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Wynken, Blynken, and Nod

マリーナの章 日本編 少し当時人物が増えます。

第6章

私は基本、夢を見ない。

夢を見るほど浅い眠りにつくことが、ほとんどないからだ。

だからこそ今、私は自分が“夢を見ている”ことにすぐ気づいた。


視界には、木製の柵。

触れなくても分かる──これはベビーベッドだ。


私はむくりと上体を起こす。

小さな額に、ベッドメリーがこつんと当たる。


……でもおかしい。

この頃の私は6歳で、とうにこんなものから出されるはずだった。


なのに、夢の中の私は当然のように、

「まだここにいるのが普通」みたいな顔をしていた。

けれど本当の違和感はそこじゃない。


私は──ベッドから降りようとしない。


いや、降りられない。


降りると怒られるから。扉を自分で開けたら、もっと怒鳴られるから。


夢の中の私は、ベッドの端に座りながら、開くことのない“あの扉”を見つめている。


毎日見ていたはずの扉。絶対に開かない。開けてはいけない。

静まり返った部屋の中で、扉だけが異様に重たく見えた。


六歳の私は、あの時もう悟っていた。

扉は、私からは開けられないものだと。

開けない方が、まだましだと。


だから私は、ただ待つ。

誰かが来るか、来ないか分からないまま、

時間だけが沈んでゆくのをぼんやり眺めながら。


これはただの夢ではない。


“思い出しているのだ”。


思い出す必要などなかったはずの、

あの女の家、あの静かな牢獄の記憶を。


でも夢の中の扉は、今日もやはり開かない。

6歳の私がそう願ったように。

開いたら怒鳴られるから。閉まっていれば、まだ安全だから。


私は動かない。動けば、悪いことが起きる。だから、動かない。


それがあの頃の私の“正解”だった。


パチッ まぶたが開く私は自室のベッドの上で、ぬいぐるみと毛布に埋もれながら昼寝していたんだ。

カーテンは半分閉じたままで、薄暗く部屋と至る所に本やぬいぐるみ 魔法アイテムが転がっている。


──カチャッ。

ドアの取っ手が静かに回る。


「……またトラップを仕掛けてるのか。ほんと君は油断ならないね」


入ってきたのは父、ヴィクターだった。

足元に張られた魔法陣、棚の上に積まれたおもちゃの兵隊、床に無造作に置かれたぬいぐるみ達。

彼はそれらを慣れた動きで軽く避け、まるで自分の部屋のようにマリーナの寝台に近づいていく。


マリーナは毛布の中でぼそりと呟いた。


「……パパ、静かにして……せっかく寝てたのに……」

「起きてたのかい?」

「寝てた。今からまた寝る……だから喋らないで……」

「いや、ちょっと言っておかなきゃいけないことがあってね」


ヴィクターは一枚の封筒を軽く振って見せた。

封には法律事務所のスタンプが押されている。


「また“あの女”から手紙が来たよ。懲りないね」

「……誰?」

東原瑠衣(トウハラ ルイ)。君とセラフィナの……まあ、一応“母親”と言っていいのかな?弁護士を通してだけどね」


マリーナは毛布の奥で顔をしかめた。


「……母親?誰だっけ?……」

「会う気、ないらしいよ。ほら、書いてある」


ヴィクターは淡々と読み上げた。



---


差出人:東原瑠衣(弁護士経由)

内容:

