2 一緒に帰ろう
真っ暗な家に帰り、キッチンの灯りをつけた。
『食事に行ってきます。ケーキ買ってくるから、留守番お願いね』
母の、あまり上手くない字で書かれたメモが、テーブルの上にぽつんと置いてある。私はくしゃっとそれを握りしめる。
――「かーほ!」
穂積からそう呼ばれた。私は静かに目を閉じる。
「伊織かと……思った」
ランドセルを背負って、野球帽をかぶって、私よりチビだった穂積。なのにいつの間にか、その顔も、声も、背の高さも、あの頃の伊織とそっくりになっていた。
――「兄貴のこと、好きだったの?」
私は握りしめていたメモを、乱暴にごみ箱へ投げ捨てた。
***
「かーほ!」
中学一年の冬。
外の渡り廊下に腰かけて、マフラーを鼻のあたりまで押し上げていた私に、その声がかかる。
空は橙色に染まり、ふざけあう男子生徒の声が遠く響く。
「ごめん、待った? 寒かっただろ?」
大きなエナメルバッグを肩にかけ、白い練習帽をかぶって、私の前で笑う伊織。
「ううん。大丈夫だよ」
立ち上がり、お尻のあたりをぱんぱんとはたいて、私も笑った。
「んじゃ、帰ろうか」
伊織がバッグを肩にかけ直して歩き出す。私もマフラーをもう一度首に巻きつけて、そんな伊織の背中を追うように、一歩後ろを歩き始める。
ふたりの間をつめたい北風が、ひゅうっと音を立てて通り過ぎていった。
ひとつ年上で、野球部のキャプテンで、やさしくて面倒見のよい伊織は、私の憧れ人だった。
母の再婚で、この住宅街に引っ越してきたのは、小学三年生の春。新しい街並みの中に、場違いな古い桜の木が一本立っていて、でも満開の桜がとてもきれいで……私はランドセルを背負ったまま、ぼんやりとその木を見上げていた。
「なに見てんの?」
グローブを持って野球帽をかぶった男の子。それが伊織だった。
「さくら……きれいだなって思って……」
「さくら、好きなの?」
「うん」
「公園に、もっといっぱい咲いてるよ。見に行く?」
面倒見のいい伊織は、引っ越したばかりで友達もいなかった私を見かねて、誘ってくれたのかもしれない。でもそれがすごくうれしくて……それからは、毎日のように伊織と遊んだ。
中学に入学した私は吹奏楽部に入った。テレビの高校野球中継を見て、自分もいつか伊織と甲子園に行きたいなんて、ちょっと乙女チックな夢を持っていたから。
私はその夢をかなえるために、けなげに部活の練習を頑張った。毎日帰りが遅くなって、特に冬になると、家に着くころには真っ暗ということも少なくなかった。
その日は片づけに手間取って、部室を出るのがずいぶん遅くなってしまった。気が付けば、周りはすっかり暗闇。あわてて校舎から飛び出た私の頬に、追い打ちみたいに冷たい滴が当たった。
「雨?」
朝テレビで見た、晴れマークの並んだ天気予報が恨めしい。
「やだ、もう……」
走り出そうとした私の背中に、聞きなれた声がかかる。
「かーほ!」
「伊織」
「傘持ってないの?」
部活帰りの伊織がすっと傘を差し掛ける。
「えっ、いいよ……」
「なに遠慮してんだよ? どうせ同じ方向なんだし……一緒に帰ろう?」
もじもじしている私の前で伊織が笑う。
制服姿の伊織と並んで歩くのは、ものすごく緊張した。小学生の頃は、なんにも意識していなかったのに……。
「いつもひとりで帰ってるの?」
「う、うん」
「じゃあ、明日も一緒に帰ろうか? ほら、このへん薄暗いし」
「えっ、そんな、悪いよ」
「悪くなんてないって。果歩はおれと一緒に帰るの嫌?」
嫌なはずなんてない。返事の代わりに思いきり首を横に振ったら、伊織はおかしそうに笑った。
「実はさ、穂積のやつに頼まれたんだ。果歩ちゃんと一緒に帰ってやれってさ」
「穂積に?」
「そう。果歩ちゃん友達いないから、ひとりでかわいそうだって。余計なお世話だよなぁ」
傘の下で伊織が笑う。だけど私の胸は、ほんの少し痛む。
ちょっとだけ、期待しちゃったじゃない……伊織も私のことを、想ってくれているかも、なんて……。
「じゃあ、明日待ってて。野球部のほうが、終わるの遅いかもしれないけど」
私の家の前で立ち止まる。伊織は軽く手を振って、雨の中へ消えていった。
それから毎日ふたりで帰った。今まで気が付かなかったけれど、伊織は女の子にかなりモテた。よく考えれば、スポーツマンで、やさしくて、それなりにイケメンな伊織のことを、女の子たちが放っておくはずはないのだ。
「果歩って、伊織先輩と付き合ってるの?」
このセリフを、何度聞いたことだろう。そのたびに私は笑って、首を横に振るのだった。
あれは雪の降る寒い放課後。同じ部活で同じパートの綾香が、私の耳元に話しかけてきた。
「伊織先輩って……彼女いるみたいだよ?」
吹いていたクラリネットから唇を離し、綾香の顔を見た。
「二年生の先輩と、付き合ってるんだって。」
「へえ……」
「バッグにおそろいのキーホルダーなんかつけてるし。果歩、あんなに伊織先輩と仲いいのに、知らないの?」
「……知らない」
でもそのキーホルダーなら見たことがある。野球ボールの形をした、『一球入魂』とか書いてあるやつだ。
「あたしは……ただ近所に住んでるだけだから」
あ、泣きそう……自分で言って悲しくなった。
音楽室に響く楽器の音も、部員たちの笑い声も、フェードアウトするみたいに、どんどん私の耳から遠ざかっていった。