梅咲く庭の雪女
それは一人の従業員がふと漏らした言葉だった。
「そういえば昨日、雪女を見たんですよ」
その人は畑沙月という若い綺麗な人だ。畑さん自身は健康的な、雪女とは程遠い見た目をしている。
「探偵さんなんですよね? こういうのは専門外かもしれませんけど。あっ、すみません、依頼じゃないのにこんなこと……」
「大丈夫ですよ。それより、雪女とは……?」
「昨日は休館日で、私も休みだったんです。でも間違って出勤しちゃって……。中庭があるじゃないですか? そこに黒髪で白い着物を着た女性がいたんです。肌も真っ白くて、体全体にうっすらと雪をかぶっていました。でもすぐに館内に走って入ってしまって……我に返って追いかけましたがその頃には見失っていました。そのとき、温泉の方から『どぼん』と音がしたんです。急いで行ってみると、一番大きな浴槽に白い着物が浮いていて、その女性は消えていて……」
「それで雪女と?」
確かに、雪女は風呂に入ると溶けるとか言われてるもんな。
「はい。どこを探してもいなくて……。露天風呂から女将が出てきて、私を見て驚いた顔をしていました。それでようやく今日は休みだと気がついたんですけどね」
「女将さんには着物のことを言ったんですか?」
「はい……でも、どこを探してもいなくて」
「それは不自然ですね」
普通に考えて雪女のわけがないだろうし、人間が急に消えることもないだろう。だとしたら何か理由があってそうなったはずだ。
「じゃあ消えた女性のことは雪女と呼ぶとして……雪女の顔は見ましたか?」
「いいえ」
「では後ろ姿だけでも、似ている人に心当たりは?」
「ありません。……もしかしたら、以前来館されたことがあったかもしれませんが」
「では旅館の関係者ではないのですね」
畑さんは強く頷く。受け取った酒を啜りながらふと外を見ると、雪が降り出していた。あまり雪の降らないこの地域では珍しい。
「中庭を見に行ってもよろしいですか?」
「もちろんどうぞ。お客様の自由ですから。ただ、昨日梅の木が折れてしまって……立ち入り禁止になっているんです」
「……折れた?」
「はい。理由は分からないんですが……」
「じゃあ尚更見に行きます」
畑さんについて来てもらって中庭へ行く。確かに今朝梅の花は見たんだが、折れていることまでは分からなかった。雪をかぶっていたせいだろう。
「大きな木ですね」
「ええ、前までは2階にまで届いていたんですよ。あっ、2階は女将と社長のご自宅でして……。そういえば、今日は社長を見てないような」
「普段は下に降りて来るんですか?」
「そうですね、いつもは朝一で従業員に挨拶しに来てくれるんですよ。それがもう男前で! 女将の旦那さんなだけあります」
男前な旅館の経営者……ね。なんだか意味深だな。女のいざこざというのも視野に入れていいかもしれない。
中庭と廊下はガラスの扉で繋がっていて、手をかければ簡単に開いた。
「畑さんが雪女を見た時に扉は?」
「開いていました。……気をつけてくださいね、こっち側じゃありませんけど、中庭には池があるので……うっかり足を滑らせて落ちたりしては大変です」
「心配ありがとうございます。池があるんですね、その様子だと結構深いのですか」
「はい……。以前お子様が溺れかけました。あっ、でも冬は板を乗せているんでした」
なるほど、それで心配してたか。雪と板で池の中が見えないというのが若干気になるが……。
畑さんに温泉の方も案内してもらって、途中には逃げるところが客室と脱衣所のトイレぐらいしかないことを確認した。
この旅館はカタカナの「ロ」の字と同じ形をしている。真ん中の空洞部分に中庭。右上の角に温泉と脱衣所。左から男湯、女湯。
上の辺と下の辺には客室、左の辺には玄関、調理場、客室など。左上の角に階段がある。ちょうど階段は温泉側に向いていた。そして2階も1階と同じように、ロの字の間取り。
ひとまず俺は自分の観光を楽しむことにして、畑さんと別れて温泉に入った。もちろん男湯だ。シーズンじゃないからか人はまばら……というかほぼいない。畑さん曰く男湯と女湯は構造がほぼ一緒らしい。
一番大きな四角い浴槽に雪女は消えたと言った。その向こう側には露天風呂へと繋がる扉がある。そこから、女将が出てきたと……。
露天風呂には女湯と男湯を仕切る壁があった。そこにあるひとつの扉。二つの温泉を繋ぐ――。何かが見えてきた。
風呂から上がって水を一気飲みし、思考を整える。
俺の考えはこうだ。畑さんは着物が浮いていたとだけ言ったが、果たして本当にそうだったのだろうか?
本当に雪女が着物を残して消えたなら、帯も一緒に残るはずじゃないか。考えられる可能性は、雪女は長襦袢を着ていたか、着物を羽織るだけ羽織って帯をつけていなかったか……。どちらにせよその格好のまま外に出ないといけないくらい、急いでいたことが分かる。
そしてうっすら雪を被っていたこと……。それなりに長く外にいたということだ。急いでいるなら中庭に留まる理由はないはずなのに。そして雪女は女湯へと逃げた。そこであの大きな浴槽に転落してしまい、着物が脱げてしまう。その着物を畑さんに見られたわけだが……問題はここからだ。どうやって雪女は姿を消した? 後ろには畑さん、前には女将。要は一種の密室から忽然と姿を消したことになる。
……ただ、それは誰かが嘘をついていなければの話だ。
嘘をついている可能性のある人物は、畑さんと女将しかいない。わざわざ探偵と名乗る俺に相談したんだから、畑さんが嘘をついている可能性は低いだろう。じゃあ残るは女将だけ。
ここからは、俺の仮説だ。
社長の不倫相手が休館日を見計らってやって来た。そしてコトを済ませたのか未然なのか……、その途中で女将に見つかってしまう。慌てた女は窓から逃げた。そう、梅の木を使って……。
それなりに時間がかかるだろうが、きっとそうせざるを得なかった理由があるに違いない。例えばその場で社長が殺された……とか。
成人女性一人分の重さに耐えられなかった梅の木は折れてしまう。それだけの時間外にいたんだから、雪を被るのは当然とも言える。
女はようやく降り切ったところを畑さんに見られてしまった。それに気がついたのか気がつかなかったのか、とっさに温泉へ逃げ込んだ女は、向こう側に見える扉だけを目指した為に浴槽に落ちてしまう。そこで脱げた着物も置いて、きっと全裸で露天風呂へと逃走したのだ。そこからなら逃げられると信じて……。
しかし女将は先手を打っていた。2階から降りてきた女将は男湯から入り、露天風呂の鍵を使って女湯に移動したのである。浴槽に落ちた分タイムロスした女は待ち構えいた女将に殺された。しかし予定外だった畑さんの登場に、思わず女将は嘘を吐く。
こうして消えた雪女が完成したのだ……。
通報、するべきだよな。まだ不確定な段階でこんなことを畑さんには言えない。
――ただ気がかりなことはある。もし畑さんが俺のこと女将にを話していたら……。一度人を殺した人間は、選択肢のひとつに「殺人」という項目を持つようになる。まさか部屋で待ち構えてたりしないよな。女将がいないことを願って、俺は110番した。