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第三節 海神(わだつみ)のむすこ 終わり始まり

 和田朝盛が実朝を利用し幕政の表舞台に出ようとしたとき、皮肉にも一族の若者の謀反が発覚します。義時はこの機をとらえ、和田一族を追い詰めます。彼らの一触即発は間近に迫り、実朝を苦しめます。

 実朝の平和を願う心と義時の性格の悪さのコントラストをお楽しみください。

 建暦三年(一二一三)正月一日、天顔は晴朗にして新年にふさしく、巳の刻(午前十時ごろ)に地震があったものの、将軍家は予定通り鶴岡八幡宮へ参詣した。

 この日の実朝の乗り物は牛車である。以前は騎馬を使ったが、五年前の大病から衆目にさらされるのを好まず、さらに今年は恋人の朝盛から、

下品(げぼん)の男たちの目に、あなたの姿をさらしてほしくない」

 と、ぐずられたからである。

 御家人のなかには、男妾の言うなりになる主君に苛立ち、

「いったい、いつから武家の棟梁が、氏神の参拝に輿だの牛車だのを使うようになったのだ」

 と、陰口を叩く者もいた。


 一日の(おう)(ばん)(主君への饗応)は中原広元、二日は北条義時、三日は北条時房、そして、四日目は和田義盛が沙汰した。垸飯役は幕府内の序列が反映されるため、御家人たちは、

「とうとう北条から二人目が出たか」

「昨年までの小山殿はどうした。武州(時房)の手伝いか」

 例年、北条義時、中原広元、小山朝政の三人が受け持っていただけに皆、不審がった。

 また、四日目の垸飯にひどく半端なものを感じた。この日の垸飯で、和田義盛が三浦の長にして幕府の権要であることを知らしめたが、

「近年、四日に垸飯などあったか」

 たいていは三が日で終えるものをと人々は首をひねった。が、すぐに納得した。

 義盛の年齢から引退が近いこと、上総の国司を諦めたということもあり、将軍家からの何かの餞別(はなむけ)だったろうと。さらに裏では朝盛や義時との駆け引きが想像でき、

「であれば、小山殿はとんだとばっちりだったな」

 と、小山一族に同情する。

 主君の(わたくし)(おおやけ)を侵す――

 武将たちは、これが端緒に過ぎないことを予感した。


 一月も下旬になり、将軍家は二所詣でに出立した。

 陰陽師から近日中は吉日がないと止められていたにも関わらず、恋人から、箱根路の、歌枕の、とねだられ、無理を言って出発したのだ。やはり日がわるかったのか、夕方になってひどい風雨に見舞われ、供奉していた義時は腐った。

「御所め、何ゆえ陰陽師の言うことを聞かなかった」

 雨音に遮られていることをよいことに、口に出して言った。


 これが軍事演習を兼ねた巻狩りなどであれば許そう。故殿の時代、悪天候ごときで怠慢武将がぐたぐた言おうものなら、梶原を使ってびしびし鍛える良い機会であった。だが、今回は信仰に名を借りた物見遊山である。将軍家のお遊びに、なぜ鎌倉の御家人たちが付き合わねばならぬのだ。自分たちは冷たい雨に打たれ震えているのに、当の実朝はちゃっかり輿のなかなのだ。

「この雨で、皆の体が心配だよ」と、そばの者に呟いたそうだが、だから何だ。

 行列の武将たちに不満が渦巻き、

「最近の将軍家の色惚(いろぼ)けはひどすぎる!」

 と、誰しもが思った。


――去年の今ごろは良かった。

 伊豆の二所詣でに母の尼御台を連れて行くなど、実朝は親孝行の真似ごとをしていた。

 また、二所詣でといえば同じ頃、相模守護の三浦義村から「参詣の要路である相模川の橋が朽ちかけているため修理を願いたく」と申し出があった。しかし、幕府の財政に大きな負担をかけることを考え、義時や広元はこの橋には因縁があるからと反対した。


 去る建久九年(一一九八)の暮れ、稲毛重成が亡き妻の供養に橋を新造し、その完成祝いに頼朝公が招かれたが、帰途、体調を崩して落馬した。公は翌年正月に没し、また、稲毛本人も畠山征伐であのような最期を遂げている。

「別に今、無理に修理しなくてもいいでしょう」

「もう少し先に延ばしても大過ないと思われます」

 などと反対する幕府の重臣相手に、実朝は、

「橋が壊れてからでは遅いでしょう。そなたらはあの橋が不吉と言うけれど、父上が亡くなられたのは五十三歳で、官位を極められたあとの天命だよ。稲毛が死んだことも本人の不義が原因だもの、これを理由にするのはおかしいよね。橋は二所詣でになくてはならないものだし、近隣の民も困るから、壊れる前に早く修理しなさい」

 今後、橋を不吉だと言ってはならぬと正論を通し、明君の真似ごとをしている。

――あのころの御所はどこへ行ってしまったんだ。

 とは、御家人らの総意である。

 男に狂って、周囲がまるで見えなくなった実朝は、これまで築き上げた信頼を自ら放擲(ほうてき)したことに気づいてない。代わって義時がこの先にあるものを見定めようとしていた。


 二月一日、大倉御所では盛大な和歌の会が開かれ、人々は召された歌人の名に驚いた。

 北条時房・泰時・伊賀光宗――実朝や義時の近親者にして幕府の重臣である彼らのあとに、和田朝盛の名が続いたからだ。これまで一介の近習に過ぎなかった若者が、いきなり彼らと同等の地位に成り上がったようなものである。

