第三節 海神のむすこ 開戦
ついに鎌倉幕府はじまって以来の最大の市街戦、和田合戦の開戦です。
合戦には朝盛の叔父朝比奈三郎が暴れに暴れます。
一方、実朝と朝盛の恋も終わりを迎えます。
人間模様のコントラスト(戦闘シーンとメロドラマ)をお楽しみください。
小町大路の自邸にて、義時が三浦義村から使いを受けたのは碁会の最中、客を相手に石を打っていた折だ。
和田金吾殿、御謀叛――
声を上ずらせる使者に、大して驚くふうもなく、義時は碁石の目を数えるとおもむろに立ちあがった。
「御所へ参る。誰か」
着替えのため自室へ向かう途中、濡れ縁から西の方角へ目をやり、耳をすます。
鬨の声こそないが、五月は二日、梅雨のはざまの曇り空のもと、若宮大路の和田邸から人馬のざわめきが聞こえてくるようだ。ひたひたと潮が満ちるように。
――金吾は、昔から弁えるということを知らぬ男だったな。
鎌倉の二大巨濤が今まさに激突するのだ。武家の都が築かれて三十余年、ようやく安定をえた幕府という大船が、転覆しかねぬ危機である。
だが、
――果たして、この鎌倉に真の安寧やら泰平やらが訪れたことがあっただろうか。
自室に戻った義時は、平服を脱ぐと水干に着替え、折烏帽子を立烏帽子へ改めた。
ふと、一連の流れの淀みのなさを我ながらおかしく思ったが、幾度となく繰り返してきた所作であったことに気づき、得心がいった。
義時へ内通した三浦義村は、和田から合力を頼まれ、起請文まで書いたという。けれど、それでなお従兄を裏切ったのは権謀家の彼にあって当然の判断である。
「累代の主君を裏切ることはできぬゆえ」としながら、義盛亡きあと、三浦の長者が己れに還るのを見越していたことは、手に取るようにわかった。
三浦義村の義盛への鬱屈。
一回り以上も年の離れた従兄は大昔の武功を未だ笠に着、嫡流にもかかわらず頭が上がらぬ義村が不満を募らせていることにも気づかない。その彼の肚を、最も知り得たのは義時である。互いに心のうちを人に見せぬ性質にあって、二人はよく似ていた。
己れと義村が似ていること、それを自覚するに鼻白む。もっとも無作法で愚直な義盛は彼以上に大嫌いだった。ゆえに、三浦と組んだ。
「和田を引き付けるだけ引き付けよ。油断させて合戦の直前で裏切れ」と、真実は余人が思う遥か以前に、北条と三浦は繋がっていた。
何しろ二人は、孫をはさんで相祖父となるのだ。
義村とて北条から走狗のように使われ、苦汁を呑んだことは多々あったろう。
しかし、あの老獪な男は、己れの心情よりも優先すべきものを存知していた。
雲は低く垂れこめ、今にも降り出しそうな空の下、義時は大倉へ向かった。同時、政所の相方、中原広元も到着する。先ほど、和田邸の隣家の八田が、集まりくる軍兵のようすを報せたという。先に謀叛人を出したばかりの八田も必死だったろう。ちょうど、広元も昵懇の御家人と密談の最中だったらしい。
二人が義村から『五月三日、和田決起』と聞かされたのは先月末だ。さらに他国からも縁者が駆け付けると知り、敵の連携を阻むため策略を練った。昨日のうちに御家人たちへ声をかけ、本日、義時邸にて碁会を開く。錚々たる御家人が集まるに、和田は何事か勘ぐり、こらえられず決起を早めるだろうと。そして義時の見込み通り、やつは踊った。
間もなくやつらはこの御所を囲むだろう。将軍家を手に入れ、大義を得るために。
義時とて、ひそかに御所の警固を強化し、敵が蜂起すればすぐさま軍勢を催促できるよう味方との連携に抜かりはない。
「――御所、和田の謀叛を許してはなりません。御家人たちへ討伐のお召しを」
報告を終えた義時は、実朝の顔を伺った。ことの次第を知らされた将軍家の頬は青ざめ、言葉も出ないようすである。一つ二つ息を吐き、ようやく口にしたのは、
「どうしても和田の人たちと、戦わねばならないというの」
うつむきがちに視線を床に向けた。
――まったく、今さらもいいところだ。
甥の憂いの正体を察知し、義時はうんざりした。
将軍家は敵味方に分かれた恋人を思い、泣き顔をつくっているのだ。
――己れの母や妻の身を案じる方が先だろうに。
周到な義時はすでに、尼御台と御台所を鶴岡八幡宮の別当宅へ避難させていた。故殿の挙兵以来、合戦慣れしている姉はともかく、御台所は京よりもらい受けたお姫さまである。その身に迫る危険に心身が耐えられるだろうか、他人の義時が心配しているというに。
