Rock a bye Baby
累都 前のルイの話を読んでくれた人なら分かるけど
母親の呪縛えげつない名前だよね。
累都は、父に会ったことない。
それでも、迎えに来ないだけだと信じていた。
なぜなら、母はいつも言っていたからだ。
「あなたは特別なの」
「この名前は、その証」
——累都。
積み重ねの中心に立つ者。
だから、迎えは必ず来る。
それは希望ではなく、前提だった。
もし来ないのだとしたら、
それは父が悪いのではない。
自分が“特別でなかった”というだけの話になる。
——そんな結論に、耐えられるはずがなかった。
母は、いつも忙しかった。
けれど、家にいるときは、妙に近かった。
距離が、というより——
視線が。
累都が部屋に入ると、母は必ず、彼を見る。
頭の先から足元まで、確かめるように。
「累都」
名前を呼ばれると、胸が少し苦しくなる。
嬉しい、とは違う。期待されている、とも違う。
——試されている、に近かった。
母は綺麗だった。
写真の中の人みたいに、いつも整っていて、
それでいて、どこか壊れそうだった。
「あなたは、特別なの」
そう言いながら、母は累都の頬に触れる。
優しい手つき。
でも、指先に力がこもる。
「ちゃんと、分かってる?」
何を、とは言われない。
でも、分からないといけない気がした。
母の部屋には、写真があった。
外国の街。
大きな建物。
映画のポスター。
そして—— 一人の男。
母はその写真を見ると、声の調子が変わった。
「ヴァレンティノはね」
名前を口にするだけで、
母の目が、熱を帯びる。
「すごい人なの」
「本当に、特別な人」
その写真の男が、姉たちを抱いているものもあった。
累都は、それを見るのが嫌だった。
なぜかは、分からない。
「どうして……」
迎えに来ないのか。どうして、自分はいないのか。聞くと、母は笑った。
「大丈夫」
笑顔だった。
でも、安心はできなかった。
「あなたは、まだだから」
——まだ?
「男の子は、違うのよ」
その言葉の意味は、分からなかった。
ただ、胸の奥で、
何かが“順番待ち”をしている気がした。
ある日。
累都は、魔法を見せた。それは、衝動だった。
「お母さん、見て」
呼びかける声は、弾んでいた。
胸の奥が、きらきらしていた。
——褒めてもらえる。
——すごいって、言ってもらえる。
——これが、自分の“特別”。
小さな光が、指先に灯る。
弱く、あたたかい、
子供の掌に収まる程度のもの。
累都は、誇らしかった。
その瞬間。母の顔から、色が消えた。
「……っ」
息を呑む音。
後ずさる気配。
何かを、踏み外したような顔。
「……やめて」
震えた声。
「それ……それ、やめて」
累都は、意味が分からなかった。
光は、まだ浮かんでいる。
「どうして?」
そう聞く前に。母は、叫んだ。
「なんで……なんで、そんなことができる
の!!」
悲鳴に近い声だった。
怒りではない。
恐怖だった。
物が倒れる音。
椅子が引きずられる音。
「やめて……見せないで……!」
母は、累都ではない“何か”を見ていた。
泣き声と、壊れた現実と、取り返しのつかない瞬間を。
「……また」
声が、低く落ちる。
「また……“そういう”子なの……」
累都の指先から、光が消えた。
「今度も……殺す気なの……?」
誰を?
どうして?
なにを?
分からない。
ただ、胸の奥で、
“これは喜ばれるものじゃなかった”
という事実だけが、冷たく残った。
そのあと、母は泣いた。
泣いて、抱きしめてきた。
「ごめんなさい」
「あなたは悪くないの」
「怖かっただけなの」
累都は、頷いた。
分かったふりをした。
——魔法は、
——褒めてもらえる“特別”じゃなかった。
それだけは、確かだった。
母は、次の日も仕事へ行った。
特別な説明も、謝罪もなかった。
朝はいつも通りで、
「いい子で待っててね」と言って出ていった。
テーブルの上には、夕飯が用意されていた。
温め直されたスープ。
湯気はもう出ていない。
皿はきれいで、位置も正確だった。
累都は、椅子に座ったまま、しばらくそれを見ていた。
匂いは、悪くない。味も、きっと悪くない。
でも、喉が動かなかった。
昨日のことを、どう扱えばいいのか、わからなかった。
魔法は、いけなかったのか。
見せたことが、悪かったのか。
それとも——
“自分が”悪かったのか。答えは、どこにもなかった。
母は、帰ってくると、テーブルを見た。
「……食べなかったのね」
責める声ではない。ただ、確認する声。
「あとで、温め直すわ」
それだけ言って、母はキッチンへ向かった。
累都は何も言わなかった。
言えば、何かが壊れる気がした。
言わなくても、何も変わらない気もした。
次の日も、その次の日も。母は仕事へ行き、夕飯を用意して、帰ってきて、
「食べた?」と聞いた。
食べなくても、作ることはやめなかった。
それは、約束みたいだった。
——母は、作る。
——累都は、そこにいる。
それ以上のことは、どちらも求めていなかった。
累都は、学んだ。夕飯は、愛情ではない。罰でも、許しでもない。
ただ、
“母が母であることを確認するための手順”だ。
だから、食べられなくても、問題はなかった。
皿が片付けられ、テーブルが元に戻る。
それで、一日が終わる。
累都は、何も起きなかったふりをすることを覚えた。
そして、次に何かを見せる時は、
——もっと正しく、
——もっと完璧に、
——母が拒絶できない形で。
そうしなければならないと、
まだ幼い頭で、理解してしまった。
母が豹変するのは以前にもあった。
母の部屋は、いつも静かだった。
白いカーテン。香水の残り香。
触ってはいけないものばかりが、きれいに並んでいる場所。でも、その日は違った。
