3.寂しいのは...
森に来てから1週間。
カイレンたちはこの森を地図に記す作業や旅支度のため、根の広場の小屋を借りて滞在していた。外の世界に出たことのないリュミナにとって、彼らの存在は「異質」でありながら、なぜか心のどこかをくすぐり続けていた。
リュミナはいつも通り、父──森の中心にそびえる巨木のもとを訪れた。
彼女が悩むとき、最初に来る場所だ。
「……お父さん。わたし、外の世界に行くべきなのかな」
巨木は言葉を発さない。
だが、ごう……と、深く息を吐くように、枝葉がひときわ大きく揺れ、木漏れ日がリュミナの肩に落ちる。
暖かく、包み込むような光だった。
──「行け」とも「行くな」とも言っていない。
ただ、彼女が心の奥で感じている”何か”を肯定するように。
リュミナは小さく笑う。
「……そうだよね。決めるのは、わたしなんだよね」
次に訪れたのは、母──森を見守る大精霊のもと。
透明な湖面の上に揺らめく光と水が精霊の姿を形作る。
「お母さん……わたし、森を離れたら、寂しい?」
問いかけると、水面がふわりと波打ち、花弁ほどの水の欠片がリュミナの頬に触れた。
正解など示さず、ただ寄り添うだけの温度。
その優しさは、むしろ胸を締めつけた。
「……そっか。寂しいのは、わたしかもしれない」
最後に、いつもそばにいる小さな精霊・スピッコたちの元へ。
丸い体をぷるぷる揺らして寄ってくる。
「みんな、わたしが外に行ったら、どう思う?」
スピッコたちは言葉を話せない。
けれど、リュミナの肩、頭、腕にとりつくようにして嬉しそうに跳ねる。
それはまるで──
『帰る場所はちゃんとここにあるよ』
と言っているようで。
リュミナの頬が自然にゆるんだ。
相談の途中、森に滞在する三人と何度もすれ違った。
食堂ではカイレンが、エルフの男たちと食べ比べをしていた。
「よく食うなぁ、兄ちゃん!」
「冒険者は体が基本だからね!まだまだ食べられるよ!」
と言って大笑いされている。
彼の無邪気な楽しげさが、この森をさらに明るくしていた。
薬草の棚が並ぶ研究舎では、アシュレイが学者たちに囲まれていた。
「この苔、湿度で色が変わるんですね! 記録に残しても?」
「もちろんだとも。こんなに熱心な人は久しぶりだ」
彼の目は宝物を見つけた子どものように輝いていた。
市場では、セリが旅道具を熱心に見比べていた。
「うーん、こっちの紐は軽いけど強度が弱い……店主さん、旅に持っていくもののおすすめはどれ?」
「これなんて丈夫よ」と店主が笑ってすすめる。
物静かな彼女の表情にも、どこか楽しさがあった。
リュミナが歩くたび、森は息づいていた。
光の粒が舞い、
風が若葉をくすぐり、
小川は透き通って冷たい歌声を響かせる。
生まれてからずっと見てきた、大好きな世界。
――こんな場所、離れられるのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥がまたちくりと痛んだ。
でも同時に、外の話を聞いた時の高鳴りも、また蘇る。
夜、リュミナは食堂の前で一人、星空を見上げた。
森は大好きだ。
家族も、仲間も、大切なものばかり。
でも、胸の奥に灯ったあの火は──
消えようとしない。
「……行ってみたい」
小さく、ほとんど息のような声だった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、リュミナの足元を風がそっと撫でた。
森が、否定していない。
むしろ、送り出そうとしているようにすら感じた。
リュミナは胸に手を当てる。
「わたし……旅に出る。ちゃんと、自分で決める」
その瞬間、スピッコたちが遠くでぱちぱちと光を弾かせた。
まるで祝福するかのように。
