19 泣かないで
その日は朝からどんよりと曇っていた。テレビの画面に並んでいた雪だるまのマークを思い出し、そろそろ降るかな? と、教室の窓から空を見上げる。
いつもと変わらない放課後の教室。男子のふざけ合う声、女子の楽しそうな笑い声……。きっと明日も明後日も同じことの繰り返し。私たちは、そんな中で生きている。
「あ、穂積くん、見っけ」
いつの間にか私の後ろにいた紗那が、そう言って私に笑いかけた。校舎の外へあふれてゆく生徒たちの中で、私もやっぱり穂積の姿を追っていた。
「遠くに行っちゃうって、ほんとなの?」
「うん。お母さんの具合がよくなるまで、親戚の家に行くんだって」
「そっか……」
そうつぶやいてから、紗那がいつものように微笑む。
「でも、会いに行っちゃえばいいよね?」
「え?」
「なにもこの世の果てまで行っちゃうわけでもないんだし。同じ日本にいるんじゃん? 全然オッケーだよ」
ぼうっとしている私の背中を、紗那がぽんっと叩く。
「追いかけて会いに行っちゃいなよ? 絶対穂積くん喜ぶって」
私が追いかける? 穂積のことを? いつも私を追いかけてきた穂積のことを?
「そう、だよね」
「そうそう」
紗那があの人懐っこい顔で笑う。私も紗那に笑い返して、そして窓から外を見た。
校舎の外で、穂積が女の子と話していた。女の子の表情は少し寂しそうに見えた。もしかしたらあの子も、穂積のこと好きなのかもしれないな……。
ふたりは少し話してすぐに別れた。駅に向かう人の流れにのって、穂積がゆっくりと歩き出す。
「行かなくていいの?」
紗那が私に言った。歩き出した穂積が立ち止って空を見上げる。
空からは、雪が舞っていた。ちらちらとはらはらと、それは穂積の上から舞い落ちていた。
そしてそのとき、ほんの一瞬だけ、穂積が私のことを見た気がした。
「ごめん……あたし、行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
紗那が、娘を見守るお母さんのような顔つきで、私に手を振る。私は教室を飛び出して、穂積のもとへ走っていった。
「穂積っ」
校門を出たところで穂積に追いついた。立ち止る穂積の脇を、自転車に乗った生徒たちがすり抜けてゆく。
「……一緒に帰ろう?」
穂積はなにも言わないで私を見た。ふたりの上から舞い落ちる雪は、この学校で初めて穂積に会った日の、桜の花びらみたいだった。
「……勝手にすれば?」
無愛想に穂積が言った。
「うん。勝手にする」
そう言って私は穂積の隣に並ぶ。伊織と並んで歩いた、最後の雪の通学路を思い出す。
そうなんだ……伊織が私たちの前からいなくなって、ちょうど四年がたった。
駅までの道を並んで歩いて、電車に乗ってバスに乗り換え、バス停からの道をふたりで歩いた。その間、穂積はほとんど口をきかなかった。
国道の交差点を渡ったところにあるコンビニ、歩きなれた静かな住宅街、いつも遊んでいた公園……今日は穂積と並んで歩く。
そしてそれは、今日で最後かもしれない……。
「……あのさ」
枯れ木になった桜の下で、ずっと黙っていた穂積がやっと口を開いた。穂積の吐く白い息が、冷たい空気の中に溶けてゆく。
「これ」
「え、なに?」
穂積が無理やり、私の手になにかを押し付ける。
「今日誕生日だろ」
「え……」
覚えていた? 穂積、まだ私の誕生日、覚えていてくれたんだ。
「その代わりに、それもらうから」
穂積が私のバッグを指した。そこには、伊織からもらったキーホルダーが揺れている。
ずっと机の引き出しの奥にしまってあったプレゼント。でもやっぱりこれは使ったほうがいいのかな、と思って……そのほうが、伊織も喜ぶのかな、と思って……最近バッグにつけた。
「いまどき『一球入魂』ってダサすぎだろ。ほら、早くはずせよ。おれがもらってやるから」
「でも……これは」
「いいから! 早くはずせ!」
私はバッグからキーホルダーをはずして穂積に渡した。
「でもそれ……大事なものだよ?」
「わかってるよ。ちゃんと兄貴に返す」
「返すの?」
「そう、返す。だから代わりにおれがあげたやつ、つけろよな」
私は穂積からもらった小さな袋を開けてみる。中にはうさぎのキャラクターのキーホルダーが入っていた。
「これ……買ってくれたんだ」
高校生の男の子が、店でこれを選んでいるところを想像して、なんだかおかしくなった。
「笑うなよっ! 笑うなら返せ」
「ううん、うれしい。ありがと、穂積」
私が言ったら穂積が照れくさそうに顔をそむけた。そして手のひらの中のキーホルダーを見つめて、独り言みたいにつぶやいた。
「バカだよな……伊織は」
雪が、穂積の手のひらに落ちて消えてゆく。
「なんで車なんかにひかれちゃうんだよ。なんでよけないんだよ……」
「穂積……」
「おれ、まだ兄貴になんにも勝ってないのに……ていうか、まだ勝負もしてないのに……」
穂積が手のひらをぎゅっと握りしめる。
「伊織は、バカだ……」
そう言いながら鼻をすすって、制服の袖で目をこする。
穂積は泣いていた。いつもおばさんの前で伊織のふりをして、いつもみんなの前で笑っていた穂積が、私の前で泣いていた。穂積の中で、伊織はまだこんなにも生きていたのだ。
「穂積……泣かないで……」
冷たい手を伸ばして、その体に触れてみる。そしてそのまま、穂積の体をぎゅっと抱きしめた。
「泣いて……ないから」
私の肩のあたりに顔をうずめて、涙声で強がりを言う。
「うん……」
「果歩のことなんか……好きじゃないから」
「わかってる」
わかってる。わかってる。どこにいたって、誰といたって、穂積のことは私が一番わかってる。
負けず嫌いで、強がりで、照れ屋なくせに生意気で、そして本当はやさしい穂積のことを……。
穂積がそっと体を離し、ぎゅっと唇をかんでいる私を見る。そして冷え切った私の手を、その手で軽く引き寄せた。
顔……近い。鼻と鼻がちょっとぶつかって……穂積の唇が一瞬だけ私の唇と触れ合った。
「……鼻、ぶつかった」
「……悪かったな。下手くそで」
「そんなこと言ってないのに」
そう言って笑った。恥ずかしくて、くすぐったくて、でもうれしくて……涙が出そうだった。
「おれ、果歩のことなんか、好きじゃないから」
照れくさそうに顔をそむけながら、もう一度穂積が私に言った。