This Little Piggy
四女 ブランシュの話です クロウリー家の謎に挑みますが……
クロウリー邸の玄関が、静かな魔術反応とともに開く。
「……ただいま。」
ほこりと旅路の匂いをまとったまま一歩足を踏み入れた瞬間、ブランシュは張りつめていた胸の奥がふっと和らぐのを感じた。
ゴメスが深く礼をし、柔らかい声で迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、ブランシュ様。」
――ああ、この声だけは落ちつく。
旅先では見知らぬ名前で呼ばれ、
街では珍しい子ども扱いされ、
誰にも“本名”を呼ばれない。
だから、この瞬間だけは特別だ。
ほんの一秒だけ、帰ってきてよかったと思った。
だが、
――コツ、コツ、コツ。
ヒールの音が、廊下の向こうから規則的に近づいてきた。
(……来た。)
「ブランシュ。こんな時間に帰宅とはどういうつもり?」
セラフィナだ。
整った顔、冷たい瞳、完璧な姿勢――
すべてがブランシュにとっては“緊張の象徴”だ。
「ただいま、セラ姉……」
「“ただいま”ではない。旅立つのなら連絡ぐらい寄越せ。
父上も、そして家もお前を心配して――」
「(説教タイム、もう始まってる……)」
逃げたいが、逃げづらい。
言い返せば倍になって返ってくるのも知っている。
セラフィナの声は淡々としているのに耳に刺さる。
ブランシュは「はい」を繰り返すしかなかった。
「……以上だ。精々、少しは落ち着いて生活すことだ。」
セラフィナが踵を返したと同時に、
ブランシュは胸の奥に溜めていた息を長く吐いた。
「あ〜〜……帰ってきて一分でこれか……」
しかし本当の“地獄”はその直後だった。
――廊下の曲がり角。
――柱の陰。
――階段の踊り場。
耳が痛くなるほど、はっきり聞こえる。
「セラフィナ様派の方が正しいわ! 規律がなければ家は崩壊します!」
「はぁ? だったらオリーフィア様の慈悲深さはどうなるの? あの方こそ当主の器よ」
「マリーナ様は最近当主に気に入られているでしょう? あの方こそ……」
「はっ、子どもの人気取りにしか見えませんね!」
声を潜めるどころか、あわや取っ組み合いになりそうな勢い。
ブランシュは階段を上がりながら、顔をしかめた。
「(……うわぁぁぁ、ほんと、これこれこれ!!こういうのが嫌で家にいたくないの!!)」
姉妹の名前を盾にして、
使用人たちは互いを睨みつけ、噛みつき合う。
「あの方こそが――」 「いえ、当主様のお気に入りは――」
言葉は丁寧でも、視線は刃物だ。
別の使用人が慌てて止めに入るが、その人もまた、
違う派閥の匂いを隠しきれていない。
――誰に仕えているか。
――どの姉妹に賭けているか。
“どの姉妹がいちばん当主に相応しいか”。
使用人たちにとって、それは切実な問題だ。
己の地位も、未来も、すべてがそこに繋がっているのだから。
でも。
ブランシュは、その輪の中に立つのが嫌だった。
自分の名前が、人を殴るための棍棒のように使われるのが。
愛ではなく、忠誠でもなく、ただの取引材料として扱われるのが。
だからあたしはこの家が嫌なのだ。
一度 パパに使用人達のいがみ合いを止めないのかと聞いたことがある パパの回答は簡単なものだった
「パパはブランシュ達を等しく愛してる。使用人達のいがみ合いは意味が無い。」
どうやらパパの世界にはどの娘が上か、下か、誰が後を継ぐべきか使用人が誰に付くかそんなものどうでもよいのだ。
