残響
本作は、日常の隙間に潜む「音の侵食」を描いた物語です。他者の感情を「情報の処理」としてではなく「肉体的な摂取」として捉えた時、人間という器がどのように壊れていくのか。その過程を、声帯の震え一つに至るまで執拗に記述しました。
ヘッドセットのイヤーパッドが、耳の周囲の皮膚を容赦なく圧迫している。合皮の薄い膜が体温で蒸れ、不快な湿り気を帯びて密着する感触は、凛にとって世界と自分を繋ぐ唯一の、そして最も忌々しい接点だった。イヤホン越しに、遠くで空調の鈍い唸り音が響き、それはまるで彼女自身の心臓が、規則的に不痛の振動を続けているようだった。
「――申し訳ございません。左様でございますか」
凛の口から滑り出す言葉は、感情の磨耗した滑らかなプラスチックの塊だ。自らの意志ではなく、マニュアルという名のレールの上を走る無機質な振動。しかし、その耳に流れ込んでくるのは、剥き出しの、汚濁した、生々しい他者の「生」だった。
電話の向こう側で、中年と思われる男が激しく咳き込んだ。その音は、電気信号に変換され、細いコードを伝い、凛の鼓膜を直接暴力的に震わせる。痰が絡んだ湿った音、肺の奥で肺胞が潰れるような掠れ、そして、言葉の合間に漏れる「ヒュッ」という、細く、頼りない呼吸の反転。それは、今日中に処理しきれなかったクレームの残骸が、彼女の脳内に黒いタールのようにこびりつくような感覚をもたらした。
『この男の肺は、きっと灰色の澱で満たされている。吸い込むたびに、自分の内側を削り取るような、乾いた死の音がする。これを吸い取らなければ、私が私でいられなくなる』
凛は、その呼吸の周期を無意識に数え始めていた。三秒の沈黙、一回の浅い吸気、そして五秒かけて吐き出される、毒を含んだ罵声。男の怒鳴り声そのものには、もはや意味はない。彼女が観測しているのは、その声の「地層」だ。声帯が震える瞬間の摩擦、唾液が口腔内で弾ける音、そして言葉が途切れる瞬間に残る、微かな喉の鳴り。それらが、ヘッドセットという管を通じて、凛の脳内に一滴ずつ、重いインクのように滴り落ちてくる。彼女はただ、それらを全身で受け止め、自分という器を満たしていく。
退勤後の地下鉄の窓に映る自分の顔は、ひどく平板で、空虚だった。
つり革を握る右手の、人差し指の付け根にできた小さなタコ。それは毎日、無意識にペンを強く握り、他者の不満を記録し続けてきた「受難」の証拠だ。電車がカーブを曲がるたびに、不快な金属音が耳の奥まで響き、それは今日聞いた無数のクレームが、再び脳内で混濁し始める合図だった。
『私は、今日一日で何人分の「死」を吸い込んだのだろう。あの男の咳、あの女の震える語尾、そして、謝罪を要求し続ける老人の、粘りつくような舌打ち。これら全てが、私の喉の奥で、もう溶け始めている』
凛は、電車の揺れに合わせて、昼間の男の「呼吸」を模倣しようと試みた。
まず、喉の奥をわざと狭める。舌の付け根を上顎の奥へと押し上げ、空気の通り道を細く、歪な形に成形する。そして、肺の底から、絞り出すように息を吐く。
「……ヒュッ」
自分の喉から漏れたその音は、驚くほど正確に、あの男の「欠陥」を再現していた。
首筋の筋肉が、慣れない歪みに驚いて微かに痙攣する。皮膚の下で、毛細血管が鋭い熱を帯び、粟立つ。それは、自分という個体の領土に、他者の欠片が侵入し、定着した瞬間だった。
彼女は、駅のホームを歩きながら、今度は昼間に対応した別の女性の「震える語尾」を喉の中でなぞった。語尾が消え入る瞬間に生じる、微かな声帯の震え。それを再現するために、凛は自らの喉仏を指先で強く押し込んだ。指の腹を通じて伝わる自らの拍動と、作り出された他者の震えが、暗い駅の通路で不気味に共鳴し始めた。コンビニの自動ドアが開くたびに聞こえる「ありがとうございました」という電子音さえも、彼女の喉は無意識に模倣しようと、微かに震えていた。
深夜、安普請のアパートの自室は、外部の音を遮断しきれず、絶えず微かな低周波が空気を震わせている。換気扇の鈍い回転音が、耳の奥で遠い嵐のように鳴り響く。凛は洗面所の鏡の前に立ち、結露で曇りかけたガラスを指先でなぞった。現れたのは、誰のものでもない、ただの「空洞」のような自分の顔だ。
彼女は喉元に手を添えた。指先の腹が、喉仏の隆起とその周囲を囲む複雑な筋肉の束を、解剖学的な正確さで探り当てる。そこには、自分の唾液ではない、粘りつくような異物の存在を、明確に感じ取っていた。それは、今日吸い込んだ無数の「声」が、喉の奥で黒いタールのように固着し、物理的な質量を帯びて融解し始めている感覚だった。
『私の声は、どこへ行ったのだろう。今日、一万回も繰り返した「申し訳ございません」という言葉の裏側で、私自身の喉は、とっくに摩耗して消えてしまったのではないか。この喉にこびりつくのは、私の感情ではない。あれは、あの男の怒り。あの女の悲鳴。あの老人の執着。すべてが、今、私の身体の一部になろうとしている』