 この日の歌題は『梅花、萬春を契る』。

 深読みするなというほうが無理である。しかし、彼らはさらに驚愕する。


 翌日、御所内に新しい役所が誕生した。その名も学問所といい、将軍家の側近のなかから芸能に長けた者を選んで結番させる、彼らを学問所番と呼び、各自が当番の日に伺候し、将軍家の御用に従い、また和漢の故事を学び合うようにと発表された。

 北条泰時を筆頭に十八人、組は三番六人ずつの編成である。しかし、交名二番のど真ん中に配された「和田新兵衛尉」の名に、人々はうなった。筆頭でもなく末席でもなく、それが逆に、この学問所が、実朝による朝盛のための役所であることを知らしめた。

 学問所番は泰時に限らず、安達景盛や藤原範高など、御家人のなかでも錚々たる有力者や識者たちが名を連ねる。彼らは幕府内で他に役職を持ち、学問所番を優先しかねる。となれば、この役所の実質の支配者はもっぱら朝盛となるのだ。

 学問所別当(・・)、和田新兵衛尉。

 誰もが、近々その名を冠した朝盛の姿を想像した。

――あの男妾(おとこめかけ)、やるな。歌と見た目と床振りだけで……

 御家人たちは敗北感にうなだれた。交名に塩谷朝業や東重胤の名がなかったことも、人々には驚きより納得のほうが勝った。


 朝盛は有頂天だった。

 学問所の設立は昨年の秋から画策していたことだ。当時発足させた主君の昼の無聊を慰めるための当番、そのなかに自分はもちろん入っていたが、それだけで満足するつもりはなかった。

――近習のなかで一番、で十分なものか。俺はもっと高いところに行ける。

 彼が目指したのは、旧主における比企の息子らの地位ではない。将軍家のお気に入りとして自由勝手に御所内を闊歩し、遊び呆けただけのバカなやつらとは違う。

――歌や蹴鞠がうまいだけではだめなんだ。

 自分の歌才はもっと巧妙に出世の手段、道具として使わねばならない。

 まず、主君の実朝を動かし、昨年定めた昼の当番を基礎とし、新しい役所をつくらせる。もちろん己れが学問所の別当になることは視野に入れていた。しかし、名ばかりでもだめだ。野蛮な坂東武者へ歌の素晴らしさを知らしめ、藤原定家のような大歌人として、自分は鎌倉中の人間から尊敬されるのだ。

 朝盛は主君への指導にも余念なく、

「御所はたいへんお目がさとい。目に見た美しいものを美しいままに、お歌へ映すことができるのは、きっと御所のお目が美しいせいでしょう。いいですか、その曇りのない瞳で、ものの深奥にある美しさの本質を見極め、お歌を彩るのです」

 お世辞も取り混ぜながら、褒めて伸ばす。が、追従ばかりはないのは、

「御所はお耳も素晴らしい。こういったものは天から賜り物ですから、私には到底及びません。本当に羨ましい限りです」

 朝盛は恋人の耳へささやき、耳朶(じだ)をいじる。実朝はされるがまま身をよじるが、そんな感じやすさが歌づくりにも反映されるらしい。朝盛も驚くような、音感に優れた歌を詠むこともあるのだ。

 もうまもなく完成する実朝の歌集は、京の上皇へ献上する運びとなっていた。

 主君と二人でつくりあげた歌集が、稀代の歌詠みでもある院の目にとまるのだ。

――俺はようやく裏の世界から表の世界へ出られる。

 これまで仲間に嫌われるようなこともしてきた。

 けれど、権力さえ手に入れば、人は皆、寄ってくる。

 そうすれば、

――もう誰にも、佞臣なんて呼ばせぬ。

 彼は自分の未来を過信していた。

 行く末の高みしか見えず、主君と同様、その足元の危機に気づいてはなかった。

 たった半月後、まさにこの日が彼の絶頂であったことを思い知らされるのだ。


 建暦三年(一二一三)二月十五日、千葉介成胤の邸で一人の法師が生け捕られた。信濃(長野県)の御家人の弟で、謀叛の合力を頼むべく千葉介のもとへ訪れたという。

 捕えられた法師は、幕府方の厳しい追求に同心者の名をもらす。

 信濃の関係者を中心に、張本百三十余人、賛同者は二百人に及ぶという。

 報告を受けた義時は、まずその数に驚き、さらに謀叛の全容を知って愕然となった。

 首謀者らは一昨年より謀叛を企て、頼家の三男千寿を擁し、義時を亡きものにする計画だったらしい。

――俺かよ。

 謀叛人を泳がせていたつもりだった彼は、危うく足を掬われるところだった。


 彼らは、執権たる義時が、主君を差しおき幕府を支配していること、己れは裏にまわりながら弟や息子を表に出し北条一族の底上げを狙っていること、昨今では主君の男妾への耽溺をあえて放置していること――全てを見透かしていた。

 権力は、見上げる者の目を眩ませる、手にした者の目を曇らせる。それを知りながら、自分だけは違うと、義時も己れを過信していた。

――このところの将軍家の不甲斐なさに反抗したのではなかったのか。

 謀叛の理由は己れにないとする余裕で叛徒を泳がせ、この時期に捕縛するよう計りもしたが、事態はそう単純なものではなかった。信州はかつて比企氏が守護人だった国で縁者も多い。復権を目論む比企氏の残党に、将軍家の交代を望む者、さらに幕府そのもののあり方に不満を持つ者らが取り込まれたのだ。現在の幕府は、実朝という頂点を戴きながら、実質はその母の実家が支配する構図にある。しかも北条は武功ではなく閨閥と政略で成り上がってきた一族だ。