――こういうことがあるから、将軍家の正妻は、北条から出すべきだったのだ。
武家の棟梁には、やはり武家の、と考えて、ぞっとする。もし、実朝と朝盛がまともな夫婦であったなら、先代の再現ではないか。
和田邸の前庭では、武将たちの甲冑の煌めきが何かの祝祭めいていた。
合戦前の緊張に加え、ある種の晴れがましさ、高揚感に満たされたなかを、紺色の鎧を着けた土屋義清は、年下の親友、朝比奈三郎を目で探した。
彼はいた。
青海波の浅葱色が凛々しい直垂に、鎧は藍の淡きへ匂わせた威しがよく映える。同じく朋友の古郡と雑談しながら、土屋の視線に気いた朝比奈はこちらへ笑顔を向け、武将たちの間を泳ぐようにして歩み来る。
「土屋殿、よくぞ来て下さいました」
朝比奈の挨拶に、土屋はにやりと笑った。
「俺が金吾殿を裏切ると思ったか」
「そうではありませんが」
土屋は三浦の庶流から養子となって家督を継いだが、当の三浦宗家は妖しい動きを見せている。朝比奈の笑みは、友である土屋の姿に力づけられた心よりのものだ。
「そなたの甲冑姿は久しぶりだな」土屋は朝比奈を眩しげに見た。
「様好きものだ」
朝比奈はこの年三十八歳。若いころの精悍さをそのままに、充実した筋肉が鎧の上からも見てとれる。尊敬する友に褒められた朝比奈は、少し照れたように頭を搔いた。
彼が幼いころ弓の手ほどきを受けた土屋は、相模武将の中堅にして八幡宮の流鏑馬には欠かせぬ弓の名手だった。治承の旗揚げよりの御家人にあって、父義盛との付き合いも長く、今戦に参じたのは血の濃さよりも朋友としての絆が勝る。
「土屋殿が来てくださいましたら、心強い」
「いや、寄る年波には勝てぬ。弓に限れば俺の腕も衰えた。だが何、合戦となればまだまだ役に立つこともあるだろう」
謙遜しつつ、自信に満ちた土屋の物言いは歴戦の勇者に相応しく。
「土屋殿のお心遣い、まことかたじけない」
権勢への反逆を恐れることなく、友が友のままでいてくれたことに、朝比奈は感謝の言葉を惜しまなかった。
「――しかし、彼の人たちは、我らほど単純ではないからな」
土屋の言う、彼の人たちとは、義時を始めとする将軍家周辺の人々のことである。
「三郎はどうした。入道した若い方の」
「ちゃんと出陣させますから、大丈夫ですよ」
「本当に大丈夫か? あの男は弓馬の道をなおざりにしておったから、命惜しさに逃げ出すかもしれん。よく見張ったほうがいいぞ」
比べてもしかたないが、同じ和田の三郎でも朝比奈と朝盛は違い過ぎる。
「惜しかったな。ここだけの話」土屋は声をひそめた。
「将軍家の御寵物たれば……」
「言わずともわかってますよ。親父も嘆いてました。北条は娘を故殿に気に入られて権力を手にした。だのに儂は、孫を将軍家に気に入られても何の好いこともないって……」
「和田殿がそんなことを」
「太郎の兄者も同じことを言ってましたよ」
二人はこらえ切れず笑い出した。しかし、すぐ真顔になる。
「であれば、我々は先代の比企氏にあたりますか」
十年前、比企氏は頼家の側近、姻戚として主君を囲い込み、過剰なまでに北条を圧迫した。そして、窮鼠となった当時の執権、時政の巻き返しにより皆殺しにされたのだ。
時と場合によっては、比企氏と北条、頼家と実朝の立場が入れ替わっていたとしても、不思議はなかった。
もっとも、当の実朝は己れの足元に積み重なる屍の存在にどれほど気づいているのか――今執権の義時は、和田との合戦が間近に迫るなか、未だ恋々(れんれん)としている甥を見て思った。
――次は我らか。
生命や財産を奪われる恐怖に男たちは立ち上がる。ゆえに、今日の和田の挙兵はかつての北条、そして義時に重なる。
「将軍家に恨みはありませぬが、君側の奸、義時めを成敗せんがため、我ら一同、挙兵つかまつる」
堂々の宣言の上、主将和田義盛は大倉の御所を目指した。
息子たちは鎌倉を留守にしていた次男・幼少の八男を除き、長男の常盛、その嫡男の入道朝盛、三男の朝比奈義秀、先の謀叛に加担した四男義直と五男義重、その下の六男義信と七男秀盛がそろう。また、土屋義清、古郡信忠ら、日ごろ交誼のあった者たちが親戚あるいは朋友として参戦する。さらに、北条に恨みを持つ者、失脚させられた者たちが誘いに応じ、和田方は大軍勢に膨れ上がった。