背伸びをして、引き出しを開けた。
奥に、写真立てがあった。
二枚。
ひとつは、知らない男の人。
茶髪。緑色の目。整った顔。
笑っているのに、どこか遠い。
もうひとつは、女の子が二人並んでいる写真だった。
年は、よくわからない。
でも、二人とも綺麗で、強そうで――
並んで立つ姿が、少しだけ似ていた。
「……だれ?」
声に出した瞬間、後ろで、布が擦れる音がした。
「累都」
母の声だった。
振り返ると、母はもう部屋の入り口に立っていた。笑っていた。
いつもと同じ、やさしい顔。
「それ、見つけちゃったの」
母は近づいてきて、男の人の写真を指でなぞった。
その指先は、宝物に触れるみたいに、震えていた。
「この方がね……あなたのお父様よ」
うっとりとした声だった。夢を語るみたいに。
「すごく素敵な人なの。才能も、血も、全部が完璧で……本当に、特別な方」
累都は、写真を見上げた。
「……この人、迎えに来る?」
母は一瞬だけ、黙った。
でもすぐに、にっこり笑う。
「ええ。きっと来るわ。だってあなたは――」
母は、累都の肩に手を置いた。
「特別なんだもの」
“特別”。
その言葉を聞くと、胸が少し軽くなる。
それから、もう一枚の写真を見る。
「じゃあ……この二人は?」
母の指が、止まった。空気が、変わった。
「……」
小さく、何かを呟く。言葉じゃない。
嫌な感情だけが、濃く滲んでいた。
「……あなたのお姉さんたちよ」
声は低く、冷たい。
「でも、気にしなくていいの」
母は、強く累都の肩を掴んだ。
「あなたとは違うから」
目が、怖かった。
「あなたは選ばれる子。あの子たちは……違っただけ」
違う、とは何なのか。
選ばれる、とはどういうことなのか。
わからないまま、母は写真を引き出しに戻し、音を立てて閉めた。
「もう、触らなくていいわ」
それで終わりだった。
部屋を出ていく母の背中を見ながら、
累都は写真のことを考えた。
特別だと言われているのに、
どうして自分は、ここにいるのか。
写真の中の二人は、
どうして“あちら側”にいるのか
その疑問は、口に出せなかった。
聞いてはいけない気がした。
だから、代わりにこう思った。
迎えは、まだ来ていないだけだ。
自分が悪いわけじゃない。そう思わなければ、母の隣に立っていられなかった。
累都は、たまに母の仕事場に連れてこられることがあった。
撮影の合間。控え室の外。
大人たちの声が行き交う場所。
そこでは、母は別の人だった。
「ルイさん、今回の演技、すごく良かったです」 「さすがですね」 「やっぱり違う」
笑顔で、頷いて軽く冗談を言う。 拍手すら、自然に受け取っている。
累都は、少し離れた場所に座っていた。
邪魔にならないように。声を出さないように。
——ああ。
母は、ここでは“ちゃんと褒められている”。
誰も、母を試さない。 誰も、期待を押し付けない。 誰も、「特別でいなさい」なんて言わない。
ただ、
上手だったね
よかったよ
それだけだ。
累都は、自分の手を見る。
小さな手。何かを掴めそうで、何も掴めない手。
母は、こちらを見なかった。 見なくていい場所だからだ。
ここでは、母は母ではなく、 “ルイ”でいられる。
累都は、理解した。
——母が必要としているのは、
自分じゃない。少なくとも、
今の自分ではない。
だからこそ、母は自分に“特別”を求めるのだと。
幼稚園の話をされたのは、その日の夜だった。
「次は、ここ」
母は、パンフレットを広げる。文字が多くて、写真が少ない。
「お勉強の園よ。累都にぴったり」
累都は、少し考えてから、言った。
「……やだ」
母の指が、止まる。
「どうして?」
声は、まだ優しかった。
「みんなと遊ぶとこがいい。サッカーとか……ゲームとか……」
言いながら、胸が少し軽くなる。
初めて、本当のことを言った気がした。
でも。
母の顔が、ゆっくりと変わった。
笑顔が消える。目の奥が、冷たくなる。
「……それ、本気で言ってる?」
低い声。
「累都、あなたは、そういう子じゃないでしょう」
累都は、何も言えなくなった。
「みんなと同じ、なんて!そんなところに行って、何になるの!?」
言葉が、重く落ちる。
「あなたは“特別”なの!遊んでいい子じゃない!努力しない子は、価値がない!」
叱っている、というより——
削っているみたいだった。
「そんなことを言うなんて……がっかりだわ!!」
その一言で、胸の奥が、きしんだ。
累都は、分かった。
——自分の“やりたい”は、
——ここには、存在しない。
泣かなかった。言い返さなかった。
ただ、静かに頷いた。
「あ……うん、分かった」
その瞬間。
自分は、自由じゃない。
そう、はっきり理解した。
自由になるには、母が望む形になるしかない。
それ以外の選択肢は、
最初から、用意されていなかった
累都は、優等生だった。成績表は常に上位。提出物は期限より早く出す。教師の質問には、的確に答える。
それだけだ。
誰かとふざけたり、休み時間に騒いだり、放課後に寄り道したりはしない。
必要がないから。
——正確に言えば、
価値がないと思っていた。
クラスには、目立つ生徒がいた。声が大きくて、人気者で、運動もできて、友達が多い。
教師は、そういう生徒を
「ムードメーカー」と呼んでいた。
累都は、それを冷静に見ていた。
「(無駄だな)」
授業中に騒ぎ、注意され、テストでは平均点前後。
「でも、あいつは人に好かれるからな」
そんな評価を耳にするたび、胸の奥が、ひどく冷えた。
——それで、許されるのか。
努力しないことが。
集中しないことが。
特別でないことが。
累都は、心の中で線を引いた。
上にいる人間と、下にいる人間。