自分の部屋に戻ったリュミナは、散らばった"宝物"たちに目を向ける。どれも森の近くで拾い集めた、一見何だかわからないけれど面白い形の小石や小枝。
「これからこの部屋に入り切らないくらいの『宝物』を見つけられるかもしれない」
そんな期待の気持ちが心の中にぽっと浮かんだ。
翌朝、リュミナはカイレンたちに、はっきりと自分の意思を告げることになる。
朝の森は、いつもより少しだけざわついていた。
葉と葉が触れ合う音は、まるで見送りの歌のように優しく揺れている。
リュミナは弓を背負い、旅装を整えて、森の広場へ向かった。
昨日の夜、決意したはずなのに、胸の奥はやっぱり少しだけ痛む。
広場には、森に暮らすエルフたちが集まっていた。
リュミナの姿を見つけると、次々に声をかけてくる。
「リュミナ、本当に行っちゃうの?」
「うん……でも、必ず帰ってくるよ」
若いエルフが、彼女の手を握る。
「外の世界の風、どんな匂いがするのか教えてね」
「任せて。ちゃんと覚えておく」
食堂の主人も顔を出し、手ずから包んだ携帯食を渡した。
「道中で困ったらこれを食べな。あんたの好きな木の実を多めに入れてあるよ」
「ありがとう……本当に、お世話になってばかりだね」
「帰ってきてくれれば、それでいいさ」
リュミナの周りをスピッコたちも跳ね回る。
光をぱちぱち弾かせながら、肩や腕にすり寄ってくるその様子は、別れを惜しんでいるようでもあり、背中を押しているようでもあった。
最後に向かったのは、父と母──巨木と大精霊がいる森の中心部だった。
大精霊の姿が淡く揺れ、近づくと湖面から優しい光が立ちのぼる。
リュミナはその前に立ち、深く一礼した。
「……行ってきます。外の世界を見てきて、ちゃんと、帰ってくるね」
巨木の枝が、さわ……と静かに、しかし大きく揺れ、ひときわ温かな木漏れ日がリュミナの頬を照らした。
まるで頷くように。
大精霊も、水の粒をふわりと浮かせ、リュミナの手にそっと触れる。
リュミナは涙をこらえ、笑顔で振り向いた。
そして、カイレンたちのもとへ向かった。
リュミナが森を離れると、湖のほとりは静けさを取り戻した。
だが、大精霊はしばらくのあいだ、水面を見つめたまま動かない。
水底から立ちのぼる光は、どこかかすかに揺れていた。
その揺れは──大切な娘を送り出した母の、静かな不安そのもの。
すると、巨木がごう……と振動し深い風を生んだ。
葉が優しく大精霊の方へ流れ、影が寄り添うように湖面へ落ちる。
水面の揺れが次第に落ち着き、大精霊の光はゆっくりと元の柔らかさを取り戻していった。
森の入口では、すでにカイレン、アシュレイ、セリが準備を整えていた。
「お、来たなリュミナ!」
カイレンが手を振る。
「まずは川沿いに進むんですよね?」
リュミナが尋ねると、アシュレイが頷いた。
「うん。この森を出たらすぐに大きな川がある。その川沿いを北へ進むと、ヴェンティアの国境にある山に着くはずだよ。僕たちの次の目的地だ」
「ヴェンティア……風の国、だよね?」
セリが地図を広げながら説明する。
「そう。周囲を山に囲まれているから、谷を伝って同じ方向に風が流れるの」
カイレンが胸を張る。
「だから旅人にはちょっと難しい土地なんだけど……まあ、俺たちが案内するから安心しなって!」
リュミナは思わず笑ってしまう。
この三人となら、きっと大丈夫だ。
そう思わせてくれる明るさがあった。
リュミナは最後に森を振り返る。
父と母。
仲間たち。
スピッコたち。
そして、いつも包んでくれた優しい風。
「行ってきます、みんな」
一歩、足を踏み出す。
森の風が背を押した。
リュミナは振り返らずに、川へと続く道を歩き出した。
こうして、リュミナの新しい旅が始まった。




