人声の筆
年初の寒さを僅かながらも残したる明治東京のとある宿。 そこには日々集い、気儘に筆を走らせる一団がおった。
ある者は短編、又ある者は思想書と、書こうとするものは各々違えど、皆新しき時代に筆で生きんと野心の燃える者達である。
そのような者が集うと聞き、一人の客人が訪れた。
ここに筆で生きんと腕を磨きたる物書き達が宿を取る、と道行く者よりお聞きしました。
宿屋の主人は皆まで聞かず、さっさと上がれと客人を階上へと急かす。
客人、襖を開けて驚くばかり、僅か一間にあぐらをかいて話し込む者。 ただ黙々と机に向かいし者。 皆それぞれしていることは違えど、その熱気は廊下に満ちる残寒すら飲み込むほど。
その中にて三人、車座になり話し込む者がいた。
その者達、客人を見るや手招きしつつ輪に誘う。
おい貴様、貴様も物書きが集うと聞き、この宿へふらり寄った身か。
ええ、江戸より帝都東京と、移りゆく世情に名を残したく、腕を磨かんとはるばるここまで訪ねてきました。
なるほど左様か。しかし売れぬ、知られぬ物書きには、能書きどころか名もいらぬ。 俺も名乗らぬ故、貴様も名乗る要はなし。 物書きなれば、筆で名前を知らしめるのみよ。
なるほど、と客人。 これが大和の偉丈夫かと感服しつつ輪に入ると、偉丈夫はさて、と音頭を取って先程までしていたであろう話を繰り返す。
おい小兵、物書きなれば、人に聞かせる話を持っておろう。持たずば創り、開陳せよ。
そう唄いつつ向かいの小男へと指を指す。すると小男、手慣れたもので自らの持てる話をとうとうと語り始めた。
――江戸より三里離れた、路の途中の団子屋に――
小男の話が終わるや、偉丈夫は隣のひょろりとした男へ、先の唄にて問いかける。
おいひょろり、物書きなれば、人に聞かせる話を持っておろう。持たずば創り、開陳せよ
ひょろりとした男、首を捻って少し考え、これは創りし物語と前置いて語る。
――時は天下の関ヶ原、行軍最中、迷いし一人の武者がいた――
流石と言うべきか、物書き達の話はなかなかどうして面白い。 いよいよ私の番か、そう身構えた時、偉丈夫の腹が盛大に鳴った。
これには偉丈夫、唄を続けてはいられない、と嘆くや一同大笑い。
飯を食おうと小兵がいい、なんでも近くにて美味い牛鍋を食わせる店があるという。
四人、そっと宿を抜け出すと、いつの間にやら夕暮れ時。 偉丈夫、この時分では腹が減っては仕方が無いなと高笑いしつつ小兵、ひょろりと肩を組む。 客人、ものを書こうと旅に出てから久しく忘れた友とのひとときに、自然と笑みも溢れるもの。
寒さも忘れて四人は歩き、あっという間に件の店へと到着した。 店からは美味そうな香りが充満しているのだろう。 戸より香りが流れ出ている。
これは辛抱堪らん。四人はさっさと戸を潜り抜け、女将の案内で手近な座敷へと通された。
よっこらせと、皆が座敷に腰を落とすと牛鍋が暖まる間に偉丈夫がなんとも不思議な話をし始めた。
客人以外は知っているであろうが、あの宿を取っているのは俺の古き友である。 最初は彼奴と俺、二人あの部屋で夢を語り合ったものだが結局売れたのは彼奴だけよ。 奴が巷に知られるようになった時、ぽつりぽつりと物書き達が部屋に訪れるようになった。
最初はな、俺も奴の名がそれほどまでに広がったかと感心したものだが実はそうではないらしい。なんでも彼奴、俺に秘密で新聞を通して売れぬ物書き達を集めていたらしい。 まぁ、これはひょろりと小兵が宿に来た理由で知ったのだが。
勿論、集まった者を今更追い返すなど無粋な真似をする気はない。
偉丈夫はそこで一旦話を切ると、牛鍋へと視線を落とす。牛鍋は良い感じに煮え、ぐつぐつと泡が弾ける度に美味そうな匂いと音が五感をくすぐる。偉丈夫、牛肉を一つ味見と溶き卵を絡め、口に運ぶ。 うむ、美味い......
