第四節 雪月花 家督
鎌倉の日々はおだやかに過ぎていきます。そんななか、これまで陰の薄かった実朝の妻、信子が意外な顔を見せ、大胆な事件をおこします。動揺する実朝ですが、事件は実朝の手を煩わせることなく収束します。
宋人の珍和卿が登場し、唐船づくりとその失敗で幕府を混乱させます。
面目をつぶされた義時はストレスから、実朝の性別を強引な手法であばきます。
義時のどSっぷりに凍りついてください。
建保三年(一二一五)正月八日、伊豆の北条から義時邸へ飛脚が参じ、去る六日、父時政が卒したと伝えられた。享年は七十九歳、前年から腫瘍に悩まされていた父だが、まず天寿を全うしたといえる。
ある程度、覚悟はしていたものの、義時の胸にさまざま思いが去来し、何よりもその背に、北条一族の家長としての義務感が重くのしかかった。
父を追放したあの日、己れが北条家督となった自覚と決意はいったい何だったのだろう。
いや、父の死で、父の犯した罪を引き受けねばならぬことが重荷の正体だった。
そして、その最たるものが、北条の権力の核となる主君実朝をして人々を欺いたことだ。
これは義時の推測にして確信だった。
かつて父と同じ罪を犯した者がいた。こちらも推測であるが――
その名は平清盛。
彼は一族を望外の地位に引き上げたが、あまりにも強引な手腕に、彼の死後、一族はあっけなく滅びた。彼らの権力の核であった安徳天皇を道連れにして。
なぜ、彼の妻、二位の尼は壇ノ浦で天皇を沈めねばならなかったのか。
血の繋がった孫を、それ以上に一天万乗の君を。
だが、もし、天皇のご実体が女児であられたとするなら全て納得できる。
我が孫が男児であったからこそ得た帝位、その後の平氏の栄耀栄華――それらを覆す真実を秘するため、尼は入水を選んだのである。加えて、生き延びた帝が源氏の男らの慰みものになることを恐れたからだ。合戦で敗北した武将の妻女など、勝者の戦利品となって当然だった。年端もいかぬ天皇を直ちに、ということはなかろうが、罪を問われて帝位を剥奪されたあと、源氏の武将、義経あたりにもの(・・)されようと抗う術はない。何しろ、尼の夫、平清盛は同じことを義経の母にして、子まで産ませたのだから。
そのおぞましさ。
ゆえに、敵の捕囚となって生きながらえるより、気高き死を選んだことは理解できた。
「波の下にも都はありまする」
そう言って、帝と御剣を抱き、海へ身を投じた二位の尼、そのあとに続いた女官たち。
彼女らは、海の底の竜宮にでもたどり着いたか。
帝は海竜に化身し、竜宮の主となったと、後に盲目の琵琶法師に歌われるのだ。
安徳天皇の秘事は、平氏の滅亡とともに封じられた。
――だが、我が主君は? 北条はどうだ?
北条も平姓、また貴種の外戚となり、英邁なる家長を筆頭に権力を得、一族は望外の繁栄を見た――
あまりにも重なり合う符節に、義時は込み上げる不安を振り払うことができなかった。
建保四年(一二一六)、実朝は二十五歳になった。
この年の正月も半ば、江ノ島の海に神変が起きた。片瀬海岸と江ノ島間の海底が隆起し、海面を割って道が生まれ、海岸と島が繋がったという。この報を受けた実朝は、すぐさま三浦義村を遣わせた。
検分を終え、帰参した義村は、彼には珍しく興奮したようすで、
「参詣の人々は船を使うこともなく歩いて渡っております。これを奇跡といわず、何を奇跡と言いましょう。将軍家もぜひお渡り頂き、直に御覧になってください」
これに御所内の人々も色めきたち、女性たちもさっそく見に行きたがったので、
「では、年初の行事が一段落したら、一緒に出かけましょうか」
最近、かまってやれなかった妻の信子や母の尼御台に約束した。
江ノ島明神の縁起には、昔、悪竜に苦しめられていた近国の民草を救うため、弁財天が島に降臨し、妻となることと引き換えに竜の悪行を鎮めたとある。
ならば、僧を嫌ったという女体の竜は、夫婦の娘であったか。この謂れには女性に犠牲を強いることを良しとする意図が匂うが、子までなした仲であれば、
――それほど不幸な夫婦ではなかったよね。
実朝は想像をたくましくさせた。
二月はあいにく日蝕や月蝕が続いて外出を止められ、妻との約束を果たせぬまま日が過ぎて行った。
三月五日、実朝は妻を伴い、亡き兄の娘まり姫と対面した。
すでに十四歳となる彼女を、この年まで養育していた母と話し合い、夫婦の猶子とすることに決めたのだ。女性として縁付きを意識する年齢となったことも大きかった。
彼女の母は比企氏の上に、和田の乱で担ぎあげられた異母弟千寿が、先年京で和田の残党に擁され、幕府方の襲撃に遇って自害している。
二重に叛徒の縁者という瑕疵を受けたまり姫が、良縁に恵まれるようにと。
実朝が御簾越しに姪を見ると、兄と兄の寵姫の血をひくだけあって美貌の娘だった。
これから花開こうという年ごろ特有の美しさは眩しいほどだ。数年後、良家の婿を迎えることで、彼女の未来はいっそう輝かしいものになるだろう。
ふと、実朝の脳裡に、自分が大人たちの作為によらず、女性として健やかに育ったのであれば、彼女のような人生を送っていたのかもしれない、そんな思いがよぎった。頼朝公の末娘として名門の武将あるいは公家に嫁いでいたら。もしそうであれば、幕府内の勢力争いで多くの武将が命を落とさずに済み、自分にももっと平凡な幸せがあっただろうと。
けれど、そんな思いはすぐに頭から振り払った。自分を犠牲者にあててはいけない、自分だって大人たちの欺瞞に加担した罪人であるのだから。
実朝は隣に座る信子を見た。
女として不毛な生活を強いられている妻をいつか解放してやりたいと思いつつ、これまで通りの暮らしを強いている。互いに女友だちのように接しているが、成人した彼女が夫の実朝をどう見ているのか、その不満は計り知れない。そのせいか、このところ信子とはすれ違うことが多く、年頭の鶴岡八幡宮の参拝も別々に済ませた。江ノ島への参詣で妻を取り持ちたかったが、その機会は延びに延びている。
今日も、かつて善哉に対面したときとは違い、妻が心からの笑顔を見せることはなかった。信子はまり姫との対面を終えると、大して会話もなく夫のもとを去っていった。
数日後、実朝は阿波の尼を呼んだ。
「急ぎの用ではないんだけど…… 御台のことで、その、最近、なんというか、どうも私たち、しっくりいっていないような気がするんだ」
夫婦間の秋風を相談するつもりだったが、これに尼の目がきらりと光った。
「やはり、御所もお気づきになられたんですね」
「え、何?」
「知らぬふりなどなさらなくてよいのですよ。御台さまのお体のことです」と言われ、
「あ、そういえば」
実朝は少し前、妻の顔色がすぐれなかったことを思い出した。
「でも今は前より体がふっくらしたくらいで、それほどの病いとも思わなかったけど」
と首をかしげながら、もの言いたげな尼の目に、徐々に気付く。
「も、もしかして」十分に察しながら、
「でも、いや、まさか、そんな」否定したい思いに囚われる。
しかし、阿波は実朝に顔を寄せると、
「お相手は京下りの右筆だそうですよ」
叔母の一言で、実朝の体からどっと力が抜けた。
「そう、私は寝取られ男ってことだね」
いつまでも妹のように思っていた信子が男を知り、あまつさえ子を宿したのである。
裏切られたという思いが実朝の胸を衝いたが、自分が男に溺れていた時期を考えれば、妻ばかりを責めることはできない。実朝は気を取り直し、
「大御所にいる叔母上が知っているってことは、母上も知っているってこと? 御台の邸から外に漏れるほど、噂になっているってこと?」
信子が口さがない人々の噂の的になっていないか心配になった。
「いえ、姉上はもちろん、御台さまの女房以外でこのことを知っている者は、私くらいでしょう」
それを聞いて実朝は少し安心したが、
「でも、生まれてくる子はどうなるの?」
「さぁ、その手のことは、あちらの方がお詳しいでしょうから、私たちが心配することでもないでしょう」
阿波は実朝が裏切られたとして言葉がきつい。いや、その口ぶりから、阿波は京出身の信子を結婚の当初から心許すことなく今に至り、その警戒心が御台の妊娠を察知させたのかもしれない。さらに、腹心の女房を信子の周辺に入れていることも想像できた。
「では、私には何もすることはないんだね」
実朝はとても疲れたような気持ちになり、叔母を帰した。
その夜、臥所に入っても実朝は妻のことを思い、すぐに眠ることはできなかった。
信子が男に愛され、あまつさえ子を孕んだという事実。
十年ほど前、畠山の叔母が妊娠したと聞いたとき、その生々しさにひどく不快感を覚えた。けれど、今は違う。それは自分自身、男を知ったからだ。
実朝は何度も寝がえりを打った。そのせいだろうか、小袖の胸元が乱れていることに気づき、直そうと伸ばしかけた手が止まる。実朝は几帳越しに寝所番のようすを伺ったが、彼らは主君の一人寝に慣れ、居眠りをしている。
それでも衣ずれの音を気にしながら、実朝はそっと手を胸の合せ目にすべり込ませた。
さらに、もう一方の手を下袴の脇あきから奥へ――