「我らの親は武勇をもって、朝廷へ対抗してきたのではないか」

「俺たちのほうが名門ではないか」

 謀叛人のなかには、和田や八田など西国や奥州で活躍した名門武将の子や孫がいた。


――ずいぶんと俺は嫌われていたんだな。

 義時は一時の驚きを過ぎると、我が身を皮肉めかすことができた。

 何しろ心当たりは有り余るほどある。

 幕府の権力争いに明け暮れ、父親ですら追い落としてきた身だ。同世代の御家人たちのなかに己れと比肩しようという者は、今やこの鎌倉にいまい。

 しかし、子の代ともなれば違ったようだ。源平合戦や奥州征伐を経験したはずの親たちが、成り上がり者に懐柔され、手ごろな安寧に野心を萎ませている。それをもどかしく思ったか。

――あいつらの、つるっとした見た目に騙されたな。

 世代交代――鎌倉の権力構造も転換期に来ていることを気づかされる。


 義時はふだんの猫かぶりを捨てた。

 仔細を将軍家に報告すると、相方の広元を始めとする重臣らと評議の上、さっそく謀叛人らへ捕吏を差し向ける。

 侍所の和田義盛は本拠の上総におり、ちょうど鎌倉を留守にしていた。

 その和田一族からは、義盛の四男義直・五男義重・甥の平太胤長が捕えられた。

――それにしても和田平太とは……

 昨年の暮れ、荻野三郎がこぼした「御所を解放して差し上げたい」という言葉を思い出す。近習のなかで、同じ思いにあったのは彼だけではなかったらしい。

 だが、

――御所も御所だ。近習の動きを察知することはできなかったのか。

 それが歯がゆい。

――まったく、男にうつつをぬかして……

 おかげで、義時は幕府執権として正念場に立たされた。

 錚々たる御家人の子弟を相手に対処を間違えれば、

「昨今の北条の専横は目に余る。今回の若者たちは行き過ぎだが、気持ちはわからんでもないな」と、下手に相手方が同情され、

「では、いっそうのこと……」

 北条へ不満を持つ御家人が結託されれば厄介である。


 謀叛発覚後、実朝もようやく我が身を反省したのか、

「今回ばかりは彼らを許してほしい。この度の謀叛は私の不徳もあるのだから」

 体調を崩して寝ていたものを、床から這うようにして出て()、必死に罪人どもの宥免を乞う。主従というより、甥が叔父を頼る態度で頭を下げる。四方を丸く収めようとする。

――おやさしいことで。

 後々のことを考えれば厳罰に処すべきにあるものを。初代頼朝公や先代頼家のころには考えられぬ。

 しかし、将軍家にここまで頼られては、義時も改めねばならなかった。実朝と謀叛人の親、双方に貸しをつくることも悪くない。

 義時は将軍家の沙汰として、大望や歌才などを理由に若者たちを免じ、裏では、救いを求める親たちから(まいな)いを受け取り、これを幕府への忠誠の証しとした。

 血縁・婚姻・所領所職の利害――蜘蛛の糸のように絡み合った御家人たちの仲にあって、己れとて謀叛人全てを処罰するわけにはいかぬ。しかも、今回の謀叛は加担者の出自も動機も異なる。義時にとって、自身と幕府の安寧のための取捨選択であった。


 だが、それを理解できぬ者がいた。

 事件発覚から二十日後、本拠の上総から戻った和田義盛が大倉へ参じた。

 もっとも、彼とて息子らの赦免のため、すぐさま鎌倉へ帰っていたのだが、首謀者の逮捕・処罰で忙しいと、実朝への面会を先延ばしにされていたのである。

 これを、和田義盛は義時の指図と疑ったようだが、全くその通りである。

 そもそも武士の処罰は侍所の管轄であったものを、義盛の不在、身内から罪人を出したことにつけ込み、裁定の主導権を政所の義時が握ったのだ。

 昨年の暮れに謀叛の一端を知りながら彼らを泳がせていたのも彼の策略であり、当然、『謀叛発覚』を月の半ばにぶつけたのも。


 和田は一昨年あたりから、実朝に接近し過ぎていた。

 それを懲らしめる機会を伺っていた義時である。ついでに三浦の嫡流のなかから謀叛人が出れば言うことはなかったが、さすがにやつらはそんな失策(へま)はしなかった。

――では、和田どもをどう料理しよう。

 義時は舌舐めずりの気分で、まずは、手ぶらでやってきた頑冥な老人を()らしに焦らしたのである。和田はようやく叶った将軍家との面会に、当初は遠慮深く子息二名のみを上げ、譴責を免じるよう願い出た。

 義時も和田の息子ぐらいなら許してやっても良いと、実朝の裁定を黙って見ていた。

 実朝にとって、相手は大好きな和田の人々である。何より朝盛の実家である。

「そなたは父の代から何度も戦功を挙げてくれた。今の鎌倉があるのは、そなたのような者たちがいてくれたおかげだ」

 直々に両息の罪を許し、義盛は長老の面目を施して退出した。

 けれど、将軍家の思いやりはこの老人を勘違いさせてしまったようだ。


 翌日、義盛は一族九十八名を引き連れ御所に現れると、南庭に一同を列座させ、甥の胤長も許すよう要求したのだ。義盛を筆頭に、南関東の雄族が結集して威勢を見せつける、この光景を目撃した義時は激怒した。

――息子二人を許されたのも寛大な処置だったに、さらに甥もとは! しかも一族の権勢を誇示するかのような振る舞い。他の御家人たちが子弟の赦免を乞うとき、どのような作法もってしたか、わからいでか!

