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第一章 出会いと違和感

この町の夕方は、少しだけ嘘くさい。


 昼間はただの地方都市だ。駅前にはどこにでもあるチェーン店が並び、少し離れればシャッターの降りた商店街が続く。高校生は放課後に行く場所がなくて、コンビニの前か河川敷か、あとは古い公園に流れ着く。大人はみんな「ここは静かでいいところだ」と言うけど、静かっていうのは大体、何も起きないことの言い換えだ。


 その「何も起きない」の代表みたいな場所が、街の外れにある夕凪公園だった。


 名前だけは妙に出来すぎている。夕凪なんて、まるで観光ポスターにでも載りそうな言葉だ。実際には、風は普通に吹くし、蚊は多いし、ベンチは一部ひび割れていて、夜になると近所の中学生が菓子の袋を置いて帰る。春になると桜が咲いて、少しだけ見栄えがよくなる。それだけだ。


 公園の真ん中には、なぜか日時計がある。


 しゃれた設備として作られたんだろうけど、今じゃ誰も使い方を知らないし、そもそも使う必要もない。スマホを見れば時間はわかる。だからその日時計は、時間を知るための道具じゃなく、時間だけが置き去りにされたみたいな顔で立っている。


 俺は放課後、よくその日時計のそばのベンチに座っていた。


 理由は特にない。帰ってもやることはないし、部活も入っていない。塾に行くほど熱心でもないし、かといって友達と騒ぐ性格でもなかった。家に早く帰れば母親に「珍しいね」と言われるし、遅ければ遅いで何も言われない。そういう家だ。


 だから、まあいいか、と思ってここにいる。


 桜はちょうど散り始めていた。花びらが風に乗って、日時計の石の台座に薄く積もっている。遊具のほうを見ると、誰もいないジャングルジムが赤錆を浮かせて沈んでいた。形だけは立派なのに、昔ほど子どもがいないから、夕方の公園はやけに広く見える。


 制服のネクタイを緩めて、スマホを見た。メッセージは特に増えていない。クラスのグループチャットはどうでもいいスタンプで埋まっていて、既読をつける気にもならない。


 顔を上げると、目の前に誰か立っていた。


「こんにちは」


 セーラー服の女子だった。


 うちの学校の制服に似ている。いや、似ているだけで少し違う気もする。襟の線が一本多いようにも見えたし、スカーフの色も、夕陽のせいか記憶と噛み合わない。


 長い黒髪。白い肌。桜の花びらが肩に一枚乗っていた。


 美少女、って言葉を頭の中で使うのは少し恥ずかしいが、客観的に見てかなり整っている。整いすぎて、逆に風景から浮いていた。公園のベンチと同じ空間にいるのに、写真の切り抜きを貼りつけたみたいだった。


「……こんにちは」


 とりあえず返すと、彼女は少し首を傾げた。


「あなたは、よくここにいる人だよね」

「まあ」

「よかった。ちゃんといる」


 確認みたいに言われた。


「いないこともあるけど」

「でも、今日はいる」

「今日はな」


 彼女は納得したようにうなずいた。それから、俺の隣に座るでもなく、少し離れた位置に立ったまま日時計を見上げた。


「これ、時間がわかるやつだよね」

「一応は」

「でも今、あんまり合ってない」

「曇ってるからじゃないか」

「そういう話じゃなくて」


 柔らかい声なのに、言い切るところだけ妙に強い。


 俺は立ち上がって日時計の影を見た。確かに、影の向きは微妙に変だ。夕陽の位置と比べると、少しだけずれているようにも見える。まあ、古いし、基準が狂ってるんだろうと思えばそれまでだ。


