4 彼氏いるの?
体育の授業は苦手だった。母は昔、リレーの選手だったと自慢していたから、私の運動神経の鈍さは、きっと父親ゆずりなのだろう。
そんな私でも、スポーツを観るのはわりと好きなのだ。小さなころから、伊織の野球の練習に、ついて行っていたからかもしれない。
小学校の校庭で、夕暮れの河原で、中学校のグラウンドで、私はいつも伊織を見ていた。暑い日も、寒い日も、ルールも知らない野球の試合を、何時間でも見ることができた。
「園田さんっ」
グラウンドの隅っこに座っていたら、女子生徒に声をかけられた。放課後、ひとりでぼんやり教室に残っていた私を見て、驚いた顔をしていた子、宮里紗那だ。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけどぉ」
ちょっとごめんね、とそばに座っていた子を押しのけて、紗那が強引に隣に座る。ピッと短いホイッスルの音がして、目の前を同じクラスの女子が、やる気なさそうに走ってゆく。
「園田さんって……彼氏とかいるの?」
内緒話のつもりなのか、紗那は一応耳元で話しかけてきたが、その声は周りの生徒たちに筒抜けだった。
「……彼氏?」
「そ、彼氏」
紗那はにこっと人懐っこく微笑むと、ばっちりメイクした大きな目を見開いて、私の顔をのぞきこんだ。
「どうして?」
「どうしてって……」
少し言いかけたあと、周りの女の子たちがくすくす笑っているのに気づき、紗那は「しっしっ」と右手を払った。
「あのね、バスケ部の藤枝って知ってる?」
私は黙って首を横に振る。そんな名前は初耳だった。
「そいつがね、園田さんのこと好きなんだって」
好き、という言葉に反応したのか、頬がじわじわと熱くなる。
「ね、どう? ちょっと会うだけ会ってみない?」
「え……でも」
「彼氏いるの?」
「……いないけど」
よっしゃ、と小さくガッツポーズをして、紗那は勝手に話を進めた。
「じゃ、今日の放課後、玄関で待ってて。あたし藤枝連れて行くから」
そんな、勝手に困る……言おうとした私の前から、紗那が手を振って遠ざかる。
「いいなー、園田さん」
「藤枝ってちょっとカッコいいよ」
周りの女子生徒がそう言って笑う。私は青い空を見上げて、小さくため息をついた。
自分に彼氏ができるなんて……想像したこともない。
知り合いの少ないこの学校を選んだのも、なるべくクラスの人たちと話さないようにしていたのも、目立たずひっそりと生きたかったからだ。
彼氏も友達もいらない。楽しい学校生活なんて必要ない。笑ってはいけない、楽しんではいけない。自分にそんな価値はないのだから……。
――会ってちゃんと断ろう。
そう思いながら、昇降口に立っていた。
ふざけあい、笑いあいながら、校舎から出てくる生徒たち。家に帰る人、部活に行く人、バイトに行く人……みんなそれぞれの『行き先』に向かって歩いてゆく。
だけど……私に『行き先』なんてあるのだろうか……。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、背中を誰かに叩かれた。
「果歩っ」
びくっとして振り返る。そこには笑いながら立っている、穂積の姿があった。
「なにやってんの? こんなところで」
「別に……どうでもいいでしょっ」
前を歩いていった男子生徒たちが立ち止り、振り返って「穂積ー」と呼んだ。
「今日も一緒に帰ってあげようか?」
「なに、その上から目線。ほら、呼んでるよ、友達」
私はそう言いながらあたりを見回した。紗那と藤枝らしき姿はない。
「別にいいんだけど。おれ、果歩と帰ってあげても」
「いいからっ! 早く行きなさいよっ!」
思いきり穂積の背中を押した、その瞬間……私を呼ぶ紗那の声が聞こえた。
「園田さん?」
紗那と、たぶん藤枝だと思われる人が、私と穂積のことをいぶかしげに眺めている。私はあわてて穂積から離れた。
「えっと、これは、ただのご近所さんで……」
あれ? なんで私はこんなにあわてて、言い訳しているのだろう。
なんとなく漂う気まずい空気。すると穂積が、私の肩をぽんっと叩いてこう言った。
「そんじゃ、また。果歩センパイっ」
穂積は『センパイ』って言葉をわざとらしく強調する。そして、いたずらっぽい目で私を見て、遠くに固まっている仲間たちのもとへ走っていった。
「一年生?」
「う、うん。近所の子」
「ふーん?」
紗那は穂積の姿を目で追ったあと、思い出したように私に言った。
「あ、こいつが藤枝。仲良くしてやって」
私が藤枝という生徒を見た。茶色い髪をつんつん立てて、耳にはピアス、ワイシャツの上に派手なパーカーを着ている。
正直言って……私の今までの人生には、関わってこなかったタイプのひと。
「ども、藤枝保っす」
「あ、えと……園田果歩です」
なんかお見合いみたい、と紗那がおかしそうに笑う。そして、あとはふたりきりでね、なんてからかうように言って、私たちの前から消えて行った。