9 揺れる気持ち
長い雨の季節がやってきた。
学校から駅までの道を、毎日藤枝くんと一緒に帰った。あの公園の日以来、別れるとか別れないとか、そういう話はしていない。私自身、どう答えを出せばいいのか、わからないままだったのだ。
「藤枝とうまくいってる?」
放課後、教室の窓から、どんより曇った空を眺めていた私に、紗那が声をかけてきた。
「……うまくいってるというか……」
「意外とマジメでしょ? 藤枝って。見た目チャラいけどね。果歩と合うんじゃないかなーって思ってたんだ」
そう言ってから、あ、果歩って呼んでもいいよね? と付け足した。
教室の真ん中で笑い声が響く。いつも紗那と一緒にいるバスケ部の女の子たちだ。やがてその声は紗那を残して、教室から消えていった。
「部活……行かなくていいの?」
バスケ部員たちを見送りながら、つぶやく。
「いいの。あたし部活辞めたから」
「え?」
紗那がちょっと舌を出して、おどけたような表情をする。
「なんかさー、あたしって一言多いみたいなんだよね。ほら、こうやって誰とでもしゃべれたりするとこ、あたしの長所ーとか思ってたけど」
そこまで言うと、紗那は窓の外を見つめた。
「あたしが言った余計な一言が部の中で広まって、紗那なんかウザいってハブかれて……教室でもいる場所ねえしーみたいな?」
紗那はそう言いながら自嘲気味に笑う。それから急に私に振り返った。
「果歩ってカッコいいよね?」
「え!?」
「ひとりでもあたしは平気よ、的なオーラが漂ってるっていうか」
「そんなんじゃ、ないよ……」
「あ、そか。果歩には藤枝がいるもんね」
紗那がおかしそうにけらけらと笑い出す。
違うよ……私はカッコよくもかわいくもない。いつもうじうじ悩んでいて、きっといろんな人を困らせている。
「あーあっ、あたしも彼氏欲しー」
バッグからチョコレートを取り出し、はいっ、と紗那が私に差し出す。
「誰かあたしを愛してくれるひと、いないかなー」
チョコレートを包みから出して、ピンク色でつやつやした口元に放り込む。ただしイケメンで、と付け加えて笑う紗那は、すごくきれいだ。きっとメイクなんかしなくても、すごくきれいな子なんだと思う。
私もちょっと笑って、紗那と同じように、チョコレートを口に入れる。甘くてやさしい味が、口の中に広がった。
「あ、そだ。この前の一年生、果歩のご近所さんの……あの子、なんて名前なの?」
「え、穂積のこと? 佐藤穂積」
「穂積くんかぁー」
紗那が前の席に座って、身を乗り出してくる。
「年下ってよくない? かわいいっていうかさ。穂積くん、彼女いるの?」
「……いないと思う」
「じゃ、あたし紹介してー? もちろん友達としてでオッケーだから」
「別にいいけど……」
穂積の彼女――そんなもの、想像したことさえなかった。私の中では今も、穂積は小さいころのままだから。
その時ふと、穂積の母親の声がよぎった。
――あの子はまだ小学生なのに……。
胸がぎゅっと締め付けられる。それと同時に、私は思わず立ち上がった。
「穂積に会いに行こう」
「え!? 今? どこにいるかわかるの?」
「たぶん」
荷物を持って歩き出す。そのあとを、紗那があわてた様子で追いかけてきた。
どうしてこんな気持ちになったのだろう。なぜか今、会いたくなった。穂積に今、会いたくなった。
外は今にも雨が降り出しそうな雲行き。けれど、運動部の生徒たちは、部活の準備を始めている。
グラウンドを見回して、野球部の部員たちを探した。そしてその先に、ぼんやりと座り込んでいる、穂積の姿を見つけた。
「穂積っ!」
駆け寄ってその名前を呼ぶ。穂積は少し驚いた顔をしたあと、私を見上げて笑いかけた。
「なに? 果歩センパイ」
少し遅れてきた紗那が後ろに立つ。私の胸に、なんだかわからないけれど、やりきれない感情が湧き上がってくる。いつも見ていた穂積の笑顔が、今日は切なく見えてつらい。
「あ、ええと……」
どうしたらいいかわからなくなって、紗那の腕を引っ張った。紗那はいつもの人懐っこい笑顔を穂積に見せる。
「宮里紗那でぇす。一応果歩の友達です」
「へぇ……果歩に友達なんかいたんだ」
穂積が意地悪っぽく私を見る。そして立ち上がると、汚れたズボンをパンパンと叩いた。
「もう、帰るの?」
「うん。おれ今、小学生の伊織らしいから」
紗那がわけのわからないような顔をして、私たちを見ている。
「早く帰らないと、頭のおかしい母ちゃんに怒られる」
穂積はそう言って笑ったけれど、私は笑えなかった。
「帰っちゃうの? 穂積くん」
「はい。帰りますよ。えっと……紗那センパイでしたっけ?」
「当たりっ! 覚えてくれたんだ」
「よかったら、一緒に帰ります? どうせ果歩は、彼氏と帰るんでしょ?」
意味ありげに私を見たあと、穂積はさっさと歩き出す。
「あ、ちょっと、穂積くんっ」
追いかけながら振り返って、紗那が目の前で手を合わせながら言う。
「ありがと、果歩! せっかくだから穂積くんと帰るよっ」
「うん……」
紗那が駆け寄って、穂積の隣に並んだ。そんな紗那に向かって、穂積がなにか話しかけている。じとっとした空気が私の肌に張り付く。
彼氏と彼女――ふたりの後ろ姿はそんなふうに見えた。