第2話 - 鉄格子の外の空、そして小さな約束
「ああ。俺が、お前の主だ」
俺の声が落ちるや否や、右手の甲に刻まれた三画の令呪が爆発的な熱気を放った。
血のような魔力が虚空を切り裂き、アストラペの胸の真ん中――彼女の心臓(動力コア)へと伸びていく。高位魔術師たちが誇る、幾何学的で冷たいバーコードの令呪とは違った。これは極めて原始的で、暴力的であり、同時に魂と魂を直接ぶつけ合う旧時代の誓いだった。
パァァッ――!
瞬間、アストラペの青い瞳が大きく揺れた。
『恐怖』を感じないように設計された感情回路の中で、決して存在するはずのない未知の感覚が、彼女のコアを強く叩いたためだ。数千回死に、引き裂かれながら味わった地獄のような絶望の中で、ようやく探し求めていたたった一つの光に再び巡り会えたかのような、猛烈な安堵感。
もちろん、今の彼女も、俺も、それが六度の生を繰り返して積み重なった強烈な未練であることなど、知る由もなかった。
「……契約、完了しました」
アストラペは胸に手を当てたまま小さく囁いた。彼女の声は機械的な乾きの中にあっても、ごく微かに震えていた。
* * *
アイギス外郭、第三出撃ゲート。
天井を突き破らんばかりに巨大な昇降機の前に立った俺の耳に、通信機越しに不快な笑い声が聞こえてきた。
――『ククッ、本当にそのガラクタと一緒に外へ這い出るつもりとはな。イカれてるぜ』
中央統制所のふかふかした遠隔操作カプセルに寝そべっているであろう、金髪の同期、ロウェンの声だった。
――『俺たちはこの安全なカプセルの中で視覚同期だけオンにして、のんびりと見物でもしてりゃいいってのに。わざわざ防弾チョッキに小銃まで着込んで、黒泥の畑に首を突っ込む心理が理解できねぇ。英雄にでもなったつもりか?』
「前線で血を流して戦っているのに、安全な壁の後ろに隠れてシャンパンなんか飲んでるザマが吐き気を催すからだよ。通信を切る」
俺は躊躇うことなくチャンネルを切り替えた。
城壁の中の魔術師たちにとって、地上奪還戦とはただの苦痛のない遊戯に過ぎない。自動人形の視覚をモニターで共有され、彼女らが四肢を切断され泥に溶けていくのを見ながらも、欠伸交じりに『自爆』ボタンを押すような連中だ。
俺は肩にかけた対烙印用魔力小銃の紐を締め直し、傍らに立つ銀色の装甲の少女を見つめた。
「行くぞ、アストラペ」
「了解しました、マスター」
俺たちが乗り込んだ巨大な貨物昇降機が轟音を立て、城壁の上へと昇り始めた。
数十メートルの厚さを持つ防壁を貫いて地上へと向かう垂直通路の中は、ひどく寒く、そして暗かった。機械の駆動音だけが響く沈黙の中、ずっと前だけを見つめていたアストラペが不意に口を開いた。
「マスター。一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「なぜ安全な城壁内の遠隔統制室を放棄し、私と共に地上へ向かわれるのですか? マスターの肉体には、黒泥の汚染に対抗する機能がありません」
あまりにも当然の疑問だった。恐怖欠乏のパッシブを持つ自動人形とは違い、人間は黒泥の魔力波長に晒されるだけで、精神が狂ってしまう危険性が高かったからだ。
俺は戦術ベストのポケットからへこんだ保温瓶を取り出し、大したことではないように答えた。
「お前が血を流して戦うのを、安全な壁の後ろから見物だけしているつもりはないからな」
「…………」
「誰かはお前たちをガラクタと呼び、消耗品と呼ぶが、俺の令呪がお前のコアに繋がった以上、お前は俺の戦友だ。戦友を死地に一人置き去りにする主なんていない」
俺の答えに、アストラペの青い瞳がゆっくりと瞬きした。彼女はしばらく何かを演算するように伏し目がちになった後、やがて桜色の唇の弧を、ごく僅かに持ち上げた。
まるで幼い子供が最も安心できる場所を見つけたかのような、限りなく淡く、そして儚い微笑みだった。感情を去勢されて生まれた機械の少女が浮かべた表情とは到底信じられないほどに。
「……ありがとうございます。私も、マスターの行く手を阻むすべての脅威を斬り伏せます」
俺は保温瓶の蓋を開け、安物の配給用合成紅茶を一杯注いだ。湯気が立ち上る茶海を彼女に差し出した。
「緊張をほぐせ。本物の茶葉すら入ってない、ただの安物だがな」
アストラペは金属の両手で温かいカップを大切そうに包み込んだ。ふーっと息を吹きかけて一口含んだ彼女が、俺を見上げて言った。
「マスター」
「なんだ、口に合わなかったか?」
「いいえ。ただ……この最初の戦闘が無事に終わったら、この紅茶に角砂糖をたっぷり入れて、もう一度淹れていただけますか?」
命令だけを遂行するように設計された自動人形が初めて見せた、極めて人間的な『お願い』であり『約束』だった。俺はふっと笑って頷いた。
「ああ。お前が望むなら、角砂糖三つくらい放り込んでやるさ。忘れないで、必ず催促しろよ」
「はい。記憶に保存します」
彼女は大切な宝物でも扱うかのように、その約束を自身のメモリ領域の最も深い場所にしっかりと刻み込んだ。
それがわずか数時間後、俺を生かすための魔力の薪として、真っ先に燃え尽きてしまう記憶だという事実を、この瞬間の俺たちは知る由もなかった。
キギギギギッ――!!
ついに昇降機が止まり、アイギスの地上出撃ゲートが重い摩擦音とともに左右に開いた。
瞬く間に、外の濁った空気が押し寄せてきた。鼻を突く酷い黒泥の臭いと、滅亡した大地を濡らす猛毒の黒い雨。遥か彼方、人間の欲望が固まった巨大な山脈のような怪物――『烙印』たちが奇怪な咆哮を上げながら空を裂いていた。
生きた生命体ならば、即座に膝から崩れ落ちるほどの圧倒的な絶望感。
しかし、俺の傍らに立つ少女は一寸の躊躇いもなく、腰に帯びていた巨大な大剣を引き抜いた。
つい先ほどまで紅茶を手に小さく微笑んでいた少女の顔は、もうどこにもなかった。ただマスターを生かすという残酷な目的だけが残った、完璧な『剣の騎士』の冷ややかな横顔。
「ご報告します。前方に臨界脅威体を多数確認」
アストラペが雨粒を弾く大剣の峰をまっすぐに立て、地獄に向かって最初の一歩を踏み出した。
「第五世代セイバー、アストラペ。マスターの命により――殲滅を開始します」




