位の事実さえ認められず、上皇とは別系の親王が天皇に立てられた。
幕府は皇位の継承に口を出すまでに力を極めたのだ。
それは頼朝でさえなしえなかった偉業、東国武将の下剋上であった。
そもそも朝廷・仙洞への挑戦など、この国では前代未聞の大逆――
開戦の決断には、義時も相応の煩悶を強いられた。しかし、彼は時勢を見誤らなかった。
東国の自由と自立を守ろうとする武将たちの奔流を解き放ち、義時追討を命じた上皇をまんまと返り討ちにしてしまったのである。彼は、京方の公家や武将の所領所職を取り上げて味方に分配したが、自分は一片の土地も得ず、御家人との絆をますます強めた。
朝廷を凌駕した幕府と、その頂点に立つ義時。
一介の土豪の次男から、ついに彼はこの日本の頂点にも君臨しえる存在となった。
しかし、彼はそれを選ばなかった。親族やら外戚やらに翻弄された三代の源氏を見て、それ以上に、乳母やら近臣やらが口出しし、道を踏み誤った上皇や新院を見て。
己れが表へ出ようとすれば必ず裏にまわって本質を奪おうとする者が現れる。己れこそ尼御台や実朝の影となって働き、本質を得た男だ。朝廷を裏から動かす力を得た今、これ以上、何を望むか。
京の朝廷を皮相に、鎌倉の幕府が実質この国を支配する――それで十分だった。
義時は、時房と泰時に京の戦後処理を任せ、己れが関東から動くことはなかった。
残る懸念は、将軍家督のみ――
義時を始めとする鎌倉の御家人は意地になっていた。三寅を八歳で元服させ『頼経』と名乗らせると、翌年朝廷から宣下を出させ、征夷大将軍とする。さらに十三歳で母親ほどの年の差のまり姫と妻合わせたのだ。
四年後、彼らのやけくそのような執念は実り、なんと、まり姫は懐妊する。
「奇跡だ」
誰もが思った。
不世出の将軍、頼朝公の血が次代へと繋がるのだ。
関東の武将たちは皆、期待に胸を膨らませた。
けれど、月満ちて、人々の希望は残酷な結果をもたらす。
まり姫は高齢での初産に耐えきれず、男児を死産し、自らも命を落とした。
御家人たちの嘆きは凄まじかった。夫の頼経は何一つわるくない。だが、頼朝公の血を引く最後の生き残りであったまり姫を死なせたと憎まれ、後年、京に追い返されるのだ。
京の人々は、頼朝が平家を滅ぼしたがゆえ、その因果により源氏の血が絶えたと噂した。
だが、どうだろう。承久の乱後に立てられた新帝の母は平頼盛の孫娘、平家の滅亡後に生き残った系統である。滅ぼしたはずの血が伏流水のように地下に潜り、女系をたどり、思わぬところから陽の目を見ることもあるのだ。
義時は元仁元年(一二二四)、すでにこの世を去っていた。
生前、母親の違う子どもを数多くもうけたが、異母兄弟姉妹の確執に翻弄されただけあって、子らを分け隔てなく育て、腹違いの相克を防いだ。彼の息子たちは泰時を嫡流としてそれぞれに家を興し、時房の子らとともに宗家を支え、北条氏は繁栄する。
北条の女たちの産んだ子の犠牲の上に、北条の男たちが栄華を誇る。
これを尼御台や阿波の局はどう見ただろう。
ただ、義時の死には不可解な噂がつきまとった。
いわく、毒殺されたと。しかも、主犯は彼の正妻、伊賀の方であると。
毒殺の真偽はともかく、彼女が夫の死後、我が子の政村を執権に、娘婿を将軍に就けようと画策したのは事実だった。どこかで聞いたような話だが、彼女もまた義時の歴代の妻同様、気の強い女であったらしい。
尼御台らに陰謀を阻止された伊賀の方は伊豆へ流罪となり、まもなく死ぬ。これもどこかで聞いた話だが、息子の政村は連座することなく、後に執権となった。
