第1話
隣の席の山田くんは、目立たない男である。
「おはよう、山田くん」
陽太が挨拶すると、相手はちらりと目を上げた。
「……おはよう、三崎くん」
「数学の宿題やった? 俺分かんないとこあるんだよね。山田くん、全部できた?」
「ああ、まあ」
言いながら、鞄の中からノートを出す。無言で突き出され、陽太は戸惑いつつも受け取った。
「え、あ……ありがとう?」
「俺もそんなに得意じゃないけど、一応は」
中にはお手本のように綺麗な文字で、宿題の回答が書かれている。慌てて自分のノートを引っ張り出すと、陽太は答えを突き合わせた。
「あー、ここ間違ってる。ありがと、山田くん。助かった」
「どういたしまして」
それで会話は終わってしまう。沈黙が広がり、陽太は小さく頬をかいた。
――もうちょっと話してみたいんだけどなぁ。
山田くんと知り合ったのは入学式の時だ。誰とも話さない姿が気になって、なんとなく目で追った。そこで挨拶したのが一回目だ。
二回目は席替えの時だった。クラスにいた事をすっかり忘れ、のびのび過ごしていた陽太の隣の席にやって来たのが彼だった。入学式の記憶はあったので、久しぶりーと声をかけた。彼はちょっと驚いたような顔をして、久しぶりと答えてくれた。それが二回目。
話してみると、彼は無口だが親切で、付き合いやすい性格だった。責任感もやたらと強く、頼まれた仕事は完璧にこなす。面倒見もいいらしく、近所の犬もなついている。
ただ――印象が薄い。
なぜだか人の記憶に残らず、とにかく影が薄いのだ。未だに下の名前を知らない人間も多い。ひどいのになると、クラスにいる事さえ知らないという。
陽太は隣の席なので、もちろん彼を知っている。そして――どうしてなのか分からないが、彼の事が、妙に気になる。
(……もしかして、これが恋?)
思った瞬間鳥肌が立った。違う。これは恋ではない。
「あのさ、山田くん」
声をかけると、視線だけがこちらを向く。
「今日の放課後空いてる? よかったら、どっか行かない?」
「……悪いけど」
淡々と山田くんは答えた。
「放課後は用事があるんだ。誘ってくれてありがとう。他の人を誘ってほしい」
……撃沈だ。
***
用事があると言ったものの、山田くんは席から動かなかった。
「山田くん、何読んでるの?」
山田くんは読書が趣味らしい。いつも大量の本を抱えている。分厚い本が気になって聞いてみると、「これ」とタイトルを見せられた。
「治水事業の……完全マニュアルハンドブック? しかも実践編? 永久保存版?」
面白いのかと聞くと、無言で頷く。
「山田くん、運河でも掘るの?」
「興味があるんだ。それだけだよ」
なるほど、興味があるのか。
本に目を落とす横顔は、意外にも整っている。目を見張る美形ではないが、清潔感があって爽やかだ。
ただ――地味。
「あれー、山田って誰だっけ?」
「え、同じクラスでしょ?」
「そんなやついたっけ? 印刷ミスじゃない?」
「いたでしょ。……多分」
山田くんのすぐ後ろで、クラスの女子が会話している。見つめているのは座席表だ。いるだろう、目の前に。ちょっと視線を向ければすぐだ。いるよ? 山田くん、ここにいるよ?