だから放置している。
「(セラ姉の説教だけでも胃が痛いのに、使用人同士の喧嘩とかほんと無理……これが一番嫌だ)」
旅先の薄汚れた宿の方がまだ静かだ。
酒場の酔っ払いの方がよっぽど平和だ。
自室の扉に手をかけながら――
「帰ってきてほっとしたの、ほんの一瞬だったな……」
ブランシュは深く深くため息をつき、
もう何も聞きたくないと言わんばかりに
部屋の中へ滑り込んだ。あたしは争う使用人たちを華麗にスルーして、自室の扉を開けた。
――ふわり、と甘い香りが漏れ出す。
旅から帰ってきても、あたしの部屋はあたしの匂いを忘れていない。
淡いピンクと白を基調にした柔らかい空間。
大きなクッションに、肌触りのいいブランケット。
鏡台には香水瓶がずらりと並び、
壁にはあたしが旅先で拾った“綺麗なもの”が飾られている。
武器庫みたいなセラ姉の部屋と違って、
ここは“あたしのためだけ”の空間だ。
「……はぁ、やっと落ち着ける」
ベッドに腰を下ろし、旅鞄をポスッと放る。
帰ってきた安心が、やっと胸に降りてきた。
でも、その安心は長く続かない。
鏡台に映る自分の姿を見た瞬間、
胸の奥がふっと重くなった。
「“恋人”。“女帝”。そして“色欲”。」
あたしに与えられたギフトは、いつもこの部屋とよく馴染む。
誰かに愛される力。
魅了する力。
相手の心を欲し、奪い、満たさせる力
このギフトは便利だし、悪用しようと思えばいくらでもできる。旅先でもこれのお陰で命拾いしたことは何度もある。
だけど同時に、あたしは知っている。
“色欲”は、愛の形を歪める。
「……触れてくる人たちが、みんな“あたし自身”を見てないのが、面倒なんだよな」
昔、セラ姉に言われたことがある。
“お前のギフトは、使えば使うほど孤独になる”
あの人は正論ばかり言うから嫌なんだ。
でも、その一点だけは図星だった。
あたしは色欲を操れる。
同時に、人の欲望に常に晒される。
誰かの“欲望の対象”になるたびに、心が少しずつ疲れていく。
家を出たい気持ちも、ギフトのせいで膨らむ。
セラ姉の厳格さに窒息しそうになるのも、
使用人の過保護が気持ち悪いのも、
全部、あたしのギフトに皆が振り回されているから。
「でも本当の恋をしてみたい融けるような……」
ベッドに倒れ込み、顔をクッションに埋めた。
“色欲”を持って生まれたせいで、
本物の愛が恋がどんなものなのか、
あたしはまだ分からない。
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だから旅に出る。
家を離れて風に当たり、知らない町を歩けば、
ギフトの気配も少し薄まる。
「帰ってくると……また全部戻るんだけどね」
天井を見上げて、小さく笑った。
ここは落ち着くのに、落ち着けない場所。
甘くて優しいのに、息苦しい家。
旅鞄を開きながら、あたしはため息をついた。
「パパの“伝えたかったこと”……聞かなくてよかったなぁ」
大事な話だったのだろう。
でも、聞いたらまた家に縛られた気がしてしまう。
あたしのギフトは“恋人”と“女帝”。
愛され、求められ、中心に据えられる。
パパはあたしのギフト事をこう説明した
女帝は人と異なる見た目をプラスに思って欲しい ポジティブな性格になって欲しいと
恋人は本来なら稀有な見た目で忌避される彼女を魅力的に 魅惑的に見て欲しい 愛されて欲しい。