 根回し、段取り、阿吽の呼吸――そういった細心の手順の積み重ねの果てに、事件の決着を()ようとしていた義時にとって、和田の力押しは許容の範囲外だった。

――金吾がその気ならば、力には力を。

 和田一族が居並ぶ南庭へ、義時は濡れ縁まで姿を現した。一同のなかには、三浦宗家の義村の顔もあったが、それに臆することなく彼らを見下ろして言った。

「胤長は将軍家の近習でありながら陰謀に加担し、しかも首謀者であると聞いておる。そのような者が許されるとお思いか。将軍家はたいそうお怒りのごようすである」

 お怒りも何も、叔父に引け目を感じる実朝へ、

「断じて許してはなりませぬ。将軍家に近侍しながら、胤長は幕府へ裏切りを働こうとしたのです」

 と、言いくるめたのは他ならぬ義時である。今日とて実朝を南面に出さず奥に引き留めてきたが、事々(ことごと)は和田一族にも伝わったらしい。

――将軍家と我らの紐帯(ちゅうたい)を阻む、奸臣め。

 和田義盛は敵意に満ちた目で義時を見上げる。

 二人は、この場にいない将軍実朝をめぐって火花を散らした。

――ならば、お前らの立場をわからせてやる。

 義時は傍らの者に胤長を引き出すよう命じた。


 連日の責苦で憔悴した胤長が南庭へ引っ張り出され、人々の視線が彼の体に注がれる。義時はそれを十分に計り、彼の長い両腕を後ろ手に縛らせた。

 和田の人々が呆然として見守るなか、胤長はふだんの活発が嘘のように、ただ少しだけ身をよじり、春めく日差しに(こうべ)を垂れた。

 若い彼のうなじにはしみ一つなく、その白さが目に刺さり、義時はわずかにひるんだ。己れこそ正否を糾弾されたようで。しかし、動揺する胸内(むなうち)を知られまいと、

「罪人の顔をよく見せてやれ」

 後頭部を掴ませ、胤長の顔を前に突き出させたのだ。

 和田の人々は息を呑んだ。

 去年の今ごろ、弓の腕を見込まれた彼は、将軍家の八幡宮参拝に弓持ちとして近侍した。その日、桃の花に細雨がそぼ降るなか、ひときわ晴れやかに供奉する胤長は一族の誇りだった。

 そんな彼を、

――これが罪人への扱いだ。

 引き渡しの処分として預かり人を呼び、受け取らせたのだ。

 理不尽に辱められた和田一族は、激怒した。

「何ていう仕打ちだ!」

「北条、目に余る」

 罵声を上げる者、立ち上がる者、太刀の柄に手をかける者――

「静まれ、静まれ!」

 言いながら義時は、ようやく自分の行いが度を越していたことに気付いた。

――俺は今、何をした……

 慙悸(おそれ)に似た思いが胸をよぎる。


 義時は自分に戸惑い、和田の顔を伺った。怒りの余り、顔を真っ赤にさせ、頭から今にも湯気が出てきそうな、それを必死でこらえようとするさま。

 三浦義村の顔を伺った。長老の義盛に反して彼の表情から内面は伺えない。やつこそ己れの感情を人に悟らせぬ者はないだろう。その彼と目が合った。だが、義村は、すっと視線を地面へ落とした。こちらと目が合ったことなどなかったかのように。彼の端然とした居ずまいに、義時は徐々に冷静さを取り戻した。ゆっくりと和田義盛へ顔を向け直すと、

「まだ、申し述べることはあるか」

 和田はぶるぶると肩を震わせながら、

「こらえよ、者ども、こらえよ」と一族を制し、あとは無言のまま一族郎党を引き連れ、南庭をあとにした。


――金吾も年を取ったな。若い時分であれば引き下がらなかったろうに……

 しかし、やつの息子たちは己れを絶対に許すはずはない。

 義時は、常盛や朝比奈が自分に向けた目の色を思い出す。

 かつては同じ近習仲間だった者たちの……

――和田の討伐は免れぬか。全く、面倒をかけさせてくれる。

 幕府の兵力を消耗させる最たるに、開戦など気が進まぬが、やつらがその気であれば仕方ない。

――本当は表だって悪役を引き受けるのは嫌なんだが。

 義時の和田一族への辱めは、あっという間に御家人たちへ広まった。

「仮にも侍所の長官にあたる方へ、何たる仕打ちだ」

 人々は義時を非難し、和田義盛に同情した。

「このままでは和田殿も黙っていないぞ」

「いや、執権殿は、それを見越して…」

 柄にもない義時のそれは、和田義盛への挑発と受け取られた。

「合戦だな」

「合戦だ」

 無責任にも、人々は期待を込めて風向きを読もうとする。

 和田討伐の公算を前に、御家人たちを離心させかねぬ不作法を犯した義時は、自省する他ない。


 南庭での一連のできごとを、居室で報らされた実朝は呆然となった。

――金吾の一番わるいくせが出てしまった。叔父上だって柄にもなく……

 和田義盛の振る舞いは僭越に過ぎ、義時の作法は非礼に過ぎた。

――どうしよう。このままでは、両者の間に争いがおこってしまう。

 今からでも彼らの衝突を回避させることはできないか。

 朝盛のこともあって、実朝は心が引き裂かれそうになった。


 翌日夜半、御所近くで怪異が起きた。

 頼朝公を祀る法華堂の裏山に鬼火が出現し、人々は何かの予兆であると噂した。

 これを知った実朝は、すぐさま御所内で祈祷を行わせた。

 神仏に祈ったところで何が変るか。

 しかし、国家の安寧を祈るとして催されたそれは、

――私は戦いなど望んでいない。どちらも早く矛をおさめて。

 実朝の願いを周知させるものであった。

 三月十七日、和田胤長が奥州に配流された。彼には小さな娘がおり、実朝の胸を痛ませたが、他の御家人らの手前、処分を直ちに取り消すことはできない。

「ほとぼりが冷めたら、必ず召し返すから」

 朝盛を通じ、胤長と一族の長老へ伝えさせた。


 けれど、主君の願いは届かなかったようだ。

 