そして、自分は絶対に、上にいなければならない。
それは願望ではなかった。
義務だった。もし下に落ちれば、
価値はなくなり、見られなくなり、
——捨てられる。
それを、累都は知っていた。
ある日、テスト返却の時間。隣の席の生徒が、答案を見て肩を落とした。
「……またダメだった」
消え入りそうな声。累都は、ちらりと点数を見た。平均を大きく下回っている。
「(当然だ)」
授業中、ノートも取らず、分からないところを放置して、それで結果だけ欲しがる。そんな都合のいい話はない。
「……なあ、累都」
その生徒が、恐る恐る話しかけてくる。
「どうやって勉強してる?」
累都は、一瞬だけ考えた。
答えるべきか。答えないべきか。
——答えても、無駄だ。
理解する前に、投げ出す人間だと分かっている。
「普通に」
それだけ言った。
「普通って……」
「授業聞いて、必要なところをやるだけ」
嘘は言っていない。
ただ、肝心なことを削っただけだ。
相手は、困ったように笑った。
「……やっぱ、頭いいよな」
その言葉を聞いた瞬間、累都の中で、何かが確定した。
——違う。
——頭がいいんじゃない。
——ちゃんとしているだけだ。
それができないなら、評価されないのは当然だ。
放課後。クラスの数人が、誰かの失敗を笑っていた。
「見た? あいつ、また呼び出しだってさ」
「ウケる」
累都は、その輪に入らない。
笑わない。だが、止めもしない。
「(必要な淘汰だ)」
そう思った。
秩序は、静かに選別されることで保たれる。
泣く者が出るのは、その過程でしかない。
家に帰り、成績表を母に見せると、
彼女は満足そうに微笑んだ。
「やっぱり、あなたは違うわね」
その言葉が、すべてだった。正しかった。間違っていなかった。
だから、累都は学んだ。
——感情は、邪魔だ。
——同情は、足を引っ張る。
——“みんな仲良く”は、嘘だ。
必要なのは、上に立つこと。選ばれること。
それ以外は、切り捨てていい。
その夜、ベットの中で、
ふと、あの生徒の顔が浮かんだ。すぐに、思考を止める。
「(考える価値がない)」
そうやって、累都は少しずつ、
人を“人”として見ることをやめていった。
家では母親の機嫌を損ねないように接し
少しの反抗で料理を食べない。
学校では他人を見下し 自分が「特別」だと思うことで自尊心を保つ
累都はそんな生活を送ってきた。
母親が決めた高校 黒塔学園に入学してもそれは変わらなかった。
しかし学校内での状況が変化した。
黒塔学園の校門は、高かった。
威圧するためではない。
最初から、内側と外側を分けるための高さだった。
制服を着た生徒たちは、静かに歩いている。
私立の名門校。騒ぐ者はいない。走る者もいない。
「(……悪くない)」
累都は、そう判断した。少なくとも、
中学までの「無駄にうるさい場所」よりは、ずっと合理的だ。
校舎に入ると、壁に掲示板があった。
学年別、クラス別。
試験順位、特別評価者、推薦候補。
——名前が、並んでいる。
累都は、反射的に探した。
自分の名前。あった。
だが、思っていた位置ではない。
「(……?)」
中位程の位置に名前がある。
上位には知らない名前がいくつも上にある。
「(……最初だけだ)」
そう思うことで、整理した。
ここは黒塔学園。才能のある人間が集まる場所。最初は差があって当然だ。
——追い抜けばいい。
それだけの話だ。
だが、クラスメイトはそうは見なさなかった。
「……あいつ、推薦組らしいけどさ」 「この点数で?」
嘲る声。値踏みする視線。
累都は気にしなかった。
必要がなかった。
数週間で順位を上げ、中間評価では上位に食い込んだ。
それでも状況は、好転しなかった。
なぜなら——
累都は、誰にも媚びなかった。
謝らない。
笑わない。
自分より下だと判断した相手には、最初から敬意を払わなかった。
それが、火種になった。
最初は、言葉だった。
「調子乗ってんじゃねえよ」
「成績だけで偉いつもりか?」
累都は、反応しなかった。 反論する価値も、 感情を割く意味もない。
——無視が最適解。
だが、黒塔学園では、 無視は「見下し」と同義になる。
次に暴力。
背後から、椅子が蹴られる。 ガタン、とわざとらしい音。
「無視してんじゃねえよ」
累都は、ゆっくり立ち上がった。 心拍数は、ほとんど変わらない。
「(想像通りの脳みそだ)」
暴力に移行するまでの時間。 言葉から拳への移行率。 相手の人数と位置。
頭の中で、数値が並ぶ。
——反撃は不要。
——ここで抵抗すれば、評価が下がる。
「……用件は?」
感情のない声。 丁寧ですらあった。
その一言が、 彼らの“限界”を超えた。
拳が頬に入る。 視界が歪む。 床が近づく。
「……っ!」
腹に蹴り。 肩を踏まれる。 鈍い痛みが、断続的に走る。
「ムカつくんだよその目」
「自分は違う、みたいな顔」
違うのは事実だ。
唾が落ちる。 埃と混じる。
累都は、歯を食いしばった。 声は出さない。
——殴り返せば終わる。
——だが、それは“負け”だ。
ここで感情を出すことは、 彼らと同じ土俵に立つことになる。
「(……必死だな)」
殴っている側の呼吸は荒い。
動きは雑で、連携もない。 怒りに任せた衝動。それだけで動いている。
「(底が知れる。くだらない……)」
教師に評価されない理由。
上に行けない理由。
すべてが目の前にある。痛みは確かにあった。 屈辱もなかったとは言わない。
——だが。
その屈辱は、「理解できない相手に触れられた不快感」に過ぎなかった。
「(俺は、お前らとは違う)」
踏みつけられながら 累都は、静かに結論を出した。
ここで殴られているのは、 “今の自分”じゃない。
