五年間笑顔で待ち続けた婚約者ですが、殿下が王太子検定を受けてすらいなかったと知ったので、お望み通り婚約破棄いたします
弦楽奏者が弓を落とした。貴族たちの視線が、一斉にこちらへ集まり、一斉に逸れた。
頬が熱い。
殿下の手は大きい。平手で打たれると、頬の内側が歯にぶつかって、口の中に鉄の味が広がる。もう慣れた味だった。舌の先で傷口をなぞると、小さな裂傷の輪郭がわかる。今日のは浅い。三日もすれば治る。それでも口元は微笑んでいた。
「笑うな。気味が悪い」
殿下はそう言って、すぐに目を逸らした。私の顔を殴っておきながら、その顔をもう見ない。視線はマリエルに向いている。彼女の手を握り、もう片方の手——私を打ったのと同じ手——で彼女の腹を撫でていた。
「マリエルが身籠った。俺の子だ」
知っていた。知っていたというのは、今この瞬間に初めて言葉として聞いたという意味で、同時に、こうなるだろうとずっと前から分かっていたという意味でもある。
マリエルが微笑んでいる。控えめに伏し目がちに、しかしその唇の端だけが、精密に、確実に、勝ち誇っている。聖女の顔をした勝者の笑み。あの笑みを私は何度も見た。殿下の視線を奪うたびに。私の隣にいた時間を食い潰すたびに。少しずつ、少しずつ、彼女はあの笑みの面積を広げてきた。今日、それが顔全体を覆った。
「婚約は破棄する。異論はないな」
エルヴィンが殿下の斜め後ろで微笑んでいた。台本を書いた演出家が、役者の出来を査定するときの顔。
異論。その言葉が可笑しかった。五年間、私の異論が採用されたことは一度もない。
*
最初からこうだったわけではない。
いや、最初から兆候はあった。私が見なかっただけだ。見ないことを選んだのだ。十五歳の私は、婚約者検定一級に史上最年少で合格した翌月に殿下と出会い、殿下のために生きようと決めた。検定の勉強で学んだことのすべてを、この人のために使おうと思った。
殿下のために使おう、と思った知識の中に、王太子検定の仕組みがあった。血縁だけでは王太子の座は成立しない。検定に合格しなければ、制度上の裏付けがない。このことを知っている非王族は、おそらく私だけだった。
だから私は待った。殿下が合格するのを。
*
マリエルが現れたのは、殿下が二度目の不合格を受けた年だった。
平民出身の聖女。大きな目。小さな声。殿下は彼女の手を引いて社交の場に連れ回し、私の隣に彼女を座らせた。私の隣、というのは、本来私が殿下の隣に座るべき席に彼女を置いて、私をひとつ外に押し出したという意味だ。
エルヴィンが私に耳打ちした。
「殿下は聖女の庇護者としての責務を果たされているのです。婚約者であるあなたなら、ご理解いただけますよね」
理解。責務。婚約者なら当然。エルヴィンの言葉はいつも正しかった。正しい形をしていた。正論の形に研がれた刃で、私の喉元を優しく撫でる。反論すれば私が狭量になる。だから頷く。頷くしかない。
殿下がマリエルを優先するたびに、エルヴィンが理由を言語化した。
「聖女は不慣れな宮廷で不安を感じていらっしゃる」
「殿下の温情は王族としての美徳」
「婚約者だからこそ、器の大きさを見せるべきです」
私は一度だけ、苦言を呈した。
殿下が三度目の検定を控えた月だった。勉強もせず、マリエルと庭園にいる殿下を見つけて、私は言った。
「殿下、検定が近いのですから、少しはお勉強なさってください」
たったそれだけだった。
「おまえに言われると勉強する気がなくなるんだよ」
殿下はそう吐き捨てて、マリエルの手を引いて歩き去った。マリエルが振り返った。あの笑みだった。勝者の笑み。まだ小さくて控えめな、しかし確実な。
私の口はそこで閉じた。
三度目の検定。殿下は不合格だった。王妃陛下が私にそう告げたとき、私は——殿下の勉強を邪魔したのは自分ではないかと思った。
あの一言が殿下のやる気を奪ったのだとしたら。
不合格の原因は私だ。
だから私は黙ると決めた。何も言わない。何も求めない。笑って待つ。殿下が合格するその日まで。
*
沈黙は許可証になった。
