父さんの魔法
父さんは、魔法が使えた。
——私は今でも、そう信じている。
子供のころ、私はささいな事で泣いた。
泣きじゃくる私の前にゆっくり腰を下ろすと、父さんはいつも言った。
「順子の好きなもの、言ってごらん?」
グレープ味のラムネ。
花の形のマグネット。
昨日なくした水色のクレヨン——。
他に何を頼んだっけ。
父さんはポケットに手を入れ、「はい」と差し出した。
「あの人ね、いつも仕込んでたのよ。
ポケットに何から何まで詰め込んどいて。
そういう人だったのよ」
母は、いつもそう言う。
「でも、もしほんとに魔法が使えたんなら」
母はそう言いながら、犬の頭をなでた。
「タロベエの食いしん坊を治しといてほしかったわねえ」
タロベエは、十四年をこの家で過ごしてきた。
黒かった口元は白くなり、耳も遠くなった。
立ち上がる動作にも、かすかなためらいが混じる。
母は事あるごとに
「あの人はもう、こんな大きな犬を残して行っちゃって!」
と不満を漏らしつつも、そのくせ毎日の散歩、ブラッシングに結構な時間をかける。
タロベエがうちに来た頃、私はまだ二つになったばかりだった。
天気のいい日には、一緒に庭で転げ回った。
笑い声と、揺れるしっぽと草の匂い。
まるで生まれる前から決まっていたみたいに、
私たちは本当のきょうだいのように育った。
今にして思えば——。
あのとき父は、どんな気持ちでじゃれあう私たちを見ていたのだろう。
一粒ずつこぼれ落ちていく、砂時計の残りを知りながら。
そのタロベエが、今年の夏のある日、前触れもなく倒れた。
さっきまで庭の夏草の匂いを追っていたはずなのに、
ふいに呼吸が乱れ、体を支えきれずに横倒しになった。
目は開いたまま、浅い呼吸を繰り返している。
私は駆けた。
近くに動物病院がある。
先生と父さんが知り合いだったから、タロベエをよく診に来てもらっていた。
先生は夕方の診察の準備をしていた。
「倒れた?タロベエが?」
往診カバンを抱えてすぐに駆け出した。
もう60歳くらいの先生なのに、私を追い抜いて、すべり込むように庭に到着した。
タロベエは庭の木の下でまだ倒れていた。
目はうつろで、呼吸も荒い。
先生は瞬時に状態を確認すると点滴を取り出し、
手際よく近くの枝に掛けた。
素早くタロベエの前足に点滴を通す。
枝から下がった点滴バッグ。
一定のリズムで輸液が落ちはじめる。
点滴の落ちるのを確認しながら、先生は注射と酸素投与を手早く施した。
私と母は、はらはらしながら様子を見守ることしかできない。
しばらくすると、タロベエの呼吸は落ち着きはじめた。
首を挙げ、キョロキョロと辺りを見回す。
「もう大丈夫でしょう」
ふーっ、と母と私は安堵の溜息をもらした。
張りつめていた空気がほどけ、庭を渡る風が、汗ばんだ首筋をひんやりと撫でていく。
「もう‥何とお礼を申し上げて良いか‥」
母の声はまだ少し震えていた。
「処置が早かったですから」
先生は表情を緩めながら、点滴に目をやる。
頭上では、白い花がやわらかく咲き満ちていた。
夕風がそっと枝を揺らし、葉のあいだから、かすかな葉擦れの音がこぼれてくる。
「ちょうどいい枝も近くにありましたしね」
先生はその枝を見上げてから、ゆっくりと腰を上げた。
よく見ると確かに、点滴を掛けた枝は実に絶妙な位置にあった。
タロベエからの距離といい高さといい。
まるでそのために伸びてきたような。
先生は片付けようと枝の点滴バッグ手を伸ばす。
かすかな風に、白い枝先がわずかに揺れた。
一瞬、動きが止まった。
「この木‥懐かしいな」
先生は見上げながら続けた。
「サルスベリ‥。確かお父様が」
夕風が枝を揺らし、白い花がわずかに踊る。
「え?‥ああ、あの人が植えたんですよ」母は目を丸くした。
「亡くなる1ヶ月くらい前かしら。順子、あなた覚えてない?」
その瞬間、記憶の果ての扉がひらいた。
覚えている。
サルスベリ。
その名が面白くて私はあのとき、けたけた笑った。
「サルスベリだって!ほんとにおサルさんがすべっちゃうの?見たーい!」
あのとき。
私が振り返ったときの父の顔。
父さんは優しく笑っていた。
すっかり頬のこけた顔が、夕日に深く掘り下げられていた。
その細めた眼の奥に満ちていた優しい光。
先生は木肌をさすった。
「この木が植わったとき、ちょうど来ていましてね。タロベエの予防注射に」
さあっと夕風が抜け、庭の葉がかすかに鳴った。
「そのとき、お父様に尋ねたんです。
"サルスベリ、お好きなんですか"と。
往診でいろんな庭を見ますが、サルスベリはあまり見かけませんから」
私は思わず口を挟んだ。
「それで、父は?」
先生は少し首をかしげた。
「妙なことをおっしゃった。"サルスベリは登りにくい木ですから"——と」
西日の名残が静かに差し込み、庭の色をひとつずつ淡く変えていった。
母はしばらく黙り、ふいに顔を上げた。
「そう……言ってたわ。登れる木じゃだめだって。愛子が登って、枝を折るからって」
葉擦れの音が細く続く。
母は口元を押さえ、声を絞った。
「この枝は大事にしろって。見栄えが悪くても、落とすなって……」
揺れる点滴バッグを見つめる母の声は、かすかに震えていた。
そのとき、ふいに浮かんだのは——、
若木を優しく見つめる父さんの姿だった。
先生はまるで遠くのどこかを見るようにゆっくり口を開いた。
「普通は‥落とす枝なんですがね」
しみじみと枝を撫でながら、
「特に幹から横に出たのは、不恰好だから切るんですよ」
点滴バッグに、鮮やかな夕日が当たった。
跳ね返った陽光が、きらきらと庭に輝きを放っていた。
私たちはずいぶん長いあいだ、夏の夕暮れの庭に佇んでいた。
父さんは、魔法が使える。私はずっと、そう信じている。