妻の信子が羨ましかった。妬ましかった。今、この時間も恋人と睦み合っているかもしれない彼女が。
実朝は、別れるまぎわの恋人のささやきを思い出した。
「ここは誰にも触らせてはいけません。神仏に誓って。ここも……」
あのあと、朝盛がしてくれたように、自分の手指がまねる。
――他人じゃないもの。私自身だもの。許してくれるはず……
言い訳は彼にあてたものか、神仏にあてたものかわからない。
けれど、実朝の体の中心から、忘れかけていた感覚が徐々に呼び覚まされる。
恋人が与えてくれたものと変らないものが。
少しずつ潤み出す心に、ため息が零れそうになって、慌てて親指の先を噛む。
眼をうすく開け、寝所番を見張りながら、もう片方の手を止めることはできない。
いっそ、目をつぶりたかった。あのときに浮かぶ赤い花々を瞼の裏に見たかった。
三年間、耐えに耐えていた思いが溢れ出る。
やがて手指だけでは物足りなくなり、いつかの恋人の言葉が蘇った。
「寝所番が夜をお慰めすることもあるのですよ」
何の巡りあわせか、今宵の当番の一人は、かつての片思いの相手、東重胤の息子、胤行だった。まだ十代の彼は、父親に似て和歌に秀で、実朝も日ごろ目をかけていた。
今、彼に命じれば、是非なく帳りのなかへ滑り込み、自分の欲するものを与えてくれるだろう。実朝もまた、朝盛から教えられたさまざまなことをこの少年に教えられる。
――でも、それは許されないことだ。
神仏への誓いなど朝盛との戯れである。一方で、戯れであっても神仏への誓いには違いなかった。実朝は心悶え、涙がにじんだ。
――だって、まだ、あの人のことを忘れたくないのに。
けれど、体が自分の思いを裏切ろうとしていた。
――本当は私、あの人のことを忘れたいんだ……
未練と欲望が反目し合い、自分の内側で獣のように猛り狂う。
――誰か、私を犯してよ。
そう叫びたいのを、理性が必死で押しとどめる。
持て余したのは心と体、両方だった。
翌朝、罪の意識に苛まれながら起き出した実朝に、思いもよらぬ報せが届いた。
鎌倉の海が変色し、まるで紅を流したようだという。
実朝は戦慄した。
土地と君主は連関する。昨夜の自分の行為が神仏の逆鱗に触れたのかと。
人々は「何かの祟りの前触れか」と噂し合い、実朝は途方に暮れた。
――もう二度とあのようなことは致しませんから。
心のなかで神仏に懺悔する他なかった。
数日後、赤潮の海は何事もなかったように、もとの色に戻った。
月半ば、実朝が臥所で休んでいると、信子から「江ノ島へは自分たちだけで参詣します」との報せが届いた。実朝がかねてより約束していたものを延ばしに延ばされ、業を煮やしたらしい。供人には二階堂行光らが付き添うというが、心配なのは妊娠中の妻の体である。
信子が出かけたあと、さっそく実朝づきの女房が、
「何もこのような時期にお出かけになられなくてもよろしいですのに。いったい何をお願いにいくのやら」と嫌みの一つも言うのである。
阿波は、信子の妊娠がさほど噂になってないと言っていたが、このような噂は関係者が思う以上に広まってしまうものだ。
それから十日もしないうちに、信子の父、坊門信清が急死したとの報せが届いた。
信清は上皇の外舅にあたるため、仙洞も慌てて行事の調整を行ったという。
実朝にとっても信清は舅である。当然、幕府もそれに倣うことになった。
翌日、信子は牛車で二階堂行光の山荘へ向かった。服喪のため、しばらく大倉で暮らすことを遠慮するという。
――二階堂の山荘へ……
ここで、ようやく実朝も妻の恋人に思いあたった。二階堂の一族こそ京下りの右筆、彼らのなかの誰かが信子と恋に落ちたのである。互いに京に縁あることが二人を近づけたのか。
「何だか、気味がわるいほど、時機にかなっていますわね」
実朝の女房たちがしたり顔でいう。まるで、信子が自身の妊娠を隠すため、父親の死を江ノ島明神に願ったとでもいうかのように。さすがに実朝は、
「そんなことを言うものではないよ。舅殿が亡くなったのは、御台が江ノ島に参る二日前というのだから」と、たしなめた。
信子の出産は当地で済ませるのだろう。そして、彼女は何食わぬ顔で大倉に戻ってくるのか。母としての愛情をこらえ、我が子と生き別れて。
実朝は妻に同情しかけたが、それを察した女房は、
「御所が思い悩むことはありません。あちらの人たちは、きっとそういうことは平気なんですよ」
京の出身者を冷たい人間だと決めつける。
実朝のなかにも、愛人の子を孕んだ妻を羨やみ、妬む気持ちはある。
自分が朝盛の子を宿すことは適わなかったから。
けれど、彼との間には我が子とも呼べる愛の証しがあった。
朝盛と二人でつくった歌集だ。
和田合戦の前、来たるべき別れの予感に、彼と急ぎ、仕上げに取りかかった。あと少しで完成というところで朝盛とは引き裂かれてしまったが、合戦の痛手からようやく立ち直った実朝は、たった一人で歌集を完成させた。叛徒とされた朝盛の名は決して表に出ることはなく、将軍家の自選集として上皇に奉じられた。ちょうど臨時税を断り、京とぎくしゃくしかけた時期だったが、歌集の献上が功を奏したのか、今日、幕府と朝廷の間は円滑にまわっている。朝盛との愛が歴史のかげで実を結んだと思いたかった。
六月、真夏の鎌倉の街に、陳和卿という宋の工人が現れた。この宋人は、頼朝が東大寺を再建した際、大仏の鋳造を成功させた鋳物師である。
頼朝は、高度な彼の技術に感嘆して対面を許したが、当の和卿は、
「鎌倉殿は武人にして大勢の人間を殺めた人物。その罪業は重く、私がお会いするには憚りあります」と断った。頼朝は仕方なく、使者を通じ甲冑や馬、金銀を与えたという。
父の死後、この逸話を聞いた実朝は、
――よく、あの父上に殺されなかったものだ。
と感心した。
当時の和卿の人気は絶大で、俗受けする彼を罰することは頼朝でもできなかったらしい。廉潔恬淡の人物とされる和卿は、褒美として与えられた荘園を東大寺に全て寄進した。が、この「全て」という言葉には「私が糊口をしのぐ分を除いて」とつけ加えられる。後年、彼は東大寺の荘園経営に口出しした上、建材や荘園の横領などが発覚し、寺を追い出されている。大仏鋳造の技術はともかく、誰もがうさん臭いやつだと怪しんだ。
その彼が、街の人々の話題を一通りさらったあと、当地の主である実朝に面会を求めに来たのだ。
――西国で生きづらくなったから、鎌倉の私に庇護してもらいたいんだろうな。罪人よばわりした相手の息子に、今さらどういうつもりだろう。
聞けば、実朝のことを前世の尊師の生まれ代わりと言っているらしい。実朝は、ますますうさん臭い男だと思った。しかし、亡き父も大仏のことで世話になっている。彼を無碍にはできず面会を許した。
数日後、御所に参じた和卿は、実朝を見るなりひれ伏すと辺りかまわず号泣した。
「まさしく、あなたさまは私の師であります。宋がまだ南北に分かれる前、医王山で私が門弟としてお仕えしていたのを覚えておりますでしょうか」
和卿の大げさな仕儀に、実朝は苦笑した。
「いや、全然。東大寺の供養のとき、父にその話をすれば良かったね。私は幼くて南都には行かず、鎌倉で留守番をしていたが」
和卿は涙を流しながら、
「汗顔の至りにございます。六年ほど前、夢のなかに師であったあなたさまが現れ、この趣を告げられたのです。まったく、今日までの無沙汰、申し訳なく存じます」と、流暢に答える。
――まったく夢のお告げというは、便利なものだね。
実朝は心底呆れ、彼を懲らしめたくなった。
「そなたは、東大寺で荘園の収入や建材を横領したそうだね。それも、自分が故郷に戻る唐船をつくるためだと」
和卿は驚いたように顔を上げた。
「それは誤解でございます。東大寺の僧侶は、私をよそ者として嫌い、あらぬ罪をでっち上げ、私を追放したのです。ただ、唐船といえば、私は東大寺の経営の一助に、寺船を仕立て外国と交易をしてはどうかと進言したことがあります。それをどこでどう曲解されたものか。いえ、これも私の不徳の致すところであります」
なるほど、つじつまはあっているが、実朝は和卿を信用できなかった。
自分の周囲には、さまざな思惑をもった人間が寄ってくる。自身、十分に注意しているが、それ以前に義時らが疑わしい人物を排除する。今回も広元が仔細を諮問したはずだが、
――それをよく、すり抜けてきたものだ。
さすがの広元も判断が鈍ることもあるらしい。
「して、そなたの望みは何だ。私に会って、それだけで満足ではなかろう」
実朝が意味ありげに促すと、和卿は、これは心外だといわんばかりに前世の子弟関係を言いつのり、薬師如来(医王)を崇め、毎日読経に明け暮れていたことを昨日のように語り出す。
「導師さま、どうぞ思い出して下さいまし」
和卿の演技は迫真に迫っていた。自分がつくりあげた大うそに、自身もからめとられた者特有の目をしていた。
――何だか、面倒くさそうな男だね。
叔父の義時が思いそうなことを思ったが、
「それほどまでに言うのなら、そなたが鎌倉に滞在することを許すよ」