「古いからだろ」

「ううん。ここはときどき遅れるの」


 ここ、という言い方が気になった。


「時計じゃなくて?」

「公園が」

「……意味わからないな」

「普通だよ」


 たぶん、と彼女はつけ足した。


 普通、の使い方がおかしい気がしたが、初対面の相手にそれを指摘するほど親切でもない。変なやつだな、で済ませておくのが一番楽だ。


「君、ここの近くの人?」

「近いよ」

「学校帰り?」

「そう」

「うちの高校?」

「学校って、毎日あるよね」


 質問の答えになっていない。


「あるだろ」

「たまにない時もあるよ」

「休校とか?」

「そうじゃなくて、最初から」


 彼女はそこで言葉を切って、少し笑った。


「……あ、ごめん。変だった?」

「まあ、だいぶ」

「よかった」


 何がよかったのかわからない。


 彼女はようやく俺のほうを見た。目が合う。やけに黒く見える瞳だった。色が濃いというより、奥行きが見えない感じの黒さだ。


「あなた、名前は?」

「相沢」

「下の名前」

「なんで」

「呼ぶから」

「呼ばなくていいだろ」

「じゃあ、呼べない」

「……恒一」

「こういち」


 確かめるみたいに口の中で転がしたあと、彼女は満足そうにうなずいた。


「私は花音」

「名字は?」

「白栖」

「しろす?」

「そう。白い巣」


 妙な名字だと思ったが、珍しい名字なんていくらでもある。俺の町は無駄に古い家が多いから、聞いたことのない名字もたまにいる。


「へえ」

「信じてない」

「別に。珍しいなって思っただけ」

「珍しいのはいいことだよ。覚えてもらえるから」

「そんなに覚えられたいのか」

「うん」


 即答だった。


 その答え方だけ、妙に重かった。


 けれど次の瞬間には、彼女はベンチの背に手を置いて、そこに落ちた花びらを指先で集め始めていた。爪の先で花をなぞる動作が妙に丁寧で、見ていると、何か別の生き物が触角で周囲を探っているみたいに見えた。


 花の形を確かめるように、そっと。


 花カマキリ、という単語が頭に浮かんだ。


 昔、図鑑で見たことがある。花びらに擬態して、じっと獲物を待つ虫。美しいくせに、なんとなく怖い。


「どうしたの?」

 視線に気づいたのか、花音が聞いた。

「いや」

「変な顔してる」

「そうか」

「うん。虫見たみたい」

「失礼だな」

「虫はきれいだよ」


 彼女は本気でそう言っているらしかった。


 俺は肩をすくめた。変なやつ。でも、会話が続くのは退屈しなくていい。クラスの誰かと話すより、たぶんよっぽど楽だった。相手が何を考えてるのか、最初から諦めていられるから。