ただし、このなかには下総の千葉や下野の小山のような関東を代表する名門の武将らは見あたらない。執権一族の専横を内心苦々しく思いながら、幕府中枢にある彼らは和田と北条を天秤にかけ、同情はしても同心はしなかったのである。
しかし、和田義盛には自信があった。
現在日和っている御家人たちも、勝風がこちらに吹けば簡単になびくと。
申の刻(午後四時ごろ)、鎌倉の東西各所から総勢百五十の軍勢が和田義盛に呼応した。
義盛は軍勢を三手に分け、御所の南門と、ほど近い義時邸の西門と北門へ向かわせた。義時邸を任された軍勢は大喜びで、
「義時のやつを血祭りにしてやるぜ!」と気勢をあげる。
嫌われ者の執権殿の邸は、和田勢の恨みつらみを一身に受け、容赦なく攻撃される。
猛攻を受けた邸の西門・北門では、留守を預かる者たちが体を張った。各門の袖板を破り、その合間から矢を射て応戦し、兵の多くが死傷した。
同時、和田の主軍は御所前の横大路に至ろうとした。
大倉の手前で何としてでも防ぎたい幕府方は、御所の西南、政所前に軍兵を集め、御家人たちに支えさせていた。そのなかには、従兄を裏切った三浦義村が、隣接する自邸から軍勢を率いていた。和田の進行をいち早く目にした武将が討って出たが、そのすぐあとを三浦勢が追う。
義村は手勢を引き連れて叫んだ。
「先駆けの栄誉を他の者にゆずるな!」
今でこそ権謀家として恐れられる彼も、一皮むけば百戦錬磨の坂東武者だ。若いころは先駆けどころか抜駆けも辞さぬ負けず嫌いで、合戦となれば和田の従兄と同様、血が騒ぐ。
義村は前方の武将を追いぬき、郎党ごと敵勢へ飛び込んだ。そもそも三浦は、和田勢の搦め手として御所の北門攻略を任されていた。
にもかかわらず、
「兜首を狙え! 和田金吾はおるかっ」
相手は昨日までの同僚にして縁者。それを亡きものにするに躊躇なく。
――同情など見せれば己れが殺られる!
それが血で血を洗ってきた武士たちの掟だ。
義村は騎馬の郎党、さらにその従者に周囲を固めさせ、戦場のど真ん中で指揮を執った。
「首など掻いてる暇があるかっ。笠標を切って恩賞の証しとせよ!」
勝手知ったる敵首にあって、検分はたやすかろう。
だがここで、南西の方角から喊声が上がった。
酉の刻(午後六時ごろ)、義時邸を攻略した軍勢が御所を目指す。彼らが主軍と合流すればこちらに勝機はない。三浦は素早く軍勢をまとめると御所近くの自邸へ退いた。
大手の和田義盛は、三浦の裏切りを目の当たりにして怒り狂った。
「おのれ、義村! これまでの恩義を忘れおったか!」
しかし、第一の敵は北条義時である。
合流を果たした和田勢は、義時が大倉に入ったと知ると御所の周囲を取り囲んで鯨波をあげた。各氏の旗がひるがえるなか、大量の矢が射込まれる。
「投降しろっ」
「将軍家を渡せ!」
和田勢が口々に吠えたて、このとき大倉を支えていたのは義時の嫡男泰時と次男朝時、甥の足利義氏である。
射込まれる矢を盾で防ぎながら、城外の敵へ向けて射返す。
双方ありったけの矢を放ち、ために、尽きるのも早かった。
南門の前には朝比奈三郎の軍勢があった。兜の鍬形を煌めかせながら彼は指揮を執る。惣門を破るよう工兵に命じ、用意の斧を構えさせた。工兵らは門扉を前に、閂の裏側に集中して斧を振るった。音を立てて木っ端が飛び散るなか、木戸へ穴が穿たれる。幾度となく振り下ろされる斧に、穴は大きく拡がり、木戸の内側へ差し入れられた何本もの斧が、横木を破断し、閂が音を立てて留め具から外れた。
「よし、いくぞ」
後は力づくで押し開く。男たちが木戸に肩や掌を当て、
「せえぇぇの」声を掛け合い、満身の力を込めた。
「せえぇぇの」
門前の様子は、御所内の将兵たちに丸聞こえだ。
「このままでは破られる!」門扉を内側から押し戻そうとするが、朝比奈たちの威勢に、一人二人と後ずさりする者が出始める。
「そら、あと少し!」朝比奈の大声が響き、
「せえ――」
幕府方が力負けして木戸が開き、勢い余って和田の兵たちが転げ入った。先駆けの騎馬が彼らを跳び越えるようにしてなだれ込み、その真っ先に、疾駆する朝比奈の姿があった。
「朝比奈三郎だ!」
豪勇無双の彼を目の当たりに、幕府方は恐慌に陥った。