——評価表に残る自分だけが、本体だ。
だから、耐える。
だから、何も言わない。
彼らが疲れるまで。
彼らが飽きるまで。
そして—— この環境を「使い切る」まで
累都は、このことを母に報告しようとは思わなかった。
それは我慢でも、諦めでもない。 選択だった。
「(言えば、もっと面倒になる)」
中学のときに、一度だけ言ったことがある。
暴言。 無視。 机の中のゴミ。
内容自体は、取るに足らなかった。
だから、事実だけを母に伝えた。
感情は乗せなかった。本当に学校内であった事を素直に答えただけだった。
結果は、想像以上に苛烈な結果となった。
母のヒステリーが発動した。
学校へ連絡。 担任、学年主任、校長へ。激しい口調で、徹底的に。
「うちの子は問題を起こすタイプではありません!」
「原因があるなら調査してください!」
「その生徒と親を呼びなさい!!」
それで終わった。 ——表向きは。
次の日から変わった。
直接的なことは、なくなった。
殴られない。 罵られない。 物も壊されない。
代わりに、目が合わない。 名前を呼ばれない。 グループから、静かに外される。
ノートを回されない。 プリントが届かない。 連絡事項が、抜け落ちる。
教師は気づかない。 記録に残らない。 問題にならない。
「(……ああ)」
そのとき、累都は理解した。
悪意は、学習する。
表に出ると不利だと分かれば、
人は、もっと静かでもっと確実なやり方を選ぶ。
母は、それを止められない。
むしろ—— 洗練させてしまう。
「(なら、使わない方がいい)」
それが、結論だった。
腫れ物扱い? 構わない。
孤立? 問題ない。
評価は、数字で決まる。 順位は、静かに上がっていく。
「かわいそう」だの 「大変だな」だの
——全部、ノイズだ。
大事なのは、 損をしないこと。 余計な手間を増やさないこと。
だから今回も言わない。
殴られる方が単純だ。
暴言の方が処理しやすい。
原因と結果が分かりやすい。
母が出てきて、 世界が騒がしくなる方が、 よほど非効率だった。
「(……俺は、学習できている)」
そう思った。
痛みを計算に入れ、 最適解を選べている。
——賢い。
少なくとも、 感情だけで動く大人たちよりは。
累都は、 自分を“被害者”だとは思っていなかった。
これは、管理可能な状況だ。
そう定義できていること自体が、 自分が“特別”である証明だと、 本気で信じていた。
だからこそあの日、計算が狂った。
いつものようにロッカーに叩きつけられる。
息が詰まる。 拳が腹に入る。
「……っ!(やっぱり暴力しか取り柄のない奴は嫌いだ)」
言葉も、暴力も、理由も。
すべて、計算できる範囲だった。
——無視が最適解。
反撃は不要。 評価を落とすだけだ。
もう一度、背中が打ち付けられる。 金属音。
奴らは今度は顔にめがけて殴りかかろうとする、が拳が来ない。
「(……?)」
その瞬間、 空気が、重くなった。
誰かが近づいてくる。 大きい。 ただ、それだけで分かる。
囲んでいた連中の動きが止まる。 殴る側の拳が、迷う。理解できなかった。
この状況で、 止まる理由は存在しない。
殴られるのは自分だ。 弱いのも自分だ。 そういう役割は、もう確定しているはずなのに。
目の端に、影が落ちる。見上げると、 転入生が立っていた。高い背だ。 ロッカーよりも大きい。
しかし転入生は怒っていない。 威嚇もしていない。
ただ、そこにいるだけ。
奴らが転入生を殴る腹、胸、 何度も殴る
が、転入生はビクともしない。反撃もしない。
「……それ、やめて」
低い声。
命令でも脅しでもないのに、 場が従った。
「(……なんだ、こいつ)」
拳が止まり、 視線が逸れ足音が遠ざかる。
奴ら解放されても、 累都は立ち上がらなかった。
すると累都の目の前に手を差し出された。
累都は、それを叩き落とす。
「……構うな」
助けはいらない。 そう判断したはずなのに。
それなのに。
次の日から、あの転入生はやけに累都に絡んできた。
「掲示物、貼り替えるの早いよね」
「学食さ、今日はカレー残ってたよ」
どうでもいい話ばかりだった。
意味も、目的もない。
累都は、まともに答えなかった。
無視するか、最低限の返事だけ返す。
「(距離感が分かっていない。礼儀も、序列も)」
それが普通の評価だった。
なのに、アズラエルは気にしない。
無視されても、翌日にはまた話しかけてくる。
「今日、雨降りそうだよ」
「パン、もう一個あったけどいる?」
——だから何だ。
累都は理解できなかった。
なぜ、自分に話しかける。
なぜ、殴られていた相手に。
なぜ、得がないのに。
「(……鬱陶しい)」
そう結論づけようとして、
ふと、気づく。あの男は、
一度も「助けた」と言わなかった。
ある日の昼休み。
累都は、廊下の窓際に立っていた。
教室にいる理由はない。騒がしい。視線が多い。何より、無意味だ。
壁にもたれ、外を眺める。
グラウンド。空。遠くの校舎。
どれも、別に見たいわけじゃない。
——ただ、ここは静かだった。
背後から、足音。
「 (来るなよ……)」
そう思った瞬間、気配が止まる。
遅れて、声。
「ここ、風通しいいね」
……またか。
振り返ると、転入生。あの、でかい男。
ロッカー前で、場の空気を変えた異物。
「……何」
素っ気なく返す。拒絶のつもりだった。
「いや、教室より息しやすいなって」
意味が分からない。会話として成立していない。
「……だから何」
累都はそう言いながら、内心で測る。
距離感。意図。
——絡む理由がない。
転入生は気にした様子もなく、窓の外を見る。
「(……本当に、意味がない)」
一瞬、馬鹿らしくなって、鼻で息を吐いた。
「……変なやつ」