『私、東原瑠衣は、貴殿ヴィクター・ファウスタス・クロウリーに対し、

未成年時におけるセラフィナ及びマリーナの親権について、

形式上放棄する旨の最終確認書類を送付いたします。

ご捺印の上、返送願います。

なお、当該件につき、直接の面会は一切希望いたしません。


以上』



---


読み終えると、ヴィクターは封筒をくしゃりと丸めて捨てた。


「……というわけだ。なんなんだろうね、ルイって人は」

「知らない……どうでもいい……パパもう少し寝かせて……あと8時間……」

「8時間も寝てたらフライトに間に合わないよ」


マリーナが毛布からぴょこっと顔を出す。まだ眠そうな顔をしている。


「……フライト?」

「そう。この間、詐欺師が屋敷に不法侵入しただろ? 拠点を移すことにしたんだ。次の目的地は……日本だ!ジャパン!!」

「えーー……準備めんどくさいじゃん……」


「大半の荷物は先に送ってあるから、本当に必要なものだけ用意しなさい。置いてきてもパパは手伝わないからね」


マリーナは枕に顔を押し付け、ぐちぐち言いながら足をばたつかせた。


「……うーん……わかった……けど眠い……眠すぎる……」

「寝ながらでも準備できるように、あとでセラフィナを呼んでおくよ」

「それやだ……セラフィナ絶対うるさいじゃん……」

「はは、頑張れマリーナ。人生は突然ハードモードになるものだよ」


マリーナは毛布を頭までかぶった。


「……パパのせいで……ハードモードになってる気がする……」


ヴィクターは小さく笑い、娘の頭を撫でた。


「全部、君たちのためだよ」


マリーナの部屋は、

引っ越し前だというのに、いつもと変わらず散らかっていた。


いや、正確には――整然と散らかっている。


クッション。ぬいぐるみ。

用途不明の魔導具。

ジュエリーボックスからこぼれ落ちてる魔法遮断のアクセサリーと魔法増加のアクセサリー達

何を召喚するのか忘れた触媒達。

読みかけの本。

読まないまま積んである本。


「……多すぎる」


ヴィクターは、思わず呟いた。


「えー? まだ少ない方だよ」


ベッドに転がったまま、マリーナは言う。


「どうせ現地でも動かないんでしょ?動かなくて済むように準備してるの」


それが、マリーナだった。

怠惰だからこそ、あとで楽をするための物量を惜しまない。


魔力制御用の器具だけでも、鞄が一つ埋まっている。


「それ全部必要か?」

「うん。じゃないと私、魔力だだ漏れで疲れる」


彼女の魔力は生まれつき過剰だ。放っておけば、周囲を歪め、自分自身を摩耗させる。


だから――

魔術師のギフト。


“扱う”ためではなく、

“抑える”ための才能。


自分で全力を出さずに済むよう、魔力を分割し、逃がし、誤魔化す。


「頑張らないための努力って、大事でしょ」


その言葉に、ヴィクターは何も言い返せなかった。


さらに、別のトランクには雑多なものが詰め込まれている。


お菓子。

保存食。

怪しい契約書の控え。

誰かの弱みが書かれたメモ。……etc


「……それは何だ」

「法皇」


即答だった。


「優秀な魔法使いは、頭も使わなきゃ。正面突破なんて疲れるだけじゃん」


法皇のギフトは、彼女に狡猾さを与えた。


奪う。

誤魔化す。

押し付ける。

立場を利用する。


悲運な生い立ちの代償として、世界を渡るための“悪知恵”。


「ズルい?」

「賢い」

「でしょ」


マリーナは満足そうに、もう一つクッションを詰め込んだ。


「……お前、本当に動かない気だな」

「うん。パパがいるし」


その一言で、

全てが説明できてしまうのが、一番恐ろしかった。


「じゃ、もういい?」

「フライトまで起きてろ」

「えー……」


そう言いながら、彼女はもう横になっている。


荷物は多い。準備も万端。

動かないための、完璧な準備。


ヴィクターは小さく笑って、毛布をかけてやった。


「……本当に、俺の娘だな」


マリーナは、もう眠っていた。



ロビーのソファは柔らかい。柔らかすぎて、眠くなる。


マリーナはお気に入りのクッションとぬいぐるみを抱えたまま、半分意識を手放していた。


「ブランシュ! それ武器庫の箱でしょ!」 「だから置いてくって言ってるじゃん!」 「ダメだ、規定重量がある」 「セラ姉うるさい!」 「……朝霧、階段は走るな」 「はーい!」