朝比奈の騎馬は黒毛の名馬だ。甲冑の重みなどものともせず、黒い凶器となって人々に襲いかかる。朝比奈は敵兵のひしめく南庭に乱入すると、彼らを存分に蹂躙した。
春、この南庭では和田の一族が耐えがたい屈辱を受けた。その報復とばかりに、
「出てこい! 執権殿! これが武士本来の戦いだ!」
朝比奈は大声で呼ばわりながら、その場に居合わせた敵の御家人、郎党を叩き斬った。
轡を廻らせ、逃げまどう人々を追いまわし、太刀を振り下ろす。己れの力を存分に見せつけ、すでに義時が主君を奉じて逃げ去ったと知ると、寝殿に火を放った。
「さぁ、戻ってこい、義時! 尻尾を巻いて逃げたままか」
和田の兄弟たちも負けじと奮戦していたが、三郎の猛烈に、
「三月の雪辱だな」長兄、常盛をして嘆息させる。
火は寝殿、対屋と次々に燃え広がった。
義時と広元は実朝を連れ、北門からさほど遠くない裏山の法華堂へ逃れていた。
濛々と立ち昇る煙の匂いや火の粉が男たちの怒号とともに実朝のもとへ届く。
実朝は震えあがって、
「私に恨みはないと言ってたんだよね! 金吾の気は確かか」
涙目で周囲に訴える。
義時も生きた心地がしなかった。
頼朝公を祀る法華堂へ、無体なことはすまいと信じたい。
幕府方の武将は、最後の防衛線とばかり法華堂を固め、それを和田勢が取り囲む。
一方、御所の南庭では朝比奈が未だ猛威を振るっていた。太刀をひらめかせては死体の山を築き、愛馬を乗り回して疲れ一つ見せない。
味方も呆れる武者振りに、ともに残った土屋が、
「あいつは何かの神か」
思わず呟くと、
「ならば、軍神の帝釈天ですな」
かたわらの古郡が、弓弦をもてあそびながら応じた。
帝釈天は仏教の守護神である。しかし、幕府勢からすれば、やつは阿修羅だ。帝釈天の敵、三面六臂の悪魔だ。何しろ、やつを見たら最後、精鋭の勇者も無残な屍をさらし、南庭は修羅場と化したのだから――
その朝比奈の視線が一点に向かった。
相手は幕府方の高井兵衛尉重茂、彼の従弟にして一族の裏切り者である。
朝比奈は叫んだ。
「お前は和田の恥さらしだ!」
高井は従兄の罵声に一瞬ひるんだが、すぐに轡を相手に向け、
「恥さらしはどっちだ! 幕府に盾突いて、勝てるとでも思っているのかっ」
「何が幕府だっ。命惜しさに北条に尻尾を振って!」
「なにおぅ」
「やるか、このやろう」
「望むところだ!」
二人は同時に馬へ鞭討った。敵味方に分かれても気性はさすが和田一族。
まだるっこしいと高井は弓を捨て、朝比奈も敵に馬を体当たりさせる。
両者は互いに腕を伸ばし、抱き合うようにして鞍から転がり落ちた。
鎧が音高く鳴く。二人は地面に体を打ちつけ、なお取っ組みあったまま、ごろごろと直土の上を転げ回った。
互角に見えた戦い。しかし、最後は朝比奈が決した。高井を体の下に組み敷いておさえ込むと、鎧の脇腹の隙間へ短刀を突き入れる。
朝比奈は素早く立ちあがった。彼に鎧の重さなどない。
だが、彼に騎乗する間はなかった。背後には執権義時の次男、朝時の騎馬が迫っていた。
昨年の艶聞沙汰で駿河に逼塞していた朝時は、この一大事に『名誉挽回の好機』と呼び戻され、本人もそのつもりで参戦したのである。
馬上の朝時は、朝比奈の背中目がけて太刀を振り下ろした。しかし、彼も朝比奈の敵ではなかった。振り向きざま、朝時の太刀をたやすく打ち返すと、刃を翻し、大腿の覆いの隙間へ剣先を突き入れた。除ける間もなく太ももを切り裂かれた朝時は、激痛にたえかね、手綱をめぐらした。
朝比奈の周辺から敵は姿を消し、彼は愛馬に跨ると鞭を振った。
「好い敵はないか」
水を得た魚のように、溌剌と戦場を駆け巡る。
隣接する政所を向こうに、御所とを境う西御門川の違橋近く、清和源氏の足利義氏の軍勢がたむろしていた。
「好い敵だ」
朝比奈は目を輝かせ、首将目指して駆け寄った。
足利は、朝比奈の獲物を見る目つきに、
「やべぇ、殺される」命あっての物種と、一目散に逃げ出した。
ふつうなら先祖の名誉にかけて戦うものだが、恥も外聞もない。
朝比奈は足利を追いかけ、轡を並べると、
「なぜ、お逃げなさる。遠慮なさらず、俺と一戦交えようではありませんか」
口では丁寧に誘い、取り組もうとして手を伸ばした。
鎧の大袖を掴まれた足利は、
「急には困るっ。急いでいるんだ!」
わけのわからぬことを叫び、馬に鞭打った。