 二日後の庚申の夜、大倉の御所では歌会が催されたものの、若宮の和田邸近くを鎧武者が五十騎ほど徘徊したとして、宴は中断された。

 武将は横山時兼という和田の縁戚であったが、

「どうして、一晩中、人が起きている夜に動くんだよ」

 月を見ながら義時がぼそりと言った。

 大倉の実朝へ、舅の伊賀朝光を間に、会の中断を進言したのは彼である。

 庚申の夜は、人中にひそむ虫が宿主の寝ている()に、天帝へその人の悪事を告げに行くという。人は多かれ少なかれ後ろ暗い中身を抱えて生きている。だから誰しも「告げ口されては大変だ。では寝ずに起きているのが一番」と考える。うっかり眠らぬよう皆で集まり、飲んで騒いで一晩中起きていようと、いつしか恒例の行事、習わしとなる。本来であれば潔斎して身を慎むべきものを、人はえてして堕落する。


「――今宵は、誰もが眠れぬ夜を過ごしているでしょうね」

 寝所の朝盛は恋人の耳にささやいた。寝所番に聞こえぬよう、

「特に、相州などは。いや、どうかな。悪人ほど良く眠るといいますから」

 と、くすぐるように言って、実朝の身をよじらせる。

「私など、小人ゆえに眠ることもできません」

 歌会の中断で興ざめした気分を紛らわせるため、朝盛は軽口をたたかずにはいられない。

 互いに知り尽くした体をなおも知ろうと、恋人たちは春の月に遊ぶ。

 日々せまる予感から、束の間でも逃れようとして。


 和田胤長が奥州に流されてまもなく、彼の六歳の娘が寝付いた。荒鶴という名の娘は、父が遠くへ行ったことを悲しむあまり病の床につき、もう助かる見込みもないという。

 そこで、胤長の家族は朝盛を呼んだ。

 朝盛は血族のなかでも胤長と年が近く、容姿も似ている。荒鶴へ「そなたの父だ」と一目見せ、それで万が一、命が取り戻せるかもしれないと。

 これを頼まれた朝盛は、

――そんなバカな話があるか。いくら子どもだって父親の顔を見誤るか。それに俺と平太が似ているってどういうことだ。色白ってことくらいだろ。

 と憤慨したが、懇願する家族に断り切れず、しぶしぶ引き受けてしまった。

 胤長の邸で世話になっていたころ、荒鶴とは何度か顔を合わせていたが、この半年間、恋人のところに入り浸っていたので、自分の顔など忘れていると信じたい。

「では、父親が奥州から帰ってきた、という(てい)で」

 胤長の家族の期待を一心に背負い、朝盛は幼女の枕元に座り、

「荒鶴、そなたの父が帰ってきたぞ」

 胤長の声に似せ、語りかける。

 荒鶴はゆっくりと目を開く。そして朝盛を一目見るなり、「このひと、だれ?」といった表情(かお)をして瞼を閉じ、その目が二度と開かれることはなかった。

「荒鶴!」

 朝盛の周辺で家族の嘆き悲しむ声が沸き上がり、彼はいたたまれず邸を後にした。

「俺は何一つわるいことはしていないぞ。こんなバカなことをさせた、この人たちがわるいんだ」と自分に言い聞かせ、柄にもなく親切心を出したことを後悔した。

 朝盛の胸に、人が人を想う心の重さがのしかかる。

 相手を思う心が一途に過ぎれば、命まで失うこともある。

 それは恋人や家族、性別や年齢にかかわらぬのだと、小さな荒鶴から教えられた。

 荒鶴はその日のうち荼毘にふされ、胤長の二十七歳の妻も出家を遂げた。


 朝盛から荒鶴のことを聞かされた実朝は、大倉へ僧を招き、女児のために経を読ませたあと、法華宗(天台宗)や浄土宗の教えについて講義させた。

 法華経の説く永遠の生命としての仏性、そして専修念仏による極楽浄土への往生――

 僧の伝えんとすることは理解できる。けれど、

――この世の全てを御仏(みほとけ)が御覧になられているのであれば、なぜ理不尽は続くのだろう。念仏を唱えれば誰もが極楽へ行けるというけれど、その極楽をいったい誰が見たのだろう。

 彼らの教えを疑いつつ、それでも永遠なる存在、約束の地への憧れはやまず、心惹かれてしまう自分がいた。


「――極楽浄土など、毎晩、私が見せているではありませんか」

 昼間の疑問を口にした主君へ、朝盛は愛撫を重ねながら言った。

 御仏を恐れぬ彼は、夜の寝所にあって恋人を妙奥へと導こうとする。

 しかし、この男にまもなく仏罰が下る。

 陶酔と忘我のあと、突然の恐怖が彼を襲った。これまで目を逸らせてきた事実、和田一族の幕府執権への反抗は、間違いなく二人の間を引き裂く。

――自分が去ったあと、この人はどうなる?