他の二人も箸をのばしはじめて客人はやっと気づいた。糊口を凌ぐ毎日の客人にとって牛鍋は初めて食う代物。 知らず知らずの内に身を乗り出していたに違いない。
こやつ、これを食うのは初めてか。 客人の所作からそう悟った偉丈夫は味見と称して食い方を指南したわけだ。いよいよ粋な漢である。
そうして初めて食べた牛鍋は、やはり美味い。 いやはや、食材の牛肉とはここまで美味いものだったか。
皆の箸が進むと偉丈夫、一人箸を止め、先程の話の続きを語り始める。
俺が知りたいのはな、何故そんなことをするのかってことなのだ。 一度理由を聞いたが、皆で腕を磨きたいのだと言っておった、しかし......
するとひょろりが横から口を挟む。
三人寄れば文殊の知恵と言いますし、互いに良き刺激となって結果、自らにも益があると踏んだのでは。
小兵、それを聞くや腕を振りつつ否定する。
しかし部屋を見てみよ。 作を披露しあい、研鑽しあうは一部の者だけではないか。 当の主は、常に机に向かっておろう。
客人よ。 今日初めてここに来た貴様はどう思う。
偉丈夫は夢中で牛鍋を食す客人へと声をかける。 客人、へっ、と面を上げると皆がこちらをじっと見ている。 なんとも気まずいものの、ゆっくりと椀を置く間に一つ考え、披露することにした。
確かに不可思議なことではありますが、人の考えることはそもそも不思議なもの。 それが非合理であっても、合理に生きることだけが人の性ではありますまい。
三人、意外にも納得したように見えて頷くと、再び牛鍋をつつきはじめる。以降、その話が出ることもなかった。
牛鍋屋を出た時には既に世も更け、道行く者もほとんどいない。どうやら長く話し込みすぎたらしい。
小兵、ひょろりは家に帰るとその場で別れ、客人は近くの宿に泊まるべく、偉丈夫と共に暗がりの通りを歩いていた。 すると偉丈夫、唐突にこう言う。
よし、客人、貴様も少し付き合え。彼奴に再び理由を聞きに行こう。
しかし、先程の話で納得されたのでは。
確かにそうなのかもしれぬ。 だがな、彼奴は人見知りなのだよ、 俺以外にはな。それを治そうとしたこともない。
客人、そこまで聞いてやっと興味が出てきた。 話を聞いたからではない。 偉丈夫の顔つきからは明らかに別の理由がありそうだったからだ。
――盗作、ですか。
探りを入れてみたが案の定、それを心配していたようだった。 偉丈夫は苦笑いしつつ、胸の内の考えを曝け出す。
俺は彼奴の作品を全て読んだことがある。 どれも盗作だとは思えなかった。 しかし、時々それを匂わせる部分がある、だがな、彼奴は人の集まる時間帯、常に机に向かっておる。 物書き達は原稿など宿には残さんしな。 だから理由を教えてくれれば結構、それが盗んだというわけでなければ尚更だ。
歩いてる内に、いつの間にやら目当ての宿、すると偉丈夫、何かの気配を察したか宿の裏手をじっと見る。
客人も、つられて裏手に集中すれば、確かになるほど、何かの気配が漂っている。
両人頷き、気づかれぬようにゆっくり裏手に廻ると、宿の納屋より、闇に灯りが漏れている。
そのままゆっくりゆっくり、納屋の戸の僅かに開いた隙間より中を覗けば、蒼白美麗の優男が熱心に机に向かっているではないか。
確か部屋に上がった時、片隅で原稿を書いていた御仁だ。 そう思いふと偉丈夫を見ると、手を押さえて驚きを堪えている。
何だ何だと再び見ると、優男の傍には一本の異様な筆が置いてある。 一面に無数の目と口があしらわれた、いや、生えているのだ。無数の、目と、口が。
なんと悪趣味な、と思ったのも束の間、その万年筆が突如として喋り出したのである。
――江戸より三里離れた路の途中の団子屋に、一人の浪人が駆け込んできた――
話には聞き覚えがあった。 この軽妙な話し出し、小兵が語った話である。 その後も物書き達の、小説の種になればと暖める話が続く。 なるほど、全て合点がいったと客人、偉丈夫の方を見ると、その形相は鬼のよう。
偉丈夫、納屋の戸を吹き飛ばす程に開け放し、驚く優男をぎろりと睨みつける。 こうなっては仕方あるまい、と客人も偉丈夫の後ろに立って事の経過を見守ることにした。
