ハイブレンド
あの日、結局僕らは理央さんまで巻き込んで、一晩中語り合った。別れ際に、連絡先を交換して
「また今度、喫茶店にでも。」
とどちらからともなく約束をこぎ着けた。雑誌の編集が終わり、後は出版されるのを待つだけになった頃、僕は彼女にメールを送った。
「お久し振りです。忙しかった編集作業も無事終わりました。時間が取れそうなので今度お茶でもしませんか。」
味もそっけもないメールに対する返信は、やはり味もそっけもなかった。
「お疲れ様。嬉しいです。私は休日ならそちらに行けるので、君の都合のいい日でどうぞ。」
少なくとも、僕の知っているどの女子よりも、簡潔で、味の無い内容だった。その後2,3通やりとりをして、今週末会うことに決まった。
指定された駅で降りると、懐かしい気持ちよりも胸の痛みの方が強く感じられた。7年前、大学を中退して実家に帰って以来の場所だ。風景はかなり変化していたが、雰囲気はあまり変わっていない。大好きだった街。大嫌いにした街。そうでないとこの街を離れることなど出来なかった。無理やり自分を騙して、この街を罵倒して去ったのに、もう一度この場に来ることになった。躊躇いが無かったわけではない。ないけれど、ここまで自分が戸惑うとは思わなかった。
「お久し振りです。」
改札を通ると、彼が待っていた。
「久し振り。待った?」
「いいえ。僕も丁度今来たところです。」
爽やかな笑みを零す彼に若々しさを感じて、つい言葉をもらす。
「若いなぁ。」
彼が吹き出した。
「何言ってるんですか。三つしか変わらないのに。」
「人生越えた山の数が違うのよ。」
「いやいや、雑誌記者だって結構大変なんですよ。」
子供っぽく、口を尖らせたのを見て、今度は心の中だけで「若いなぁ。」と思った。
「どの喫茶店に行くの?」
「あぁ。こっちです。ブレンドに力入れてるんですよ、そこは。」
「へぇ。何て店?」
「十窯です。十に窯で、とよう。」
「結構新しいところなのね。」
「2年前に開店しました。でも、どうしてそれを?」
「やっぱり。私が此処にいた頃には無かったもの。」
「此処にいたって?住んでたんですか?」
「2年だけね。」
「そうだったんですか。そういえば僕、あなたのこと全然知りません。」
「だろうね、喋ってないから。」
「…なんだか、この間は僕ばっかり喋ってすみませんでした。」
「構わないよ。私、喋るの苦手だから。」
「そんなこと言ってないで。今日は喋ってもらいますよ。」
そういってみせる笑顔にやはり「若いなぁ」と思わずにはいられない。
扉を開けるとカランと音が鳴り、見慣れた顔が奥から顔を出す。
「こんにちは。僕はいつものを。あと、メニューを彼女に。」
「はいよ。」
まだ30半ばというのに額辺りの毛が後退しかかっているマスターが、眼鏡の奥から彼女を除きながらメニューを差し出した。
「ありがとうございます。」
メニューを受け取った彼女は真剣にメニューを眺める。親指を眉間にあてる姿は、恐らく彼女が考えるときにする癖なのだろう。そして、決めかねたように
「おすすめは?」
と尋ねた。
「愚問ですね。ブレンドに決まってますよ。」
と笑うマスターの目を、彼女はまじまじと見て
「えぇと。だから、どのブレンドが一番おすすめですか?」
と尋ねなおした。
「なるほどね。お客さん、好きな豆は何ですか?」
「最近はエルサルバドルのブルボン種ばかり飲んでるわ。」
「それならハイブレンドかな。エルサルバドルのパカマラ種がベースだけど。」
「構わない。それでお願い。」
なかなかマニアックな会話である。
「あの・・・。パカマラ種て何ですか。」
尋ねる自分を、彼女は不思議そうに見つめから、あぁ、と今言葉が彼女のもとに届いたかのように納得して口を開いた。
「人工交配種のひとつよ。コクが弱めなのが欠点だけどね、酸味はなかなかよ。」
「本当に詳しいんですね。」
驚嘆の言葉をもらすと
「偏った知識しかないけどね。」
と苦笑した。
「飲み始めると没頭しちゃうの。だから、特定の豆にしか詳しくなれない。
それに、物忘れ激しいから直ぐ忘れちゃうの。エルサルバドルは今没頭してるから詳しいだけ。」
「それでも、そこまで拘るなんて、やっぱり凄いです。」
「バカの一つ覚えってやつね。」
と相変わらず自虐的な言葉が続く。
「それより、君はいつも何を頼んでるの?」
自然と話題を彼女のことから自分に移した。あまりにも滑らかな流れすぎて、それ以上彼女について尋ねることは出来なかった。
「僕、比較的深煎りが好きなんです。だから専らフレンチブレンドですよ。」
「そう。」
そこで会話はいったん途切れた。マスターが湯気の立ったコーヒーカップを二つ持ってきたからだ。
「はいよ。」
という低い声とともにおかれたコーヒーは香ばしい香りを放っていた。
「いただきます。」
彼女は静かにそう言ってカップに手をかけた。
一口飲んで口の中に広がったのは、爽やかな香味だけでは無かった。驚きを隠しきれずに、思わずカップを、音を立ててソーサーに戻した。
「どうしました?」
隣に座る彼が、不思議そうな顔で覗き込む。
「あの…マスター。」
それをスルーしてマスターに声をかける。マスターは片眉をあげてこちらを見た。
「榎本紘一という男性を知っていますか。」
マスターの上がっていなかった方の眉も上がって、仕舞には目が丸くなった。
「驚いた。俺は紘一の兄だよ。でも、どうしてお客さんが弟を知ってるんだい?」
「榎本先輩とは大学時代に知りあいました。このコーヒー、彼が昔淹れてくれたコーヒーと同じ味がしたので、もしかして、と思ったんです。」
「そうか、知り合いだったか。」
「彼、元気ですか。」
「ああ。去年やっと小学校から正規採用貰ってね。一人前に教師やってるよ。」
随分遅い正規採用ですね、と顔をしかめるとマスターも苦笑いした。
「まぁ、教員免許自体、2度滑ったからね、あいつは。」
そう言ってから、何か閃いたような顔をした。
「そういえば、お客さん、名前は?紘一に伝えておくよ。カワイイ後輩に会えると知ればあいつもとんでくるはずだ。」
そして愉快そうにハハハと笑った。
「そんな、カワイイ後輩だなんて。」
と断りながらも
「能塚雅音と言います。多分、覚えていてくれてるとは思っているんですが。」
あわよくば感あっての、名乗りだった。