1.怪しい男
その街の下水溝の側は、宿無したちの溜まり場になっていた。
身寄りなく金もなく、臭くてどこにいても邪険にされるため、匂いの紛れるここくらいしか居場所を見つけられないのだった。だがここではかえって汚水のきつい匂いが体に沁み込んでしまい、通りに出ると遠巻きにされて物売りができないという欠点もあった。
彼らの頭の上にかかる石橋からは、比較的身なりの良い、しかし品はよろしくない、あまり金持ちではない人間が下を覗き込んでいる。彼らは端切れを合わせて作ったドレスを纏う短い髪の女たちの中から、今夜限りの相手を品定めしているのだ。
橋の影に隠れたところでは、髭も髪も雑草のように伸び放題になっている男たちが輪になり、怪しげな紫の煙をくゆらせ意識をどこか彼方へやってしまっていた。
「お腹すいたなー・・」
頭からすっぽり布をかぶって小さく丸まっている物体が、そんな中で切なげな呟きを漏らした。
誰かが覗き込んで見れば、それが煤けた顔に青い瞳を貼り付けている、年端もゆかぬ少女であることがわかる。輪郭はまだ娘らしく丸みを帯びてはいるが、満足でない食生活のために体は同じ年ごろの町娘たちより痩せて小さく、憐れっぽくあった。
「髪をお売りよ」
すると少女の声を聞きつけた老婆が、側にやって来た。
「金髪は特別高く売れるよ。なぁに切ってもすぐ伸びるさ、若いんだから。売っちまいなよ、えぇ、イヴ?」
老婆は枯れ枝のような手を布の下に滑り込ませ、イヴと呼んだ少女の背の中ほどまで伸びた金髪を一房掴んだ。
「これは最後の最後の貯金ですから。わたしが生き倒れてたときは切っていいですよ。パンと水とお金を置いてくの忘れないでくださいね」
そう言って少女は老婆の手を払った。
イヴはなんてことはない、この王都に溢れる乞食の一人に過ぎない。時にはゴミを漁って食べ物や売り物になりそうなものを見繕い、時にはその辺の野花で小さな花束を作り、売って日銭を稼いでいる。しかしここ数日は商売の調子が悪く、水以外口にできていなかった。
王都は国王の住処たる王宮を中心に、道が複雑に絡み合い血管のように広がっている。その端に行くほど質の悪い人間たちが増えるという具合だ。イヴが生まれる前から大陸で続く戦乱と、それに乗じて暴れる魔物によって、人々はより平和なところを目指し流れている。この国は比較的情勢が安定しているため、人が多く集まる。その大半がほぼ身一つで逃げてきた者たちであり、彼らは字も読めなかったりこの国の言葉をうまく話せなかったりした。
そういう者を相手に商売はできない。日が昇るとイヴは拾った手提げカゴの中に、胸ポケットを飾れるほどの小さな花束をいくつも入れて、中心部へ向かった。
「きれーなお花はいりませんかー?」
噴水のある広場で、イヴは通りすがりの金持ちたちに呼びかける。この辺りは王宮に仕える貴族や豪商たちが住む。しかしこの日も調子は芳しくない。イヴが近付こうとすると、彼らは急に足を速めて行ってしまうのである。
「きれーなきれーなお花、お花ですー。デートの前にどうぞー」
それでも懸命に声を張って呼びかけていると、やがてイヴのもとには暇な金持ちではなく、鋼の鎧を身につけた王都の巡回兵がやって来た。
彼らは鼻をつまみ、いかにも嫌そうな顔をしながら、
「ここで商売してはならん」
と言ってきた。
「ええ??」
二人の兵士に左右から挟まれ、イヴは目を白黒させる。
「どうしてです? 昨日は何も言わなかったじゃないですか」
「《選定の儀》があるのを知らんのか」
「? せんてーのぎ? ってなんです?」
「うるさいっ! いいからさっさと消えろっ!」
「っ、ぎゃうっ!」
底に鉄を張った硬いブーツに蹴り飛ばされ、イヴはよく整備されたレンガの道に倒れ込んた。勢い、カゴから飛び出した花束が兵士に踏み潰される。
「お前のような臭くて汚い乞食が王宮に近づいてはならんのだっ!」