彼の鋳物師としての腕は惜しむものがあり、寺院の仏像の修理でもしていれば食べるには困らないだろう。実朝は些少の褒美を与え、取り合うことはなかった。
和卿とは再び顔を合わせることはない、そう思っていった実朝だったが、後日、義時が自分のもとへ訪れ、
「突然のことで驚かれると思いますが、幕府の経営をより安定させるため、私から提案があります。近い将来、宋との交易を考え、由比ヶ浜に船泊りをつくるのはいかがでしょう。また、せっかくこの鎌倉に、宋の工人が訪れているのですから、陳和卿に唐船を造らせてはいかがでしょう」と言い出したのである。
叔父の申し出は確かに突然だった。実朝は驚いて、
「唐船って、どれほどの大金や労役がいると思っているの? 奥州(広元)は? 奥州が反対するよ」
「いえ、奥州は賛成しております。そもそも、和卿を見どころがあるとして御所に招いたのは、この私ですから」
と澄まして言う叔父に、実朝は気付いた。和卿が自分に謁見できたのは、彼に言いくるめられた義時の根回しによるもので、さらに、叔父の根底にある三浦への屈折した思いを。
今年一月、叔父は御家人のなかでは破格の従四位に昇進した。けれど、その出自の低さから、かつての主筋、三浦義村へむけられた複雑な感情は、地位や役職を越えてもぬぐえぬものらしい。三浦半島の主たる義村は本拠の三浦三崎を始め、いくつもの港や船を持ち、西国や奥州との交易を行っている。そんな三浦を越えようと、義時は鎌倉の海に港を整備し、外国と交易することを考えたのだ。
その証拠に、
「造船奉行の役職には推薦したい者がおります」
海や船のことに関していえば、三浦義村が幕府内で最も詳しいだろうに、彼をみごとに外した。
「南宋への交渉役と随行者は六十名ほど、すでに交名は揃えております」
実朝は目を見張った。
陳和卿の大言壮語は幕府の重臣を巻き込み、夢のような大船を現実の世界に生み出そうとしている。
――叔父上ともあろう者が、心の隙をつかれたか。
和卿は、実朝にも医王山での子弟関係を言いつのって近づこうとした。将軍家の薬師如来への信仰をどこかで聞き及んできたのか、人の心につけ入るにぬかりない。
――陳も大人しく仏師の務めを果たせばよいものを。
大仏鋳造という国家の大事業を為したあの男は、単に物欲や財欲からではなく、人を動かす、貴顕をも動かすという快感を忘れられず、唐船造りで権勢を振るうという高望みを持ったのではないか。そこに、義時の野望が一致したのだ。
けれど、実朝の思案をよそに、
「御所、私の話をよく聞いてください」
主君の不安を払拭しようと義時は膝を乗り出し、海運と交易の構想を説く。
日本と南宋の間に正式な国交はないが、経済的な交流は幕府が担うべきだと、
「例えはわるいですが、あの平相国や奥州藤原氏の例があります」
平清盛は祖父の代から日宋貿易に辣腕を振るい、西海においては水軍という名の海賊をたばね、豊富な財力により朝廷での地位を得た。宋銭を日本に持ち込み、貨幣経済を浸透させたのも彼らの功績である。奥州藤原氏も宋や渤海との交易で巨万の富を得ると、京の公家どもへ賄賂を贈り、鎮守府将軍の官職を得て名実ともに奥州の支配者となった。
「平氏や奥州藤原氏が為したことを、我らに為せぬことはありません。まぁ、南宋との交易には、まだまだやらねばならぬものがありますがーー」
得々と述べる義時を前に、ふと、思い出すものがあった。
陳和卿の面会の前日、朝廷から、京で無法を働いた賊徒らを押し付けられた上、「蝦夷ヶ島(北海道)に放逐せよ」と命じられた。実朝が沙汰した件だったが、鎌倉へ送られてきた五十人の罪人のなかには海賊も含まれていた。
彼らを清盛のように統轄できれば、幕府にとって水軍と富を同時に得られるのである。朝廷には賊徒の征伐のためと申請し、鎌倉にも水軍を組織する、奥州や蝦夷ヶ島、西国との海路を確立し、いずれは南宋との貿易も――
この壮大な計画には理もあり、夢もあった。
「おもしろそうだね。相州がそれほどまでに言うのであれば、造船の許可を与えよう」
その年の十一月、陳和卿の指揮のもと、由比ヶ浜で唐船の建造が開始された。
翌年四月、晴れ渡った空の下、由比ヶ浜では完成した唐船の進水の儀が行われていた。
巨大な船を海に浮かべるべく数百人の人夫が集められ、陳和卿の音頭で力の限り引き綱をひく。
実朝は、そのようすを式典用のたっぷりとした大幕のなかから眺めていた。
幕内には将軍家を中心に、執権の北条義時、政所別当の中原広元以下幕府の錚々たる顔ぶれが並ぶ。
一同は、眩しい初夏の日差しに照らされながら、唐船が大海原に浮かぶ姿を待ちわびていた。
「まだか、まだか」
「いつまで待たせる気だ」
御家人たちは冗談口を叩きながら、期待に胸を膨らませていた。
しかし、巨大な唐船は、天中にあった太陽が西に傾いても、いっこうに動く気配がない。
「今少し、今少し、お待ちを」
和卿が額の汗をしたたらせながら、平伏する。
――これで、船が浮かばなかったら、誰が責任をとるのだ。
列座の御家人たちは段々と落ち着かなくなり、次第に夢から覚め始める。華々しく始められた式典だけに、実朝も暗澹たる気持ちになった。叔父の顔を見ることもできず、二刻ほど経ったのをめどに御所へと還った。これを機に御家人たちもぞろぞろと浜を後にした。
砂浜に足跡だけが残るなか、義時は一人、幕のなかに留まり、夕映えに照り輝く巨船を睨みつけるように見据えていた。
今ごろ己れは、進水に成功し、悠々と海へ漕ぎ出す唐船を誇らしげに見ていたはずではなかったか。
「今少し、今少し、お待ちを」
和卿の言葉を、義時はすでに信じていない。
しかし、この場から立ち去ることもできずにいた。
伊豆の片隅で生を受けた己れは、この鎌倉に出て、世界の広さを知った。だが、己れが幕府内での権勢を高めれば高めるほど、逆に世界はしぼんでいった。
小さくなった世界は、己れに見たくもないものを見せつけた。
権力の穢土を。
この唐船は、義時に再び世界の広がりを見せ、解放と浄化を与えてくれるはずだった。
しかし、結果は目の前にある通りだ。
義時の夢を乗せた船は浮かぶこともできず、彼に屈辱を味あわせている。
困苦の連続であった彼の人生のなかで、妻と別れたときや畠山重忠を失ったときとはまた別の、苦い苦い思い。それは器量人の彼が始めて出会う挫折という体験だった。
――これを機に、私の幕府での立場はどうなる。
怒りと、今まで味わったことのない恐れ。
気づけば辺りは暗くなり、陳和卿の姿はどこにもなかった。義時は家来を遣って探させたが、以降、彼が鎌倉の街に姿を現すことは二度となかった。
唐船の進水の失敗に、義時は幕府の対抗勢力の反撃を覚悟した。この機を捉え、己れの地位を脅かすに違いないと。しかし、実際に目の前に現れた反撃の相手は、彼の予測を越えていた。
その相手とは、姉の尼御台だったからだ。
五月、鶴岡八幡宮の別当定暁が腫瘍を患って死んだ。その後任に、姉は、先代頼家の遺児公暁を充てると言い出した。尼御台の邸に呼ばれ、すでに決定されたものとして伝えられた義時は驚愕し、そんな弟へ、姉は、
「将軍家にもお許しを得ています。先月、ともに法華堂へ参り、故殿へお伺いをたてましたところ、その夜、故殿が夢枕に立たたれ『是』とおっしゃってくださいました。奥州にも相談しましたが、何も問題ないということなので、今日そなたに報告します」
「なぜ、まず私に相談してくださらなかったのですか」
「多忙なそなたを患わせたくありませんでした。それに、私と四郎には日ごろから相通じるものがあるでしょうから」
否やはないでしょうねと言う。
――姉上、この機を待っていたのですか。
義時が疑うように上座の尼御台を見ると、
「四郎、そなたは子だくさんで羨ましい。太郎も北条の家督として立派に成長し、下の子たちも元気で何よりです。けれど私は――」
姉は言葉を区切り、庭先の濃い緑に目をやる。それから、弟の顔に視線を戻すと、
「四人の子のうち三人までを失い、孫も二人ほど殺されました。まぁ、妹たちのことを考えれば、私ばかり不平を言ってばかりもいられませんが」
阿野・畠山・稲毛――彼らに嫁いだ妹たちのことを言う。
これも何かの因果応報か。
和田合戦のさなか、実朝につきつけた復讐の矢が、あらぬ方角から返し矢となって義時に迫った。
「四郎、そんな顔をしないでください。私はただ、数少ない孫を手元に置いておきたいだけなのです。何の問題がありましょう」
姉は満面に笑みを浮かべ、義時は返す言葉もなかった。
母から叔父とのやりとりを聞いた実朝は、笑いをこらえるのに必死だった。
「さすが、母上」
人の弱みにつけ込むのが上手いのは北条の血か。
「四郎にはちょうどよい機会だったのです。あの子はこのところ慢心が過ぎましたから、ここで少し懲らしめないと、かえってよくありません」
義時は今年一月、朝廷より右京大夫に補された。有名無実の名誉職である上、御家人たちから、
「鎌倉殿を支える立場で、都の警護役の長とは何ごとだ」
と、反感を買った。本人は尼御台や実朝を立て自分は影に徹しているつもりでも、唐船の件を含め、最近はその役割からはみ出しかけていた。
