17 好きだから
「果歩ちゃん?」
「こんにちは、おじさん。あの……穂積くんは……いますか?」
日曜日、穂積の家に行った。ドアを開けてくれたのはおじさんで、少し驚いた顔をしたあと、いつもの笑顔で私に言った。
「穂積は今、病院に行ってるんだ。お母さんの」
そしておじさんは、おばさんの入院している病院を教えてくれた。
「よかったら行ってやって」
「はい。ありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げて、穂積の家をあとにした。
住宅街を抜けて、国道へ出る。街の真ん中に架かる大きな橋を、真っ直ぐ走る。
空は今日も冬晴れ。風は冷たく、耳がキンっと冷えたけれど、私は前だけを見て走った。
小さいころ、伊織を追いかけて、必死で走ったあの頃みたいに……。そういえば最近、こんなに一生懸命なにかをしたことって、なかったかもしれない。
私は逃げていただけなのだ。伊織の死から。新しいお父さんから。大好きなお母さんから。友達から。男の子から。自分が傷つかないように、逃げていただけなのだ。
橋を渡り切ったら、白い建物が見えてきた。おばさんの入院している病院だった。
「まぁ、果歩ちゃん」
白いドアを開き、きれいで新しい個室に入ると、おばさんが一人でベッドの上にいた。私を見るなりおばさんは、すごくうれしそうな表情をしてくれた。
「こんにちは。おばさん、具合はどうですか?」
「ごめんなさいね、入院なんて大げさなのよ。来週には退院させてもらえるの」
「そう……よかった」
「伊織にも、寂しい想いさせちゃってるしねぇ」
おばさんがそう言って私に笑いかける。胸がぐっと締め付けられる。
おばさん、違うよ。伊織じゃないよ。いつもおばさんのそばにいるのは穂積で、伊織じゃないんだよ……。
「おばさん……」
口を開こうとした私の腕が、いきなり誰かにつかまれた。
「穂積っ!?」
「果歩っ! こっち来いっ」
「え、でも……」
「いいから!」
わけがわからないまま、穂積に腕をひっぱられて、私は部屋の外へ連れ出された。
「今、なに言おうとした?」
穂積と一緒に屋上にいた。売店にでも行ってきたのか、穂積の持つビニール袋には、ペットボトルが二本入っていた。
「なにって……」
「余計なこと言うなよな」
そう言って怒ったように顔をそむける。
「でも、私……おばさんにわかって欲しくて……穂積は穂積なんだから……」
「だからそれが余計なことなんだよっ」
そばにいた車いすに乗った患者さんが、ちらりと私たちのほうを見た。
「……ごめん」
私が言ったら、穂積は小さくため息をついて、それから空を見上げた。どこまでも晴れた青い空に、白い飛行機雲がすうっと伸びてゆく。
「これでいいんだよ……おれがいいんだから。果歩はなんにも心配しないで」
穂積の声が胸に響いた。私は冷え切った両手を、ぎゅっと握りしめる。
「そんなこと言われても……やっぱり心配するよ?」
穂積がちょっとムッとした顔で私を見る。
「心配するなって言ってんだろ?」
「でも心配する。心配させてよ」
「なんでだよっ」
「あたし、穂積のことが好きだから」
遠くから聞こえてきた救急車の音が、近くで止まった。冷たい北風が吹いて、私の髪をふわっと揺らす。
――あたしは穂積のことが好き。
穂積は放心状態みたいな顔つきで私を見ていて、そのあと、はっと我に返ったように言った。
「な、なに言ってんの? 果歩には彼氏がいるじゃん?」
明らかにあせった声で穂積は言ったけれど、私の気持ちは自分でも驚くほど穏やかだった。
「藤枝くんとは別れたの」
「は!? なんで?」
「だから、穂積のことが好きだから」
「冗談だろ? おれやだからな。お前の彼氏に恨まれるのとか」
「大丈夫だよ」
「だいたいおれ、お前のことなんか好きでもないし」
「それでもあたしは、穂積のこと、好きだから」
穂積があきれたように私を見た。
それもそうだよね。こんな場所でこんなこと言って……あきれられるのも無理はない。
「……果歩」
しばらくの沈黙が続いたあと、穂積がやっとつぶやいた。
「お前、彼氏と仲直りしろよ?」
「え……」
「そんでやさしくしてもらって、毎日学校で会って、休みの日はデートとかしちゃって……いつもにこにこ笑ってろよ」
「なんで……そんなこと言うのよ?」
その相手は、穂積じゃなきゃだめなのに……藤枝くんでも、伊織でもなくて、穂積じゃなきゃだめなのに……。
「おれ、あの家からいなくなるから」
「いなくなる?」
「だから、もう……果歩のそばにはいられない」
「うそ……」
小さいころから、穂積はあの家に住んでいて……なにがあっても、どんなときでも、走っていけばすぐに会えると思っていた。それなのに……。
穂積が私から目をそらして遠くを見た。こんなに近くで同じ空気を吸っているのに……すぐそばにある穂積の横顔に、私は触れそうで触れられないでいた。