或る電車に乗った女子大学生Y
はあ、全くのエミコの奴、また昼食の時に恋愛相談とか言って延々とお姫様気取りして。アンタを中心に世界が回ってる訳じゃないっての!SNSに昼の写真あげるって言ってたけど、あの人、自分だけ顔の輪郭少しだけいじって周りより可愛く見せてるの、知ってるんだからね。
Yは電車を待つ間憤っていた。勿論心の中で思っているだけで口には出していない。それは彼女、もとい人間の得意技だ。人は様々な事を考えて生きているが、実際に表出させるのはほんの一部だろう。日が沈みゆく夕暮れの駅のホームでも、有象無象の思考や体が彷徨っている。オレンジ色の太陽の前をサラリーマンやギターを担ぐ高校生が通り、その度にYのスマートフォンの画面が明るくなったり暗くなったりする。
(チカチカして見にくい、ムカつく)
陽はまだ照っているものの、人々や駅周辺のビルディング、屋根の影でホーム内は薄暗い。
(いつになったら電車が来るのよ!そろそろ到着しても良い頃でしょ!)
携帯を見ながらSNSで流れてくる写真やコメントを見ると、尚更腹が立ってくる。機械的にポジティヴなコメント、星やハートマークを付ける。こうすればこちらが何かを投稿したときにお返しをもらえる、それが目当てだ。散々文句を垂れている彼女自身も、言わずもがな毎日写真をあげていて、それは一見すると普段通りだが、ブランドものの小物や化粧品、男物の香水が必ずどこかに紛れている。これを所謂「依存」と言う人も居るかもしれないが、一概にそうとも言えない。なぜならYも、彼女の表面上の友人達も別にSNSを崇拝している訳でもないし、アルコールやドラッグと違い、体も精神も蝕まれていないからだ。でも無くなったら困る。どうして良いか分からなくなり途方に暮れる。ネットで繋がれない世界には戻れない。やはり立派な依存じゃないか。
果たしてそうだろうか。
我々には様々な欲がある、例えば食欲、睡眠欲、性欲、自己承認欲。これらは生きている限り、鬱陶しい羽虫のように絶えずついてまわる。しかしSNSを使えば写真や短い言葉をのせるだけでいいねと認めてもらえるのだ。これだけ簡単に、しかも見返せる機能もついているのだから、多少悪態をついても続ける価値は十分にある。私達は寧ろYのように文句を言いながらもこうやって自己承認欲求を満たす事で、このネット上のコミュニケーション手段で上手くバランスを保っているのだ。それを依存と言われたらもう木の皮だけを食って即身仏になるしかない。
Yが苛々しながら右のつま先を小刻みに上下させていると、人身事故のアナウンスが流れた。軽く舌打ちをし、ため息をつく。これでは次の電車は最低でも一時間後だ。夜の寒さが忍び寄り、体が冷えて来るのもあって焦燥感に拍車がかかる。長方形の液晶画面に目を落として時間を潰していると、また画面が影で暗くなった。でもずっと暗いままだ、おかしい。そう思って正面を見る。すると不思議な事に電車が音も無く到着していた。逆光のせいで車体はくすんだ色をしていて、不気味な程長い影をYに投げかけている。辺りを見回しても乗車する人の気配は無い。少し不審に思いながらも車両に近づく。この駅にはホームドアは無く、電車の横っ腹のドアがあんぐりと口を開けていた。次がいつ来るか分からないし、これ以上待つのも馬鹿馬鹿しいと思い車内に足を踏み入れた途端、ドアが閉まり、おもむろに走り始めた。
(普通ベルが鳴るとかアナウンスとかするんじゃないの?意味分かんない!)