「花音は、いつもここにいるのか」

「夕方だけ」

「毎日?」

「だいたい」

「昼は?」

「昼の私は、ここに向いてないの」

「向いてない」

「夕方のほうが、形がきれいだから」


 またよくわからないことを言う。


「モデルか何か?」

「ちがうよ。普通の女子高生」

「普通の女子高生は、自分の形が夕方向きとか言わないだろ」

「そうかな。じゃあ、少しだけ変かも」


 彼女は笑った。笑い方までどこか遅れているように見える。表情の変化がワンテンポ遅いんじゃなくて、笑う理由だけが別の場所から届いているみたいだった。


 公園の入り口のほうから、自転車のブレーキ音が聞こえた。


「相沢!」


 聞き慣れた声だった。


 三崎夕。幼なじみ。腐れ縁。世話焼き。うるさい。正しい。そういうやつだ。


 制服のスカートを翻して自転車を止めると、夕は眉をひそめて俺を見た。


「またこんなとこで時間潰してるの? 先帰るって言ったのに」

「帰る途中だった」

「公園でベンチに根生やしてるのが途中なわけないでしょ」


 そのまま花音のほうを見て、一瞬だけ動きが止まる。


「あ……ごめん。話し中?」

「別に」

「こんにちは」


 花音がぺこりと頭を下げた。


 夕は愛想よく会釈を返したあと、小声で俺に聞いた。


「誰?」

「知らない」

「知らない子とそんな普通にしゃべってたの?」

「初対面だけどな」

「それは知ってるわ」


 花音は少し興味深そうに夕を見ていた。


「あなた、恒一の近い人?」

「近い人?」

「よく話す位置の人」

「……幼なじみだけど」

「へえ。いいね」


 何がいいのか、またわからない。


 夕は警戒したように花音を見る。こいつは違和感に敏感だ。俺が面倒だから見ないふりをするものでも、夕はすぐに拾う。


「あなた、うちの学校の子?」

「そうだよ」

「何組?」

「教室がある組」

「いや、だから――」

「夕」


 俺は軽く止めた。夕は不満そうに俺を見る。


「だって、なんか変でしょ」

「それ変でしょ、が口癖だな」

「実際変なんだからしょうがないじゃん」


 花音は少し目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


「現実見なって、って言いそう」

「……なんで知ってんの」

「知ってるから」

「会ったことあった?」


「たぶん、まだ」


 その返答に、夕の顔が明らかにこわばった。


「相沢、帰ろ」

「まだ少し」

「ちゃんとしなよ。もうすぐ暗くなる」

「まだ夕方だろ」

「だから嫌なの。最近この公園、変な噂あるし」


 噂、という言葉に花音の肩がわずかに動いた。


「どんな?」

 彼女が聞くと、夕は少しためらったが、そのまま答えた。


「夕方にここで知らない子と話した人が、次の日になると顔思い出せなくなるとか。意味わかんない噂だけど」

「へえ」

「笑いごとじゃないって。あと、ジャングルジムに登った子がいつの間にかいなくなったとか、日時計の影が変だとか、そういうの。中学生が面白がって広めてるだけだろうけど」

「それ、知ってる」

 花音が言った。

「知ってるって何」

「本当だよ」

「は?」


 夕の声が硬くなる。


「えっと、噂が、かな。たぶん」


 言い直し方が下手すぎる。


 夕は俺の腕をつかんだ。


「帰るよ」

「痛い」

「いいから」


 俺は少しだけ花音を見る。彼女はいつの間にか日時計の影の先に立っていて、桜の落ちる地面を見下ろしていた。呼び止めるほどの理由はない。でも、このまま帰ると、明日もういない気がした。


「また来るのか」

 気づけば聞いていた。


 花音は顔を上げた。


「うん。夕方なら」

「毎日?」

「だいたい」

「じゃあ、また」


「うん。また、ちゃんといてね」


 夕に引っぱられながら公園を出る。背中に視線を感じた。振り返ると、桜の枝の影に半分隠れて、花音がこちらを見ていた。


 夕が自転車を押しながら不機嫌そうに言う。


「あの子、絶対変」

「まあ、そうかもな」

「かもじゃないでしょ。何あれ。質問にまともに答えてないし」

「たまたまそういうしゃべり方なんだろ」

「相沢、ああいうのに引っかかりそうだから言ってるんだけど」

「俺が何に引っかかるんだよ」

「変なもん」


 それだけ言って、夕は口をつぐんだ。


 夕は基本的に現実的なやつだ。幽霊とか怪談とか、そういうものを本気で信じるタイプじゃない。けど、信じないことと、嫌うことは別なんだろう。曖昧なものに対して、こいつは妙に攻撃的になる。


「ただの美人だったろ」

「そこが一番危ない」

「偏見だな」

「偏見じゃなくて経験則。きれいすぎるものはだいたいろくでもない」


 妙に刺さる言い方だった。


 家までの道で別れたあとも、花音のことが頭に残っていた。会話のひとつひとつが、後からじわじわ変だったとわかる感じ。あの場では流せたのに、一人になると引っかかる。


 夕方の私はここに向いている。

 公園が遅れる。

 ちゃんといてね。


 夜、布団に入ってから、公園の噂について少しだけ検索した。夕凪公園、怪談、日時計、消える、女子高生。出てくるのはまとめサイトみたいな胡散臭い投稿ばかりで、読む気にもならない。