――こんな男を相手にしたら死んでしまう。
足利は橋の方角へ顔を向けたが、すでに違橋には朝比奈の郎党たちが待ち構えている。足利はさっと周囲に目を走らせると、西御門川へ馬首を廻らせた。
御所の大堀を跳び越えようというのだ。
彼の騎馬は優秀だった。主に応えて速度をあげると、掴まれた大袖を引きちぎりながら掘の上を跳躍した。駿馬の美しく弧を描くさまに、見ていた人々は思わず手を叩いた。
「誰も真似できねぇ」
「見事な逃げっぷり」
足利も嫌な褒められ方をした。
朝比奈もこの大堀を越えようと馬に鞭打った。しかし、黒毛の名馬も戦闘が数度に及び疲れ切っていた。馬は失速し、掘を手前にこちら側に踏み留まる。
朝比奈は馬首をめぐらすと、黒毛を励ましながら素早く橋に向かった。けれど、彼の行く手に敵の郎党が立ちふさがり、これを斬って捨てる間に、やつは逃げきった。
橋の上、見送る人馬の息は荒い。
「どうどう」うなだれる愛馬の首を慰めるようにして叩いてやる。
朝比奈は替え馬を呼ぶと、散り散りになった敵を追った。
朝比奈の活躍に味方は鼓舞され、戦意を喪失した幕府勢を追い詰める。
和田勢、強し。
もとより義盛を始めとする和田一族の武風は過去のものではない。
加えて、土屋義清や古郡信忠ら弓の名手を取りそろえ、皆、一騎当千の勇士。
朝比奈に限らず、彼らは鎌倉の天地を揺るがすほどの戦い振りを見せた。
合戦は宵闇が迫っても止まなかった。しかし、ここに来てさすがの和田勢にも疲れが見え始める。戦いの前半で力を出し過ぎたせいだ。もっとも、これは義盛の策略であった。短時間での挑戦で己れらの武威を見せつける、幕府方の御家人たちの動揺を誘う、あわよくば敵を味方に転ばせようと。義盛は鎌倉武将の性根を知りつくしていた。
案外、卑怯。
勝つために手段を選ばない。己れが生き残るために、強い方に付く。恥知らずと何と言われようと、それが我が身と領地、一族郎党を守る術である。
しかし和田勢とは逆に、幕府方は温存していた将兵を投入し、防戦一方の戦況から徐々に盛り返していく。
何事も全力全身で加減を知らぬ義盛には思い至らぬことだった。
そして、実朝を北条に取り残しながら、なお、
「将軍家はもとより、儂らの味方じゃ。例え血が繋がっているとはいえ、腹黒い義時につくものか」
何より朝盛という存在に、主従の紐帯を過信していた。
合戦の半月ほど前、初夏の心地良い風が吹く晩だった。美しい満月にあって、御所の南面では歌会が開かれていた。その夜は女房らも混じり、会は和やかに進んでいた。
昨今の情勢に、沈みがちな将軍家を人々が気づかうなか、けれど、実朝の心はここにあらずだった。
朝盛と離ればなれになって幾日経ったろう。それまでは夫婦のように暮らしていたのに、彼との生活が絶たれた悲しみに実朝の筆をもつ手は進まなかった。
昇る月をぼんやりと眺めていると、近習が静かに寄って耳打ちした。
「和田新兵衛尉が参られます」
実朝は驚きとうれしさのあまり、言葉を失った。
やがて月の光に照らされながら、朝盛の端正な姿が現れた。
「このところ、御所への出仕が中断しておりまして申し訳ありません」
謝罪の弁を述べる彼に、
「いいから。今夜はゆっくりしていけるんでしょ」
実朝は瞳をうるませながら、歌会に誘った。
今宵集まった人々は、男も塩谷朝業をはじめとする歌の上手たち、穏やかな人々ばかりで朝盛が彼らのなかに入っても、すぐになじみ、
――これをきっかけにまた御所に出仕してくれるといい。
実朝は願わずにはいられなかった。
満月ゆえ、紙の上に文字をしたためるにも灯りはいらない。人々は明月を題材に歌を書きつける。
朝盛も同様に、やがて詠み終えたのか顔を上げ、主君の方を見た。
恋人を見守っていた実朝は、
「兵衛尉はどんな歌を詠んだの? 吟じてみてよ」
朝盛は深くうなづいてから、ゆっくりと口を開いた。
「君が月……」
初句で実朝を月に例えたことに、人々は息を呑んだ。
将軍家が十七歳になるまで、その美貌を月に例えるのは皆が好んだことだが、実朝が疱瘡を患ってからは禁忌となっていた。けれど朝盛は人々の視線にも動じず、主君と二人、互いに見つめあったまま歌を吟じた。
「我が海原の……」
二の句で、朝盛は自らを海に仮した。人々は、彼の歌が主君への敬慕を装った、恋人への愛の歌だと気づいて、しんとして聞き入った。
