縁談が取り消しになったくらい平気です(三十と一夜の短篇第69回)
あやめ王国の王妃は真剣な面持ちで、第一王女に告げた。
「先日陛下が仰言っていたあなたの縁談がなくなりました」
王女の縁談は国王の父が提案を受け入れた程度だった。相手はざくろの国の王太子だと告げられただけで、具体的なことは何も定まっておらず、肖像画の交換もしていない。十三歳の王女は何の感情もなく、はい、と母に答えた。
「気を落とすことはありませんよ。あなたはこの国の王女です。この先幾らでもよい縁談があるでしょう」
「はい、お母様、どのような方がお相手でもわたしは王女の務めを果たします」
王妃は王女を抱き締め、愛称で呼び掛ける。
「ザザ、お相手だったざくろ王国の王太子は癇癪持ちで、病弱とも聞くから、これで良かったのかも知れません」
「お相手がどんな方でも、夫となった方には貞節を誓い、忠実でなくてはならないのでしょう?」
王女のよどみない言葉遣いに王妃は安心したようだ。名前と身分しか知らない相手で、まだ何の期待も抱いていなかったようだから、気にすまい。
「娘を嫁がせる親からすれば、どれほど高貴な方でも不足しているように見えてしまうのです。親の欲目を笑わないでね。あなたは充分に賢く、見目好い女性です」
母から言われれば王女は嬉しく、心強い。
第一王女の縁談が取りやめになったのは、実はこれが初めてではない。王女がまだ十に達しない頃、ばらの国の王太子と婚約した。お互い幼い年頃であったから、婚礼は何年か先とされ、指輪と肖像画を交換した。王女は将来の夫となる相手の絵姿に毎日話し掛けた。
「ご機嫌よう、王子様。今日はよいお天気です」
「王子様、今日は寒いですが、そちらはどうですか? おやすみなさい」
国王一家はそれを微笑ましく眺めた。ところが、突然の病で婚約者は亡くなった。肖像画や文通で親しんでいたが、一度も会ったことがない相手だ。悲しかったが、王女の涙はすぐ止まった。
王家の責務として喪が明ければ次の縁談を当たることになるが、王女に釣り合う条件の男性がすぐに見付けられるものではない。やっとざくろの国の王太子と婚約話が出たのに、ざくろの国は他国との王位継承と領地に関わる戦争が起き、結婚を見合わせたいと申し出られてしまった。王太子に、ざくろの国に、より利益を成す相手を見出せそうになったのだろう。
国と国との結び付きには様々な条件付けがあるので、婚約の成立や破棄が繰り返されるのは当たり前、ではある。第一王女とって今回の出来事は、手を滑らせて好きなお菓子を落としたほどの嘆きもない。
しかし、宮廷に出ればひそひそ声が耳に入ってくる。妹の第二王女の縁談に滞りはないのに、第一王女はまたも、と、ほかのきょうだいたちの侍女や従者、廷臣たちは王女に一切忖度しない。噂話はいつでも美味しい。
「このたびは誠に残念な仕儀となりました。心よりお見舞い申し上げます」
心遣い有難う、と答えておくものの、言った者の目の奥が冷たく笑っている。王女の兄ははっきりと言葉にしてきた。
「結婚話が無くなったんだって? 一度ならずも二度までも。次があるかな?」
「そのように仰言っては妹君がお気の毒ですわ」
兄の妻は口でそう言いながら、兄と視線を交わして可笑しがっている。兄の妻は、政略結婚であざみの国からこの宮廷に来た女性だ。美しく、朗らかで場の注目を集める雰囲気を持っている。王女は義姉に初めは素敵な姫君だと憧れた。だが今は違う。元々頼りない性格の兄は見事に取り込まれ、すっかり妻の意のままだ。兄が兄らしくなくなり、軽薄さが増したような気がする。王妃である母は兄夫婦を凍てつかせるかのような目でいつも見ている。兄はまったく判っていないが。
嫁いだら、母のような姑を相手にし、兄嫁のように夫を虜にするよう働かなくてはならないのだろうか。王家に生まれた者の尊き責務は荷が重い。
思慮深さも優しさもない、羽根よりも重さのない兄の言葉が続いた。
「もしかしたらほかに意中の者でもいて、安心しているとか?」
「そのような者はおりません」
「いやいや、王弟である叔父は、男爵家の女当主と結婚する為に王位継承権を放棄したくらいだ。前例はあるのだから遠慮はいらない」
どうして兄からこのように言われなくてはならないのかと、王女は悲しい。幼い時分には親しく遊んだきょうだいなのに、庭で泥だらけになった子犬さながらに心の内にも泥を付けようとする。兄嫁は兄嫁で己の長所を引き立たてる為、兄の短所を目立たせようとしているよう目に映り、恨めしい。