花束を慌てて集めようとしたイヴだったが、剣で脅され、転がるようにして広場から逃げ去った。
「な、なんなんだよぅ」
通りまで逃げたイヴだったが、その後も巡回兵たちに遭遇する度、怒鳴られ脅され道を駆けずり回った挙句、寝床とする場所の近くまで追い払われてしまった。たくさん作った花束は売れてもいないのにカゴの中から一つ残らず消えていた。
腹の虫が、憐れっぽく鳴く。
「鳴くなよぅ、泣きたくなるじゃん・・」
今にも背中とくっつきそうな腹を抱えて、イヴはとぼとぼと通りを歩く。あわよくばどこかに迂闊な乞食があって、パンの一切れでも落としてやいないかと探したが、無駄だった。
「ああもうダメ」
ゴミの散らばる道の真ん中で、イヴはとうとう倒れてしまった。一度力を抜くと立ち上がることすら億劫になった。瞼の下で目がぐるぐる回る。
「髪・・髪、売りに・・」
ぎりぎりまで売るのを我慢してきた、唯一の自慢と言える金髪を売ればまだ生きられる。これは橋の下で体を売るよりもっとずっと金になるはずであった。
何を成そうとするわけでもない乞食だって、命は惜しい。いっそ楽になりたいと思うことがあっても、実際に死の淵を覗いたときまでその気持ちでいられはしない。
力を振り絞り、半分死人のような色をした腕を伸ばした。
「おやおや可哀想に」
「ふぎゃあっ!?」
突然、イヴの頭の上に水が降り注いだ。雨ではない。通りすがりの人間が皮の水筒をひっくり返しているのだ。
「冷たいっ! 冷たいですって!?」
「生きてる証拠だ。よかったね」
水筒の中身がすっかりなくなるまで、水は止まらなかった。イヴは髪も服もすっかりびしょ濡れになって、半泣きで起き上がる。
見上げた先には、フード付きの黒い外套を羽織り、顔の上半分を銀色に光る仮面で隠したとてもとても怪しい男がいた。
「な、なんなんですかぁ?」
「やあ、はじめまして。すでに限りなく人生の敗者に近いお嬢さん」
怪しい男はにっこりと笑った。
「何日食べてないんだい?」
「え? えーと、よん、ごー、ろく・・忘れました。まともな物は何日も食べてません」
「そりゃ可哀想に。付いておいで」
「あうぅ~、勘弁してくださいよ、今はちょっとお相手する気力も体力もないです~」
「何を思い違いしてるの? 君の貧相を通り越した憐れな体になんか興味はないよ」
「あれ、そうですか?」
「あんまり可哀想だから恵んであげようってこと」
「マジですか!?」
一も二もなくイヴは男に飛び付いた。どれだけ見た目が怪しかろうが、もともとこの辺りにはまともな人間などいない。イヴには大した問題に思えなかった。
男はイヴを近くの宿場に連れて行った。中心部にあるような品の良い宿ではないが、屋根があるところはどこでも乞食にとっては高級だ。宿の女主人に金を渡し、男はまずイヴを風呂に入れてくれるよう頼んだ。
「君は臭くてかなわない」
風呂などどうでもいいから早く食べ物をとイヴは訴えたのだが、却下された。女主人が大きな洗濯桶に水を溜め、震えるイヴの体を石鹸とタオルを使ってまるで犬でも洗うかのように乱暴に擦った。こびり付いた垢や汚水のひどい匂いをすっかり落として水から上がると、ボロを縫い合わせて作った服がなくなっており、かわりに青いギンガムチェックのエプロンドレスが置いてあった。
ひとまずはそれを着て、食堂も兼ねている宿のエントランスに向かうと、仮面男は二人掛けの小さなテーブルで待っていた。そこにはすでにスープやパンや、骨付きのラム肉が置いてあった。
「うわあこれ食べていいんですか!?」
「いいよ」
「ありがとうございます!」
さっそく椅子に座ったイヴは獣のように貪った。
「あーあー、せっかく仔馬ぐらいには愛らしくなったのに台無しだね」
「? ふぁにがです?」
「誰も取らないからゆっくり食べなよ」
「ふぁーい」
硬いパンをちぎってスープに浸し、よく噛んで飲み込む。こんなまともな食事をしたのは、生まれて初めてであるように思う。
「君、名前は?」