 男なしでは夜を過ごせぬ体にしたのは己れだった。主君は自分以外の誰かをこの臥所に侍らせるのではないか。そして、

――俺のあとをまんまと引き継ごうとする輩が現れるのでは――…

 実朝が自分以外の誰かに心と体を許すなど、考えただけでも気が狂いそうになった。

 朝盛はこらえ切れずに言った。

「御所、私に約束してください。これからどんなことがあっても、私以外の誰にも肌を許さぬと」

「どうしたの、急に……」

 当惑する実朝へ、

「私以外の誰のものにもならぬと誓ってくだい」

 もはや懇願するように恋人の是を乞う。

 そんな彼の顔を見て、

「わかったよ。私はそなた以外の誰のものにもならない」

 実朝は微笑みながら言った。

「本当ですか。神仏にも誓えますか」

「うん、誓うよ」

 このとき、実朝の心に浮かんだ神仏とは、源氏の守護神たる八幡大菩薩と江ノ島明神であった。

「そうですか」

 朝盛の心底安堵した顔は、迷子の子どもがようやく母親に会えたときのそれだった。

 うれしくて、今にも泣き出しそうな笑顔。

 彼は、さらに子どもじみた真似を始めた。実朝の体へ指を差しのべると、

「では、おまじないをかけましょう。いいですか、ここは私のほかに誰にも触らせてはいけません。もし破ったら、わるいことがおきます」

「うん」

「ここもいけません」

「うん」

「ここもだめです」

「うん」

「ここも」

「あ……」

 子どもの真似では飽き足らず、朝盛の罰あたりは続き――

 いつか見た極楽図の蓮華(れんげ)に似た赤い花々が、実朝の瞼の裏を埋め尽くした。


 四月に入ってすぐ、流罪となった胤長の邸地をめぐって悶着が起きた。御所近くにあった彼の土地は御家人の誰もが望んだが、罪人の領地を没収した場合、その一族の者に預けられることは頼朝以来の取り決めだった。

 実朝は当然、邸地を義盛へ与えたが、しかし、これを後になって義時が我がものとし、義盛の代官を追い出したのである。

 ことの顛末を耳にした実朝は、すぐに叔父へ抗議した。

「相州は亡き父上の前例を破ろうというの。四年前の国司の件で、あれほど相州は――」

 いつにない甥の強気に、義時は内心舌打ちをした。

――今回の件と国司の件を一緒にするとは。

 今さら四年前のことを蒸し返され、腹を立てた義時に容赦はなかった。

「将軍家は故殿の前例を盾に、よもやお気に入りの者にあの土地を分けるおつもりでは」

 何もかもお見通しだと目で迫った。

 実朝は怯んだ。実は、少し前に朝盛から、

「平太の邸は御所から近くていいですね。私も父から独立することを考えたら、あの辺りに邸を持ちたい……」と、ねだられていた。

 彼だけを贔屓するつもりはなかったが、後ろ暗いところを叔父につかれ、実朝はそれ以上強く出ることはできなかった。

 義時は、甥の和田一族への心慮を知りながら、

「謀叛人は金吾の息子らもおりましたのに、罪人に利させる裁定などありえません。しばしの間、私が預かっておきます」

 将軍家の面目は潰れ、和田義盛も怒り心頭である。一族は胤長の面縛の一件より、皆、出仕を止めていた。それを実朝が慰撫しようとしていた矢先だった。


 しかし、義時にすれば和田一族への宥和(ゆうわ)はすでにない。実朝の心づかいなど、この先にあるものを考えれば無用無益である。それどころか、御所の東側にある胤長の邸は、尼御台の別邸、東御所にも近い上、義盛に渡れば西隣の三浦邸とで挟み込まれる形になるのだ。

――それくらい、考えてくれよ。

 義時は、すでに和田との戦闘を頭に描いていた。

 一方の和田義盛は、実朝へもうこれ以上訴えることはなかった。心通じ合う主君を苦しめることはわかっていたから。何より勝劣を論じれば時流はあちらに味方し、こちらは見放されかけている。だのに、一族の若者たちから北条征伐を主張され、それを押しとどめなくてはならない長老としての責任。彼は疲れ果てていた。

 何も出来ぬもどかしさ、畏れ、屈辱が、義盛を苛ませる。侍所別当の己れが……

――何も出来ぬ? いや違う。儂にできることがあるではないか。

 追い詰められた果ての、彼の答えは明快だった。

「義時を討つべし!」

 長老の決断は一族に伝えられたが、それはもとより彼らの望むところだった。


 和田一族が不穏な動きを見せ始めてから、御所内では朝盛への警戒が厳重になった。義盛が事を起こす際、朝盛が将軍家をかどかわす恐れがあると。

 夜の寝所でもそれは変らず、当番は二人から四人に増員された。さらに、警戒の対象が逆転したため、彼らの体は将軍家の臥所のほうを向く。

 灯台のおかげで、几帳の外側から中のようすは伺えぬが、人々の視線に実朝が怯えたため、二人は小袖姿で睦み合わねばならなかった。

 朝盛は深くため息をついた。

――一時(いっとき)は鎌倉の頂点を見たものを。

 二月に発足した学問所は一連の情勢により、瞬く間に瓦解した。

 昨年の末、朝盛が学問所の構想を実朝に打ち明けたとき、主君は目を輝かせて喜び、

「そうだよね。これからの武士は、芸能や故実に精通してなくてはならないもの、学び合うって大切なことだよね。そなたもよく思いついてくれた」

 平和な時代にどう武将たちを統治するか、真摯に模索していた実朝へ、その方策を恋人の朝盛がみごとに差し出してくれたのだ。

 武力による抑圧から教化による文治へ、この鎌倉にまったく新しい秩序が生まれる――

 主君の理想と臣下の野望は合致し、朝盛は学問所の設立に心血を注いだ。関係者への根回しや段取りも、将軍家の権威をもってすれば、ことは早く運ぶ。朝盛は実朝を、実朝は朝盛をいっそう必要とした。

 主従が互いに依りそうさまに、朝盛は大空へと羽ばたく比翼の鳥を思い描いた。

――二人でなら、どこまでも高く飛べる……

 しかし――


――それがなぜ、こんなことになっている。

 今、几帳のなかの二人は籠の鳥だった。

 自分は何一つ失敗(しくじ)ってない。目の前の栄光を掴みかけようとした寸前、うかつな一族のために全てを台無しにされた。その無念に耐えきれず、己れの怒りを恋人に向け、責め苛んだ時期もあった。

