11 夏の日
一学期は毎日藤枝くんと帰った。桜の木の下でバスケ部が終わるのを待っていると、時々、紗那と穂積が一緒に歩いているのを見かけた。
そして夏休みになって、私は毎日のように藤枝くんと会った。
「その『藤枝くん』って言うの、やめね?」
ガードレールに腰かけて、コンビニで買ったアイスを食べながら藤枝くんが言う。
「え、じゃあなんて呼べばいいの?」
「呼び捨てでいいよ。みんなそう呼ぶし」
そう言ってから、ちょっと空を見上げて言い直した。
「やっぱ、みんなと一緒じゃやだな。下の名前で呼んでよ」
「下の名前?」
「『たもつ』って呼んで?」
たもつ……心の中で呼んでみる。だけどなんだかくすぐったくて、声に出せない。
藤枝くんは笑って、私の髪をぐしゃぐしゃっとかき回す。
「ほら、呼べよ! 早く呼べー!」
「やー、もう! やめてよ」
そう言いながら笑っている私がいる。
いいのかな? 本当に私、笑っていてもいいのかな?
「果歩」
揺れる私の気持ちを知ってか知らずか、藤枝くんが少し強引に私の肩を引き寄せた。
真夏の太陽の下でキスをする。
髪をくしゃっとかくのが癖で、男子からも女子からも「藤枝ー」って呼ばれてて、「幸せになってもいいんだよ」って教えてくれた、私の彼氏と……。
そして私はどんどん彼のことを知っていく。
「果歩の唇うめー! アイスの味がするっ」
「バカ……」
藤枝くんがぺろっと舌を出して、いたずらっぽく笑う。恥ずかしくて、でもおかしくて、私も笑った。
蒸し暑い風が吹く。交差点の信号が青に変わる。ガードレールに並んで座る私たちの後ろを、何台もの車が通り過ぎる。
なんにもしなくても汗が出るくらい、とても暑い夏だった。
「ホントに果歩ちゃん、行かなくてもいいの?」
ガレージで車に荷物を積み込みながら父が言う。
「うん。三人で楽しんできて」
車の中から陽太が、「パパ早くー!」と呼んでいる。
「果歩。戸締りだけは気を付けてよ」
「わかってる。行ってらっしゃい」
父と母がちらりと私を見てから、車に乗り込んだ。
夏休み最後の家族旅行。適当に理由をつけて断るようになったのは、いつからだろう。
ぽつんとひとり、去ってゆく車を見送っていた。すると、コンビニの袋をぶら下げながら歩いてくる、穂積の姿が見えた。
「おばさんたち、どこか行ったの?」
車が角を曲がるのを確認してから穂積が言う。
「うん……温泉行った」
「果歩は行かないの?」
「うん」
「まだすねてんだ」
そう言って穂積が意地悪っぽく笑う。
「す、すねてるって何よ?」
「すねてるじゃん、いつも。小学生のころ、家に帰りたくなーい、なんて駄々こねてたし」
確かに。なんとなく家に帰るのが嫌で、みんなが帰った公園にひとり残っていたこともある。そんな時、なぜかいつも私のそばに穂積がいた。
「それは小さいころの話でしょ!? 今は違うから」
強がってそう言ってみたけど、穂積の言うことは当たっていると思った。何年たっても進歩のない自分が情けない。
穂積はどうでもいいような顔つきで、買ってきたスポーツドリンクを、私の前でおいしそうに飲んだ。
あれ……穂積の背、また少し高くなってる?
「果歩の両親やさしいじゃん」
「え?」
「お前の父さん、再婚でも、ちゃんと娘のこと見てるし」
穂積が私のことを見る。
なんだろう……その顔をまともに見れない私がいる。
「……おばさんの具合、どうなの?」
穂積には、自分の心を見透かされているようで、それが恥ずかしくて話をそらした。
「入院してる」
「え!?」
「心配しなくてもいいよ。てか、なんかすっきりしてんの、おれ」
穂積はペットボトルのふたを閉めると、袋の中にまた押し込んだ。
「毎日伊織のふりすんのも、けっこうしんどいし……」
胸がぎゅっと痛む。コンビニの袋をがさがさと揺らしながら、穂積は私に背中を向ける。ふたりの間に生ぬるい風が吹いた。
「穂積……あたしに言って?」
駅方向から走ってきた自転車が、私たちの脇を通り過ぎる。
「あたし、聞いてあげるくらいしかできないけど……穂積しんどいんだったら、あたしに……」
――なんでも言って?
それは私が藤枝くんに言われた言葉だった。
「果歩に?」
ふっと笑って穂積が振り返る。
「果歩に言ってどうすんだよ?」
「だから……」
「抱きしめて、キスでもしてくれるわけ? あの男みたいに」
顔がかぁっと熱くなるのを感じた。穂積はそんな私に冷たく言う。
「果歩におれの気持ちなんか、わかるわけない」
はしゃぎながら、プールバッグを持った小学生たちが通り過ぎる。ぼんやりと突っ立っている私を残して、穂積が黙って歩き出す。そして穂積は二度と、私に振り返ることはなかった。