――己れは月の姿に応じ、満干をくり返す海、
絶えることのない波の打ち寄せるさまを、人は海の力と信じるが、
全ては月の力を起源とし、海は月の従順な隷人にすぎない……
かつて朝盛は主君の心と体を支配し、意のままに操ろうとした。けれど、愛執は彼自身に跳ねかえり、恋人なしには生きられぬ身となったのは朝盛の方だった。
――月が海へ沈むように、もう一度、あなたが私の胸に還ってくださるなら、
「――……」
末の句は決して叶わぬと知りながら、祈らずにはいられぬ祈りだった。
恋人の歌に、実朝は胸が溢れ、息苦しくなった。
それでいて、いつまでも彼の歌に浸っていたかった。
歌人たちも感心したようにうなずいた。朝盛が常とは違い、技巧を弄すことなく真っすぐに恋人への愛を詠ったのだと。
実に二人の間には技巧も麗句もいらなかった。歌そのものが二人の交歓であったから。
実朝は溢れる思いを恋人に返したかった。
――私が与えられるもの、この人の喜ぶもの、それから……
すぐに近習へ紙を用意させると、数か所の地頭職を一紙に記し、朝盛に手渡した。
――御所、これは……
――いいの、あげる。
――ちがう。御所、そうではないのです……
朝盛は実朝の他に何もいらなかった。全てを捨てても良かった。
だのに、これでは主君への愛と引き換えに報償を受け取るようなものではないか。
先ほどまで彼を温かく見守って人々の視線も、冷たいものとなっている。
朝盛は実朝の顔を見上げた。
恋人の瞳は無垢に過ぎ、彼が喜ぶと信じて疑わない。
二人の心がすれ違っていることにも気づかず、
――お願い、受け取って。そして、また私のもとへ戻って来て。
切実な祈りを込めて彼を見る。
朝盛は何かが冷めるのを覚えた。
けれど、
――御所をこのようにつくったのは俺ではないか。
愛と支配を混同し混同させた自分への、これは罰だ。己れの全てを捧げても、主従は主従のまま、越えられぬ身分の差を残酷に突きつけられて。
彼は手もとの御下文に目を落とした。
将軍家から直々に与えられた報償を臣下が返すことは許されない。朝盛はそれを押し頂くようにして懐に入れ、礼を述べると、
「今夜はもう遅いですから」と言い残して大倉を去った。
朝盛は邸に帰らず、近ごろ昵懇にしている僧侶の草庵へ向かった。御所への出仕をやめてから、彼は将軍家を殺めようとした罪深さにおののき、仏の教えに救いを求めた。以来、実朝への愛執を断とうと仏道を学び、念仏を唱える日々を送っていた。
そして今日、世捨て人になることを決意し、今生の名残りに御所へ出向いたのである。
「――もう未練はありませんか」
僧はよく光る剃刀を手に言った。
「未練だらけですよ」
烏帽子を脱いだ朝盛は薄く苦笑する。
「ゆえにお願いした次第です」
僧が彼の髻を掴み、朝盛はゆっくりと目を閉じた。
二日後、出奔した朝盛を叔父の義直が連れて帰ったのは、真夜中を過ぎたころだ。
籠輿に乗せられた朝盛に、集まってきた家族は彼の円頭と黒衣を目の当たりにして、
「お前、本当に出家したんだなあ」
「何て、もったいないことを……」
父親の常盛を始め、一族の者たちは驚きと悲しみのあまり、口々に騒ぎ出す。
けれど、朝盛はうなだれたまま、いっこうに輿から降りようとしない。よくよく見れば彼の両手首は縄で戒められていた。皆が「どうしたんだ?」と不審がるなか、口を利かぬ彼に代わって、
「街道で三郎に追いついたとき、自尽しようとして暴れたんです。私も少しやられてしまいましたよ」
義直が血止めを巻いた手のひらを見せた。朝盛の体中にためらい傷があり、
「急ぎ、手当てをしましたが、念のため、医師に診せておいたほうがいいかもしれません」
そう言われて、両親は慌てて医師を呼びに行かせた。
「けがを負ったか」
祖父の義盛が一族の総意のように溜息をついた。戦力としてはもう当てにできない。
だが、それほどに思いつめていたのであれば諦めることもできると。
「もう良い。今日はゆっくり休め」
朝盛は許され、家人に肩を貸されながら寝室に入った。
翌朝、早くも朝盛の帰還を知った実朝が、彼を大倉に召した。
朝盛が遁走していたあいだ、実朝の彼を求める気持ちは募る一方だった。
――どうして逃げたの? どうして私の真意をわかってくれなかったの?