尼御台は弟を憂慮し、
「今一度、私たちの関係を見直す機会があってもいいでしょう」
唐船の進水の失敗をきっかけに、義時が抵抗勢力から足を掬われてはならない。また、弟の躍進で夫の偉業がかすむことも、実家の北条が巨大になり過ぎることも望まなかった。
初代将軍家の妻という立場から、幕府と実家双方の安定のために知恵を尽くす。
こんなとき、実朝は母の偉大さを知るのである。
それにしても、実朝は母に謝らねばならない。公暁を猶子、我が子としつつ、
「母上に、孫の顔を見せることできなくて、申し訳ありません」
女性を受けつけない体ということは、どれほど母を落胆させているか。男と女が婚姻すれば、子が生まれるのは自然のことなのに。
「自然、といいますが、その自然をねじまげたのは私たち。この母にも責任があるのですから」
男児を待望するあまり、人智を越えた呪法を修した。
実朝の体はその罰だったのだろうか。いや、罰などではない。
「あなたは私にとって神仏の恵みですよ。それに、子をなさなくとも、人を愛するということができたではないですか」
実朝は驚いて母を見た。和田の乱から四年、母は朝盛との恋を許してくれようとした。
「子をなすばかりが愛の証しではありません。愛が二人の間だけで完結してもよい、いえ、愛が片一方のものでもよいとすら、私は思います」
将軍頼朝の子を産んだがゆえに、今の地位を得た母の言葉とは思えない。
しかし、
「私は夫以外の殿御は知りませんが」と言い訳めいた母のもの言いで思い出した。かつて、朝盛が寝所で語った母の秘密を。
「例えば、母を亡くして泣いている子に、乳の出ぬ乳房を与えるような、実はなくとも不毛と呼んではならないものがあるでしょう」
その言葉で、母も臣下との恋に悩み、疑い、最後には肯定したことを知った。
「ありがとうございます、母上」
実朝は感謝の思いで胸がいっぱいになった。
ただ、母の言う乳房という例えに、ちょっと照れる。
――つい、いろいろを想像しちゃうよ。
母と女恋人の関係がどれほど深きにあったか知るすべはないが。
そんな子の心を知らず、尼御台はやさしく微笑んだ。
「それより、公暁に会えるのが待ち遠しくて」
実朝はここ数年、健康を保ち、将軍としての地位も安定している。重臣らとともに幕府をとどこおりなく運営し、鎌倉の街もすっかり落ち着いている。そのせいで母の公暁へのわだかまりは払拭されたようだ。
「りっぱに成長した孫の姿を見るのを今から楽しみにしています」
尼御台には三人の孫がいるが、公暁がもっとも年長である。
先に誅殺された一幡や千寿を合わせると、五人の孫を頼家は残してくれた。
そう考えれば兄の多淫も親孝行といえ、実朝にも救いとなっていた。
六月、大津の園城寺より、修行中にあった公暁が鎌倉へ下向した。挨拶のため御所へ参じた彼を、尼御台や実朝が笑顔で迎え、その場には執権の義時も伺候した。
公暁はこの年、十八歳。
剃りたての頭部が青々として、爽やかな印象をあたえた。鎌倉を去ってから六年、面立ちはすっかり青年のそれで、さすが源氏と北条の血をひいているだけあって、顔立ちも整っている。
「まぁ、あの子(頼家)によく似たこと」
六年ぶりの対面を果たした尼御台は、心揺さぶられたようにつぶやいた。
園城寺でも前将軍の子息として何不自由なく過ごしていたのだろう、端正な姿のどこにも卑屈なところはなく、ただ、彼の横顔に一片の陰りを見てしまうのは、自分たちの都合で西国に遠ざけた心やましさのせいだろうか。
「将軍家、尼御台さま、右京兆どの、お目通りが叶いまして恭悦至極にございます。また、この度は若輩の身で鶴岡八幡宮の別当職をお授け頂くとのこと、まことに恐縮の至りでございます」
公暁が丁寧に挨拶すると、尼御台が涙ぐむ。
「そんな堅苦しい言葉は使わないでください。私たちは家族なのですから」
実朝もやさしくねぎらった。
「西国での暮らしはどうだった? 慣れないことも多くて、大変だったでしょう」
公暁は穏やかにほほ笑むと、鎌倉から遠く離れていても三人の恩恵に感謝していたと述べ、都でも関東の御家人が多数在住しており、何も困ることはなかったという。
彼は一刻ほど園城寺での暮らしや京のようすなどを報告して、退出しようとした。
「あ、もう行ってしまうのですか」
尼御台は引き止めようとしたが、
「私は今日からこの鎌倉に住まうのです。尼御台さまのお好きなときにお呼び頂ければ、いつでも参上致します」と言って、公暁は御所を後にした。
――そつがなさ過ぎて嫌みだな。
品定めの眼で公暁を観察していた義時は、何とかケチをつけたかったが、それくらいしか思い浮かばず、黙っていた。
義時の父時政は頼家廃嫡の張本であり、自身は公暁追い出しの張本である。公暁との関係を今から再構築するのは多くの困難が予想されたが、
――あれは全部、父の所業だ、ということにしてしまおう。
亡き父に全責任を押し付けることを考える。
「清しい若者に成長しましたね」
「あのようであれば……」
母子が目配せし合うのを見て、義時はため息をついた。
官僧たる鶴岡八幡宮の別当に公暁を充てようとすれば、朝廷へ僧位僧官の申請、公家どもへ賄賂の準備と、面倒なことは全て彼の背にのしかかる。
――俺が影ひなたに奔走していることを、姉からよく言ってもらわねば……
公暁の父、頼家を今でも快く思わぬ御家人は多く、そんな彼の地位を安定させるため、八幡宮の僧侶や神官、幕府重臣への根回しやら何やら、義時の暗躍はすでに始まっている。
我ながら、こういったことが得意すぎて嫌になってしまう。
「四郎は本当に優秀です。これ以上頼もしい味方はないですね」
弟の献身に、尼御台は満面の笑みで実朝に言った。
初代将軍の未亡人と今将軍、彼らに仕える執権の主従関係――それは幕府にとって本来のあり方だった。
九月四日、鎌倉に季節外れの暴風が襲来し、街中の家屋を倒壊させた。大倉の御所も東西の回廊を破壊され、ただでさえ忙しい義時は鎌倉の再建に奔走しなければならなかった。
実朝も、被害にあった寺院や御家人たちへの見舞いに忙殺されたが、それらの務めが一段落したころ、三浦義村から三浦三崎への渡御をすすめられた。
「御所の修理が終わるまで、ご不便でしょう。もうすぐ十三夜ですから、海上の月見でも楽しみませんか」
多忙な叔父を横目に自分だけ遊びに行くのも気が引けたが、主人が不在のほうがはかどる仕事もあるだろう。義村とは久しぶりにじっくり話したいこともあったので、招きに応じることにした。
父が生きていたころ、家族ぐるみで三浦三崎へ出かけたことを思い出す。
海上に浮かべた船のなかで管弦の宴が催され、両親や兄姉たちと楽しんだが、義村のもてなしはこの上なく洗練されていた。彼は歌を詠み、楽器を奏でたが、それは名門と呼ばれる人間の余裕なのだと子どもながらに思った。母を含めた北条の人たちは皆、美しく賢く、運にも恵まれていたが、彼らが逆立ちしても適わぬものが、そこにはあった。
実朝が歌を詠むようになったのは、歌人でもあった父が鎌倉に持ち込んだ京風の名残りで、その風雅を解する御家人は東国では限られていた。父が三浦一族を重用したのは当然だと思う。
それに反発してか、母や叔父の義時には雅なものに対する警戒心があった。
とはいえ年齢が下れば、北条にも新たな気風が生まれるのか、叔父の時房は頼家の近習として蹴鞠の名手となり、泰時は実朝の歌仲間としても親しい。
――北条からこういう人たちが出たことを素直に喜べばいいのに。
もっとも、三浦や時房たちは、弓馬の鍛錬の上に風雅の心を解していたが、武芸にあまり関心のない実朝は、いまだに義時から、
「武士の棟梁たる者、もっと武芸に目を向けてください。ご自身が精進しなくとも、弓馬の名人たちを賞するだけでも良いのです」と、口をすっぱくして言われる。
翻って、亡き兄の頼家は流鏑馬や笠懸を観覧することを好んだ。狩猟もよく主催して、成績の良い者たちに褒美を与え、それによって主従の紐帯を強めようとした。
――でも、結局、皆に裏切られたんだよね。
武士が望む武士の棟梁とは何なのか、自分が将軍家としてどうあれば良いのか、その問いは未だに実朝を迷わせている。
十月十一日、公暁が鶴岡八幡宮寺の別当に任官して初となる、本殿への参拝を果たした。
また、宿願があるとしてこの日から千日の間、昼夜を問わず祈りを捧げるため寺に籠ると発表された。
「若くして鎌倉第一の阿闍利となった身を深く慙愧し――と仰られて」
「ほう、あえて己れに厳しい修行を課すとは、将来がお頼もしい」
人々は公暁の決意を好意的にとらえた。
冬に入り、義時は広元から相談を受けた。長年の相方は、眼病の進行を理由に、将軍家へ出家を乞いたいという。彼は少し前から体調不良を訴えていたが、広元も幕府に仕えて長いことを思い知らされる。気心の知れた人間が力を衰えさせるさまは、自分自身の力が衰えるような焦りを覚えさせる。実際、このところの自分は、幕政に関する職務より、姉や甥のための下働きが多く、その疲労も心地よいものではない。