姉妹達声だけが、BGMみたいに流れてくる。


クロウリー邸のロビーは広いのに、今日はやけに狭く感じた。


「……平和だな」


誰にも聞こえないくらい小さく、マリーナは呟く。


目を閉じると、騒音は遠ざかっていく。


だが――


「よし」


低く、はっきりした声が響いた。

マリーナは薄く目を開ける。


ロビーの中央に、

ヴィクター・クロウリーが立っていた。


コートを羽織り、手袋を整え、

いつもの軽い笑顔は消えている。


そこにあるのは、決断した当主の顔だった。


「全員、揃っているな」


誰も返事をしない。それでも、誰も逆らわない。


「今から移動する。行き先は日本。理由は聞かなくていい」


一拍置いて、

ヴィクターは続けた。


「――俺が決めた」


その一言に、重さがあった。


協調性皆無。

問題児だらけ。

それでも――


「全員、俺の子供だ」


だから守る。だから連れて行く。


「行くぞ」


その瞬間、屋敷が“過去”になった。



---


機内は静かだった。


広い自家用ジェットの座席で、

マリーナは早々に微睡んでいた。


「……マリーナ」


隣から、柔らかい声。


「なに……」

「起きて。ちょっとだけ」


オリーフィアだった。


「日本って、どんなところ?」


半分眠ったまま、マリーナは天井を見上げる。


「……悪いところなら教えられる」

「えっ」


「湿気すごい。夏暑い。虫多い。電車混む。空気読めって圧が強い」

「そんな国なの……?」

「うん。あと、静かにしてると“ちゃんとしてる人”扱いされる」


オリーフィアは困惑した顔で笑った。


「それ、マリーナには合ってるのかも」

「だから嫌なんだって」


その時。


「適当抜かすなよ~」


前の席から、

ブランシュの声が飛んできた。


「日本、もっといいところあるでしょ」

「……あるけど」

「けど?」

「面倒だから省略」

「省略するな!」


ブランシュが振り返る。


「日本は――」

「はいはい」


マリーナは目を閉じる。


「着いたら勝手に知るでしょ」


再び、眠りに落ちていく。


エンジン音が、子守唄みたいに響いていた。


遠ざかるイギリス。近づく日本。


誰も同じ方向を向いていない姉妹たちを、

一つの機体に乗せて――


それでも、ヴィクターは前を向いていた。




空港を出て、車に乗る。


静かだった。


イギリスよりも、どこか音が整っている。


「……へえ」


誰かが感心したように声を漏らした気がしたが、

マリーナは確認しない。


車内では、セラフィナがタブレットを見ている。


「首都圏の交通事情は事前に把握している。渋滞は想定内だ」

「さすがセラ姉さん」

「調べただけだ」


ブランシュは窓の外をちらっと見て、興味なさそうに肩をすくめた。


「ふーん。まあ、都会はどこも似たようなもんでしょ」


朝霧は、座席の縁に顎を乗せて外を覗いている。


「看板いっぱい!漢字だらけだね!」

「読めない文字があるのは楽しいよね」

「……朝霧、アズ、それは後で教える」


そんな会話が流れる中で、マリーナは黙っていた。


窓の外。

整然と並ぶ建物。

電線。

コンビニの明かり。

歩く人たち。


――変わってない。


そう思った。


6歳の頃に見ていた景色と、ほとんど同じだった。


もちろん、建物は新しい。車も人も違う。

でも、空気が同じだった。


「……懐かしいとか、ないの?」


オリーフィアが、少し不思議そうに聞いてくる。


マリーナは首を振る。


「ないよ」

「え?」

「別に、出て行った感覚もなかったし」


ただ、住んでいただけ。

ただ、ここにあっただけ。


「ここは、相変わらずだなって思うだけ」


窓に額を預ける。


信号が赤になり、

人が横断歩道を渡る。


誰も、こちらを見ない。


「……日本ってさ」


小さく、独り言みたいに言った。


「ちゃんとしてる場所だよね」

「それ、さっきも言ってた」

「うん。だから、私みたいなのがいても、別に困らない」


車は再び動き出す。


ヴィクターは前の座席で、何も言わず外を見ていた。


マリーナは、また目を閉じる。


――変わらないなら、変わらないでいい。


そう思いながら。


車は、ゆっくりと止まった。


黒いリムジン。 無駄に長くて、無駄に静か。


「着いたぞ」


ヴィクターの声で、ドアが開く。


外は夕方だった。 人の流れが多い。 スマートフォンを持つ人も、やたらと多い。


マリーナは最後に降りた。 眠気で少しふらつきながら、

父の背中を見上げる。


ヴィクター・クロウリー。


背が高く、

無駄に整った顔で、

無駄に堂々としている。


――目立つに決まってる。


「……」


誰かが、立ち止まった。


カシャ、と音がした気がした。 一つじゃない。 二つ、三つ。


「撮られてるね」


ブランシュが気づいて言う。


「構わん」