王女はとっさに何も言えない。王族なら縁談の一つや二つあって当然で、不成立に終わろうが瑕瑾にはならないはず。むしろ何の申し出もなかったら、女として不出来なのかと憐れまれかねない。兄嫁だってあまたある縁談を検討した上、あやめの国に嫁いできた。くやしさで身もだえしてしまいそうだ。
「王太子が軽々しい発言をするものではい!」
雷のように響く声に兄は口をつぐんだ。父だった。国王から睨まれたら、王太子の兄でさえ震え上がる。
「我が弟は臣下として国に尽くしている。臣下を軽んずる君主が何処にいる。次代の王たる者として弁えよ。妹をあざけって王太子の得になるか。宮廷にいる各国の大使がこの国の王太子は身内を卑しめる愚か者と報告に走るぞ」
「申し訳ございません」
兄は紙のような顔色になり、体を折らんばかりにして父に謝った。兄嫁も一緒に倣っている。
「謝るのは私にではない」
と言われて、兄は王女にも謝った。やたらと威張り散らす兄といつも澄ましている兄嫁の姿は滑稽だ。王女は寛容さを装って、謝罪を受け入れた。
何か月が過ぎ、妹王女が先に結婚すると正式な日取りが決まった。妹の縁談には何も差し障りがなかったからと、第一王女は気にしていない。兄嫁がお寂しいでしょう、とわざわざ言ってくるのを、虫の羽音同様に聞き流した。耳に快くても心に響かぬ言葉は意味を成さない。
東の領土を治める公爵へ嫁ぐ妹王女との別れの為の宴の席で、父王は言った。
「こうして皆が集まった場で一つ伝えたいことがある」
父の声にしわぷき一つなく静まり返り、皆は耳を傾ける。
「周知の通り第一王女とざくろの国の王太子との婚約は取り消しとなった。しかし、王女に新たな縁談の申し込みがあった。それを伝え、皆の賛意を得たい」
父は一呼吸置いて告げた。
「ざくろの国の王妃が亡くなった。ざくろの国の王は喪が明け次第、我が国の王女を新しい王妃として迎えたい、盟約を改めて結びたいと申し込んできた。
余はこの申し出を受け入れ、第一王女をざくろの国の王に嫁がせたい」
王女は瞠目した。その話からすると、舅になるはずだった男性が夫となるのか。王女は両親を見た。母も初めて聞いたらしいく、驚いている。
「国は変わらず相手が変わるだけだ。それも王太子ではなく、現役の国王だ。これ以上の身分の者は望めまい」
「お歳が離れていますけど……、まあ、その分舅や姑がいないですけど……」
歯切れの悪い母の言葉を継いで父はにこやかに続けた。
「おお、そうだとも。嫁ぎ先に王母がいないのは気が楽だろう。それに王女がきさきとなって王子を生せば、今の王太子を廃して、新たに後嗣にできるかも知れないのだぞ。あの国の王太子は父王に反抗的で、出来も大したことはないというから、これは期待できる」
父から未熟者とたしなめられてばかりの兄の顔色は優れない。王はいつでも太子を交代させられると告げたようなものだ。兄嫁は兄を励ますふうもなく、王女を悔しそうに睨んだ。いつもは兄にゆだねる右手を離してしまい、兄が二重に戸惑っている。
兄嫁から羨まれているのかしらと、王女はくすぐったい。日頃から子ども扱いしている義妹が一足飛びに隣国の王妃になるかも知れないと、身が焼かれる思いなのだろう。兄嫁の故郷のあざみの国とは比べ物にならないほど大きく豊かで、あやめの国と肩を並べる強大なざくろの国、その国の王妃となれる!
王女は宮廷中の注目を浴びて、呼吸さえ大仕事のように感じる。側にいる乳母に突かれ、慌てて父に返事をした。
「父上がどのようにお取り決めになろうと、わたくしはこの国の王女としての務めを果たします。どうかご随意に」
父は異を唱える者がいないと、話をまとめようとする。
「それではこの縁談を進めよう。改めて条件を詰めなければならないので、王女は大使に委任状を書くように。また、ざくろの国についての学びも続けるように」
「ご信任に応えられるよう、国と国との懸け橋になれるよう努力します」
「王女ならばきっとざくろの国王の心をとらえられよう。そなたには期待している」
「嬉しうございます」
――わたくしが王妃!
王女はもう王妃になったかのように心は晴れやかだ。宴の主役である妹王女も喜んで、祝福してくれた。
王太子妃に過ぎない兄嫁も、軽口ばかりの兄も小さな存在、もはや眼中にない。
翌年、王女はざくろの王国へ入った。かつての婚約者であった王太子に義母として挨拶の抱擁をし、父と同年配の国王に妻として親愛の接吻をした。