 けれど、今はもう後悔ばかりが胸を満たす。

――なぜ、この人をもっと早くにさらって逃げなかった。

 そうすれば、自分と一族の運命も違ったものになっただろうに――

 自分たちに残された時間はあとわずかだった。それをむさぼるため、朝盛は人の目など気にしていられなかった。

 ただ、別れの(とき)はすぐそこまで来ている。

 そう思うと苦しくて苦しくて、自らこの時間を終わりにしたくなった。

 ふと見下ろせば、実朝の細い首が目についた。

 握ればぽきりと折れそうな。

 彼は誘われるようにして、恋人の首に両手を伸ばした。

 目を閉じていた実朝は、男の気配に目を開けると、

「あなたになら、いいよ」と言って微笑んだ。

「今、同じことを考えていたから」

 そして、また目を閉じる。

――このまま二人で死のう。

 朝盛は両手に力を込めた。恋人の顔が苦しげにゆがむ。

 けれどそれは、自分が与えるときのいつもの表情に似ていた。

 几帳の外の者たちは、主従が今、何をしているのか気づいてない。

――このまま、御所が事切れたら、こいつらを呼べばいい。

 将軍家を殺したと言えば、この場で斬るなり、刺すなりするだろう。そして、自分は、恋人の胸の上で果てるのだ。

 しかし、男の甘い夢想を破るように、

「御所、夜も更けて参りました。お体に障ります、そろそろ……」

 近習の声に、朝盛は、はっと手をゆるめた。途端、実朝が激しくむせかえり、朝盛の下でびくんびくんと体が跳ねあがる。我に返った彼は慌てて主君の体を抱きあげ膝に乗せると、赤子をあやすように小袖の背中をさすった。

「御所、どうなさいました」

 几帳ごしに近習が声をかける。

「っ大丈夫、むせた、だけだから」

 しかし、実朝はなおも咳き込み、朝盛は、

「すまない、誰か水を持ってきてくれ」と寝所番に恃んだ。

 すでに立ち上がっていた当番が、

「乳母殿を呼んできましょうか」と、仲間に問うたものを、

「だめっ、大げさにしないでっ」

 実朝はそれだけ言うと、またも咳き込んだ。朝盛は背中をさすりながら、

「今夜はもう何もしないから、私をここにいさせてくれ」

 布帛ごしに懇願すると、几帳の影は仕方なさそうに頷いた。

 背中をさすったり、水を含ませたりするうちに実朝はようやく落ち着き、朝盛は主君の体をゆっくりと横たえさせた。

 (ふすま)をかける彼の手を、実朝がそっと握りしめる。

「私が眠るまで、こうしてていい?」

「御所のお心のままに」

 朝盛は微笑み、恋人の手にもう一方の手をそえる。

 互いに予感があったのだろうか。次の日から朝盛は出仕をやめ、大倉から姿を消した。


 実朝は、鎌倉の二大勢力の対立という現実に、たった一人で立ち向かわねばならなかった。恋人を真に失うことを回避するため、和田一族が叔父と衝突することを、どうにかして防ごうと心を砕いた。

――何よりも、叔父上を止めなくては。

 朝盛がらみで、義時を失望させていたことは自覚していた。だから、叔父の説得は母に頼ろうと思った。


 先代頼家のころ、比企氏の内訌により、縁戚の安達氏が討伐されかけた。鎌倉の街が一触即発の事態に見舞われるなか、母の尼御台は自らを盾に頼家を説得し、この街が火の海となることを防いだ。

――今回も母上の力で戦いを止めさせることができれば……

 実朝は大御所の母のもとへ訪れた。

 鎌倉の女主人たる尼御台は、我が子の懇願に幾度もうなずきながら、

「私も合戦なんて望んでいません。故殿が築いたこの街をむやみに乱すのは願い下げです」と、実朝の思いを受け止めてくれた。

「それにしても、今回の四郎のやり方は陰険に過ぎます。いったい誰に似たのかしら」

 尼御台は、大げさにため息をついてみせた。

 

 翌日、尼御台はさっそく弟の義時を呼びだし、

「四郎、そなたはこの街を戦場にしようというのですか。金吾を追い詰めるようなまねをして」

 義時は入室したときから姉の諫めを覚悟していたようだ。

 神妙な顔で反論する素振りも見せず、姉弟の関係を思いださせようとする尼御台のもの言いにも、順々と聞き入った。

「昨夜、私の夢にいわくありげな法師が現れました。法師は甲冑を着て、何かもの言いたげにこちらを見つめていましたが、やがて霧のように消えてゆきました。思うにこれは虫のしらせというのでしょうか。この鎌倉が戦場になるという…… いいですか、四郎、和田の金吾は故殿の旗揚げよりの忠臣、それを罰してはなりません。我々は当時からの御家人をどれほど滅ぼしてきたか、あなたは数えたことはありますか。もう良いではありませんか。金吾を許してやりなさい。この鎌倉にあなたの敵はもういないのです」

 尼御台の言葉に、義時は頭を垂れた。

「姉上のいうとおりです。私とて金吾を追い詰めることはしたくなかったのです。けれど、一度抜いてしまった刀を納めるきっかけを見失っておりました。私はたった今、姉上のお言葉で目が覚めました。この鎌倉の安寧のため、何が正しい行動かを考え直したいと思います」