ヴィクターは歩みを止めない。


「どうせ、すぐ飽きる」


その言い方が、“慣れている”人間のそれだった。


マリーナは一瞬だけ、振り返る。


人混みの向こう。 画面を見つめる誰か。 こちらを見ている“視線”。


でも、興味はなかった。


「……」


マリーナは何も言わず、建物の中へ入る。





その夜。


遠く離れた場所で。


画面に流れてきた動画を、

指を止めて見つめる女がいた。


スーツ姿の男。 黒い髪。 見覚えのある横顔。


「……」


女は、名前を呼ばない。


ただ、画面を閉じる。


そして、何事もなかったように、書類に目を通す。


それだけだった。





時を少し戻して。クロウリー家が、日本に着いたばかりの頃。


新居に足を踏み入れた姉妹たちの行動は、見事なまでにバラバラだった。


セラフィナは、到着して一時間も経たないうちに荷解きを終え、

使用人たちを集めて淡々と指示を出している。


「本日の予定を共有します。警備は二重。外出組は必ず連絡を入れてください」


その声は、ここが異国であることなど最初から織り込み済みだと言わんばかりだった。


朝霧はというと、靴も半分脱ぎかけのまま、

廊下や階段をきょろきょろと見回している。


「ねえねえ、ここなにー?え、これ押していいの? あ、ダメ?」


新しい家は、彼女にとって巨大なおもちゃ箱だった。


小夜は――

日本に着いてそうそう、熱を出してダウンしていた。


「……無理をさせすぎましたね」


エスターに額を冷やされながら、

それでもモニターを手放そうとしない姿に、誰も強くは言えなかった。




そして、リビング。


一気に声が重なる。


「パパ!私、渋谷行きたい! 服みたいの!」

「私は原宿! 日本の最新スイーツランキングに入ってるお店!」

「ぼ、僕……ポケモン、センター……行きたい……」


上から順に、

ブランシュ、オリーフィア、アズラエル。


三人とも、目を輝かせてヴィクターを見る。


「わかった! わかったって!」


ヴィクターは両手を上げて笑った。


「一度に喋るな!パパ、混乱する!」


三人をまあまあ、と宥めながら振り返る。


「ゴメス。玄関に車を回してくれ。あと、今出た場所――渋谷、原宿、それと……ポケモンセンター。ルート、まとめてくれ」

「承知しました、旦那様」


淡々と応じるゴメスは、もう日本の地図を頭に叩き込んでいる顔だった。


そんな騒がしさの端で。

マリーナは、ソファに沈んだまま動かなかった。


「(……どこ行くか、決めるのめんどくさい)」


渋谷。 原宿。 ポケモンセンター。


どれも、別に嫌いじゃない。 でも、特別行きたいわけでもない。


「マリーナは?」


ヴィクターが覗き込む。


「……うーん」


マリーナは、少し考えて――やめた。


「まだいい。行きたくなったら言う」

「はいはい」


ヴィクターは笑って、頭を軽く撫でる。


「じゃあ留守番でも、途中合流でも、好きにしな」


その言葉に、マリーナは小さく頷いた。


みんなが動き出していく中で、ひとりだけ動かない選択をする。


それが、マリーナだった。


新しい国。新しい家。


クロウリー家の日常は、こうして、何事もなかったように始まった。


リビングが静かになる。


誰かの声が遠ざかって、ドアが閉まって、エンジン音が消えた。


「……はぁ」


マリーナは、ソファからずり落ちるように姿勢を変えた。


日本に来た。 住むことになった。

でも、だから何だという気分だった。


子供の頃も、こんな感じだった気がする。 大人たちが忙しく動いて、私は置いていかれて、それで特に困らなかった。


「(怠惰って、便利) 」


突如 ぐうぅ~

腹の虫がなる 眠っていても満たされないもの それが空腹だ。


ふと、まわりを見る

使用人たちは右往左往と荷物を運び床を壁を 窓を磨いている。


「(忙しそうだ……)仕方ない……コンビニくらいなら」


そう呟いて、ようやく立ち上がる。


日本に来て、最初の外出理由が

買い出しなのは、自分でも笑えた。

外は、騒がしくて、静かだった。


人は多いのに、

誰もこちらを見ていない。


「(あー……これだ)」


この感覚。

誰にも干渉されない。 でも、完全に一人。

6歳の頃と、変わらない。


看板の文字は読める。 匂いも覚えている。 コンビニの音楽すら、懐かしい。


「(何も変わってないな、私)」


変わったのは街だけ。 私は、置き去りのまま。


「(怠惰って、誤解されがち)」


やる気がない。 動かない。 興味がない。


全部、半分は正解。でも本当は――


「(動かなくても、見えてしまうから)」


考えなくても、理解してしまう。 努力しなくても、魔力が溢れる。


だからこそ、 「やらない」ことを選ぶ。

怠惰は、世界に期待しない才能だ。


レジに並んでいると、

隣のスマホ画面が視界に入る。


ニュース。 海外。 茶髪の男。


(……あー)