パパの願いはかなってるけど、あたしの気持ちは置いてけぼりな気がする。
ブランシュはクッションを抱きしめ、目を閉じた。
旅先の風が恋しくなるのに、ここにしか帰りたくない気持ちも、確かにある。
それが、もっと厄介だった。
しばらくベッドで天井を見つめていたけれど、
あたしは5分もじっとしていられないタイプだった。
「……あ~、だめ。退屈すぎる」
体を起こすと、旅鞄の横でクッションが転がる。
部屋は落ち着くはずなのに、
感情のどこかが“ここにいろ”と命じてこない。
セラ姉が廊下で張っている可能性もある。
今出歩けばまた“余計な説教”を食らいかねない。
でも、動きたい。
あたしはそっと扉に耳を当てた。
……静か。
セラ姉の気配ナシ。よし。
「じゃ、行こうかな。宝探し」
小さく呟くと、部屋を抜け出した。クロウリー邸は大きい。
でも、その歴史に関する本はほとんど置かれていない。
古い写真も、昔の出来事を記した日誌も、
家系を遡るような書物すらほとんどない。
普通の名家なら、展示室でも作りそうなのに。
「……まあ、うちが普通じゃないからね」
あたしは笑う。
知らされていない“家の秘密”は、家の大きさと同じくらい深い。
だからこそ、あたしは探す。
部屋でごろごろしているより、ずっと心が落ち着くのだ。
廊下を歩くと、曲がり角の向こうから
派閥争い中の使用人たちの声がする。
「……おっと、通っちゃダメだこれ」
即座に反転して別ルートに逃げる。
あたしはこの屋敷での“隠密行動”に関してはプロだ。
そうして向かった先は屋敷の奥。
派閥争いから距離を置き、
代々クロウリー家を見てきた“古株の使用人”たちがいるエリアへ向かう
午後の控え室は、静かだった。
ブランシュが椅子に腰かけると、
向かいに三人の使用人が並んで座った。
メイドのシドニー。
年配執事のエミール。
庭師のエド。
本来なら、こんな顔ぶれが一堂に会することはない。
けれど今は、誰もそれを不自然だとは思っていなかった。
ブランシュは脚を組み替え、頬杖をつく。
「ねえ。パパの“若い頃”の話、聞かせて?」
それだけ。
命令でもお願いでもない。
ただの雑談のような声。
なのに、三人は一瞬、言葉に詰まった。
――話したい。
――話さなければならない。
そんな衝動が、胸の奥に芽生えたかのように。
最初に口を開いたのは、シドニーだった。
「当主様は若い頃……病弱で……」
彼女は少し伏し目がちになりながら続ける。
「ほとんど外へ出られないお方でした。日差しが苦手で、長く歩くこともできなくて……いつも部屋で静かに本を読んでいらしたんです」
ブランシュは、ふうん、と相槌を打った。
「じゃあ、あまり旅とかは?」
「とんでもありません。邸の外に出るなんて、年に数えるほど……」
その言葉を、笑い声が遮った。
「はは、それは違うな」
エミールだった。
背筋を正し、誇らしげに胸を張る。
「若い頃の旦那様は、風のようなお方でしたよ。世界中を飛び回り、旅の魔法使いとも渡り合っておられた」
「……え?」
シドニーが思わず声を漏らす。
エミールは構わず続けた。
「剣も魔術も一流でな。国境なんぞ軽々越えて、数年屋敷に戻らぬこともあった。まさに英雄でした」
ブランシュは、ゆっくり瞬きをした。
「病弱で、外に出られなかった……?」
「そんな話、初めて聞きましたな」
二人の視線が、ぎこちなくぶつかる。
その間に、庭師のエドが口を開いた。
「……どっちも違うよ」
