20 生きていてくれれば
「果歩ちゃーん、起きてー、朝だよぉ」
朝からハイテンションな弟の声で目が覚める。
「ご飯だよぉー、起きてー」
階段の下から漂ってくる味噌汁の香り。カーテンの隙間からこぼれる春の日差し。窓を開けたら道の向こうに、満開の桜の花が見えた。
毎年同じ春の風景。だけど時間はゆるやかに過ぎていて……三軒先の男の子がいなくなってから、一年ちょっと。私はこの春大学生になる。
「果歩ちゃーん!」
舌足らずだった弟の声がなんとなく懐かしい。私は少しだけ成長した弟に
「はーい」
と明るく返事をしてから、家族の揃う食卓へ向かった。
「果歩ー! こっち、こっちー」
駅ビルの中に新しくできた、ケーキバイキングの店で紗那と会う。すでにテーブルについている紗那のお皿には、見るからに甘そうなケーキがどっさりと盛られていた。
「こいつ食いすぎなんだよなー」
そう言いながら、紗那の隣で笑っているのは藤枝くん。
「うっさいよ、藤枝。だいたいなんであんたがここにいるわけ?」
「いいじゃんなー、果歩ちゃん。おれたち今でもお友達だもんなー」
「うわ、藤枝、キモっ」
紗那がお皿を抱えて藤枝くんのそばから体をずらす。私は笑いながら、そんなふたりの前に座る。
三人でこうやって会うのは、卒業式以来。そしてまたしばらく、会えないかもしれない。四月になれば私は大学生、紗那は専門学校、藤枝くんは就職が決まっていた。
「いいよなー、学生はのん気で」
「藤枝いつから入社?」
「もう研修始まってるし」
藤枝くんがぶすっとした顔でショートケーキを口に入れる。
「ま、がんばってよ」
「なんだそれ。心こもってねーし。果歩ちゃん、おれのこと励ましてー」
「だからあんた、キモいっての!」
紗那が藤枝くんの肩をバチンっと叩いた。
私と藤枝くんは、紗那を交えて時々会う。『別れてもお友達』なんて、言葉にするとそれこそ気色悪いけれど、でもこうやって笑っていられるのは、藤枝くんが見かけによらず大人だからなんだと思う。
それに比べて私は……いつまでたっても進歩がないのかも……。
「そういえばさー、穂積くんとはどうなった?」
「え?」
「あ、それ、おれも聞きたいっす」
フォークを右手に持って、ふたりが同じようなポーズで私を見る。
「どうって……」
「夏休みに会ったでしょ? それからは?」
「……べつに、なにも」
穂積には、高三の夏休みに一度だけ会いに行った。
おばさんの実家だというその家は、ものすごく田舎にあってちょっと驚いた。でもそこはとても空気がきれいで、静かで、久しぶりに会ったおばさんは、なんだか生き生きとしていた。
おばさんにとってこの引っ越しは、『正解』だったのかもしれないな、なんて私は思う。
そして穂積は、何時間もかけて会いに行った私に対して「なにしに来たの?」と言い放った。まったく失礼なやつだ。
それでも穂積は家の周りを案内してくれて……と言っても、なんにもない田舎道をふたりで散歩しただけだけど……それからおばさんの手料理をごちそうになって、あっという間に帰る時間になって、穂積が駅まで送ってくれた。
そしてひと気のないホームで電車を待っている間、私たちはちょっとだけキスをした。
それだけ。私と穂積はただそれだけ。
「メールとか電話してるの?」
「最初はしてたけど、最近はあんまり……穂積、ケータイ嫌いだし」
紗那がふうっとため息をつく。
そうだよね。こんなの、付き合ってるって言えないよね……ていうか、私と穂積の関係って、いったい何なんだろうって思う。
だけど私は……。
「いいの。それでも、生きていてくれれば」
悩んで、泣いて、怒って、笑って……私がこの場所で生きているように、穂積もあの場所で生きていてくれれば、きっとそれだけでとっても幸せなことなんだと思う。
――なんて……本当は会いたくて、こっそり泣いちゃったりもするけれど……。
「果歩ちゃん、寂しくなったら、いつでもおれが抱いてやるからな」
「だーかーらー! 藤枝お前帰れよっ」
紗那がまた藤枝くんを叩いて、藤枝くんがいってーなー、なんて文句を言ってる。
なんだかんだ言って、このふたり、息が合ってるんだよね。
「あたし、ケーキおかわりしよっ」
「あ、果歩、あたしもー」
「まだ食うのかよ、お前ら」
藤枝くんがあきれたように私たちを見ながら、アイスコーヒーをずずっと吸い込んで笑った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回最終話となります。
あと少しお付き合いいただければ嬉しいです。