一瞬だけ、見覚えのある横顔。


すぐスクロールされて消える。


「……ま、いっか」


マリーナは深く考えない。


考えるのは、面倒だから。





コンビニの袋は、思ったより軽かった。


アメリカンドッグ一本。 紙ナプキン二枚。 レシート一枚。


「……以上」


支払いは、いつものカード。 暗証番号を打つ必要すらない。


「(パパのカードって、本当に便利~)」


誰かの財力に寄生する才能も、怠惰の一種だと思う。


マリーナは店を出た。


新居の方向とは、逆へ。歩く。


理由はない。 帰る必要も、特にない。

怠惰は、何もしないことじゃない。

“本当に必要なこと以外を、切り捨てる”ことだ。


だから私は、家に戻らない。

今、ここを歩くことだけを選ぶ。


「(戻っても、誰もいないし)」


信号。 横断歩道。 知らない路地。


日本は、歩いているだけで情報が多すぎる。

看板、音、匂い、人。


「(……魔術師って、面倒)」


好奇心だけは、勝手に起動する。

怠惰なのに、 面倒なのに、 興味だけは止まらない。


アメリカンドッグを齧る。


「(こんな味だったけ?)」


味は覚えていない。 でも、今も不味くはない。


魔術師は、可能性の象徴。

世界を知りたい。 触れたい。 試したい。

だから私は、 このギフトを“抑える”ために刻まれた。


持て余す魔力。 制御しないと壊れる自我。


「(……好奇心って、疲れる)」


でも、止められない。

だから歩く。 だから覗く。 だから、戻らない。


怠惰がブレーキで、 魔術師がアクセル。

最悪の組み合わせ。







スマートフォンの画面には、拡散されている一枚の写真。

黒塗りのリムジン。 降りてきたのは、茶髪の男。


姿勢も、視線も、空気も――あまりにも変わらない。


「……まだ、そのままなのね」


ルイは小さく息を吐いた。


画面をスワイプし、登録済みの番号を選ぶ。


発信。


数回のコール音の後、事務的な声が応答する。


『藤原法律事務所です』

「東原瑠衣です」


一瞬の沈黙。


『……ご用件を伺います』

「以前お送りした書類の件」


声は淡々としていた。


「状況が変わりました――彼が、日本にいます」

『……接触をご希望で?』

「えぇ」


即答。


「ただ――」


少しだけ、言葉を選ぶ。


「確認を進めてください子供たちが、そこに“いる”かどうか」

『承知しました』


通話は、それだけで終わった。


スマートフォンを伏せる。


「……まだ、終わってなかったわ」


それが、彼女の本音だった。



マリーナは、知らない路地に足を踏み入れていた。


「(……あ)」


でも、それがどうした、という顔。


「(まあ、なんとかなるでしょ)」


魔術師は、迷うことを恐れない。 怠惰は、焦ることをしない。

最悪、迎えに来てもらえばいい。


そう思って、また一口、アメリカンドッグを齧った。


――それが、嵐の前触れだとも知らずに。







「だから! それは一人一個まで!」

「えー!?」

「日本限定なのに!?」

「だってこれ、色違いもある!」


ヴィクターは、完全に囲まれていた。


上からブランシュ。 オリーフィア。 アズラエル。


その後ろで――


ゴメスと専属メイドたちが、無言で荷物を抱え続けている。


「待って待って!」

「パパの腕は三本じゃない!」


「じゃあ持って!」

「持つ前提なの!?」


「僕、これも……」

「アズ、それは後! 後でね!」


レジ前はすでに戦場だった。


---


ヴィクターは、ふと立ち止まる。


「……ん?」


胸の奥が、ほんの一瞬だけ、ざわついた。


「(……嫌な予感?)」


しかし――


「パパ! 次あっち!」

「甘いのも見る!」

「ぬいぐるみ!」


「はいはいはいはい!」


考える暇はなかった。


「(気のせいだな)」


そう判断する。なにしろ今は、


娘2人人 息子一人


買い物、カゴ四つ

予感どころではない。


「ゴメス、」

「はい、旦那様」

「帰ったらマリーナ、ちゃんといるよね?」

「……ええ、恐らくは」


一瞬の間。


「“恐らく”って何!?今、恐らくって言った!?」

「統計上の表現でございます」

「統計やめて!?」


ブランシュが肩をすくめる。


「マリーナでしょ?大丈夫よ、たぶんどっかで寝てる」

「それが一番怖いんだけど!?」


その時だった。


ヴィクターは、もう一度だけ、胸を押さえる。


「(……あとで、電話しよう)」


今回は、父の勘が正しかった。





コンビニで買ったアメリカンドッグを片手に、

マリーナはふらふらと歩いていた。


別に目的地があるわけじゃない。あるとしたら、歩くことそのものが目的だ。


信号待ちのとき、ふと、視界の端に大きな看板が入った。


――女の顔。


整えられた髪。

笑顔。

年齢が分からないほど、よく出来た肌。


「……あ」


思わず、声が漏れる。


> ――〇〇配合・最新美容液

永遠の美しさを、あなたに


「あー……」


私はアメリカンドッグを一口かじりながら、どうでもよさそうに呟いた。


「まだ、この女……活動してんだ」


母親――東原瑠衣。


名前を思い出すのも、少し面倒だった。


近くにいた二人組の女性が、看板を見上げて話している。


「この人さ、昔すごかったよね」

「女優やってて、急に休業した人でしょ?」


「それ、子供いたって噂あったけど」

「え、そうなの?」

「でも最近復帰したよね」


私は、その会話をBGMみたいに聞き流す。


(……)




私は、生まれてすぐに、母に失望された。


理由は、たぶん簡単だ。


私は――

邪魔だった。正確には「ヴィクター・クロウリーに振り向いて貰えない」から


だから母は、早く女優業に戻りたがっていた。

だから私の世話は、全部ベビーシッター任せ。


私を世話したベビーシッターは、

全部で五人。


一人目と二人目は、

――悪かった。

高額な報酬に目が眩んで何もしなかった

人達。今思えば赤ん坊の私は、

「このままだと殺される」と分かっていたんだと思う。


だから――殺した。


魔法で。


私に自覚はなかったけど、結果だけは残った。


事故死。

そう処理されたらしい。


三人目と四人目は、良い人だった。


特に四人目は、よく私を抱いてくれた。


だけど辞めてしまった。



ルイが、若い男何人もを連れてきて、

家でパーティを開いていた日。

その日もベビーシッターは私の部屋で私をあやしながら笑っていた。

隣の部屋からは 酒の匂い。酒ではない甘い匂い。笑い声。うるさい音楽。


酔っ払った男の一人が、

部屋に入り私とベビーシッターに触ろうとした。


――嫌だった。


怖かった。


次の瞬間。


「へへっ……なんだガキがい…」

バチュン!!!