 その中にひとつだけ、古い地域掲示板の書き込みがあった。


――夕凪公園には「花の制服の子」が出る。春先の夕方だけ。話しかけられると、翌日から何かをひとつ忘れる。


 意味がわからなくて、画面を閉じた。


 まあ、いいか。


 そう思って寝たはずなのに、次の日の放課後にはまた公園へ向かっていた。


 習慣は楽だ。理由を考えなくて済む。


 昨日より少し風が強い。桜はさらに散って、地面が薄い桃色になっている。日時計の周りに誰もいないのを見て、少し拍子抜けした。


 いないならいないで、それだけだ。


 そう思ってベンチに座った瞬間、背後から声がした。


「恒一、昨日はちゃんと帰れた?」


 振り向くと、花音がいた。


「……いつからいた」

「たぶん、さっきから」

「気づかなかった」

「うん。よくあるよ」


 そういう言い方をされると、ちょっと嫌だ。


 花音は今日は昨日より近くに立っていた。肩にまた花びらが乗っている。わざとつけてるのかと思うくらい、毎回そこにある。


「それ、ついてるぞ」

「どれ?」

「肩」

 指で示すと、花音は自分で取ろうとしたが、見当違いの場所を払った。


「逆」

「こっち?」

「いや、もう少し」

「難しいね」


 仕方なく手を伸ばして、肩の花びらを取る。指先が制服の布越しに触れた。


 冷たかった。


 春先だから、というレベルじゃない。保冷剤に触れたみたいな温度だった。


「……冷たいな」

「まだ春だから」

「それにしても」

「恒一はあったかい」


 言いながら、花音がじっと俺の手を見る。触れられた部分じゃなく、俺の手そのものを観察している目だった。


「人の手って、ちゃんと重いんだね」

「重い?」

「触ると、いる感じがする」


 その言い方に、ぞくっとした。


 でも、花音はすぐにベンチの隣へ腰かける。昨日より距離が近い。制服の袖が少し触れそうなくらい。無自覚なんだろうが、心臓に悪い。


「今日は何してたんだ」

「学校」

「曖昧だな」

「学校は曖昧なところだよ」

「そうか?」

「みんな同じ服を着て、同じ時間に座って、同じことを覚えるでしょう。だから少しずつ、誰が誰でもよくなる」

「それはだいぶひねくれてるな」

「恒一に言われたくないかも」


 否定できない。


「弁当、食べた?」

 花音が聞く。

「昼に食べたけど」

「今は?」

「今は食わない」

「どうして」

「夕飯が入らなくなるだろ」

「夕飯は、家に帰ると必ずある?」

「大体は」

「いいね」


 またその一言だけ重い。


「花音は?」

「私は、たぶん食べなくても大丈夫」

「たぶん?」

「食べるの、好きだよ。見てると」

「見るだけか」

「でも前に、飴をなめたことはある」

「前っていつ」

「覚えてない」

「飲み込めたのか」

「最後までなくなった」

「それはなめたって言うんだよ」

「そうなんだ」


 真面目に感心されると、こっちのツッコミが空回りする。


 ふと見ると、花音の足元の影が不自然だった。夕陽は右後ろから差しているのに、彼女の影だけ少し短い。いや、短いというより、地面に落ちる位置が半歩遅れているように見える。


