1 桜の下で
初めて来た公園で、私は男の子と桜を見ていた。
風が吹くと、満開の桜の木から、花びらがひらひらと舞い落ちて、なんだか雪みたいだと思った。雪みたいで、すごくきれいだと思った。
男の子はなんにもしゃべらなくて、だから私もしゃべらなくて……。
私たちはずっと黙って桜の木を見上げていた。
――あれからもう、八年もたったんだ……。
***
階段の下から聞こえてくる、リズミカルな包丁の音。ほのかに漂うのは、母の作った味噌汁の匂い。
「ママー、トイレー」
「あら、ようちゃん、ひとりで行けないの?」
「ママー、早くぅ、早く来てぇ」
「しょうがないわねぇ、ほら、だっこ」
母が小さな弟を抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをした、ような気がする。
ごろんと布団の中で寝返りをうった。少し開いたカーテンの隙間から見えるのは、薄いピンク色の花びら。
「果歩たーん、起きてー、ご飯だよぉ」
舌足らずな弟の声が耳に響いて、私はやっと体を起こした。
「果歩ちゃん、今日は帰り遅いの?」
その声にはじかれたように、味噌汁のお椀をテーブルに置く。
春の日差しが差し込むダイニングキッチン。目の前に座る出勤前の父親が、にこにこ顔で私を見ている。
「……友達と、約束あるから」
「果歩。たまには早く帰って来て?」
私とそっくりだという母の声が、私の言葉に重なる。
「今日はようちゃんのお誕生日だから、レストランでも行こうと思うの。お父さんも早く帰って来てくれるから、四人でね?」
「ぼく、ハンバーグ食べたい! ハンバーグ、ハンバーグ!」
弟の陽太が椅子の上でぴょんぴょんと飛び跳ねる。テーブルの上の味噌汁が少しだけこぼれた。
「ほらほら、陽太、座りなさい」
「ようちゃんは、ホントにハンバーグが好きねぇ」
母が微笑んで、父が陽太の頭をくしゃくしゃとなでる。
「だから果歩ちゃんも一緒に……」
「ごめんなさい。友達とご飯食べる約束しちゃったから……三人で行ってきて」
私はすっと立ち上がって、バッグを抱えて部屋を出る。だけど足がもつれて、ドアのところで転びそうになった。……ああ、かっこわる。
「ちょっと、果歩ー?」
母の声が背中に聞こえる。けれど私は振り向かず、逃げるように玄関を飛び出した。
私の家は四人家族だ。だけど今の父親と私は血がつながっていない。本当のお父さんは死んじゃって、私が小学生の時、母が再婚したから。そして弟の陽太が生まれた。
まだ幼い弟のことが、かわいくないわけではない。「果歩たん、果歩たん」って呼ばれるのは、ちょっと恥ずかしいけれど、でも夢中で私のあとを追いかけてくる姿は、むしろかわいい。
私のことを「果歩ちゃん」と呼ぶ『お父さん』は、やさしくて穏やかで、すごく『娘』に気を使ってくれているのがわかる。
けれど……私はどうしても、この『家族』になじめなかった。春の陽だまりのように温かい家族の中で、自分だけが浮いている気がして、息がつまりそうになる。
「あっ」
廊下を走ってきた同じクラスの女子が、教室に入った途端、短い声をあげた。
「園田さん……まだいたの?」
「……うん」
驚かれちゃった。人の顔見て、そんなに驚かなくてもいいのにな……。
「待ち合わせとか?」
「ううん、別に……」
「ふーん?」
その子は不思議そうに私を見ながら、私以外誰もいない教室に入ってきて、自分の机の中をのぞきこむ。
ブレザーの裾からのぞく桜色のセーターと、夕陽に透ける茶色い髪が、なんだかきれい。私はパーマもカラーもしていない自分の髪を、何気なく指に絡ませた。
「紗那ぁー、まだぁー?」
「あった、あった! いま行くぅー」
紗那と呼ばれた女の子は、甘ったるい声で返事をしながら、机の中からノートを取り出す。そして私の前をバタバタと通り過ぎ、廊下から覗き込んでいる友達のもとへ駆け寄った。
「じゃあね、園田さん」
「うん」
紗那が社交辞令のように手を振って、短いスカートをふわっとひるがえす。
「また部活遅刻だー」
「紗那のせいだからねー」
「ごめん、ごめん。あとでプリンおごるからさっ」
廊下の笑い声が遠ざかる。私は小さくため息をついてから席を立ち、半分開いた窓から外を眺めた。
真っ先に目に映るのは、学校の敷地をぐるりと囲む桜の木。残りわずかな花びらが、グラウンドを駆け回る運動部員たちに、雪のように舞い散っていた。
本当は、ご飯を食べる約束なんかしていない。それどころか、放課後を一緒に過ごす友達さえ、私にはいない。
交通の便が悪いこの高校へ、同じ中学から入学した生徒はほとんどいないし、新しい友達を作る気にもなれなかった。だから二年生に進級しても、私は一年の時と同じように、こうやってひとり、教室で時間をつぶして帰るのだ。
別にひとりは嫌いじゃないし……。
外に出ると、あたりは夕陽に包まれていた。まだ真っ白いユニフォームを着た、一年生の野球部員が、グラウンド整備をしているのが見える。
桜の木の下で立ち止って、ぼんやりとそんな光景を眺めた。ひらひらと舞う花びらが、私の肩にふわりと落ちる。
「果歩?」
突然、誰かに名前を呼ばれた。
「やっぱり、果歩だ」
私の隣に、制服を着た男子生徒が立っている。よく知っているはずなのに、その顔を見るのは、本当に久しぶりだった。
「穂積?」
佐藤穂積。私の家の三軒隣に住む、ひとつ年下の男の子。
「なんで穂積がここにいるの?」
「なんでって……おれもこの学校に入学したから」
穂積が、ちょっとゆるめた真新しいネクタイを、ぴらぴらさせながら笑いかける。
「うそ、やだ、知らなかった……」
「果歩はおれのことなんか、全然興味ないもんな」
私の心がかすかに揺れる。
「いっつも兄貴の後ついて回ってさ。兄貴のこと、好きだったの?」
「やめてよっ!」
思わず叫んでいた。胸が何かに掴まれたようにぎゅっと痛んで、息をするのが苦しい。
「……冗談だよ」
穂積はつぶやくと、ポケットに手をつっこんで、背中を向ける。
冗談だよ、なんて、そんな簡単な言葉で片づけないでよ。私をこんな気持ちにさせておいて……。
私がその場でうつむいていたら、穂積が振り返って大声で叫んだ。
「かーほ!」
顔を上げて穂積を見る。
「一緒に帰ろっ!」
桜の舞い散る夕陽の中で、穂積が笑っていた。兄の伊織と、同じような顔をして……。
新しいお話はじめました。
どうぞよろしくお願いいたします。