声は途中で途切れる。


背骨が、本来ありえない方向へ引かれる。

右肩が後ろへ、左腰が前へ、

胸郭が内側へ――

全身が、瞬時に捻れる。


まるで巨大な両手が、

人間を雑巾のように絞っているように。


骨が鳴った。一度ではない。

連続して、乾いた音が重なった。

同時に身体の内容物が弾けて零れる音もした。

腕は胴体に巻き込まれ、脚は逆方向へ引き伸ばされ、関節という関節が用途を失っていく。


男の身体は、もはや「立っている」のではなく、自立を許されず、形を保てなくなっていた。


最後に。


首が、胴と同じ角度で捻じれた。


呼吸は止まり、抵抗も止まり、

ただ――歪んだ“完成形”だけが床に落ちた。


そこにあったのは、倒れた死体というより、人間の形を忘れた、一本の大きな荒縄だった。


マリーナは泣かなかった。視線も向けなかった。


ただ、

胸の奥のざらつきが消えたことだけを感じて、

再び、何も考えず天井を見つめていた。


それを見たルイは、一歩も動けなかった。














マリーナは頭を軽く振る過去のことを思い出すなんて自分らしくない


目に入ったもの、興味を引いたものには足を止めよう。

そう考えて再び歩き出す。宛もなく。



日本の午後はやたらと騒がしくて、色と音が多い。

ガラス張りの店先、意味の分からない看板、知らない言語の洪水。


(……まあ、悪くないか)


ウィンドウに並ぶ服をぼんやり眺め、興味が湧けば立ち止まり、湧かなければそのまま通り過ぎる。

目的はない。必要もない。

怠惰は「選ばない自由」だ。


一方その頃。


「……ゴメス、もう一度言う。最後にマリーナを見た場所はどこだ」


車内の空気が一段冷えた。

ヴィクターは座席に身を乗り出し、窓の外を睨みつけるように見ている。

茶髪がわずかに乱れ、指先が落ち着きなく肘掛けを叩いていた。


「十分前です、旦那様。コンビニ付近で――」

「十分前!? 十分前は永遠だ!」


ゴメスが口を閉じる。使用人たちも視線を逸らした。

これは“仕事”ではない。“父親”の顔だ。


その頃のマリーナは。


「……あ、タピオカ」


コンビニ袋を片手に、迷いなく列に並んでいた。

甘さは普通、氷は少なめ。黒糖ミルクティー

受け取ったカップを持ち、ちゅう、と吸う。


「(うん。怠惰に優しい味)」


その瞬間、ヴィクターは車の中で最悪の未来を量産していた。


――攫われた?

――いや、日本は安全だ。だが例外はある。

――魔術師狙い? 怠惰を装った罠?

――いや、あいつは怠惰“そのもの”だが?


「ゴメス、警備網を広げろ。半径三ブロック。いや、五だ」

「了解しました」




「ねえ、君さ」


背後から声をかけられて、マリーナはゆっくり振り返った。軽い笑顔。距離が近い。服装は今風。

――つまり、面倒。


「一人? モデル? それとも女優?」


その瞬間、マリーナの眉がぴくりと動いた。


「なんか、有名な人に似てる気がしてさ。

ほら、あの――東原瑠衣、だっけ?」


空気が、冷えた。


マリーナはカップをテーブルに置き、顔を上げる。

次の瞬間、イタリア語が洪水のように溢れ出た。


「Se pensi che io sia come quella donna,

sei cieco, stupido e incredibilmente maleducato.

Allontanati immediatamente prima che io perda la pazienza.」


畳みかけるように、息も継がせず。


「Non ho alcun interesse in te,

né nel tuo giudizio superficiale,

né nelle tue fantasie da quattro soldi.