低く、淡々とした声。
「若い頃の当主様は、ずっとこの邸にいた。外へは出なかった。地下か、書庫か、実験室。何かを研究してた」
断言だった。迷いも、誇張もない。
「旅? 病弱? そんなの、見たことも聞いたこともない」
沈黙が落ちた。
三人とも、“本当のことを話している”顔をしている。ブランシュは、胸の奥がざわつくのを感じた。
――おかしい。
「ねえ」
声が、自然と低くなる。
「三人とも、同じ“若い頃の父”を見ていたんだよね?」
全員が、頷く。
「……なのに、話が全然違う」
誰も答えない。
けれど、ブランシュの視線に縫い止められたまま、
三人とも、目を逸らすことができなかった。
「記憶違い、かな?」
柔らかく言ったつもりだった。
でもその言葉は、刃のように刺さったらしい。
エミールが、喉を鳴らす。
シドニーの指が、スカートを強く掴む。
エドは、拳を握りしめた。
「……覚えていない方が、いいこともある」
ぽつりと、誰かが言った。
ブランシュは、その言葉を逃さなかった。
「誰に、そう言われたの?」
一歩、近づく。距離が詰まる。呼吸が、重なる。
「……当主様に」
答えは、ほとんど同時だった。
ブランシュは、静かに微笑んだ。
「そっか」
それ以上、何も聞かなかった。それでもう十分だった。
廊下に出てから、ブランシュは壁に背を預ける。
「……やっぱり、作り話だ」
三人とも嘘はついていない。これはあたしのギフト色欲で尋問した。このギフトを使われるとあたしに嘘をつけなくなる。でも彼らが言っていたことは全てちぐはぐだったこれは、
あたしの魔法よりも強い魔法か何かで
嘘を“覚えさせられている”。”言わせれてる”
若い頃の父は、
病弱で、
旅人で、
研究者で――
そのどれもが、同時に成立しているようで、
どれも決定的に噛み合わない。
ブランシュは、胸に手を当てた。
鼓動が、少し早い。
「宝探し、当たりみたい」
楽しさと、不安と、触れてはいけないものに近づいた感覚が混ざり合う。
古株の使用人たちに話を聞き歩いたあと、ブランシュは中庭に面した回廊のソファへ腰を落とした。
メイドのシドニーはこう言った。
「当主様は若い頃、病弱で……ほとんど外へ出られないお方でした」
けれど年配執事のエミールは、
「若い頃の旦那様は風のような方でな。剣術と魔術を使い世界中を飛び回っていた」
さらに庭師エドは、
「あの方はずっと邸にいた。何かを研究してたんだ」
三人とも“見ていたはずの同じ時期のヴィクター”を語っているのに、話がまるで一致しない。
誰かが嘘をついているのか。
それとも……全員が、何かおかしいのか。
おかしなものはまだある。それは旅先で入手した古い手紙だ。
部屋に戻ったブランシュは、荷物の底からそれを取り出した。
封は茶色く変色し、紙もかすかに崩れている。
差出人の名前は読めないが、宛名だけはしっかり書かれていた。
『ヴィクター・クロウリー様へ』
日付は…… 五十年前。
手紙の文面は震えるような筆跡で、
「以前お約束した件について……命の恩人であるあなたに感謝を……」
などと書かれている。
ブランシュは手紙をそっと握りしめ、息を呑んだ。
「50年前に“ヴィクター様”がもう生きていて、誰かを助けていた……?)」
ありえない。ヴィクターは“今”四十代のはず。その姿は数年どころか、十年単位でもまるで変わらない。
もし五十年前から姿が変わっていないのなら……
若返りの魔法でもかけている?