 尼御台はほっと安堵した表情で、

「礼を言わねばなりませんね。四郎」

「私こそ、姉上のお言葉に救われました」

 義時は一礼して、尼御台のもとを辞した。

 彼は自邸へ帰ると、さっそく家臣を呼び、紙と筆の用意をさせた。

 そして誰にともなく呟く。

「昨夜、姉上の夢枕に甲冑姿の法師が立ったそうだが……おぉ、そういえば、昨日は奥州藤原氏、秀衡法師の命日だったか。いや、すっかり失念していた。これは、亡き法師が『我らを供養せよ』と伝えにきたにちがいない。よし、さっそく陸奥平泉の寺を修理させ、霊をなだめてやらねば。」

 後日、顛末を聞かされた尼御台は激しく口惜しがった。

「四郎のやつ、私の言うこと全然聞いてないじゃないの! きっと、さっさと金吾をやっつけたほうが、面倒が少ないと思っているのよ!」

 その通り。面倒くさがりの弟は、さっさと面倒を片付けることに決めたのだ。

 すでに、二月の謀叛で受け取った賄賂は、例のごとく御家人たちへばらまいたあとだ。

――今さら和睦など、そちらのほうが面倒だ。


 和田邸でも合戦の準備が着々と進められていた。

 けれど、勇猛果敢な一族にも例外はある。四月半ば、義盛の不肖の孫朝盛が出奔した。家人が大騒ぎで彼の寝室を探すと一通の手紙が残されていた。

「鎌倉の情勢がますます緊迫するなか、今となっては一族の企てをお止めすることもできず、かと言って幕府の手先となり父祖と敵対することもできず、もはや私に残されたのは出家の道しかありません。今世の因縁を断ち切り、この苦痛から逃れることだけが私の願いです。身勝手な息子をお許しください」

 これを読んだ一同は呆れかえった。

「臆病にもほどがある!」

「勝手に出奔して、お許しくださいとは何たる言いぐさ」

「あのやりちん、肝心なときに、ふにゃちんかっ」

 和田の若者が謀叛に加担したのは朝盛にも遠因がある。その上、彼は嫡男常盛の長男だ。一族を率い、最も勇敢に戦わねばならぬ男が――

 報せを受けた義盛もかんかんになって怒った。

「あの孫っ殺す! 義時より先に成敗してやるっ」

 周囲は慌てて長老をなだめた。

 朝盛出奔の報せは、すぐさま将軍家へ届いた。

 実朝は恋人との永遠の別れを覚悟し涙し、同じく報告を受けた義時は、また甥が恋患いで寝込むのか冷や冷やした。しかも実朝が前夜、朝盛へ地頭職(土地の権利)を与えていたと聞かされ、

――恋人の心を富や権力で引き留めようとするとは哀れなものだな。それに、土地までもらいながら逃げたやつもやつだ。

 義時は二人を軽蔑した。

 何も知らぬ実朝は、同じく悲しみに暮れているはずの義盛を慰めるため使者を遣わした。

 和田の人々は「とにかく法体(ほったい)だろうが何だろうが、どうにかして連れ戻そう」と、彼の叔父、四郎義直に朝盛を追わせた。義直は二月の謀反で捕まりながら放免されている。一族として責任をとらせる意味もあり、義直は必死で甥を追った。

 朝盛は密かに京へ向かおうとしていたらしい。

 しかし、ふにゃちんのせいか翌日には捕まり、無理やり鎌倉へ連れ戻されるのだ。


 実朝はいよいよ朝盛への恋慕を断たねばならなかった。

 和田と義時の一触即発は間近に迫っている。

 叔父の執権をなだめることは母をもってしても困難と知った。だから、義盛のほうへ働きかけようと使者を遣わし、謀叛の実否を確かめるよう命じた。

――以前であれば、使者などたてず、お互いの顔を見ながら話ができたのに。

 実朝は、時の無情を覚えた。

 帰参した使者の報告では、義盛が待っていたように訴えたという。

「儂は故殿の御代(みよ)、あまたの合戦で敵を討ち、その甲斐あって身に余るほどの恩賞を頂きました。けれど、故殿がお隠れになってからたった十四年で、我らは滅亡の憂き目に逢っております。国司の件は何年経とうと叶えられず、先日は一族の者がひどい辱めを受けました。まったく、運命を恥じ入る他ないようです」

 と、心境を吐露した。また、謀叛に関しては、

「何も企んではおりませぬ」と誓ったという。

 しかし、一族の若者たちの振るまいは違ったようだ。

 長老の言葉が終わるやいなや、息子の朝比奈義秀や縁者の古郡保忠ら一族の武将が列座し、どんと音高く兵具を置いたという。

 義盛の「謀叛を企んでいない」という言葉、反して一族の者が兵具を用意していたこと。それは和田一族が実朝でも幕府でもなく、義時へ戦いを挑むとの意思表示だった。


 この報告の最中、義時が実朝のもとへ参じた。

 内容を聞かせぬわけもいかず、仕方なく概略を伝えると、

「ほう、血気盛んなやつらが、武具を用意していると」

 義時はさっそく鎌倉中の御家人を集め、

「和田の一族には謀叛の疑いがあったが、動かぬ証拠を掴んだ。皆はまだ甲冑を着るに及ばぬが、兵具の準備は怠らぬよう、合戦の心づもりをしておれ」

 と命じ、御家人らを帰した。

 実朝は自分が使者を遣ったせいで義盛をいっそう窮地に追い込むかたちとなり、悔やんでも悔やみきれなかった。鎌倉中が騒然とするなか、実朝は夕方に再び使者を向かわせた。

 今度は謀叛の実否ではなく、降伏の説得である。

 しかし、義盛から主君への言伝ては、

「御所には全く恨みはありませぬ。このごろの相州の傍若無人に、若い者が文句を言ってやると息まいておるのです。儂は何度もいさめて参りましたが力及ばず、この上は最後まで見届けようと思っております」

 もはや遺言であった。


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