私が何も言わなくなったことを、殿下は承認と受け取った。マリエルとの逢瀬は日中から夜に移った。殿下の部屋にマリエルが出入りしていることは、使用人の目配せで知った。知っていたが、言えなかった。言えば殿下のやる気を奪う。言えば私が婚約者失格になる。
笑顔の経済が成立した。
殿下が笑う。柔らかく、甘く、マリエルに向けるのと同じ種類の笑顔で、しかし意味がまるで違う。殿下が私に笑いかけるとき、それは要求だった。許せ、と。受け入れろ、と。おまえは婚約者なのだから。
エルヴィンが翻訳する。殿下の笑顔の裏にある要求を、社会的に正当な言葉に変換して私の前に差し出す。
「殿下はあなたを信頼なさっているのです」
「この程度のことで揺らがないあなたを、殿下は高く評価されています」
私が笑顔を返す。支払いが完了する。
この経済には交換レートがあった。殿下の笑顔一つにつき、私の笑顔一つ。等価に見えた。しかし殿下の笑顔は要求であり、私の笑顔は譲渡だった。殿下は何も減らない。私だけが減る。同じ通貨の顔をした、まったく別の取引。
笑っているうちに、笑い方を忘れた。正確には、笑顔以外の顔を忘れた。泣き方を忘れ、怒り方を忘れ、顔の筋肉が笑顔の型に固着した。鏡を見ると、いつも微笑んでいる女がいた。美しいと思った。空洞だとは思わなかった。思わないことにした。
*
王妃陛下は毎年、同じ言葉を持って私のもとを訪れた。
「不合格でした」
四度目の不合格を告げられたとき、王妃陛下の声は、わずかに湿っていた。私はそれに気づかないふりをした。
「来年こそは、きっと」
私が微笑むと、王妃陛下は唇を噛んだ。何か言いかけて、飲み込んだ。その喉の動きを、私は見ていた。見ていたが、問わなかった。問えば、殿下に不合格の理由を知ろうとしたことになる。婚約者検定で学んだ。検定結果は王家機密。合否だけが婚約者に伝えられる。それ以上を望んではいけない。
五度目の年。王妃陛下の目の下に隈があった。
「不合格でした」
「来年こそは、きっと」
同じ言葉。同じ微笑み。でも王妃陛下は今度こそ堪えきれないように顔を伏せた。私は王妃陛下の震える肩を見ながら、この方は殿下の不合格を私以上に悔しがっているのだと思った。母親だから。息子の不出来が辛いのだと。
それが嘘だったと知るのは、もう少し先のことだ。
*
記憶が現在に追いついた。
目の前にジェラルド殿下がいる。マリエルの腹を撫でている。エルヴィンが微笑んでいる。私の頬はまだ熱い。口の中にはまだ鉄の味。
「聞いているのか。婚約は破棄すると言ったんだ」
私は殿下を見た。五年ぶりに、ちゃんと見た。
目の前にいるのは、五度不合格になった男だった。検定の重さを知らず、私の忠告を蹴り、勉強を放棄し、別の女と寝て、子を作り、婚約者を殴り、それでもまだ王太子の顔をしている男。
私は口の中の血を飲み込んだ。
泣かなかった。叫ばなかった。殿下の腕にすがることも、マリエルを責めることも、エルヴィンに問い正すことも、返事をすることもしなかった。五年間笑顔を練習し続けた筋肉が、最後の最後に、完璧な無表情を作った。
背を向けた。歩いた。広間を横切り、扉に手をかけた。
背後で殿下が何か言った。マリエルが何か笑った。エルヴィンが何か付け足した。全部聞こえていた。全部、もう、どうでもよかった。
扉を閉めた。
*
扉の向こうに陛下がいた。
国王陛下が、広間の外の廊下に、書類を手にして立っていた。いつからそこにいたのだろう。その表情は怒りでも悲しみでもなく、長い覚悟を経た後の静けさだった。
「アリシア嬢。少し時間をもらえるか」
陛下は広間の扉を再び開いた。私を伴って中に戻った。殿下が驚いた顔をした。マリエルが笑みを引っ込めた。エルヴィンが一歩下がった。
陛下が書類を広げた。
「ジェラルドの王太子検定の受験記録を開示する」
会場が静まった。社交の場にいた貴族たちが、動きを止めた。検定結果は王家機密だ。それを国王自ら開示する。異例だった。
「第一回、不合格。第二回、不合格。第三回、不合格」
そこまでは知っていた。王妃陛下から聞いていた。三度の不合格。それでも私は待った。