 目をこすって見直す。


 やっぱり、おかしい。


「どうしたの?」

「……いや」

「また虫みたいな顔してる」

「そんな顔あるか」

「あるよ。じっと見て、飲み込まない顔」


 言葉の選び方が物騒だ。


 俺は影のことを言わなかった。言ったところで気味が悪いだけだし、向こうに自覚がなかったら余計に困る。


 代わりに別のことを聞く。


「花音、学校の友達とかいないのか」

「いるよ」

「誰」

「たくさん」

「名前は」

「……」


 花音は少し考えて、それから桜の木を見上げた。


「いっぱいいると、ひとりずつ呼ばなくても平気になる」

「それ、いないやつの言い方だろ」

「そうかな。じゃあ、いないのかも」


 さらっと認めた。


「寂しくないのか」

「ううん。今は恒一がいるから」

「重いな」

「重い?」

「言葉が」

「でも本当だよ」


 そんな真顔で言われると困る。


 ベンチから立ち上がって、誤魔化すように公園を歩き出す。花音もついてきた。砂利を踏む音が、俺のぶんしか聞こえない気がして、一瞬だけ足を止める。次の一歩で、花音の靴音も遅れて聞こえた。


 気のせいだ。たぶん。


 ジャングルジムの前まで来る。赤く塗られていたはずの鉄は、ところどころ茶色く腐っていた。小さい頃はここに登って遊んだ記憶があるが、今見ると高さも形も中途半端で、何が楽しかったのかわからない。


 花音が見上げる。


「これ、好き」

「危ないから使用禁止って書いてあるぞ」

「そうなんだ」

「読めるんだな」

「普通だよ」


 彼女は鉄の柱に手を添えた。指が錆に触れる。普通なら嫌がりそうなものなのに、妙にしっくりくる仕草だった。


「登ってみて」

「は?」

「恒一が」

「嫌だよ」

「どうして」

「危ないし」

「でも、登ったら降りてこないかもしれない」

「もっと嫌だろ」


 花音は少し笑った。


「うん。だから面白い」

「面白さの基準が変なんだよ」

「変じゃないよ。ここでは普通」


 ここでは、という限定がまた気になる。


 彼女は一段目に足をかけた。慌てて止める。


「おい」

「なに?」

「危ないだろ」

「大丈夫だよ」

「使用禁止だって」

「禁止って、みんなが守るの?」

「大体は守る」

「じゃあ、守らない人がいると、そこだけ少し本当になるね」


 意味が通じそうで通じない。


 それでも花音は素直に降りた。俺に止められるのが不思議なくらい嬉しそうな顔をしたのが、なんだか妙だった。


「恒一は、ちゃんと止めるんだね」

「普通だろ」

「うん。でも、見てるだけの顔もする」

「……何だそれ」

「今までは、そうだったでしょ」


 言い返せなかった。


 観察して、距離を取って、なるべく何にも巻き込まれないようにしてきた。退屈だと思いながら、その退屈の外に出るほどの勇気もなかった。こいつに会って二日目で見抜かれるのは、少し腹立たしい。