内心でやきもきする陽太をよそに、やはり印刷ミスかもしれないと納得して彼女達は去って行った。
山田くんは口を開かない。いいのかそれで。
「あの……山田くん。気にしない方がいいよ」
「何が?」
「何がって、あの」
言いかけて陽太は気がついた。
「……うん、気にしてないんならいいんだ」
あえて自分が口にしたら、彼を傷つけてしまうかもしれない。
山田くんは本に没頭している。そうしていると、ますます影が薄くなる。まるで景色の一部みたいに。
よっぽど本が好きなんだなあと思いつつ、ふと陽太はそわっとした。
――俺も図書室とか行こうかな。
時計を見ると、午後四時五分前。
まだ図書室は開いているだろう。
「山田くん、また明日」
鞄を手に立ち上がると、山田くんは小さな目礼をくれた。
***
次の日も山田くんは影が薄かった。
「山田、悪いけど当番代わってくんねえ? 俺らちょっと忙しくてさ」
部活に出るらしい生徒が二人、山田くんを拝んでいる。
「別にいいけど」
「サンキュ、恩に着る!」
この間も代わってあげたんじゃないかなぁと思っていると、隣にいた友人に小突かれた。
「何やってんだよ、陽太。委員会、始まるぞ」
「ああ、うん」
山田くんはちょっと離れた場所にいる。声をかけられる距離じゃない。それでも放っておくのはどうかと思い、陽太は後ろを振り向いた。
彼が代わったのは美化当番。学校中のゴミ箱をチェックする、クソめんどくさい作業だ。
「ちょっと待ってて、話を……ってあれ?」
手伝おうかと申し出ようとしたら、すでに山田くんはいなかった。
「おっかしいなあ……」
「陽太、急ごうぜ!」
友達に急かされ、陽太は後ろ髪を引かれつつ歩き出した。
委員会が終わると、午後四時半を過ぎていた。
「あれ、山田くん、教室いたんだ」
いなくなっていたはずの山田くんが、隣の席に座っていた。
「ああ、うん」
「お疲れ様。美化当番、これから?」
「もう終わった」
え、と目を瞬いたら、「終わったよ」ともう一度言われる。そういえば、今日はゴミ箱が妙に綺麗だった。戻る途中で見かけていたが、まさか終了していたとは。
「山田くん、仕事早くない?」
「そうでもないよ」
「なんだ、手伝おうかと思ったのに。無駄足だったな」
そのために急いで来たのだが、遅かったようだ。山田くんは仕事を終えて、のんびり一息ついている。少し疲れたように見えるのは気のせいか。
「次は声かけてくれていいよ。せっかく隣の席なんだし、いつでも頼ってな」
断られるかと思ったが、彼はちょっと沈黙した後で頷いた。
「ありがとう。助かる」
「…………」
じわじわと感情が込み上げてくる。この感情は知っている。これは嬉しさだ。
そっけない近所の猫がなついた感じ? いや、山田くんは無口なだけで、不愛想ではない。その証拠に、同じクラスの藤崎さんとは割と話している。地味だが可愛い感じの少女で、陽太も実はちょっとタイプだ。
「じゃあ俺、帰るから。また明日」
「ああ、ちょっと待って」
そこでふと目を上げると、山田くんは背中に触れた。
「ゴミがついてた。もう落ちた」
「え、マジ? ありがとう」
それで会話は終了し、陽太は手を振って教室を出た。
翌日も山田くんは影が薄かった。
「そういえばさ、聞いた? 昨日事故があったんだって。ほら、駅前の交差点」
「ああ、そういえば騒ぎになってたな」
「陽太の通学路だろ。ちょうど下校時間だったし、心配したよ」
山田くんと話していたせいで、予定のバスに乗り遅れてしまい、着いた時には救急車が到着していた。死者はいなかったようで何よりだが、確かに怖い。いつものバスに乗っていたら、ちょうど巻き込まれるところだった。
「運が良かったな、陽太」
「そうかも」
へへっと笑うと、後ろを誰かが横切った。
「あ、山田くん。おはよう」
「おはよう」
今日も山田くんは本を抱えている。『世界のダム事情』と、『治水のすべて』、『水と共に生きる方法』。どうやら彼の中で水関係がマイブームらしい。
横の友人は不思議そうに彼を見ている。
「山田って……同じクラスだったっけ? え、いたっけ?」
「いたよ。てか挨拶しろよ、クラスメイトだろ」
「そうだよな……でもいたかなぁ、あんなやつ……」
首をひねりつつも、「ごめんなー、おはよう山田」と挨拶する。山田くんは律義におはようと返していた。
「いやー、でも記憶にない。地味すぎだろ、いくらなんでも」
「失礼なこと言うなよ」
「だってほんとに覚えてないし。地味。地味すぎる。むしろ地味」
それはそうかもしれないけれど、ものすごく失礼だ。
「山田くんはいいやつだよ。それでいいだろ」
「まあそうなんだけどさー……」
あれじゃ彼女もできないよなと、さらに失礼なコメントを残して友人は去った。いや、顔のつくりなら大差はない。陽太だって彼女はいない。
「ごめん山田くん、ひどいこと言って」
「いいよ、別に」
「山田くん、彼女いる?」
「いない」
そうだよなぁと納得して、陽太も隣の席に着いた。
(……あれ?)
その放課後。
何気なく教室を覗き込んで、陽太は目を瞬いた。
山田くんがいる。
――が、消えた。
「!!?」
慌てて教室に駆け込んだが、もちろん誰の姿もない。
(見間違い……?)
そんなはずはないと思ったが、教室には誰もいない。
山田くんの事ばかり考えていたから、幻覚でも見たのだろうか。
(これって恋!?)
思った瞬間ゾワっとした。違う。やっぱりこれは恋じゃない。
「陽太、委員会の時間だぞー」
「あ、うん。今行く」
鳥肌の立つ腕をさすりつつ、陽太は友人の後を追った。
振り向いた教室には、やっぱり誰もいなかった。
お読みいただきありがとうございます。山田くんが消えた。