先日、将軍家は三浦三崎へ遊びに出かけたが、ただの月見でないことは彼にも知れた。
そこで甥は、かつて己れが打ち明けた水都の構想を義村に伝えたという。
由比ヶ浦に交易用の大船泊りを建造する、幕府直属の水軍をもつ、南宋との貿易を始める――義時の夢を、実朝は三浦に語り、あまつさえ、
「こういったことは、やっぱり三浦介に任せたほうがいいと思うんだけれど、どうだろう?」
やつへ、水軍の奉行を任せると匂わせたらしい。
これに、義村は、
「由比ヶ浦に船泊りですが。何と言うか、右京兆どのはあまり海のことはご存じないようですね。あの辺りの湾は港をつくるのに相応しくないのですよ。こういっては何ですが、唐船のことも進水できるかどうか心配していたものです」
「何だって! そう思っていたならどうして先に教えてくれなかったの!」
「名工とされる宋人が率先しているのですから、私の知らぬ外国の技術でもあるだろう、そう思って差しでがましい真似はできませんでした。しかし、あの宋人は海や船に関しては素人だったようですね。いえ、大仏の件も、聞くところによると、鋳造の途中で多数の死者を出した上、十数回も失敗してようやく完成させたとか。陳自身、どこまで信用のおける人物だったかと」
やつはしれっと答えたそうだが、絶対に義時の失敗を望んでいたに違いない。
義時は腸が煮えくりかえる思いであった。
そんな不満を抱える叔父の心情は、実朝にも伝わっていた。
実朝は、広元の陸奥守の闕を彼に兼任させるよう朝廷へ働きかけていた。叔父への慰撫である。加えて幕府内の人材不足は深刻だった。けれど、これとて義時のえこ贔屓が招いたことだ。同じ名門の御家人でも、小山のような治承以降に知己となった武将は国守に推薦しても、三浦のような昔からよく知っている人間ほど冷遇する。特に、義村に関しては――
それは実朝も十分に察していた。
――お互い、過去の遺恨がある上、性根が似すぎていることが一番の理由なのだろうけど。
もっとも、義時の嫡孫は義村の孫でもある。孫の代になれば両家のわだかまりも消え、北条と三浦は互いに協力し合えるだろう。それを自分は助けなければならないと、肝に銘じていた。さらに、
――三浦が代々受け継いでいる能力を生かさなければ、宝の持ち腐れだ。
義時と義村、彼らの権勢の均衡をとるべく動いていた。
また、義時の三浦への警戒心が嫉妬と羨望の裏返しであることを知るがゆえに、
――そんな不毛から叔父上を解放させてあげたいな。
と、考えていた。
けれど、それが義時にとってどれほどの不遜であったか、実朝は気づいてなかった。
――御所は人の気持ちがわからない。
義時は、甥の心の鈍さに苛立った。
無垢だとか、無邪気とかいうものがどれほど人の心を傷つけるか。その性質は、市井の者なら許されるだろう。しかし、実朝は鎌倉の主なのだ。
それが、武家の棟梁としての立場を危うくするものだと、どうしてわからぬのか。
もっとも、
――その責任の一端は我々にもあるんだろうな。
中央政権から力づくで独立を果たした東国の武将たちは、己れらが戴く主君の育て方を知らなかった。
初代頼朝公は、動乱の最中でも成人の武将として取りつくろうことができた。何より、本人に稀有なる素質があった。しかし、それに気付かぬまま、我らは二代目頼家の育て方をあやまった。さらに、頼家の過激で強烈な性格に手をこまねき、その反動で、再び実朝の育て方をあやまったのだ。
比企氏に長男を奪われた姉と父は、次男の養育を身内で固めた。
父には父なりの思惑があったろうが、姉をはじめとする、実朝の養育にかかわった女性たちの願いは素朴に過ぎた。
幼きころは「素直でやさしい御子になりますように」
長じては「徳高く、慈悲深き主君になりますように」
母らの願いのとおり、実朝は(時々のかんしゃくはさておき)無垢で情深く、美しいものに敏感な人間に育った。けれど、その分、人のなかにある醜いものに対し、まったく鈍感だった。
反して、頼朝から頼家に引き継がれた陰険で疑り深い性質――二人には幼少時、血縁から引き離されて育てられたという共通があるが、それは王者にとって必要不可欠なものだった。
人の心の機微を読む、という点で。
もっとも、頼家は乳母の一族から無制限にちやほやされたせいで、その能力は半端なものとなった。父とは違い、人の心を掴むまでに至らず、臣下を十分に従えられずに、自滅の道を歩んだ。
思えば、初代源頼朝公とは真に奇跡の存在だった。公ゆえに、この関東に武家の世をもたらすことができたのだ。それを考えれば、
――御所と故殿と比べるのは酷だよな。
と、己れに言い聞かせつつ、甥への歯がゆさは残る。
実朝が公暁を猶子に迎える前だったか、まだまだ子どもっ気が抜けなかったころのことだ。御家人のなかに、桜井五郎という鷹狩りの名人がいた。
あるとき、彼は主君の御前で鷹飼いの故実、口伝を述べた。
ついでに、
「俺が飼いならせるのは鷹ばかりじゃありません。百舌を手なづけて小鳥を捕まえることだってできるんです」と、自慢話を始めた。
実朝は目を輝かせて、
「本当に? 本当だったら、私に見せてよ」と言った。
桜井は、
「今すぐには無理ですが、後日、用意の上お見せしますから、楽しみにしてください」と言って、退出した。
義時はその場に居合わせてなかったが、翌日、当の甥から相談に呼ばれた。
「何の用だろう」と思いつつ御所に参じたが、実朝はもじもじして、すぐに本題を入らない。数刻のあいだ雑談の相手をして、甥はようやく鷹狩りならぬ百舌狩りの話を切りだしたのだ。
「――桜井から百舌狩りの話を聞かされて、思わず『見たい』って言ってしまったけど、そういう他愛のないことをねだるのって、ちょっと子どもっぽかったかな」
将軍家として相応しい振る舞いだったか、心配になったらしい。
百舌は七寸(約二○㎝)ほどの小型の鳥である。
義時は、
――そんな馬鹿な。百舌で小鳥を捕るなんて、東国武将にありがちなホラだな。だのに、それを信じる御所も御所だ。
と、呆れつつ、微苦笑をもらした。
自分へ相談してくれた甥の正直がかわゆらしく、十五歳(満十三歳)という年齢も年齢だったので、まぁ、大目に見たのだ。
「桜井はその道の名人ですから、うそを吐くことはないでしょう。ただ、御所との会話がうれしくて、つい話が大げさになってしまったのかもしれませんね。であれば、彼にとって不名誉なこともありましょう。後日、内々に訊ねたらいかがでしょうか」
桜井に恥をかかせてはいけないという気遣いと、また、幼い主君へ、
「君主とは思うまま振る舞ってはならず、臣下に対する配慮が必要なのです」
と、教え諭すつもりだった。
だが、義時の教えが終わらぬうち、桜井五郎が南庭に顔を出した。
餌袋を右の腰に、百舌一羽を左手に乗せている。
――うそだろう。
義時のほうが驚いた。つい、興奮ぎみに、
「御所、桜井が百舌を連れてきました。ぜひ、御覧になりましょう」
と言って、御簾を上げさせた。
噂を聞きつけ、他の御家人たちもぞろぞろと集まりだす。
「さぁ、御所、お目汚しですが」
桜井は堂々とした歩みで前庭の中央に出た。
彼の視線の先にあったのは植栽の茂みで、なかからちゅんちゅんと子スズメの鳴き声が聞こえる。巣立ちしたばかりで、まだ餌のとれぬ子スズメたちが隠れ、遊んでいるのだ。
狙いを定めた桜井がさっと左手をあげる。百舌は一矢となって茂みへ飛び込んだ。
ばさばさと羽の音がし、ついで百舌が茂みから姿を現したときには、両足の爪にしっかりと子スズメを捕えていた。
「おおっ」
周囲の者は感嘆の声を上げた。まさかと思っていた義時も。
「大丈夫? 生きている?」
まっさきに子スズメを心配した実朝だったが、義時はそれを少し不満に思った。
百舌から獲物を取り上げた桜井は、
「死んでませんよ。ほら」
と、得意げにを見せるが、手のひらの子スズメは瀕死の状態である。
実朝は慌てて、
「死なせちゃだめだよ。ちゃんと手当して、生き返らせるんだよ」
と、命じた。あとで、手元で飼うつもりなのだ。
「あぁ、わかりました」
桜井は無造作に死にかけの子スズメを懐に入れた。
義時は、
――桜井のうそつきめ。絶対、あとで元気な子スズメとすり替える気だろ。
やつの魂胆を見抜いたが、黙っていた。
名人の言葉を信じた実朝は素直によろこび、義時に命じて剣を下賜させた。
「その子スズメも桜井が育てたら、狩りができるようになるのかな」
「できないこともないですが、スズメに捕えることができるのは、青虫くらいです」
「青虫はいやだな」
「その点、この百舌は何でも捕ってきますよ。小鳥どころか、雉だって捕りますよ」
と、桜井が調子に乗って吹く(・・)ものだから、さすがに義時は、
「御所、これは冗談ですからね」と耳打ちした。
主君の甥は「わかってるよ」と言って、目を細めたが、
――どこまで、わかっているのか……
義時は、自分の教育が不首尾に終わったことを悟った。
――百舌だって、育て方で鷹の真似ごとくらいできるようになるんだがなぁ。