「よく言われる」
即答だった。言い訳もしない。取り繕いもしない。
累都は、わずかに眉を寄せる。
評価が通じない。
「(厄介だな)」
沈黙。
同じ景色を見ているはずなのに、
この男は“隣に立っている”感じがしなかった。
近いのに、干渉してこない。
「ねえ」
低く、柔らかい声。
「君さ、ここで息苦しくならない?」
その問いに、累都は反射的に男を見る。
逃げ道のない質問。否定も肯定も、意味を持つ。
「なるよ」
即答した。
「……そっか」
あいつは、それ以上踏み込まない。
「だから?」
問い返す。
理由を聞いている。目的を。
あいつは一瞬、言葉を探すように視線を泳がせ――やめた。
「ううん。なんでもない」
逃げた。いや、引いた。
累都は、違和感を覚える。
普通は、ここで誤魔化すか、踏み込むか、どちらかだ。
「 (……中途半端。なんなんだよ……)」
チャイムが鳴る。
「じゃあね」
あいつは軽く手を振り、そのまま教室へ戻っていった。
背中が、やけに大きい。
累都は、しばらくその背中を見ていた。
——同情でもない。
——優越でもない。
——評価でもない。
なのに、
“同じ場所に立っている”感覚だけが残った。
それが、ひどく気に食わなかった。
また奴らは暴力を俺に振るう。
それしか能のない奴。正論を言ったら顔を真っ赤にして俺をロッカーに叩きつける
「(ワンパターンすぎる……頭の悪いやつはほ本当に単純だ。)」
「調子乗るなよ!!」
今度は拳が来る。痛みは、もう計算の内側にある。
——反撃は不要。
——騒げば、評価が落ちる。
累都は、ただ相手を見下ろした。
「(無駄な事を……)」
また累都の事を殴ろうと奴らが拳を振り上げた瞬間。
止まったーー
「……やめなよ」
頭上からの低く、柔らかい声。
振り返る間もなく、場の重さが変わった。
殴る側が、引く側に回る。
「ここ、結果を見る学校だよね」
それだけで十分だった。舌打ちと足音。
気配が、消える。
残ったのは累都と、目の前の巨体。
「……またか」
累都は、吐き捨てる。
「助けるなって言っただろ!!」
アズラエルは首を傾げた。
「で、でも、見ちゃったから」
「……意味が分からない」
「困ってるように見えたんだよ」
同情。
善意。
——どれも違う。
累都は、鼻で笑った。
「変なやつだな」
「よく言われるよ」
校舎へ戻る途中。
二人は、自然と並んで歩いていた。
しばらく、無言。
「さっきのさ」
アズラエルが、ぽつりと言う。
「掲示板。すごいと思った」
「……当然だ」
「うん。でも、すごいよ」
累都は、言い返せなかった。
——評価されることには慣れている。
——だが、順位でも、価値でもない言葉
これは、想定外だった。
歩調が、わずかに揃う。
「(……こいつは)」
比べない。
測らない。
上にも下にも置かない。
「……鬱陶しい」
そう言いながら、足は止めなかった。
その瞬間、累都は気づいてしまう。
——この人間は、危険だ。
——でも、嫌じゃない。
だからこそ。
累都は、初めて
“誰かを隣に置く”という選択をしてしまった。
アズラエルを少し認めてきた頃、累都はアズラエルの意外な一面を見てしまう
その日廊下の角から、累都はその光景を見ていた。
生徒会室の前。
転入生――ヴァイス・アズラエルが、
教師と生徒会の上級生に呼び止められている場面。
「(……また、だ)」
自分の時と同じ。成績。交友関係。
「余計なことをするな」という、曖昧で便利な圧。
累都は、そこで終わると思っていた。
曖昧に笑って、はいはいと受け流す。
そういう“処世術”を選ぶ人間だと。
だが、アズラエルは違った。
言葉を選び、規則を問い、
逃げ道を一つずつ塞いでいく。
声は低く、穏やかなままなのに、一歩も引かない。
「(……同じだ)」
胸の奥が、僅かにざわついた。
評価の仕組みを理解している。
正論を武器にできる。
そして
――譲ってはいけない線を、最初から知っている。
それは、
黒塔学園で“上に立つ側”の人間の立ち方
だった。
累都は、目を逸らした。これ以上見ていると、
自分の中で何かが確定してしまいそうだったから。
「(転入生、か……)」
その呼び名は、もう正しくない。
だが、まだ別の名前を与えるほどでもない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
——この男は、
自分と同じ場所に立たされている。
そう理解してしまった時点で、
累都の中のアズラエルは、もう「他人」ではなくなっていた。
放課後。図書室。
累都は、いつもの席で一人、机に向かっていた。
周囲には人影も少なく、空調の低い音とページをめくる音だけがある。
開いているのは、黒塔学園の指定教材ではない。
分厚く、紙の色が少し黄ばんだ一冊。
才能評価制度と社会構造について論じた、古い評論集だった。
「(……やっぱり、ここは歪んでる)」
結果だけを並べ、過程を切り捨てる。
人間を測っているつもりで、実際には“従うかどうか”を選別している。
そんな文章を追っていると、視界の端に影が落ちた。
顔を上げる前に、分かった。足音の癖。
「……それ、授業で使わないよね」
間の抜けた、柔らかい声。アズラエルだ。
「使うわけないだろ」
累都は視線を落としたまま返す。
「ここでは“考え方”より“結果”しか評価されない」
「でも、読んでる」
「だから読んでるんだ」
自分でも少し刺のある言い方だと思った。
だが、アズラエルは気にした様子もなく、少しだけ目を見開いた。
「僕も、それ読んだことある」
「……は?」
累都は、思わず顔を上げる。
「嘘だろ」
「前の章だけ。でも」