あの夜、彼は誓ってくれたではないか。
実朝の愛を取り戻すために「命も一族もいらぬ」と。
――私こそ、あなたが戻ってくれるなら将軍の位なんて捨ててもいいのに……
けれど、自分は逃れえぬ将軍の位にあって、朝盛へ地頭職を与えたこと、それは同時に和田の人々を慰撫し、鎌倉の争乱を回避するためだった。
なのに、なぜ。
――あなたの歌を政治の駆け引きに利用したのが許せなかったの?
自分が武家の棟梁としてなすべきは、武家の世の安寧に尽くすこと、でも、それはまた大切な恋人を失わぬために還ってくる。
公私を分かつことのできぬ自分を、彼はどこまでわかってくれただろう。
歌会の夜、彼が捧げてくれた歌は、実朝に喜びと悲しみの両極を味あわせた。
恋人と主従、その関係に引き裂かれそうになった。
――命も一族もいらないなんて言わないで。私はみんなを守りたいのに。
そう、彼に会って伝えかった。
しかし、墨染の姿で現れた男を一目見て、実朝は胸を衝かれた。
剃り立ての青々とした頭部が、眼元の涼やかさを強調し、かえって彼の美男ぶりを際立たせていた。けれど、たった三日前、俗人同士で言葉を交わした恋人が僧形となったことに、実朝は動揺せずにはいられなかった。
――あなたは、私を捨てたんだね。
この世の俗を捨て、聖へと逃げたのだ。自分を置いて。
実朝は、自分の手の届かぬところへ去った男を前に、
「けがをしたんだってね。もう今日はいいから。邸に帰って、ゆっくり休みなさい」
涙がこぼれるより先に、この場からいなくなってほしかった。
彼は主君の言われるまま、御所を後にした。
朝盛は、あの夜、実朝に捧げた歌を思い返し、己れの身のほど知らずに心が沈んだ。
将軍家と一介の武将――その関係を考えれば自分は月に従う海でさえなく、月にひき寄せられた、ただ一すじの波にすぎなかったものを。
いつ何時も実朝だけを見ていた自分は、恋人も同様に自分だけを見ていると疑いもしなかった。けれど、主君の恋人は、己れよりはるかに高い位置から広い世界を見渡していた。
しかし、今さら自分の愚かさに気付いたとて、すでに遅く。
もう己れは、逃げることも叶わず。
実朝には伝えられなかったが、剃髪した彼は自らを『実阿弥陀仏』と号した。
『実』は実朝の一字。愛する人の例え一部だけでも一緒に連れて逃げたかった。
日はすでに落ちたか。
雲に隠れた太陽は、今日一度も姿をあらわさなかった。
和田勢の疲労は極限に達し、同じく疲弊した馬に鞭打ち、由比ヶ浜近くの前浜まで退こうとしていた。
大倉で暴れに暴れた朝比奈三郎は、軍勢の先頭で退路を切り開いていた。
彼は若宮大路を南へ下っていた。
八幡宮の神聖なる参道を騎馬のまま駆け抜ける。
今朝方は道路沿いに市が立ち、参拝客やもの売りで賑わっていたが、今や誰も彼もが逃げ去ったあと、うろついているのは血に飢えた荒武者ばかりだ。薄暗い大道を黒い影となって襲いかかるそれを、朝比奈はたやすく返り討ちにして道を進む。
人間離れした武威を見せつけ、「軍神」とまで呼ばれた彼はまったく疲れを知らない。彼を追う郎党たちも一苦労だろうが、
「好い敵はなかなかいないものだな」
悠然と軽口をたたく主人に呆れつつ、その余裕に力づけられる。
しかし、若宮をだいぶ下り、彼らが目をこらした先に現れたのは甲斐の武将、武田信光である。
下の下馬橋近く、わき道の米町口から自ら軍勢を率い、朝比奈の軍勢に立ちふさがるかたちとなった。
武田は頼朝公の血縁にして治承の旗揚げよりの猛将、弓馬四天王の一人といわれている。
同じ源氏でも先の足利とは違い、逃げ出さずに朝比奈と対峙した。
