8 伊織はいない
「ゆうくーん、そろそろおうちに帰るわよー」
夕陽に染まる公園に、子どもを呼ぶ母親の声が響く。砂場で遊んでいた男の子は、素直におもちゃを袋に入れて、母親のもとへ駆け寄った。
小さいころ、よく伊織たちとここで遊んだ。女友達の少なかった私は、伊織の友達の男の子たちに交じって、一緒に遊んでもらった。
サッカー、ドッジボール、おにごっこ……。
足の速い伊織に置いて行かれないように、いつも一生懸命走っていた。そしてそのあとを、もっと小さい穂積が追いかけていた。
追いかけても追いかけても、伊織に追いつくことはできなかったのに……そして永遠に、伊織をつかまえることはできなくなった。
「伊織……」
誰もいなくなった公園でつぶやく。
「あたし……幸せになってもいいのかな?」
その答えは誰にもわからない。伊織はもう、答えてはくれないのだから。
座っていたベンチから立ち上がる。空は今日も橙色に染まっていて、緑の葉の生い茂る桜の木が、風にやさしく揺れた。
ゆっくりと歩いて家へ向かう。ふと足を止めたのは、三軒隣の穂積の家の前だった。
「おばさん?」
エプロン姿の穂積の母親が、門の前で困ったようにうろうろとしていた。
「どうしたの? おばさん」
「ああ、果歩ちゃん……伊織がね、帰ってこないのよ」
おばさんの言う『伊織』という息子が、穂積のことなのだとわかった。だけどまだ明るい時間だ。高校生の男の子が帰ってこなくても、心配する時間ではない。
「大丈夫だよ、おばさん。まだ外明るいし……」
「でももう五時過ぎよ? あの子はまだ小学生なのに……」
小学生? 胸にざわざわとした、なんとも言えない感情が押し寄せる。
「……大丈夫だよ……おばさん」
それ以外の言葉が見つからなかった。私の前で、おばさんは泣き出しそうな顔をしている。
どうしよう……なんて声をかければいいのかわからない。そんな自分が情けなくて、一緒に泣きそうになった。
「ああっ、伊織!」
私の目に、向こうから歩いてきた穂積の姿が映る。おばさんは穂積のもとへ駆け寄っていく。
「遅かったじゃないの! 心配したのよ、お母さん」
穂積は黙って私を見た。私も黙ったまま穂積を見る。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ふたりの目と目が合った。
「伊織……どこにも行かないでね? お母さんをひとりにしないで……」
「……どこにも行かないよ」
穂積がかすれる声でそう言って、おばさんの背中をそっと押す。
「家に入ろう。母さん」
おばさんが安心したような表情で背中を向ける。穂積はちらっと私のことを見たあと、何も言わないまま家に入っていった。