Capito?」


男は完全に固まった。

意味は分からない。だが怒っていることだけは分かる。


「……え、あ、ごめん」


逃げるように去る背中を、マリーナは一瞥もせず、


「……Vaffanculo」


とだけ呟いた。これ、パパに聞かれたら怒られるな……


それからしばらくして。


マリーナはとあるカフェが目についたので奥の席、窓際の席に案内され

コーヒーとタルトで一息ついていた。

コーヒーはブラック タルトはフルーツたっぷり。休憩にはちょうどいい。

ゆっくり時間を溶かす。


「(……もう十分歩いた)」


怠惰は満足したら動かない。探検も、刺激も、ここまででいい。

スマホを取り出し、メッセージアプリを開く。


〈モニカ〉

〈今どこ?〉

〈迎えに来て。カフェ〉


送信しようとした、その時。


チリン、と

カフェのドアベルが鳴った。


マリーナはコーヒーを飲みながら、なんとなく顔を上げる。

――そして、少しだけ目を細めた。


最初に見えたのは、黒いワンピース。あれは自分の専属メイド。


「(……モニカ?今連絡入れたばっか……)」


息を整える暇もなかったみたいで、肩が少し上下している。


その後ろに、スーツ姿の男。

そして――


私は、少しだけ目を細めた。


モニカは私の前まで来て、視線を落とす。

いつもの調子の良い声じゃない。


「……お迎えに、上がりました」


ごめんなさい、と言わなかった。言えなかったんだと思う。


その隣で、女が一歩前に出る。

綺麗に整えられた髪。

作り物みたいな笑顔。


「久しぶりね、マリーナ」


――ああ。


その瞬間、頭の奥で、別の映像が勝手に始まった。




床一面の赤黒いなにか。

濡れていて、鼻につく鉄の匂い。


縄のように捻れた 「変な形」のなにか達。


私はシッターに抱かれてそれを見下ろしてる。

泣きもしないむしろシッターの方が泣いて震えている。


「大丈夫です……だい、大丈夫だから……ね……」

震える腕で私を揺らし続ける。



「事故死……薬物乱用……」

「急な発作でしょう」

「片付きますから」


早口の声。

黒い服。

母は震えて泣いていた。

でも、私を見なかった。


床は、いつの間にか綺麗になっていた。

男達だったものはなくなっていた。

最初から、いなかったみたいに。


――いつもそうだ。大人は、困るものを消す。

私は何も言っていない。何も頼んでいない。


「……マリーナ様?」


モニカの声で、今に戻る。

目の前にいる女は、昔と変わらない笑顔をしていた。


完璧な髪、完璧な化粧、完璧な“女優の顔”。


「(まだ活動してたんだ、この女)」


マリーナは立ち上がらない。逃げもしない。

ただ、カップを置いて、淡々と言った。


「モニカ。迎え“だけ”って言ったよね」


モニカは一瞬、視線を伏せる。


「……申し訳ありません。ですが、こちらの方がどうしても、“お嬢様に会わなければ話が進まない”と」


その言葉に、ルイが一歩前へ出る。


「久しぶりね、マリーナ」


声は柔らかい。けれどその目は、値踏みするように冷たい。


「あなた、相変わらず……お人形みたいに気味が悪いわ……」


マリーナは首を傾げた。


「誰?」


一拍。


ルイの表情が、ほんの一瞬だけ歪む。


「……「ママ」よ」

「へえ」


興味なさそうに、マリーナは答えた。


「知らない人だけど」


弁護士が咳払いをする。


「東原瑠衣氏は――」

「どうでもいい」


マリーナは遮る。


「その人、“パパに会いたい”から私を使ってるだけでしょ」


ルイの唇が、きゅっと結ばれた。


「……賢いわね」

「違うよ」


マリーナは椅子に深く座り直す。


「セラフィナなら、真正面から行って拒まれる。正論とか、義務とか、責任とか言ってね」


ちらりと、ルイを見る。


「で、あんたは、懐柔しやすそうな方を使おうと考えた」


空気が、ぴしりと張り詰める。

モニカが小さく息を呑んだ。


(あー……)


マリーナは内心でため息をつく。


(やっぱり、面倒)