アズラエルは、自分の手元の本を持ち上げた。ジャンルは違う。だが、背表紙の番号が近い。同じ棚だ。
――統計学と評価制度の相関。
数字で人間を序列化する仕組みについての本。
「黒塔の成績表示、これに近いよね」
「……」
累都は、しばらく何も言わずにアズラエルを見た。
「(本当に、読んでる……)」
見栄でも、話題作りでもない。理解しようとしている目だった。
「……お前、なんでそんな本読んでる」
「分からないから」
「何が」
「ここが」
アズラエルは、図書室をゆっくりと見回した。
「正解があるふりをしてるところ」
「……」
「正解が先に決まってるなら、努力って何なんだろうって思って」
その瞬間、累都の指が止まった。
「(……同じ疑問だ)」
だが、多くの人間はそこから目を逸らす。考えること自体を、無駄だと切り捨てる。
「……それを疑問に思うやつは少ない」
「そうなの?」
「ほとんどは、“そういうものだ”で飲み込む」
累都は、初めて真正面からアズラエルを見る。
柔らかい輪郭。ぼんやりした表情。
――だが、その奥にある目は、昨日見たものと同じだった。
生徒会室前で、教師を前に一歩も引かなかった目。
「ここは競技場だ」
「人間じゃなくて、結果を見る場所だ」
「うん」
即答だった。否定も、言い換えもない。
受け入れた上で、立っている。
累都の眉が、わずかに動いた。
「……否定しないんだな」
「否定できないから」
「それでも?」
「それでも、考えるのはやめたくない」
沈黙。
図書室の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。累都は、ゆっくりと息を吐いた。
「(ああ、そうか……)」
この男は、黒塔学園の仕組みを“分かっていない”わけじゃない。
分かった上で、別の立ち方を選んでいる。
「……お前」
「うん?」
「話が、通じる」
それは、累都にとって最大級の評価だった。
「ここでそれ言える人間、ほとんどいない」
「じゃあ、貴重?」
「貴重すぎる」
自分でも驚くほど、声が柔らいだ。
一瞬だけ、誰にも向けない笑みが零れる。
「……友人枠に入れてやる」
「枠制なんだぁ……」
「黒塔だからな」
アズラエルが小さく笑う。
その笑い方が、妙に自然で――胸の奥が、少し緩んだ。
「(ああ……)」
だから、こいつは気になったのか。
――同じ檻に入れられているのに、
自分とは違う選択をしている人間だったから。累都は、本を閉じる。
「……座る?」
「いいの?」
「別に」
二人は、同じ机についた。言葉は少ない。だが、沈黙が苦にならない。
「なあ」
「何?」
「お前、ここ苦しくないのか」
「……苦しいよ」
即答。
「なのに、なんで笑ってる」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
アズラエルは、少し考えてから言った。
「檻だって分かってるから」
「……」
「分かってれば、選べるでしょ」
その言葉に、累都は返せなかった。
同じ場所。
同じ圧。
同じ評価基準。
それでも――
立ち方は、選べる。
ページをめくる音が、静かに響く。
「……お前」
「うん?」
「嫌いじゃない」
「よかった」
その日。
累都は、黒塔学園で初めて――
“友人”と呼んでいい人間を、自分で選んだ。
同日、夜。
塾からの帰り。累都はコンビニで弁当を一つ買い、そのまま家に戻った。
「……」
玄関を閉めると、家の中は暗い。
母親はいない。
いつものことだ。深夜まで仕事。帰る頃には、もう寝ている。
靴を脱ぎ、キッチンに向かう。
麦茶を取ろうと冷蔵庫を開けた瞬間、目に入る。
「……また作ってる」
ラップに包まれた料理。日付を書いた付箋。栄養バランスも、温め方も、完璧に管理された“母親の善意”。
だが、累都はそれを取らない。
代わりに、コンビニ弁当を机に置き、無言で蓋を開ける。
味も、栄養も、どうでもいい。
腹に溜まれば、それでいい。
箸を動かす。
噛む。飲み込む。
麦茶で流し込む。
すぐに空になる。
累都は、空の容器をレジ袋に戻し、きつく縛った。
――これが自分にできる唯一の「反抗」
もし、母親の料理を食べずにコンビニ弁当を食べたと知られたら、どうなるか。
それは、もう何度も経験している。
「体に悪い!」
「どうして言うことを聞かないの!?」
「あなたのためにやってるのよ!?」
ヒステリックに叫ぶ母親。
2回目が見つかった時は手元にある物を投げつけられた。
正しさで殴られる時間。無駄な時間。
だから、ゴミは外に捨てる。
気づかれなければ、問題は起きない。
それが一番、合理的だった。
適当な夕食を終え、部屋に戻る。
机に向かい、塾の宿題を広げる。
そのとき、スマホが光った。
「……?」
画面には、通知が溜まっている。
内容はすぐに分かった。
――アズラエル。
一年生。
生徒会補佐と教師に楯突いた、という噂。
「(暇なやつら……)」
外面と評価と噂話。それしか興味がない。
累都は、LINEを開かずに別のアプリを立ち上げた。
ニュースでも見ようとした、その瞬間。
【使用時間が過ぎています
使用権限を一時的に停止しております】
「……ッチ」
舌打ち。
これも、母親の仕業だ。過保護か、管理か。
どちらでもいい。どうでもいい。
累都はスマホをベッドに投げ、自分も横になる。
「アズラエル……」
呟く。
なよなよしている。
ふんにゃりしている。
なのに――
生徒会室前で見た、あの姿。
教師と補佐を前に、一歩も引かなかった目。
遠目でも、はっきり分かった。
普段とは、まるで別人だった。
「……やるじゃん」
口元が、わずかに緩む。
「アイツを“使え”ば……少しは面白くなるな」
小さく笑ってから、ふと止まる。
――使え、ば?