いやいや、そんな高度なものがあれば、とうに魔術史に残っている。
「(……なにもかも、おかしい)」
使用人たちの証言の食い違い。
旅先で拾った手紙。
そして、父の“不自然なほど変わらない姿”。
ブランシュの喉が鳴った。
決定的に、何かが隠されている。
「……確かめないと」
もう、座っていられなかった。
ブランシュは立ち上がり、廊下を駆け始めた。
ヴィクターの私室は、館の奥、家族でも用事がなければ近寄らない区画にある。
扉の前に立つと、心臓がうるさいほど鳴っていた。
「(ごめん、パパ……でも、あたしは知らなきゃいけないあたしのギフトが止められないんだ)」
そっと魔法で錠前を外し、扉を押す。
重い空気が流れ出る。
机の上には大量の書類、棚には年代不詳の魔導書、そして
ヴィクターの姿を写した古い肖像画。
どれも“今”と同じ顔だ。
ブランシュは喉の奥が凍った。
「(……嘘。二十年前も、三十年前も、その前も……全部同じ……?)」
その瞬間。
「ブランシュ」
背後で低い声がした。
振り返るより先に、肩をつかまれる。
目の前にヴィクターが立っていた。
怒っていない。ただ、困ったように微笑んでいる。
「真実に触れるには、まだ早いよ」
その声は優しいのに、逃げられないほど重かった。
「……少しだけ、眠りなさい」
額に触れられた瞬間、視界が白く弾けた。
静まり返った執務室。魔力の余韻がゆっくりと空気に溶けていく。
ヴィクターの腕の中には、深く眠ったブランシュがいた。
眉間にかすかな皺を寄せ、まだ夢の端で何かを追いかけているようだった。
「……また、ここまで来てしまったか」
ヴィクターは小さく笑い、指先で娘の白い髪を撫でる。
その仕草は、驚くほど慈愛に満ちていた。
「本当に……勘がいいんだよ、お前は」
眠るブランシュは返事をしない。だがヴィクターは続ける。
「旅で拾ってくる噂も、古株の話も……どれも本当じゃないと気づく。その鋭さは誇っていい。ああ、誇るべきだとも」
ふっと、彼の表情から笑みが消えた。
「だがね、ブランシュ。真実は……人一人の好奇心で抱えられるほど軽いものじゃない」
その声は穏やかだが、どこか深い底を感じさせた。
「お前は探究心が強すぎる。危ういほどに。そして、それは私に似てしまった」
眠る娘の額に触れた瞬間、かすかな魔力が弾け、記憶の縫い目が静かにほどけていく。ブランシュの表情は、徐々に幼い寝顔へ戻っていった。
「気づきかけたんだろう?今回も、あと一歩だった」
ヴィクターの瞳が柔らかく細められる。
「……でもそれ以上は、まだ触れさせるわけにはいかない」
彼はブランシュを抱き上げると、軽々とした足取りで娘の部屋へ向かう。寝台にそっと寝かせ、毛布を肩までかける。
そして最後に優しく頭を撫でた。
「ブランシュ。お前は暇になると“宝探し”を始める。探して、疑って、また真実に触れようとする」
その声音は、呆れでも怒りでもない。ただただ、深い親愛を帯びていた。
「……いい子だよ。好奇心を持つのは、とても良いことだ」
ベッドサイドのランプに手をかけ、明かりを落とす寸前、ヴィクターは微笑んだ。
「だけど――もしまた宝探しを始めるなら、その時も私が迎えに来よう。何度でも、ここへ運んであげるよ」
灯りが消える。暗闇の中、ヴィクターは静かに呟いた。
「だから今は……忘れていなさい。ブランシュ」
扉が閉まると同時に、夜が完全に落ちた。
ヴィクターの自室からの最奥。
誰も入ってはならないはずの古い部屋の扉が、夜風に押されたのか、わずかに開いていた。
ヴィクターは静かに足を踏み入れる。
蝋燭に照らされる机の上には、一枚の黒ずんだ銀のロケットが転がっていた。
中には──煤に汚れた幼い2人の少年の写真。
「……こんなもの、まだ残っていたのか」
彼はそれを指先でなぞる。
その仕草は、普段の彼からは想像できないほど静かで、痛みを含んでいた。
本棚の隅には、**年代の印字がほとんど消えた“炭鉱の事故記録”**が積まれている。
表紙にはかろうじて “17**年” の数字だけが読み取れた。
ヴィクターはため息をつくと、本を一冊抜き取り、ひっくり返す。紙は古び、触れただけで崩れそうなのに──
どういうわけか、彼の白い指には一切の傷もつかない。
「忘れろと言っても、消えないものもある……か」
ロケットを閉じる音だけが、薄い静寂を裂く。
次の瞬間。