「ねえ、モニカ」

「はい」

「この人、パパに会いたいって言ってんの?」


モニカは、迷いながらも頷いた。


「……はい。“娘を通せば、必ず会える”と」


マリーナは、タルトを一口。


「じゃあ、失敗だね」


ルイが声を荒げる。


「マリーナ!あなたは私の娘でしょう!」

「違う」


即答。


「私はクロウリー家の子。あんたは――」


少し考えてから、付け足す。


「他人」


その言葉は、刃ですらなかった。ただの事実。


ルイは、そこで初めて悟った。

この少女は、説得も懐柔もできない。怪物。

あの頃から何も変わってない。


だからこそ――


「……いいわ」


笑顔を貼り付ける。


「じゃあ、あなたの“お父様”に、直接お願いするしかないわね」


マリーナは肩をすくめた。


「勝手にすれば」


立ち上がろうとする


「***!!あんたは!!」


ルイが過去の私の名前を叫び手を挙げた時だった




カフェのドアが開いた。


チリン、という乾いた音が、やけに大きく響く。


その瞬間、

空気が――凍った。


店内にいた客も、店員も、

理由は分からないのに背筋が伸びる。


茶色の髪を整えた男が、無言で立っている。

高価なコート。隠しきれない圧。


ヴィクター・ファウスタス・クロウリー。


彼の視線は、まっすぐに――

マリーナだけを捉えた。


「……マリーナ」


それだけで、張り詰めていた何かが、わずかに緩む。


「パパ」


マリーナは手を振る。


「タルト美味しかったよ。オリーフィアに作ってもらいたい程」

「……そうか」


ヴィクターは歩み寄り、しゃがんで視線を合わせる。


「一人で出歩くなって言っただろ電話にもでなさい。」


声は低い。でも、怒気より先に心配が滲んでいる。


「迷子じゃないよ」

「迷子は自覚がないのが一番厄介なんだ」


小さくため息。


「心配した」


マリーナは少しだけ視線を逸らす。


「……ごめん」


それで終わり。


その一連のやり取りの間、

ヴィクターは――一度も、ルイを見なかった。


ルイは、作り笑顔で一歩前に出る。


「あぁ……ヴァレンティノいや、ヴィクター……久しぶりね」


反応はない。


「あなた、変わらないわね」


無視。


「私、ずっと――」

「マリーナ」


ヴィクターは立ち上がり、娘の手を取る。


「帰ろう」

「もう?」

「新居でご飯だ」


その声は、急に明るくなる。


「イギリスじゃ食べられなかった“本場の寿司”をな、職人呼んでる」


マリーナの目が少しだけ輝く。


「……赤身ある?」

「ある。中トロも」

「帰る」


即答。


ヴィクターはそのまま、マリーナを連れて歩き出す。


ルイの存在は、まるでそこにいないかのように。

耐えきれず、ルイが叫ぶ。


「待って!!」


声が震える。


「……私のこと、覚えてないの!?」


その問いに、ヴィクターは初めて足を止めた。


振り返る。


一瞬だけ、冷たい視線を向けて――言う。


「あぁ」


淡々と。


「覚えてない」


ルイの息が止まる。


「娘達を捨てて“女として生きる”ことを選んだ人間なんて」


言い切り。


「覚える価値がない」


それだけ告げて、ヴィクターは再び歩き出した。


マリーナの手を、しっかりと握ったまま。


ドアが閉まる。


カフェに残されたのは、凍りついた沈黙と、

取り残された“過去”。




車の中。


「パパ」

「ん?」

「さっきの人、誰?」


ヴィクターは一瞬考えてから、答えた。


「知らない人だ」


マリーナはそれで納得したように、シートに身を沈める。


「じゃあいいや。お寿司!早く」


ヴィクターは小さく笑った。


――守るべきものは、最初からひとつしかない。




カフェの前。


高級車が去った後も、ルイはその場に立ち尽くしていた。


唇を噛みしめ、

次の瞬間――笑う。


「……覚えてない、ですって?」


震えはない。悔しさも、表には出さない。


「いいわ」


隣の弁護士に、低く告げる。


「“父親”としては完璧ね。だからこそ――女としての私を、忘れたわけじゃない」


視線は、遠ざかる車の方向。


「まだよ。私は、まだ負けてない私には、まだ希望があるの」




クロウリー家・新居


新居のダイニングは、寿司の香りで満ちていた。


板前が手際よく握る横で、

姉妹たちはそれぞれの夜を過ごしている。


小夜は毛布を肩に掛け、

湯気の立つ茶碗蒸しを小さく口に運ぶ。


「……これなら、いける」


朝霧は皿を覗き込み、


「エビと……アナゴ。うん、それでいい」


と、それ以外には見向きもしない。


外出組は賑やかだった。


「渋谷、人多すぎ!」

「原宿のスイーツ、写真より甘い!」

「ポケモン……全部欲しかった……」


ブランシュ、オリーフィア、アズラエルが、 買ったもの、見たもの、食べたものを 一斉に話し始める。


「はいはい、順番ね!」


ヴィクターは笑いながら制する。


その隣で――マリーナは静かに赤身を口に運んでいた。


「……おいしい」


ヴィクターが横目で見る。


「勝手にカード使ったな」

「使った」

「悪い子だ」


叱る、というより幼い子をたしなめる声。


だが、次の瞬間。ヴィクターの表情が、すっと消える。


「……アレは」


誰にともなく。


「日本にいる限り、問題になるな」


マリーナはサーモンを食べながら言う。


「どうでもいい」


即答。


ヴィクターは一瞬だけ彼女を見るが、すぐに、いつもの顔に戻る。


「今日の冒険は楽しかったか?」

「ふつー」


それで十分だ、と言うようにヴィクターは小さく笑う。


寿司が一段落した頃。


ヴィクターは箸を置き、

少しだけ真面目な声になる。


「ブランシュ」

「なに?」

「マリーナ、オリーフィア、それとアズラエル」


四人の視線が集まる。


「来週から――学校だ」


一拍。


「え?」

「は?」

「……聞いてない」

「やだ」


四者四様の反応。


ヴィクターは楽しそうに肩をすくめた。


「日本の“普通”を知るのも、大事な経験だ」


その言葉の裏にあるものを、マリーナだけがぼんやり感じ取る。


――日本にいる限り、問題になる。


赤身の味が、ほんの少しだけ、鈍くなった。


でも、今は考えない。


マリーナはまた寿司を口に運ぶ。


「……まあ、いいや」


怠惰は、今日もよく眠る。




その夜。新居の一室、

まだカーテンの隙間から東京の灯りが滲んで見えていた。

マリーナはベッドに横になり、天井を見つめるでもなく、ただ目を閉じる。


今日、

誰に会ったか。

誰を見たか。

誰が名前を呼んだか。

パパの提案には驚いたが

思い出そうとすれば、できた。

けれど――


「……めんどくさい」


それだけで、十分だった。


世界には、

見なくていいものがある。

考えなくていいことがある。

思い出さなくていい“母親”もいる。


それを知っているから、マリーナは眠る。



見ない子。

考えない子。

ただ、よく眠る子。


――Wynken, Blynken, and Nod。


最後に、父の声がどこか遠くで聞こえた気がした。


「おやすみ、マリーナ」


返事はしない。眠っているから。


ただ、眠っている。


そうするのが、

一番楽だから。

東原瑠衣(トウハラルイ)

職業:女優

それなりに売れている女優 ヒット作は多くないもののそれなりのドラマや映画に出演している。


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