とは、実朝や周囲の大人たちへの皮肉ばかりではなく、己れへの自嘲、自負でもある。己れは他人と時勢に揉まれ、すっかり陰険で疑り深い人間になったが、今や、幕府の実質の経営者である。
畠山の討伐、父親からの家督簒奪という苦い経験はほんの前年のことで、一方、当時の実朝は、身内の女性や気の利いた近習から心身双方を守られ、傷一つ負っていない。
――つまり、我らの御所は苦労が足らんのだ。
その思いは、年月を経ても今なお義時の胸に残る。
ただ、実朝は父や兄とは異なり、人の心の機微が読めぬくせに、なぜか人の心を掴んでしまうところがあった。それは、君主としての才なのか非才なのか、彼にも計りかねた。
十二月も末、叔父から奥州就任の拝賀を受けた実朝は、これで今年の仕事も終わりと、翌夜、方違えを口実に永福寺へ出かけた。街の喧騒から抜けだし、わずかな近習を連れて御坊に泊り、夜が明けるまで歌を詠むのだ。
蒼黒の夜気に覆われる二階建ての本堂は、その両脇に薬師堂と阿弥陀堂を配し、真昼であれば金色の甍を煌めかせるさまは翼を広げた鳳凰に例えられる。
庭園は奥州平泉の毛越寺を模し、広大な苑池を掘るため、父の頼朝は京から庭師を呼びよせた。池には蓬莱山に見立てた島を浮かばせ、奇岩を置き、自ら庭石や植栽の位置を指示したという。御家人たちも郎党とともに木や石を運び、鎌倉中の武士が力を合わせて、この地に浄土を出現させたのである。
聖なる地景は夜の静寂に沈んでいたが、
「夜には夜の眺望があります。その風情をお楽しみください」
二階堂基行の言葉に、実朝はうなずいた。
この近くに邸をもつ彼が今宵の会を取りしきる。会の参加者は他に、御剣役の宮内公氏、結城朝光、北条泰時など、計六名、歌の上手ばかりであった。
時節がら花もなく、月も二十五日では明りに乏しく。
しかし、その分、星は強く輝く。
今宵の主題は冬の星であった。
暁まで歌を詠み続けようという趣向だったが、星空にあって寒さもひとしおだ。
屋内でも吐く息が白く、皆、寄り添うようにして酒で体を温める。手がかじかまぬよう、綿入れを厚く着こんだ人々は炭櫃をいくつも用意し、時折、戸を開け放しては夜空を観賞した。
大気が凍てつくせいか、空は澄み、星は冴え冴えと光を放っている。真冬の夜空のきらめきは何ものにも替えがたい。
真夜中、扉を開くと、昴が天中に輝いていた。
この星団は古来より王者の象徴、農耕と豊作を司る星として崇められている。
「ねぇ、すばる星って、星がいくつ集まったもの?」
実朝が訊ねると、
「六つだと思います」泰時が生まじめに答えた。
一か所に星が統べ集まるから、その名がついたというが、
「まるで、今宵集まった我々のようですね」
二階堂がうがったことを言い、皆が笑いさざめく。
実朝も我が意を得て顔がほころぶ。心通じ合う近習たちとの濃密なひと時、こういった時間の積み重ねが、主従の紐帯を強めると信じたかった。
「では、星のすばるにも負けないような、輝かしい歌をつくろう」
実朝が筆を持ち直した、そのとき、門のあたりから人の足音が近づいてきた。
会は密々に行われていたものを、誰かが後から聞きつけ、参会に来たのだろうか。
そう思って、人々の目が前庭へ集まる。しかし、僧坊から投じられた明りのなかへ現れたのは、顔を険しくさせた義時の姿だった。彼は人々のなかに息子の顔を見つけるとじろりと睨みつけ、それから視線を実朝に注いだ。
「御所、折いってお話があります。人払いを」
義時の迫力に気圧された人々は、実朝が何か言う前に一礼し、座を立った。泰時が心配げに、その場に残ろうか迷う素振りを見せたが、父親から「お前もだ」と促される。
義時は供人を庭に控えさせたまま濡れ縁から部屋に入ると、木戸を後ろ手に閉め、手近な円座に腰を下ろした。
灯台のあかりに照らされる義時の顔は赤みがかかり、体からは酒気が漂っていた。
――叔父上、酔っている?
先ほどまで義時は、陸奥守の就任祝いに部下の邸で酒宴を献じられていた。夜も更け、彼がいい気分で自邸に帰ると、実朝の歌会を知らされた。
酔いが一気に覚めた――と思ったが、そうではなかった。怒りに駆られるようにして、この寺にやってきたのは酒の昂ぶりによるものだ。
けれど、それでなお彼の居ずまいは、端然として威厳を失わず。
灯は、義時の影を背後の壁に大きく映し出した。
「御所、この寺院が建立された理由をお忘れになられたのですか。なぜ、こんな夜に歌会など催したのですか。故殿は建立時こそ、熱心に差配をなされましたが、造営後はほとんどこの寺に足を運ばれることはありませんでした。そのわけをご存じでしょう。――穢れを恐れてのことです」
永福寺建立の目的は、大倉の東北の鬼門を封じるため、さらに千里先の東北、奥州の数万の怨霊から身を守るためだった。
「生前の幕下がどれほど彼らを恐れていたか……」
頼朝は奥州に無理難題を突きつけ、血の繋がった弟や彼をかばった藤原氏を攻め滅ぼした。その心疾しさ、行いの醜さを秘匿するため、この地へ浄土をつくったのだ。
ここに埋まっているのは頼朝の穢土だ。
そして、穢れは穢れを呼ぶのか、当寺の薬師堂の供養中に、安田義資が艶聞事件をおこし、この機を捉えた頼朝は同じ源氏の義資を梟首し、一族を滅ぼした。
頼朝の穢れはいっそう深まった。
だのに、見た目の美しさに気を取られ、先代の頼家はこの庭で蹴鞠に興じ、当代の実朝は観桜の、星見のと歌会を催した。
寺の華やかさに隠れた父親の苦悩を理解しようともせず――
実朝は目の前の酒器を見つめながら、義時の話を黙って聞いていた。
永福寺が建立されたのは自分が生まれた、まさにその年、叔父も寺の造営に自ら柱や梁を運び、汗した御家人の一人だった。
実朝は、そっと義時の顔を伺った。
浅黒い肌に皺が深く刻まれているが、長い睫毛や高く整った鼻梁に、若かりしきころの美貌を彷彿とさせた。
再び視線を落とした実朝は、
「わかったよ。叔父上、私がわるかったよ」
素直に頭を垂れた。
けれど、唯々として肯う甥の姿は、かえって義時の胸を逆撫でした。
「わかってたまるか!」
彼は激昂して立ちあがった。
――誰よりも故殿のことを理解していたのは、この俺だ!
生前は最もそばで主君を支え、死後は義弟として彼の意志を引き継ぎ、この地を守り、幕府の興隆に尽くした。源頼朝という男に、どれほど我が身を捧げてきたか。それをどうしてこの甥は、簡単に「わかった」と言えるのだ。
何をわかったつもりでいるのだ。
――俺の気持ちなど、わかってない。
今だって、三浦と俺を天秤にかけ、もてあそんでいるではないか。
「なぜ、私が一番でないのですか」
見下ろす実朝の顔に怯えが走る。
その女みたいな――
もう、限界だった。義時は己れを抑えることができなかった。
感情のまま、酒膳を蹴飛ばし、甥の体へ掴みかかっていた。
「やめて! 叔父上」
酒器が砕け散るなか、身をよじって逃げ出そうとする実朝を背中から抱きすくめた。
義時の熱い息が実朝の耳に吹きかかる。
もがく甥の体を、胸板と右腕で抱き込み、空いた左手を上衣の脇に差し入れた。
「ひっ」
綿入れの上から胸をまさぐれ、実朝が短く叫んだ。
「ちっ」
義時は小さく舌打ちした。左手で実朝の袴のひもを掴み、右手だけで小刀を引き抜くと一気に断ち切った。
叔父の腕から解放された実朝は、床に手をつき、四つん這いのまま逃がれようとした。
だが、義時は激情にあっても狡猾だった。実朝の袴の後腰を掴んで膝まで落とすと、相手の足の運びに合せて引く。結果、己れは労せず、相手自ら袴を脱ぐのだ。
これに気付いた実朝に考える余裕はなかった。とっさに体をひねり、袴を引き上げようと手を伸ばした。けれど、片手だけで上体を支える姿勢はあまりにも危うく、腰を捉えた義時の腕が横ざまへ引き倒すに容易かった。
実朝の頭部はそばにあった炭櫃へ、がんっと音を立て打ちつけられる。実朝は眼がくらみ、仰向けのまま抵抗する力を失った。
義時は小刀を口にくわえ、甥の下腿に絡まる袴へ素早く取りかかった。足首の括りをほどいて下袴ごとはぎ取り、下半身へ屈みこむ。重ねの下着を一思いにはだけ、白い脚を露わにすると、両手を膝の裏に回し、大きく太ももを開かせた。
「――……」
実朝はとっさに顔をそむけた。
蛙のような醜い格好にされ、羞恥のあまり袖で顔を隠すほか、なすすべがなかった。
義時は力づくで甥の体を引き寄せた。相手の左足を己れの右膝で抑え込み、右の足首を肩に乗せると、自由になった両手で小刀を使い、実朝の下帯を断ち切るのだ。
ぶつりぶつりと音を立てる恐怖に、甥の体は硬直していった。
「もっと早くに、こうすれば良かった……」
義時はゆれる灯火の明りのなか、凝視する。
指先を実朝の中心へと差しのべ、何かを確かめるようになぞった。
「あ……」
吐息はどちらのものだったろう。
義時は肩にかけた実朝の足を放りだすように外して、破れた袴を目の前のむき出しの半身へかけた。そして、おもむろに立ち上がると、甥の体から離れ、部屋を横切り、扉を開いて外へと足を踏み出す。
実朝の大きく見開かれた眼は、袖越しに叔父の体を追った。
義時は凍てつく星空を背に、思い出したように振り向いた。
「私に犯されるとでも思いましたか」