「第四回——受験放棄」
息が止まった。
「第五回——受験放棄」
不合格ではなかった。
受けてすらいなかった。
四度目も。五度目も。殿下は検定会場に行かなかった。勉強する気がないのではなく、受ける気がなかった。王妃陛下は毎年「不合格でした」と伝えに来た。受験放棄とは言えなかった。言えなかったのだ。あの湿った声、あの震える肩、あの飲み込んだ言葉——全部、これだったのだ。
私は「来年こそは」と微笑んだ。来年の受験を待っていた。待つ意味がなかった。最初から。
「アリシア嬢。ジェラルドが宣告した婚約破棄、受諾するか」
その問いの重さを、この場で理解できたのは私だけだった。婚約者検定一級を持つ私が待ち続ける限り、殿下の王太子としての暫定的な地位も生きている。私が「はい」と言えば、その全部が終わる。
「はい」
一秒も迷わなかった。
会場にざわめきは起きなかった。当然だ。貴族たちは全員、王太子の地位は血縁で決まると信じている。検定は通過儀礼にすぎない。不合格は恥だが、第一王子は第一王子。婚約破棄は痴話喧嘩の延長。それが彼らの常識だった。
陛下が、次の書類を広げた。
「王太子の地位は、王太子検定の合格をもって制度的に成立する。血縁のみでは王太子たりえない。ジェラルドは検定に合格していないため、王太子としての法的根拠を持たない」
沈黙が落ちた。先ほどのざわめきの不在とは質の違う沈黙。
全員の顔が変わった。
検定は形式ではない。検定こそが王太子の制度的根拠。合格しなければ王太子ではない。三度不合格、二度放棄した殿下は——最初から王太子ではなかった。
私はこのことを知っていた。婚約者検定の勉強で学んだ。知っていて、それでも殿下を待った。合格してほしかったから。殿下が王太子になる日を信じていたから。
「加えて、第二王子レオンハルトが本年度の王太子検定に合格したことを報告する」
もう一つの沈黙が重なった。
「ジェラルドの王太子としての仮の地位は、本日をもって完全に失効する」
ジェラルド殿下の顔から血の気が引いた。
「……待て」
さっきまで私を殴っていた男の声が、裏返っていた。
「待ってくれ、アリシア」
私の名前を呼んだ。五年間で何度呼ばれただろう。殿下が私の名前を呼ぶのは、いつも何かを要求するときだった。今もそうだ。
「マリエルとは遊びだった。本気じゃない。おまえが本命に決まっているだろう」
マリエルが殿下を見た。笑みが消えていた。
「子供なんかどうにでもなる。堕ろせばいいだろう。なあ、アリシア、俺たちの婚約を——」
堕ろせばいい。
自分の子を。目の前に母体がいるまま。自分の地位のために。
マリエルのために私を捨てた男が、地位のためにマリエルを捨てた。彼女の腹の中の子ごと。勝利の笑みが凍りつくのを見た。あの精密で計算高い笑みが、計算の外側から来た残酷さに砕かれて、ただの恐怖に変わるのを。
マリエルは計算を間違えたのではない。計算は正しかった。ただ、この男が計算の枠そのものを壊す人間だということを、計算に入れられなかっただけだ。
私は何も感じなかった。哀れとも思わなかった。ジェラルド殿下に対しても、マリエルに対しても。空っぽの頬が、じんじんと熱いだけだった。
乾いた音が広間に響いた。
王妃陛下がジェラルド殿下の頬を打った。母親の平手が、息子の顔を打つ音。私を打った掌とは違う。怒りと悲しみの両方を載せた、震える手のひら。
殿下が呆然としている間に、王妃陛下は私のもとに来た。
そして、抱きしめた。
「ごめんなさい」
王妃陛下の身体は震えていた。私より小さい身体が、私を包もうとして、でも包みきれなくて、それでも離さなかった。
「五年間、あなたが待っていてくれたこと、私は知っていました。毎年、不合格を伝えに行くたびに、あなたは微笑んで『来年こそは』と言った。その笑顔を見るたびに、私は——」
声が途切れた。
「四度目からは、受けてすらいなかったの。本当のことを言いたかった。あの子はもう受ける気がないのだと。あなたが待つ必要はないのだと。でも言えなかった。母親として——息子を見捨てられなかった。あなたを犠牲にして」