扉の外を通りかかった使用人の気配に、ヴィクターの表情が一瞬だけ冷たく沈む。
「──これは、娘たちには必要のない歴史だ」
彼は掌を軽く振る。
書斎に置かれた古い本もロケットも、“埃のように”ふっと消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「知れば傷つく。知らなければ……幸せでいられる」
蝋燭の火が揺れ、影が彼の顔を半分隠す。
その影の中に、美しい青年のような輪郭が浮かんだ瞬間、老人のようにも、少年のようにも見えた。
常人ではあり得ない、年齢の揺らぎ。
ヴィクターは最後に低く呟いた。
「過去は、俺一人で背負えばいい……そうだろ、ヴァルター」
しかし、その名を呼んだすぐ後で、彼はまるで自分に言い聞かせるように笑う。
「娘たちにだけは、俺の“始まり”を知られたくない」
そして、闇へ溶けるように姿を消した。
まぶたの裏が白く染まる。
朝の光が差してきて、あたしはゆっくりと目を開けた。
「(……ここ、あたしの部屋?ベッド……あったかい……)
ぼんやりと天井を眺めていたその時。
「……目が覚めたか?」
低く澄んだ声が、すぐ横から落ちてきた。
「————ッ!!?」
反射的に跳ね起きる。視線を向ければ、
セラフィナが、まるで衛兵のようにベッド脇で“直立していた”。
「なっ……なんで!?なんであたしの枕元に立ってるの!?」
セラフィナは全く動じず、微妙に首をかしげるだけだった。
「父上からの伝言だ」
「伝言!? ここで!?いや、距離っ……近……!」
「……言うぞ」
セラフィナは淡々と続けた。
「『日本へ引っ越しをするので、当分放浪は禁止』……以上だ」
「……えっ?」
あまりにも突然すぎて、理解が追いつかない。
「に、日本……?引っ越し……?しかも放浪禁止って……!」
セラフィナは頷く。
「父上はお前の“放浪癖”を懸念されている。しばらくは邸から離れるな、とのことだ」
「いやいやいや、そんな急に……!」
セラフィナは淡々とした表情のまま、くるりと踵を返す。
「以上だ。私は仕事に戻る」
そう言って、ヒールを履いてるとは思えない静かな足音で部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残されたブランシュは、寝返りを打ちながらぼんやり天井を見つめる。
「……日本……?なんか……もっと大事なこと……あったような……?」
眉をひそめても、霧は晴れない。
胸の奥にぽつんと空洞があるのに、触れようとするとすぐに霞む。
だけど──
「ま、いっか。」
その言葉が自然に口をついた。不思議なくらい気持ちが軽くなって、温かくなる。
思い出すべきことは、きっと思い出す時が来れば勝手に戻ってくる。
そんな穏やかな確信さえ湧いてくる。
ブランシュは足先を布団から出し、指を一本ずつ軽く動かす。
子どものころ、パパがよくやってくれた遊び──
This little piggy went to market…
(このちっちゃな子豚ちゃんは市場へ行って……)
「……ああ、懐かしい。パパ、よくやってくれたよね……」
ブランシュは微笑んだ。
いつの間にか胸の空洞は温かいもので満たされ、
“何かを忘れている”感覚さえ心地よく溶けていく。
「……日本でも、パパの話、クロウリー家の話いっぱい聞けるといいなぁ。」
無邪気な声が部屋に溶けたそのころ──
廊下の奥、影に紛れてヴィクターは静かに目を細めていた。
「……よかった。つらい思いを、二度としなくてすむ。」
ブランシュがひとりで抱えるには重すぎる真実。
危険に触れかけたその手を、そっと遠ざけるように。
娘がまた笑えるように。
そのために、彼はたった一つの能力を使っただけ。
「ブランシュ……お前が笑っていてくれるなら、それでいい。」
そして彼は、小さくそっと指を動かす。
まるで昔、幼いブランシュの足先をつまんで遊んだ時のように。
“…and this little piggy went all the way home.”
(そしてこの子豚ちゃんは、ちゃんとおうちに帰ってきた。)
優しい呟きは、誰の耳にも届かない。
ただ、父の愛情だけがそこに確かにあった。
結局 クロウリー家の謎は分からないままでした。
ブランシュとブランシェどうも間違えます 間違えていたら報告よろしくです