軽蔑したように言い捨て、僧坊を後にした。
――叔父上、あなたはいつだって私を犯してきたではないか……
残された実朝の瞳から涙があふれる。
「誰にもさわらせなかったのに……」
呟くともなく呟き、我が身へ手をあてた。
翌日未明、実朝の一行は寺を後にした。御坊に置いてゆかれた上着の袖は濡れ、袴は刃物で引き裂かれ、周辺には酒器の破片が散らばっていた。これを見つけた僧らはさまざまに噂したが、後難を恐れ、寺の外に漏れることはなかった。
心に穢土を隠さぬ者はない。
永福寺での夜を境に、二人の関係は再び逆転する。
建保六年(一二一八)正月、尼御台は、新年そうそう我が子の体調を心配せねばならなかった。明確にどこがどうわるいというわけではない。日々の職務や行事はこれまでどおりに遂行しているものの、ふと見せる表情に陰がある。年頭の挨拶に訪れた際、気になってしばらく様子を観ていたが、後日、本人へ訊ねると、
「母上にご心配をおかけして申し訳ありません。でも、本当に何でもないのです」
実朝は尼御台の視線を避けるようにして言いつくろう。弟の義時に相談しても、
「いつもどおり政務にお励みになり、これといって障りはありません。姉上は心配しすぎなのですよ。それよりも、ご自身のお体のほうをお気をつけください」
六歳違いの弟から老人扱いされ、腹立たしいこと限りない。
かく言う義時は、年をとるごとに公私とも充実し、特に私のほうでは正妻の他に、若い妾を何人も得ている。そんな弟の行状を、
「男の人って、どうして年をとると、妻以外に妾を欲しがるのかしら。若いころは『お前だけだ。俺は他の男と違って生涯妾なんか持たない』なんて言うけど、ぜんぶ嘘」
と、妹に愚痴をこぼした。
義時は老いてなお繁殖力旺盛で、妾たちに何人も子を産ませている。
――男って、ずるいわね。
年をとっても、権力と財力を持つほどに、家族を増やすことができる。
――でも、女は違う。女が女のまま生き続けることはできない。
神仏の取り決めを不公平に思う尼御台だった。
弟と張り合う気持ちがあったのだろうか、後日、尼御台は再度の熊野詣でを発表した。
我が子の健康を祈るため、また、手元で育てていた稲毛の孫娘が京へ嫁入りすることが決まり、婚家先に送り届ける、よい機会だった。
二月、尼御台は末弟の時房を伴い、鎌倉を出立した。
鎌倉に残る実朝は政務や行事を静かにこなし、母の西上の前後、朝廷から官職を贈られ、権大納言の補任、左近衛大将の兼任と、昇進の速度を増している。が、これには京都の政が深く関わっていた。
上皇がまたも『頼朝の血統』を思し召しになり、まり姫をご自身のもとへ出仕させるため、親代わりとなる実朝の官位を引き上げる必要があったからだ。一方、幕府や実朝にとっても、姫の出仕話は僥倖だった。もし、上皇とまり姫のあいだに皇子がお生まれになれば、将軍家の家督として鎌倉にお越し頂くことで後継問題も解決するのだ。実朝たちは、京よりの使者に惜しみなく財物を贈った。
ただ、これに義時だけは、
「公家どもが将軍家へ官位を授けるのは、お礼目当てでもある」
と見抜き、広元を通じて実朝に諫言していた。
四月、熊野詣でを終え京に到着した尼御台は、稲毛の孫娘を嫁ぎ先へ送り届け、ほっと一息ついたところだった。
――せっかく京都まで来たのだから、石清水の八幡さまや清水さま、なるべくたくさんの寺社仏閣に参拝したいわね。
と、心弾む尼御台であったが、そんな彼女の宿所へ、上皇付きの女官が密かに使者を寄越し、
「一度お目にかかりたい」と対面を申し込んできた。
娘の入内話のときに似ているなと思ったが、もとより予想はしていた。
数日後、尼御台が対面した相手は、上皇の乳母であり近臣でもある藤原兼子という女官だった。上皇の信頼篤く、位まで賜れた彼女は卿二位と呼ばれ、朝政に隠然たる力を振るう女傑だ。
「お噂はかねてより伺っております」
「こちらこそ、こんなあばら家にわざわざお越しいただき、恐縮の至りに存じます」
一通りの挨拶のあと、卿二位は話題をまり姫のことに向けた。
「お会いできなく残念でしたわ。姫君も京へ上られればよろしゅうございましたのに」
卿二位の言葉に、尼御台はある種のひっかかりを感じた。娘のときもそうであったが、皇室から入内話が持ち上がると、関係の女性が直に対面し、容姿なり人品なりを見極めようとする。公家の娘相手ではそうはしないだろう。
「坂東の山猿が御所に紛れ込んでは困ります。どんな姫か確かめましょう」
そんな意図を読み取ってしまうのは田舎者の勘ぐりだろうか。
尼御台は一瞬だけ上皇の女官に疑いの目を向けてしまったが、卿二位は何も気付かなかったように、親しげな笑顔を寄越した。
「今日はお会いできましてようございましたわ。尼御台さまも私も、都鄙は違えど女人ながら主君を支える身です。お互い、似たような者同士、相談し合っていきましょうね」
尼御台は卿二位の言葉にまた別のひっかかりを感じたが、その日は和やかに仙洞の女官との対面を終えた。
しかし、卿二位とのやり取りはそれだけで終わらなかった。
後日、彼女から一方的に、
「将軍家の御母堂へ、院が位を授けたいとおっしゃっております。何と従三位に叙せられるということでございましてよ。つきましては、これに併せてお名前も授けられるとのことです。いくつか候補がありましたが、『政子』というお名前に決まりました。本当にもったいないことですわね」と告げられた。
尼御台が驚きで返事もできぬ間に、さらに卿二位から、
「院にお目通りを許されましてよ。私の口添えで」とまで伝えられ、末恐ろしくなる。
「とんでもない。私のような老婆など、院の御目を汚すだけでございます。どうか、お許しくださいませ」
尼御台は遠慮しようとしたが、卿二位は、
「では、私ともう一度ゆっくりお話をしませんか」と再び、宿所に訪れることになった。
応対する尼御台に、相手の要件など想像もつかず、
「姫君のことですが……」と言い濁されて、こちらの粗相で出仕話がふいになったかと、思わず身がまえた。しかし、卿二位は笑顔をそのままに話題を変えた。
「いえ、亜槐(大納言、実朝)のことを先に伺いましょうか。このごろのお加減はいかがでしょう」
思わぬ問いに、尼御台は戸惑いながら、
「お加減と申しましても、子どものころよりだいぶ健やかになりました。ただ、母親とは愚かなもので、いつまで経っても心配が尽きず、こうして熊野詣でに参った次第です」
「確か、お子さまはいらっしゃらないということですが」
この人嫌なことを聞いてくるな、と思いつつ、
「えぇ、十年ほど前、高熱を出しまして、医師からは諦めるように言われております」
さすがに口にしづらい言い訳だったので、女房にそっと言伝てさせた。
公家馴れした女房が故事を踏まえ、婉曲に伝えると、
「まぁ、そういう事情が。いえ、姫君御出仕のあかつきに、お生まれになった御子を将軍家の家督として下向させたいと聞くに及び、どうしたものかと。いえ、よくよく考えてみれば、随分と悠長なお作法でございますわね」
尼御台は驚いて卿二位の顔を見たが、彼女は平然として、
「将軍家とあろうものが、いまだに家督が定まらぬとは東国の方々もさぞ安らげぬことでしょう。もし姫君が院のもとへ出仕なさっても、男児に恵まれるとは限りません。それよりも……」ここで、卿二位はぐいっと膝を進める。
「上皇の御子をこそ、将軍家として鎌倉に御迎えしてはいかがでしょう。ちょうど主上の弟君で、西の御方(坊門信清の娘、信子の姉)がお産みになった親王殿下を、私がお育て申し上げておりますが――」
尼御台は必死で皇室と卿二位の縁戚関係を頭に浮かべた。
卿二位は西の御方を養女にしている一方、幼小時代から養育していた今上帝を、兄君である先帝を押しのけるようにして皇位につけた。譲位の背景には近臣同士の権力争いがあったらしい。先帝の母は彼女の姪(姉の子)にして、今上帝の母もまた彼女の姪(兄の子)だった。
しかし、叔父が父親の養子に入り兄となったため、その娘といえば血縁上は従妹である。血の近さより自身の利益を優先させた彼女のことだ、上皇が頼朝の血筋へ執着していることを考えれば、まり姫から男児が生まれた場合、その御子を帝位に就けると言い出しかねない。卿二位がまり姫の出仕を喜んでいるはずもなく、親王殿下とまり姫を強引に結びつけ、上皇のもとから遠ざけようとしているのだ。
さらに、自身が鎌倉と繋がることも役得多しと見たか、殿下が信子の甥ということにも目をつけ、手駒として養い君を東国へ送り込もうとしているのだ。
尼御台は空恐ろしくなった。院の威光を背にしながら、己れの権力のため、院の意向に背くことにも躊躇ない。ふと思い起こせば、継母の牧の方と同じではないか。
――京の女性って、なんて恐ろしいの。
これ以上関わり合うのはよそう。
尼御台は楽しみにしていた寺社巡りも諦め、逃げるようにして京を後にした。
残された弟の時房が、院の御前で蹴鞠の妙技を見せ、上皇のご機嫌をとったという。
六月半ば、左近衛大将に就任した実朝の、八幡宮拝賀に従う殿上人が京より下向した。