凛は、洗面台の縁を強く掴んだ。爪が陶器を擦り、微かな、不快な高音を立てる。彼女は口腔を開き、今日最も彼女の意識に深く突き刺さった、あの老人の「粘りつくような舌打ち」を再現しようと試みた。
まず、舌の裏側にある筋――舌小帯を、引きちぎらんばかりに緊張させる。口腔内の唾液の粘性を高めるために、わざと数回の浅い呼吸を繰り返し、粘膜を乾燥させる。そして、硬口蓋の奥に舌の付け根を強く叩きつけるようにして、空気を弾く。
「……チッ」
鏡の中の凛の顔が、一瞬、歪んだ。それは彼女自身の表情ではない。その音を発した瞬間の、あの傲慢で、孤独で、他者を呪うことにしか生を実感できない老人の、醜悪な筋肉の動きが、凛の頬の皮膚の下で正確に「転写」されたのだ。首筋の斜角筋が、異常な収縮を起こして浮き上がる。熱い。喉の奥が、まるで灼熱の針で刺されたように、鋭い拒絶反応の熱を帯びる。
『痛い。痛い。痛い。けれど、これだ。この熱こそが、私が他者の生を奪い、自分の血肉に変換している証拠。もっと、もっと深く。私を消して、彼らのノイズで満たして』
彼女の喉の奥では、今日吸い込んだあらゆる「声」が、粘りつくような黒い液体となって渦巻いていた。それは単なる音ではなく、他者の情動そのもの、怒り、悲しみ、執着、恨みつらみ。それらが互いに混ざり合い、発酵し、凛の消化器官のさらに奥へと沈殿していく。吐き出そうとすれば、まるでガラス片を吐き出すような激しい痛みが、食道の粘膜を襲うだろう。
鏡に映る自分の眼球が、他者の「声」の重みに耐えきれず、血管が赤く浮き上がっているように見えた。網膜の奥で、無数の他者の顔が、怒りに歪んだり、悲しみに濡れたり、傲慢に嘲笑ったりしている。それらの「顔」が、自身の脳神経を媒介して、彼女の表情筋に直接指令を送っているのだ。彼女の思考は、もはや純粋な自己のものではない。『お客様、ご安心ください。迅速な対応をお約束いたします。責任を持って、最後まで。誠に、誠に申し訳ございません』クレーム対応の定型句が、脈絡なく脳内で反響し、彼女自身の言葉を粉々に砕いていく。
凛は、狂ったように次々と「声」を繰り出した。泣きじゃくる女の掠れた吸気。怒鳴り散らす男の、声帯が触れ合う際の湿った濁音。彼女の喉は、今や数百人分の「不全」を孕んだ、巨大な共鳴箱と化していた。洗面台の蛇口の先端に付着した、微かな水滴さえもが、隣の部屋から漏れてくる不快な生活音と同期し、彼女の鼓膜を不規則に叩き続けていた。
鏡に映る凛の首元は、過剰な酷使によって赤黒く変色し、まるで内部で無数の虫が這い回っているかのように不自然に波打っている。その表面には、微細なガラス質の膜が張られているようにも見えた。
彼女は、自分自身の本来の声を出そうと試みた。自分の名前。あるいは、幼い頃に好きだった歌の最初の一節。
しかし、彼女が肺から空気を送り出し、声帯を震わせようとした瞬間、喉の奥で「何か」が決定的に噛み合わなくなった。声帯そのものが、何百人もの他者の声の残骸で、硬く、重く、石化してしまったかのようだった。
「……ア、ガ……ッ、ヒュ……」
漏れ出したのは、自分の声ではなかった。
それは、今日一日で浴びせられた無数のノイズが、複雑に混ざり合い、腐敗したなれの果ての「音」だった。誰の言葉でもなく、同時に、誰しもの呪いを含んだ、形をなさない残響。
『ああ、やっと。やっと、私は「私」という退屈な檻から出られたのだ。私はもう、一人の女ではない。この街に溢れる、行き場のない怒りと悲しみの、ただの出口になったのだ』
凛は、満足げに微笑もうとした。しかし、その顔を動かす筋肉もまた、別の誰かの「拒絶の表情」に上書きされており、思い通りの形を結ばない。顔の皮膚の表面が、まるで薄いセロハンのようにパリパリと乾燥し、剥がれ落ちそうだった。
彼女は再び、ヘッドセットを耳に当てる幻覚を見た。
もはや、職場に行く必要さえない。彼女の耳の奥には、これまで吸い込んできた数万時間の「残響」が、永遠に鳴り止まない地層となって堆積している。
静寂など、もうどこにも存在しない。彼女自身が、世界で最も騒がしい、静かな「空洞」になったのだから。
洗面所の電球が、寿命を告げるように一度激しく明滅し、そして完全に消えた。
暗闇の中、鏡の前には、ただ無数の他者の呼吸音とクレームの定型句だけを吐き出し続ける、肉の塊が立ち尽くしていた。
。 。 。
「……モウシワケ……ゴザイ……マ……ス」
途切れたその声さえも、もはや彼女の意志ではなく、ただ物理的な現象として、闇の中に霧散していった。そして、その最後に残った「ス」の音は、今日、彼女が対応した最後の顧客の、絞り出すような息遣いを完璧に模倣していた。
「自分の声」を最後に出したのはいつだったか、覚えていますか。
凛が陥ったのは、特別な狂気ではありません。他者の言葉を借り、他者の期待に応え続ける現代において、私たちの喉は既に、誰のものでもない残響で満たされているのかもしれません。