王妃陛下は泣いていた。この方は殿下の不合格を悔しがっていたのではなかった。私に嘘をつく自分自身が苦しかったのだ。五年間、毎年、「不合格でした」と言うたびに。
「あなたの笑顔が、一番辛かった」
母親が、息子のためではなく、息子に踏みにじられた女のために泣いている。
私は王妃陛下の背中に手を回した。泣けなかった。泣き方を忘れた筋肉は、今も笑顔の形に固まったままだった。
*
足音がした。
広間の扉が開いて、一人の青年が入ってきた。
殿下の弟——レオンハルト第二王子。
レオンハルトは会場の惨状を一瞥した。崩れ落ちた兄。凍りついた聖女。泣き崩れる王妃陛下。そして——私を見た。
まっすぐに。
「アリシア嬢」
私は王妃陛下の腕の中から顔を上げた。
彼の目は緊張で揺れていた。しかし声は揺れなかった。
「ずっと、あなたに言えなかったことがあります」
彼は一度だけ息を吸った。
「王太子検定の最後の問いに、『あなたにとって伴侶とは何か』というものがありました。僕はこう書きました。——ひとりで生きる力を奪わずに、ひとりでは見えなかった景色を一緒に見せてくれる存在」
心臓が鳴った。
「うれしいときに喜びを増やし、苦しいときに苦しみを半分にするだけではなく、沈黙の中にも安心があり、違いの中にも敬意がある。完全に分かり合えなくても、分かろうとし続ける——その姿勢そのものが、伴侶という関係をつくるのだと、僕は思っています」
婚約者検定の最後にも、同じ問いがあった。
五年前、十五歳の私が答案用紙に書いた言葉。あの頃はまだ信じていた。伴侶とはそういうものだと。ひとりで生きる力を奪わない人。ひとりでは見えない景色を見せてくれる人。そんな人がいると、本気で信じていた。五年間で、その答案用紙は私の中で黄ばんでいった。笑顔を通貨にするたびに一文字ずつ消えて、最後にはもう何を書いたのかさえ思い出せなくなっていた。
レオンハルトの声が、その文字をひとつずつ灯していく。
同じだった。
一言一句ではない。語順も違う。表現も微妙に違う。でも芯が同じだった。根を同じくする木が、別々の場所で別々に育って、同じ形の枝を空に伸ばしている。彼は私の答えを知らない。私は彼の答えを知らなかった。同じ問いに、別々の場所で、同じ答えにたどり着いた二人。
笑顔の型に固まっていた筋肉が、緩んだ。
固着が解けた。泣き方を忘れたはずの顔から、涙が出た。笑っているのか泣いているのか分からない、どちらとも呼べない、五年ぶりの表情。
「この答えを書いたとき、頭に浮かんでいたのは、あなたでした。——あなたに、伴侶になってほしい」
「——はい」
一秒も迷わなかった。さっきと同じ一秒のなさが、まるで違う温度を持っていた。
* * *
確定婚約の書類に署名した日、レオンハルトは私に花を贈った。
私は翌日、お返しにレオンハルトの執務室に茶菓子を届けた。ちょうど午後の仕事が一段落する時刻を見計らって。殿下に——ジェラルド殿下にしていたのと同じだ。相手の予定を把握して、相手が欲しいものを、相手が欲しいときに差し出す。五年間ずっとそうしてきた。身体に染みついている。
執務室の扉を開けると、レオンハルトが立ち上がった。
机の上に茶器が二つ並んでいた。菓子も添えてある。
「ちょうどお茶にしようと思っていたんです。あなたの分も淹れました」
私が差し出す前に、彼のほうが先に用意していた。
私は菓子の包みを持ったまま立ち尽くした。笑顔の経済では、私が差し出し、相手が受け取り、それで取引が完了した。通貨は一方向にしか流れなかった。
レオンハルトは私の手から包みを受け取って、机に並べた。彼の菓子の隣に、私の菓子が並ぶ。どちらが贈り物でどちらがお返しか、もう分からなかった。
「明日は僕が届けますね」
笑っていた。殿下の笑顔とは通貨が違った。何も要求していない。何も査定していない。ただ嬉しいから笑っている。
頬が熱かった。殴られたのではない。内側から、熱い。
笑った。通貨ではない笑みだった。
——どこか遠くで、平民の産声が聞こえた気がした。