「むぐ・・・んぐ・・イヴです」
「イヴ。生まれはどこだい?」
「王都ですよ」
「親兄弟はいるの?」
「いてもわかりません。赤ん坊のとき教会の前に捨てられてたらしいです。そのあと教会からも追い出されちゃって。花とか売って暮らしてます」
「ふうん。年は?」
「ええと、あれ? いくつだったかな? いくつに見えます?」
「十一、二くらいかな。君の貧しい食生活を考慮すればもう少し上かもしれないけどね」
「そうですね、たぶんそのくらいです、たぶん」
適当に答えつつイヴはパンを頬張る。
「あ、そういえばこの服って?」
「多少は身綺麗な方がいいでしょう?」
やはり男が用意したものだった。その辺にいた子供に金を渡して古着を買って来させたらしい。
「貧乏農家の娘くらいには見えるかな」
「ありがとうございます。ほんとに、ほんとに助かりました」
「根本的には何も助かってないけどね?」
男はテーブルに肘を突き、謳うように言った。
「今日どれだけ蓄えても明日にはまた飢えるだろう。今日落とした泥に明日また浸かることになるだろう。掃き溜めの中に戻り、気まぐれな施しに一喜一憂し、空腹を満たす代価として持てるすべてを他人に捧げ、からっぽになったら君は死ぬんだろう。君は物乞いをしながら同時に搾取されてもいるんだ」
「・・・」
イヴは、パンをちぎる手を止めた。
「もっと食べな? 明日から君が口にするのは誰かの捨てた生ゴミ。飲めるのは濁りきった汚水だよ。わざわざ言わなくてもわかっているよね。君はずっとそういう生活をしてきてるんだもんね?」
「・・・は、い。そうです、わかっています」
「可哀想にねえ。いつまで続くんだろうねえ、こんな生活」
「さ、さあ・・?」
仮面男はテーブルに身を乗り出した。
「ね、君には夢ってある?」
「夢?」
「将来どうなりたい?」
「わたしの将来、ですか? 考えたこともありません。今日生きるのが精一杯で」
「希望でいいよ。叶うかどうかはひとまず置いといて。どんなふうに生きられたら最高?」
「そうですねえ・・・」
スープの中でびちゃびちゃになってしまったパンをスプーンで掬い、飲みこんでから、イヴは答えた。
「毎日おいしいものをお腹いっぱい食べて、シルクのシャツを着て、あったかいお風呂に入って、白いシーツを敷いたベッドで眠れたら最高ですねえ。一回でいいから貴族さまみたいな生活してみたいです。絶対無理ですけど」
「今のままなら、確かにそうだね」
そのとき、仮面男の口元がにんまりと怪しげな笑みを作った。
「いいことを教えてあげよう、イヴ」
「はい?」
「君が地べたを這いずる生活から脱出して、夢を叶える方法をね」
「・・・へ?」
驚き、目を白黒させるイヴ。
「そ、そんな方法があるんですか?」
男は大袈裟に頷き、イヴの目の前に人差し指を立ててみせた。
「成功すればその日から貴族どころか王族のような暮らしができる。やってみない手はないよね?」
「・・・本当に、本当なんですか? わたしが貴族さまになれるんですか?」
「なれるさ。とっておきの魔法をかけてあげよう」
男がパチン、と指を鳴らした瞬間、緑の光が弾けた。
「はぅあっ!?」
「はい、これで君には魔法がかかりましたー」
「い、今のは?」
イヴの視界は一瞬の閃光にやられてまだちかちか光っている。
「人生を大逆転できる魔法だよ。明日、《選定の儀》に出なさい」
「せんてーのぎ?」
「王宮へ行って、石に刺さった剣を抜くんだよ。簡単だろう?」
「わたしが王宮に入れるんですか?」
「明日は特別なんだ。いいね? 君はそこで剣を抜くんだ。それだけですべてが変わる」
「すべてが・・・」
イヴは、ぽかーんと口を開けていた。
(変えられる? 今の生活を? 貴族さまになれるって?)
もし本当にそんなことができたなら、まるで夢のようだ。
「いいかい明日だよ。明日、必ず王宮へ行くんだ」
仮面男はイヴにきつく念を押し、宿を出て行った。