尼御台は弟義時の死の翌年、北条王国の安定を見届けたように鬼籍に入った。
まり姫が亡くなる前であったのは幸いだった。自分と夫の血を継ぐ者全てが、この世から失われたことを知らずに。
さて、栄枯盛衰は世の常、義時がどれほど表に出ぬよう、裏にあって実権を握ろうとしても、権力は常に手にした者を表に追いやる。結果、北条宗家は実質を狙う者に幾度も裏にまわられるが、その最たる者が外戚、近臣だった。
泰時の嫡男時氏の妻は安達景盛の娘。安達氏は政敵となった三浦氏を宝治元年(一二四七)に滅ぼした後、多くの実権を握るが、弘安八年(一二八五)、北条宗家の執事と争って敗れる。騒動は全国に波及し、ただでさえ元寇の痛手から立ち直れずにいた幕府を疲弊させた上、執事の子孫が権力を弄び、幕府の劣化は進んだ。
この間、北条氏内では自立しようともがく宗家の悪あがきによって、一族は血みどろの殺し合いを演じた。代々聡明だったはずの執権家督は、近臣の傀儡から脱けだせぬ失意に職分を投げ打ち、父祖の倹約精神を忘れ、奢侈飲酒に耽った。
実朝の死から百年、もう鎌倉に将軍も執権もなかった。京の公家どもにまでなめられ、天皇の御謀叛に乗じた下野の武将、足利尊氏に滅ぼされ、幕府は京の室町へ遷される。
建武三年(一三三六)、頼朝が鎌倉に幕府を開いて百五十年余り後のことである。
なお、足利氏は代々北条から女を迎え、尊氏の妻も重時を祖とする名門庶流赤橋氏。
義時の血は歴史のうねりにあっても、女の生と性をたどりながら次代へと受け継がれたのである。
◇
ゆらゆらとゆらめく海底の玉座におわす、
貴人が、
ふと水音をとらえ、頭上を見あげると、
海面の月を割るようにして、一人の女性が沈みくる。
顔も手足も、まとわりつく衣も、全てが白く、
唯一の色は、乱れた衣の裾から伸びた、脚間より漂い出る緒の赤。
「産褥により死んだ女性か」
貴人は呟いたが、周囲を見回して誰もいないことに気付く。
陸にあっては、多くの近侍に囲まれ過ごしていたゆえ、
「そのくせが抜けぬな」
蒼溟の都にただ一人おわす貴人が、再び頭上を見あげると、
白き女性は水ににじむように消えてゆく。
「あぁ、そうじゃな」
ここは海底深き、めいめいの浄土。
個我の浄土に、余人はおらぬ。
貴人が身動きすれば、その処々に灑る真珠色の鱗が輝く。
陸にあれば、雪原の玉霰と例えられていたものを。
「我は人ならずも、なりそこねの化生」
前世の淫蕩、菩提を弔う子なし、
群下の殺戮、王者の剣を失いし、
いずれが罪か、我が身に囚われし我――
〈 了 〉
生き物は子孫を残せたものが勝者――生物学上の価値観でいえば、義時は勝者、実朝は敗者ということになります。また、歴史的にみても義時は勝者です。実朝の死後、鎌倉幕府は北条政権というべきものになってしまったのですから。
けれど、人の一生は結果が全てでしょうか。 もし結果がすべてであれば、この世の中に物語は存在しないと思います。勝者と敗者という区分を超えて、その人がどう生きたか、その過程を問うために物語は存在するのだと思います。
この長い物語に最後までつきあってくださった方、本当にありがとうございました。
※あとがきのあとがき
創作物の「完成」って蜃気楼みたいなものですね。
「あそこ、ちょっと書きなおしでみよう」、「あ、内容にけっこう矛盾があった」って、大小の書きなおしをいっぱいしています。読み途中の人に「あれ? 読んだ覚えのない伏線が回収されている」とか、戸惑わせているかもしれません。これもひとえに筆者の力不足です。申し訳ありません。