「好い敵だ」
朝比奈は満足げにうなずいた。
向かう武田もこちらへうなずいたようだ。薄闇のなか、兜が傾ぐ。
両者は互いに、名乗る間も惜しんで馬に鞭あてた。
そこへ、
「父上、ここは私が!」
二人の間に武田の息子、悪三郎信忠が割って入った。
信忠は『悪三郎』と称されるだけあって自他ともに認める暴れん坊だ。
父親を守るべく、かつ己れの力を試すべく、敵の最強、朝比奈に立ち向かう。
和田と武田の三郎対決。
ちなみに先の高井重茂・足利義氏も通称は三郎である。
「何だか今日は三郎によく出食わすな。三郎の日か」
朝比奈にとって、この三郎も敵ではなかった。
騎馬でぶつかり組み討ちにする、と思いきや、青年の傍らを通り過ぎた。
「悪三郎。そなたの父を思う心に感じたよ。だが、親より先に死ぬのは親不孝だ」
長生きしろよと、見逃したのである。
相手にされなかった悪三郎は口惜しがった。
「ずるいぞっ、朝比奈殿! 卑怯だぞ――」
なお敵を追おうとしたが、その彼のもとへ武田が馬を寄せ、我が子を抱きとどめた。
主人の背中を追う朝比奈の郎党が、
「殿、いいんですか。敵に情けをかけるなんて――」
肩すかしの感は悪三郎だけではなかった。
しかし、朝比奈は郎党のほうへ振り向くと、
「いいんだ、俺は悪三郎の言う通り、ずるい男なんだ」
にっと口のはしを上げる彼は、よどみなく自軍を引き連れていく。
気勢をそがれた武田の軍勢は、辻口で一団が通り過ぎていくのを黙って見送るほかなかった。
雲の帳が空を覆い、月も星もない闇夜だった。
同士討ちを恐れて、敵も味方も攻撃を控えた。
和田勢が辿りついた前浜は、昨年、将軍家から賜った土屋や常盛の邸地があった。
義盛たちは血と泥に汚れた甲冑姿のまま、造作途中の邸内に上がり込み、分宿してなお余る士卒は軒先や草陰にうずくまった。
深夜、そこへ追い打ちをかけるように雨が降り始める。
――一時は大倉まで軍勢を進められたものを、前浜まで退かねばならぬとは。
けれど、この劣勢にあっても、彼らは肩を寄せ合い、励ましあった。
「横山や波多野のことを忘れてはならぬ」
義盛が、一族と縁深い人々の名を口にすると、嫡男の常盛も、
「義兄が和田を裏切るはずがありません。明日、必ず我らのもとへ」
力強く言い切る。
横山の家長、時兼は義盛の妻の甥にあたり、その妹は常盛に嫁している。波多野は横山の同類で、すでに参じている古郡信忠も横山党の一流である。いや、縁戚というだけではない。横山は義盛と同様、治承以来の御家人で同じ戦場を駆け巡った友だ。
――彼らは必ずやってくる。
それを頼りに合流しやすい前浜まで退いたのだ。
義盛たちは横山の顔を思い浮かべながら、互いにうなずき合った。
「信じて待とうではないか」
果たして、翌朝寅の刻(午前四時ごろ)小雨降るなか、蓑笠を被った人馬の一軍が、鎌倉の南西、腰越の浦に辿りついた。横山と波多野の一行が本拠の武蔵国から到着したのだ。
横山はすでに合戦が始まっていたことを知り、愕然とした。
「何と、出遅れたか」
いや、約束では本日三日の矢合せとなっていた。
義盛が北条の誘いにまんまと踊らされ、合戦開始の一日のずれは、戦況を大きく乱した。
だが、これで勝機が生まれた。横山到着の報せに和田一族は再び力を盛り返す。
しとつく雨に、天からも見放されたかと思ったが、
「神仏は我らに戦えと仰せだ」
横山一行は身に着けていた蓑笠をばっと投げ捨て、
「よし、皆の者、遅れを取り戻すぞ」
和田・土屋・横山、その他合せて三千騎の軍勢が、幕府に決戦を挑むのである。