アズラエルを?そもそも、あいつは何なんだ。確かに、あいつがいれば暴力は減る。
身体の痛みに耐える日が、少なくなる。
それは事実だ。合理的だ。
だがあいつは、会話が成立する。
対等に話せる。
黒塔学園で、それは異常だった。
クラスの連中とは違う。
体裁や評価しか見ていない連中とは。
「……友達?」
口に出してみる。
だが、すぐに別の言葉が浮かぶ。
「……便利な道具?」
胸の奥が、わずかにざわつく。
友人と道具を、同じ天秤にかけている。
それがおかしいと分かっていても、
切り分け方が分からない。
「俺は……」
暗い天井を見つめる。
「アズラエルと、友達なのか?」
問いは、返ってこない。部屋は静かだ。
累都は、結論を出せないまま目を閉じた。
黒塔学園で初めて選んだ“友人”は、
まだ――
利用価値と並べられている存在だった。
次の日
「また転入生と一緒かよ」
「評価、下がるぞ?」
……またか。
累都は、内心で舌打ちした。
性懲りも無く関わってくる。アズラエルにビビったくせに、懲りない。
力関係を理解しているのに、序列を取り戻そうとする。
――無駄な努力だ。
累都は、何も言わずに睨み返した。
「なんだよ、その目は!」
胸ぐらを掴まれる。
だが、反射的に計算が走る。反撃は不要。
ここで暴れれば、評価を落とすだけだ。
そのとき。
——す、と影が差した。
アズラエルだった。何も言わない。
ただ、累都と相手の間に立つ。
それだけで、空気が変わる。
いつもの“無言の圧”。
「……チッ」
舌打ち。
――ほらな。やっぱりアズラエルは”便利な道具だ”
内心で、そう思った瞬間。
「そこで何をしている」
低い声。振り返ると、教師と生徒会長補佐。
最悪の組み合わせだ。
「また君か、ヴァイス君」
「トラブルメーカーだな」
教師の視線が、アズラエルから――累都へ滑る。
「君は、もっと相応しい人間と付き合うべきだ」
「この生徒は、評価的にも問題が多い」
……え?。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「(やめろ……)」
ここで線を引かれたら終わりだ。
アズラエルが、自分を“切ったら”。
「(ここで拒まれたら……離れないでくれ……)」
その瞬間だった。空気が、変わった。
重い。目に見えない圧が、廊下を満たす。床が、軋んだ気がした。
拒絶された、と。身体が先に理解する。
だが――
拒絶されたのは、自分じゃない。
アズラエルの瞳が、静かに燃えていた。
あの、ふんにゃりした転入生じゃない。
昼休みの、間の抜けた男でもない。
「(……何だ、この感じ)」
皮膚が、粟立つ。アズラエルが、深く息を吸う。
「——クロウリー家の名において」
その言葉を聞いた瞬間。
累都の思考が、一瞬止まった。
――クロウリー家。
幼い頃から、母親が時々口にしていた名前。
「あなたは特別なの クロウリー家の跡取りになれるわ」
「ヴィクター・クロウリーの息子なんだからそんなことで泣くのはやめなさい!!」
知っている名前が、他人の口から出てきた。母と自分だけのはずのものが、外に漏れた感覚。
「(なぜ、こいつがその名前を名乗る?)」
「不当な評価、ならびに根拠の示されていない交友関係への干渉について、正式に異議を申し立てます」
言葉は冷静。だが、一切の逃げ道がない。
教師が、言葉を失っている。
「当該生徒が誰と行動するかは、現行の学園規則および評価基準のいずれにも抵触しておりません」
――当該生徒。
それは、累都のことだ。
「それを“相応しくない”と断じるのであれば、該当する規則番号および評価項目を、明示してください」
沈黙。誰も、動けない。
累都は、アズラエルの背中を見る。
「(……拒まなかった)」
それどころか。“友達”という立場を、
この場所で、この相手に対して、
一切の躊躇なく守った。
合理性でも、打算でもない。
力を持つ側の選択だった。
「(……なんだよ、それ)」
胸の奥が、ざわつく。
怖い。
同時に、目が離せない。
母親が言っていた“クロウリー家”。
その意味が、今、輪郭を持ち始めている。
――こいつは。
――俺が“使える”相手なんかじゃない。
むしろ。
「(……俺の方が、試されてる?……)」
アズラエルの背中は、 累都が今まで見てきた誰よりも、 静かで、 揺るがなかった。
それは盾だった。 だが、所有できるものじゃない。累都は、無意識に拳を握っていた。
「(……友人、か)」
その言葉を、否定できなかった。
アズラエルは、何事もなかったみたいに累都の肩に手を置いた。
「行こう」
柔らかい声だった。 命令でも、配慮でもない。 ただ、当たり前のように隣に立つ声。
累都は一瞬だけ目を見開き、それから何も言わずに頷いた。
——「クロウリー家の名において」。
その言葉は、確かに聞こえていた。 だが今は、それを噛み砕く余裕がなかった。 頭の中はぐちゃぐちゃで、整理する前に、身体だけが動いていた。
二人は、そのまま教室を出た。 背後で、誰かが息を呑む気配がしたが、振り返らなかった。
校舎の影。 人の来ない場所まで歩いて、ようやく足を止める。
風がコンクリートの匂いを運んでくる。 しばらく、沈黙。
先に口を開いたのは、累都だった。
「……さっきのさ」