貴様、まさか人知及ばぬ妖の力を使い、名を広める事を良しとしたか。 あの時誓った約束を、よもや忘れたわけではあるまいな。
私とお前、共にいつか世に名を知らしめる物書きとなろう、か。
そうだ。 それが、その筆が、名を挙げる為に貴様の選んだ方法か。 いつからその筆を使った。 答えろ。
お前と二人、語り合った時から、ずっとだ。 俺はな、なんとしても世に知られたかった。
理由など聞きたくない、貴様には失望したぞ。 まさか物書きを集めたのも貴様の功名の餌とする為だとはな、さらばだ。
――龍、待ってくれ
俺の名を呼ぶな。親友だった誼で周りの者には何も告げずに去ってやる。 武士の心があるなら、卑怯な真似はもうやめるんだな。
客人、背を向け闇に歩き出す偉丈夫の後を目で追うと、さてどうしたものかと優男を見る。 俯いた優男はがっくりと落とした肩を小刻みに震わせている。
――かける言葉も見当たらぬ。 私も去ろうと納屋を出た時、微かに納屋より声が聞こえた。
――名前を呼び合いたかった......だけなのだ。
果たしてそれが、優男の言なのか筆が喋くる話なのかは客人には分からなかったのだが。
翌朝、客人が再び宿へと訪れると、何やら入り口が騒々しい。その中に小兵とひょろりの姿を見かけると、向こうも客人を見つけて近づいてきた。
ひょろりが言うには急に部屋が引き払われたのだという。
宿屋の主人と、いつもの如くやってきた物書き達がああでもない、こうでもないとこうして集まっているというわけらしい。
客人、それを聞くと偉丈夫に知らせておかねばと両人に偉丈夫の居所を尋ねる。 彼ならば、 川を下った三本桜の近くに住む筈との小兵の返事に、駆け出す。
結局、 三本桜まで行かずとも川沿いにて偉丈夫と優男を見つけることができた。
川のほとりで佇む偉丈夫と、遺体となった優男。
そっと近づいたつもりだったが、偉丈夫はこちらを向かず呟く。
入水自殺だと。 きっと、あの後すぐだろう――――馬鹿者め。
客人、偉丈夫の手に握られた優男の妖筆に気がついた。 偉丈夫、それは、と尋ねれば、知ってか知らずか筆を握る手に力が篭る。
俺の長屋の前に置いていきおった。 命と、この筆を俺に渡すことで今迄の償いとしようというのか。 会わずとも、死なずとも、償う道はいくらでもあるというのに。
客人、時既に遅しと心沈みつつも、寝る迄に床の間でつらつらと考えていたことを伝えてみることにした。 優男が生きていれば、和解の種になったであろう。
偉丈夫、昨日の一件を知る限り、その筆は他人の話を聞き、それを語ることしかしないのでしょう。 偉丈夫の話を聞くならば、筆が語った話をそのまま用いてはいないはず。 他の作品の発想と発想をつなぎ合わせ、新しき小説を書き上げるのも、一つの立派な才能なのでしょう。 丁度、我々が互いの話を聞かせあうように、彼にとってそれは、皆との橋渡しであったのかもしれませんな。
――不器用な男め。 貴様、いや、時貞よ。 貴様の不器用さの所為で、俺は大切な親友を失意の内に死なせてしまったではないか――すまなかった――友よ。
その時、妖筆が不意に語り始めた。 陽気な調子で、若き男二人の会話を。
おい、俺は将来でかく名を挙げる物書きになるぞ。時貞、貴様も俺と共に文豪を目指さんか。
よしてくれよ、龍蔵。 お前と違って俺は物を書けるほど人も世間も知らん。
ああ、だが文豪となれば、貴様が世間を知らずとも、世間が貴様を知るようになる。 よし、決めたぞ。広く名を挙げた時、最初に互いの名前を呼ぶのは俺と貴様だ。
龍蔵が俺を差し置いて名を挙げたら、俺は一体どうすればいいのだ。
心配するな。時貞の筆の才は俺が一番良く知っているんだからな。
先んじて投稿している短編「湯鷺の洗い松」と世界観を同じにしていますので宜しければそちらも読んでいただけると嬉しいです。
一話完結ですので、どちらから呼んでいただいてもかまいません。
誤字脱字、―の使い方など間違っている部分等ありましたら指摘していただければ助かります。