第38話 朱に交われば
私は前田優子、三流私立高校の二年生。母と中三の弟と三人で市営住宅で仲睦まじく暮らしている、と言いたいところだが、実際は家庭内はけっこう荒れている。
私の母は暴力団幹部の愛人だった。つまり、私と弟は父の認知を受けていないので私生児ということになる。父は五年くらい前までは不定期にやってきて、来るたびにお土産を持参したものだ。
私が小学二年生の時、誕生日プレゼントに携帯電話をねだると、一カ月後、私の誕生日に若い衆がやって来て、最新式の真っ赤な携帯電話を置いていった。弟もありとあらゆる種類のゲーム機をすべて手に入れている。
母は父のことを「世間様に顔向けできない商売をやっているから」と言うだけで詳しくは何も教えてくれない。私が父を暴力団幹部と知ったのは小学六年生の時、テレビのニュースを見ていたら、暴力団どうしの抗争で逮捕とかいって顔写真が出たからだ。背中から腕にかけて入れ墨を彫っていたので、やっぱりな、と思っただけでショックは全然なかった。その後ぷっつり顔を見せなくなったから、たぶんどこかの留置場に入れられているのだと想う。
母はいわゆる水商売を続けていて、夕刻早めに私と弟の食事の用意を整えると厚化粧をして契約しているタクシーに乗り込んでさっさと仕事に出掛けて行った。物心がついた頃から夜は弟と二人きりだった。寂しさを紛らすため、同じような境遇の子ども達どうしで集まって夜を過ごした。この市営住宅はもともと、東海道新幹線開業に合わせた名古屋駅西口開発で追い出された水商売の人々を収容するために用意された住宅らしいから、現在でも仲間は多くいるのだ。
弟は小学五年生の頃からバイクを乗り回しているし、私も高校生になる頃はこの辺のボスだった。男を初めて知ったのは大昔のことなのでいつだったかはもう忘れた。自転車の無断借用、シンナーは当たり前、ある時などむかつく女がいたので仲間に押さえつけさせて根性焼きやってから手の指の爪をはいでやった。
警察や児童相談所の係員とも顔なじみだ。民生委員だかのおばちゃんもたまに顔を見せるし、ルポライターとかの取材を受けたこともある。この団地の自治会役員は毎年替わるが、なかには熱心な役員もいて最初はうざいほどやって来るが、やがてさじを投げて来なくなるのが常だった。
そんななか、隣の棟に変わったおじさんが住んでいた。山中幸盛という人で、普通の会社員のようだったが、売れない小説を書いているといううわさがあるおじさんだった。
雨の日は必ずゴム長靴で出歩く山中さんは十年くらい前に奥さんを病気で亡くされた。奥さんは気さくな人で、私の母とも親しくしてくれて、まだ幼かった私と弟にも親切にしてくれた。男のお子さんが四人いて、その末っ子の國男君が弟の健治と同級生だった。奥さんを亡くされた山中さんはまもなく自分の実家に引っ越されたが、実家はすぐ隣の蟹江町なので、弟と國男君は時々会っているようだ。
いつだったか、私が小学生のとき、道徳の時間に「朱に交われば赤くなる」ということわざを学んだ。良い友だちとつきあいなさい、という教訓らしいが、これは現実的には矛盾する。私たち不良にとってはありがたい話だが、そうでない多くの人たちにとっては「不良とはつき合うな」ということになるのだから。
夜中の十二時を過ぎたので寝る前に歯を磨いていると、突然幸盛の携帯電話が鳴った。番号表示を見ると、052で始まるから名古屋市の誰かからのものだ。
「中村警察署のものですが、國男君のお父さんですか」
「はい、そうですが」
幸盛はまたかと身構えた。数年前の電話の場合は蟹江警察署からのもので、万引きの疑いで補導したが疑いが晴れたので迎えに来てほしいとの電話だった。この時は一緒に店に入った友人の誰かが実際に万引きしたらしい。
「國男君が物騒な物を持っていたので補導したのですが、知らなかったということなので、迎えに来てください」
「わかりました」
何のことやらわけが分からなかったが、詳しい話は本人に聞けばすむことなので、とりあえずは安堵し、急いで中村警察署に車を走らせた。
担当警察官の話では、車の助手席側のドアポケットに木刀が入っていたので任意同行してもらって事情を聞いたのだという。本人はそんなものが入っているとは全然知らなくて、おそらく中古車を買ったときに最初から入っていたのだろうと言い切るので釈放するしかなかったようだ。
警察署の玄関を出て、それぞれの車に乗り込む前に、幸盛は國男に聞いた。
「どういうこっちゃ?」
「オレはそんなのいらんと言ったんだけど、健治君が『いざという時のために持っとけ』と言って無理やり入れたんだよ。コロッと忘れとった」
やれやれ。たしかに幸盛は息子達に、不良とつき合うのはいいけれど不良と一緒に悪いことはするなと言い聞かせた覚えがある。それにしても、強い子に育ってくれたものだ。