アズラエルが首を傾げる。
「さっき?」
「“クロウリー家の名において”ってやつ」
一瞬だけ、アズラエルの動きが止まった。
「あ……聞こえてた?」
「聞こえた」
累都は、視線を地面に落とす。
「(クロウリー家の名において)」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。 母の声が、勝手に蘇る。
『才能は武器よ』 『名前は盾になる』 『賢く使いなさい』 『あなたは特別なの』
「……でも」
累都は顔を上げる。
「今は、それどうでもいい」
アズラエルが、少し目を丸くした。
「俺にとってはさ」
言葉を選ぶ。 選ばないと、壊れてしまいそうだった。
「お前が、俺の肩持ったことの方が重要」
一瞬、アズラエルはきょとんとした顔をして、 それから、ゆっくり笑った。
「……そっか」
その反応が、妙に胸に引っかかった。
累都は、少しだけ躊躇ってから言う。
「だから……俺の“一番”を見せる」
「一番?」
「……誰にも言うな」
アズラエルは、迷わず頷いた。
「うん」
その即答に、逃げ場がなくなる。
累都は右手を上げ、掌を胸の前に構えた。
「(落ち着け。数式は簡単でいい)」
呼吸を整える。 派手さはいらない。 これは誇示じゃない。
——信頼だ。
指先が、わずかに震えた。
空間が歪む。 空気が圧縮され、淡い白光が点として生まれる。 球体にもならない、不完全な多面体。 角が揃わず、かすかに揺れながら、浮いている。
その瞬間。
——母の叫び声が、脳裏を裂いた。
『……また、お前も殺すの?』
「……っ」
反射的に魔力を切る。 光は、音もなく消えた。
「……ごめん」
自嘲が混じる。
「しょぼいだろ。」
視線を上げられない。 拒否されるのが、怖かった。
だが。
「……累都」
声が、震えていない。
「すごいよ!」
即答だった。
「え……?」
「ちゃんと、自分で組んだ魔法陣でしょ?無駄がないし、“組み立て”がすごく綺麗」
理解されている。 技術じゃない。 “扱い方”を。
「魔力を無理に引っ張ってない……大事に使ってる魔法だ」
その言葉に、胸が痛んだ。 こんな評価を、初めて受けた。
「じゃあ……僕も」
アズラエルが手を出す。 彼の掌の上で、魔力が自然に層を成す。 円環。重なる線。揺るがない構造。
——完成度が違う。
思わず、息を呑んだ。
「……次元が違うな」
「あ、ごめん……つい」
慌てて消す、その仕草が、腹立たしいほど自然だった。
「でも!累都の魔法、嫌いじゃない」
少し考えて、言葉を選んでるな。
「すごく、好き」
胸の奥が、きしんだ。なんだその率直な感想は
「お互い、魔法が使えるなんてさ」
声を潜めて、笑う。
「二人だけの秘密だね」
累都は、少し間を置いてから答えた。
「……ああ」
小さく、しかし確かに。
「秘密だ」
その瞬間。 累都は理解してしまった。
——これは、もう“道具”じゃない。
— —切れない相手だ。
それが、少しだけ怖くて。 少しだけ、救いだった。
その夜。
累都は、自室のベッドに腰掛けたまま、通信端末を見つめていた。 画面に映るのは、母の顔。
「……何?」
少しだけ不機嫌そうな声。 それでも、累都は言った。
「今日さ」
一拍、置く。
「友達が、できた」
ほんの一瞬。 母の表情が、凍った。
「……友達?」
確認するような声。 累都は頷く。
「転入生でさ。変なやつだけど、悪くない」
自分でも驚くほど、自然に言えていた。 胸の奥が、少しだけ温かかった。
「今日、俺のこと庇ってくれた」
沈黙。母は、ため息をついた。
「……累都」
名前を呼ばれた瞬間、 嫌な予感がした。
「あなた、自分の立場、分かってるわよね」
声音は穏やかだった。 だからこそ、逃げ場がない。
「“その辺の子”と、気安く付き合う必要はないの」
累都の指が、シーツを掴む。
「でも——」
「あなたは特別なの」
被せるように言われる。
「選ばれる側であって、混ざる側じゃない。評価を落とすような関係は、切りなさい」
累都は、言葉を探した。
「……あいつは」
「才能は?」
遮断。
「家柄は?」 将来性は?」
問い詰めるような視線。
「あなたの時間を使う価値があるの?」
胸の奥が、冷えていく。
「……わからない」
正直に答えた。
母は、はっきりと言った。
「じゃあ、無駄ね」
一切の迷いもなく。
「友達ごっこは、もう終わりにしなさい。あなたは、もっと“相応しい場所”に行く子なんだから」
通信が切れる。画面が、暗転した。
累都は、しばらく動けなかった。
「(……ああ)」
分かっていた。 分かっていたはずだ。
それでも。
「……できたのにな」
小さく呟く。
初めて、自分の意思で選んだ相手。
初めて、秘密を共有した相手。
それすら、“無駄”だと切り捨てられる。
累都は、膝を抱えた。
——特別でいるために、全部を失え。
母の声が、頭の中で反響する。
それでも、ふと思い出す。
校舎の影で見た背中。
「行こう」と言った、あの声。
「(……俺は)」
一度だけ、強く目を閉じた。
「(……俺は、間違ってない)」
そう思うことすら、 この家では、許されないのだと知りながら。
母親の呪縛 父親が来てくれるかもしれないという小さな希望 新しい友だち。
累都はどう成長するのか