「人を勝手に分析するな」

「恒一がわかりやすいんだよ」

「そうか?」

「うん。変わりたそうなのに、変わったら困る顔してる」

「……」

「公園みたい」


 その例えは、なぜか妙にしっくりきた。


 夕方の公園。古い遊具。使われない日時計。散っていく桜。変わっていないようで、少しずつ壊れていく場所。


 俺は何も言えなくなって、代わりに空を見た。オレンジ色が少し深くなっている。そろそろ夕が来てもおかしくない時間だ。


 実際、数分後には公園の入り口から聞き慣れた声がした。


「やっぱりいた!」


 三崎夕が、今日は歩いてやってきた。手にはコンビニ袋。中に紙パックのジュースが見える。


「またか」

「またじゃない。迎えに来たの。母さんが、あんたにプリント渡しといてって」


 そう言ってから、花音に気づく。昨日ほど露骨ではないが、明らかに警戒している。


「こんにちは」

 花音が先に言う。

「……こんにちは」

「今日も現実的だね」

「何それ」

「ちゃんとしてるってこと」

「褒めてる?」

「たぶん」


 夕は俺に紙を押しつけた。進路希望調査の追加用紙だった。見た瞬間、げんなりする。


「まだ出してなかったの?」

「忘れてた」

「そういうとこだよ、ほんと」

「まあいいか」

「よくない」


 夕は即座に否定してから、花音のほうを見る。


「あなたも同じ学校なら、これ出したでしょ。何組?」

「またそれ聞くのか」

 俺が言うと、夕が睨んできた。

「だって確認くらいするでしょ普通」


 花音は少しだけ困ったように目を細めた。


「進路って、先のことだよね」

「そうだけど」

「先って、どこから?」

「は?」

「明日も先だし、卒業後も先だし、死んだ後も先かもしれない」


 夕の顔が完全に引いた。


「相沢。やっぱりこの子おかしいって」

「本人の前で言うな」

「聞こえるように言ってるの」

「聞こえてるよ」


 花音はにこにこしている。ダメージを受けているのかいないのか、まったくわからない。


 夕はため息をついて、コンビニ袋から紙パックのカフェオレを一本取り出し、俺に投げた。


「ほら」

「何」

「どうせまだ帰んないでしょ」

「助かる」

「別にあんたのためだけじゃないけど」


 それから、少し迷ったあとでもう一本、ミルクティーを花音に差し出した。


「いる?」

「私?」

「他に誰がいるの」

「ありがとう」


 花音は受け取った。でも、ストローを刺さない。手の中でじっと眺めている。


「飲まないの?」

 夕が聞く。

「これ、きれいだね」

「は?」

「色が。やさしい茶色」

「……飲み物だからね」

「知ってる」


 花音はそう言ったまま、結局開けなかった。


 夕はその様子を見て、俺に小声で言う。


「ねえ、この子ほんとに何なの」

「知らないって」

「知らないで済ませるなって。怖くないの?」

「別に」

「現実見なって」


 口癖どおりで、少し笑いそうになる。


「笑いごとじゃないから」


 夕は真面目だった。こいつがここまで本気で嫌がるのは珍しい。


 空気を変えるみたいに、花音がぽつりと言った。


「今、影がずれてる」

「え?」

 俺と夕が同時に日時計を見る。


 石の台座に落ちる影が、ほんの数秒だけ、すっと揺れた。


 風じゃない。木の枝でもない。もっと、時計の針だけが一度止まってから動き出したみたいな不自然さだった。


「……見た?」

 夕が低い声で言う。

「たぶん」

「たぶんじゃなくて」

「普通だよ」

 花音が言った。


 その言い方に、夕が堪えきれず声を荒げる。


「普通なわけないでしょ!」

 公園に、その声がひどく大きく響いた。


 一瞬だけ、周りの音が消えた気がした。


 遠くの車の音も、風も、葉擦れも。全部、間を置いてから戻ってきた。


 花音は目を伏せた。


「……ごめん」

「いや、あんたに怒ってるっていうか」

「ううん。違う。今のは、よくなかった」


 誰に対して謝っているのかわからない声だった。


 そのとき、ジャングルジムのほうで、ぎい、と音がした。


 誰も触っていないはずなのに。


 三人でそちらを見る。赤錆びた鉄骨の隙間に、何か白いものが見えた気がした。紙か、布か、あるいは――制服の袖みたいな。


「……誰かいる?」

 夕が聞く。


 返事はない。


 でも、確かに何かがいた気がした。


 花音が一歩前に出る。

「行かないで」

 思わず俺は、その手首をつかんでいた。


 細い。冷たい。逃がすと、そのまま夕暮れの色にほどけてしまいそうな感触。


 花音が振り返る。少し驚いたあと、やわらかく笑った。


「恒一、ちゃんと止めるね」

「今はそうしたほうがいい気がする」

「うん」


 夕が険しい顔でジャングルジムを見ている。


「相沢、帰ろう。今日はマジで」

「……そうだな」


 そう答えたのに、俺の目はまだ鉄骨の隙間を見ていた。


 白いものは、もうなかった。


 ただ、ジャングルジムのいちばん上にだけ、桜の花びらが何枚も引っかかっていた。風向き的に、あんなふうに集まるのはおかしいはずなのに。


 まるで、そこで誰かがじっとしていたみたいに。

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