併せて、上皇から贈られた拝賀用の牛車や装束、調度の品々が届く。
実朝は御朝恩に感謝致しますと、殿上人を連日のように持てなし、彼らの贈り物や上皇へのお礼も華美なものを選りすぐった。
しかし、これらはもとをたどれば、御家人や庶民の費えである。
不満に思った幕府執権の義時は、近習を通じて主君に進言した。
「以前にも申し上げましたが、意地汚い公家どもは下心あって、将軍家に官位を授けるのございます。そんなやつらに誠意など見せるな、とまでは申しませぬが、少しは加減というものをお知りください」
実朝は昨年から叔父を恐れ、ろくに顔も合わせてなかった。
義時も何か伝えることがあれば、使者をたてた。しかし、この機会を逃せば、叔父を生涯、克服することはできないと思い、実朝は義時を呼んだ。
「任官のこと、右京兆の進言はもっともだけど……」
叔父が着座してすぐ本題に入ったのは、視線の先をどこに定めるか決めかねたからだ。
去年の暮れ、義時からの辱めの記憶は今もなお実朝を苛んだ。
その屈辱、羞恥は、思い出すたびに実朝を身もだえさせた。
けれど、あの夜、義時はふだん決して口に出さぬ本音を吐いた。
幕府や源家のためどれほど自分が尽くしてきたか、どれほど理不尽に心を殺してきたか、その上での報われぬ思い。そこには幕府執権でも将軍家の叔父でもない、ただ一人の苦悩する男がいた。
実朝は叔父を憐れもうとした。だが、すぐに思い直した。義時のしたことが私の所業であればこそ、それゆえ、自分は公の理によって彼を越えなければならない。
叔父の所業を自分は生涯許しはすまい。けれど、己れは彼の主君であり、武家の棟梁である。愛憎を乗り越え、幕府を率いる者として、この叔父に対峙しなければならなかった。
実朝は我が身に言い聞かせた。
――今、叔父上は幕府のために正しいと思うことを進言してるんだ。同じく幕府の力を高めようとする者同士、何を恐れよう。叔父上と意見を違えたとしても、それを一つひとつ話し合いによって解決していけばいいんだ。
義時の懸念は、実朝の昇進によって関東が中央に懐柔され、再び朝廷の支配に甘んじることにある。しかし、実朝の考えは全く逆だった。
「朝廷が官位をくれるというなら、彼らから得られる権威は利用できるだけ利用させてもらおうと思っているんだ。だから、右京兆、そんなに心配することはないよ」
実朝は義時に顔を向けながら、
「私自身が昇進することで、関東や武家の地位を引き上げるという意味を理解してほしい。それに、平和の世にあって武将たちをどう治めるか、中央から学びたいと考えてね。何と言っても、都には数百年の統治の実績と歴史の積み重ねがあるから。もちろん彼らの失敗も含めて――だけど。公家の方々に差し出す贈り物は、その謝儀のようなものだよ」
実朝の言葉はよどみなく、それは己れのなかに確固たる志がある証しだった。
義時は目を見張った。
――自分が中央に取り込まれるのではなく、自分に中央を取り込こもうというのか。
東国の権利を守りながら中央の利益を我が身へ経由させ、武士の世界に配分する、武士同士の争いを防ぎ、真に平和な世を創る――実朝の志を、彼はようやく知ることができた。自分は、甥が朝廷由来の権威を高め、執権の己れを始めとする幕府重臣を抑圧するのではないかと恐れもしたが。
しかし、実朝は迷いのない澄んだ瞳で、
「本当は、こういった話をもっと早くにできれば良かったよね」
武士の頂点たる将軍家の全き、公平無私。
いつもそばにいて何でもお見通しだと思っていた甥の新たな一面、いや、実朝の本質のさらなる深奥を見せつけられ、義時は畏れとも戸惑いともつかぬ感情を覚えた。
かつて実朝に朝盛という愛人がいたころ、やつへの偏愛に手を焼かされた自分は、私を抑えられぬ主君を侮った。だが、当時、実朝が為そうとしたことは、全て朝盛の操りによるものだったか。そこに本人の深い思慮があったのではないか。
自分は、甥の幼いころからを見過ぎて高をくくり、主君の無垢のあまりにも透明なさまに、その心底の深さを計りそこねていた。
権勢やら領職やらの世俗の塵にまみれた自分は、実朝という人物を見極めるには、
――俺の目は曇り過ぎていたのか……
実朝は、そんな叔父の表情を観察しながら、
「公家の方々への贈り物も、華美で奢侈に見えたかもしれないけれど、無理をして買い求めたわけではないんだ」
人々の患いにならぬよう自身で賄える範囲の饗応をした――話しているうちに徐々に余裕の出てきた実朝は、叔父の目を見つめ返すことのできる自分に気付いた。
「奥州合戦で父上が褒美として与えた宝物を、ほとんどの御家人が売り払ってしまったのを右京兆も知っているでしょう。しかも、宝の価値を知らずにひどい安値でね。私はそれが惜しくて、古道具を扱う市を調べさせたんだ」
自分で使いこなせなくとも、利口な御家人なら京の公家の賄賂にでもしただろうが、そんな気の回るやつはなく。やはり価値の知らぬ商人に売り買いされていたものを、実朝が安く買い戻していたのである。
「磨けば光る銀の仏具とか、唐渡りの香木とか、犀の角とか、京の人たちに喜ばれるものはたくさんあったから」
と、少し得意げに語る甥に、義時はまたも目を見張る。
――そんな手業、どこで覚えたんだよ。
実朝は、叔父の驚きを見透かすと、
「右京兆の作法を見習ったんだよ」と、微笑むことさえできた。
義時は平伏した。己れ自身を持て余し、
「いいえ、私には思いもつきませんでした。将軍家のご深慮、たいへん感服致しました」
すっかり面倒になって降参する。
主君を畏れる義時に、実朝が恐れを抱く必要はもはやなかった。
叔父は立ち直り早く、すでに元の澄まし顔に戻っていたが、
――これで十分だ。
執権の叔父が幕府の財政のことでいつも四苦八苦し、そのために知恵を絞っていたのはよく知っていた。だが、その彼にして唐船の件では過ちを犯した。
義時の精神がどれほど追い詰められていたか、今なら想像できる。
けれど、自分は叔父をさらに追い詰めることをしたのだ。
実朝が何気なく三浦義村へ語った、義時の夢、しかし、それは――
彼が長年取りつくろってきたものを暴き、晒しものにした自分も義時を犯していたのだ。
――であれば、叔父上も私も同罪だ。
同じ罪人同士、そう思えば、再びこの叔父と並んで歩けるような気がした。
九月の十三夜、御所では北条泰時の沙汰で月見の歌会が催されていた。
昨年の星見の歌会から、春、夏、秋と季節をめぐり、ようやくわだかまりなく歌会に出席できるようになった実朝である。
自分を気遣ってくれる泰時は九歳違い、和歌などの教養で御家人たちをまとめようとする実朝の良き理解者だ。彼は控えめな性格だが、ふと気づけばいつも側にいて、自分を支えてくれる頼もしい存在となっていた。将軍家の従兄という立場に驕ることなく、父親の倹約の精神や気働きといったものを受け継ぎ、真摯に幕政に携わっている。
次代の執権はそのまま彼に継承されることを考えれば、泰時の名のとおり、
――幕府も北条も安泰だね。
十三夜の月と相まり、実朝は感慨深い。
今宵は明月とあって歌会も色めく。
しかし、会の最中、鶴岡八幡宮で騒ぎが起きた。実朝への報告によると、月夜に浮かれ、そぞろ歩きに興じていた小姓や若僧が、ちょっとした言い争いから宿直の者と喧嘩を起こしたらしい。騒動の中心の一人は三浦義村の四男駒若丸という。
義村は、養い君の世話をさせるため、息子を公暁の弟子に入れていたが、
――公暁の稚児がどうして? 酒の勢いか何か?
聖域での狼藉に良い気はせず、会もこれを受けて散会となった。
翌日、泰時から事件を知らされた義時は、駒若丸が騒動の中心と知ると、ただちに彼の出仕を停止させ、謹慎を命じた。
また、この機を捉えて、父親の監督不行き届きと義村に謝罪させた。
――いい気味だ。
義時は心ひそかにほくそ笑む。
監督不行き届きといえば、駒若の主人、公暁にも責任は多少なりともあるだろうが、参籠中の彼を罰するわけにもいくまい。
ただ、義時にはひっかるものがあった。駒若が殴った宿直人は、故殿のころより毎晩、当番で社内を警固する習わしだったというが、初めて聞いた話だ。しかも子どもから殴られっぱなしのまま、これを機に宿直は停めるという。
――ずいぶんと腰抜けな話だ。だが、おかしくないか。
義時は念のため内偵を進めたが、義村や駒若を叩いても埃一つ出てこなかった。宿直人の方も芳しい報告はなく、公暁は何事もなく読経に勤めている。
十二月、実朝は朝廷より右大臣に補任され、政所始め、吉書始め、垸飯と、義時以下の幕府重臣ともども行事に忙殺された。
これに、一般の御家人らは、
「最近、御所ってば、俺らにかまってくれなくなったなあ」
「大臣になったんだもの。もう雲の上の人だよ」
ぐちぐちと不満の声をあげる。
月夜の一件は誰からも忘れ去られた。
主人公にあるまじき行為をさせておいてなんですが、筆者は登場人物の性愛を描くのが苦手です。実朝の恋人は朝盛一人でもうおなかいっぱいでした。今後、実朝に恋をさせないよう、あのような真似をさせたのが正直なところです。