Yが腹を立てながら辺りを見渡すと、車両の両端はロングシートで、真ん中は向かい合わせの席、所謂クロスシートになっていた。彼女はこの路線を頻繁に利用しているが、こんな配置は見たためしがない。客の数は込んでくる時間帯のはずなのにまばらだ。これから寒くなる季節にもかかわらず薄着の若者、タンクトップ姿の小汚い親父が居たかと思えば、着物を着た老婆も居る。Yはロングシートの左端にどかっと腰を下ろし、人も少ないしこのぐらいしても良いだろうと、隣の席にベージュの鞄を無造作に置く。電車内は仄暗く、もうすぐ寿命なのか一本の蛍光灯が点滅を不規則に繰り返していた。それを癪に感じながらも携帯を見る。圏外。WIFIも無い。きっと古い型の電車なのだろう。あからさまにため息をついて腕を組み目をつぶる。電車のガタガタいう音と薄暗さでうつらうつらし始めた。
ハッと目が覚める。
(ここはどこ?そうだ、電車の中だ)
相変わらず蛍光灯はチカチカしている。自分の居る場所を確認した次は自分が向かう場所だ。乗り過ごしていないかと、Yはドアの上にあるはず路線図や電光掲示板を立ち上がって見に行く。
(なにも無いじゃない!どうなってるのよ!)
そして最初は日が沈んで窓の外が暗いのだと思っていたが、どうも違う。なにも見えない。普通だったら街灯や光る看板などが代わる代わる現れるはずだ。これはいよいよおかしいと思い、夢かとほっぺたをつねってみる。この時Yは奇妙な感覚を覚えた。痛い訳ではないが、なにも感じない訳でもない。自分で顔をつねった事によって周辺の皮膚が引っ張られる感触はあるが、痛みだけが無い。軽く叩いても同じだ。皮が軽く一瞬波打つのは分かるが痛くは無い。困惑しつつまたどっかりと腰をかけると、電車が減速し始め、窓の外からのまばゆい光に一瞬まぶたを閉じた。
ドアが開く音がする。目を開くと、そこには海が広がっていた。白い砂浜、少し頭を垂れ、風で葉が揺れるヤシ。波は白い泡を立て、静かに行ったり来たりを繰り返している。言うまでもないが、彼女が降りる駅までの間でこんな景色を見る事は無い。Yが電車に乗るときから居た薄着の若者達が、彼女の近くのドアから出ようとしていたから声を掛け聞いてみる。
「あの!ここ私の降りる所と全然違うんですけど!どうなってるのか知りませんか?」
「家に帰るつもりだったの?でもそんな所よりこっちの方がずっと良いわよ。泳ぎたい放題、遊びたい放題!あなたも降りたい所で降りれば良いわ。私達はここでずっと遊んで暮らすの!」
浮き輪を持った若い女がそう言って駆け出していった。
(海ごときではしゃぐなんてバカじゃないの?確かに景色は映えるけどそれだけ。潮風で髪はべたつくし、砂も体にくっ付くし無理!早くドア閉まれよ)
Yは降りなかった。電車が発車し、また辺りは真っ暗になった。
(こんなの夢に決まっている、馬鹿馬鹿しい)
そうは思いつつも次はどんな所に停まるのか少し気になるYがそこには居た。そして少ししたらまた停車したが、相変わらずアナウンスは無い。次は金色の小麦畑が広がる田園風景が現れた。風が吹くとサラサラと穂がこすれ合う心地よい音がこちらまで聞こえて来た。海外なのか、古い石造りの教会や風車も見え、遠くには針葉樹の森も顔をのぞかせている。
(この景色は珍しいじゃない。セルフで撮ってあとであげよっと。でもこういう所は最初は良いけど絶対すぐに飽きる。ここじゃない。降りる奴らは何も分かってない)
あごに手をあてて上手く輪郭を隠したり横顔にしてみたり、試行錯誤しながら、否、既に決まったバリエーションで何枚も撮影した。この作業は夢だろうが現実だろうが欠かさない。数人降りていったが、Yは蔑むような目でその人達を見ていた。次はどんな所だろうかと彼女の期待は高まるが、そうなるとこの電車に揺られる時間が嫌になってくる。煩わしい。
(なんかもたもたしてるわね、ホント使えない!もっとスピード出せるでしょ!)
行き場の無いいら立ちを、貧乏揺すりの振動で表現する。スピードが落ち始めた。さあ次はどんな所だ。だがさっきまでの場所とは毛色が違う。薄明かりの中、沢山の何かが蠢いている。Yは目を細めそれらが何なのかを窓越しに観察した。
「うわっ!」
思わず声を上げる。松明が照らす裸の老若男女は暗赤色をしていて、くんずほぐれつしっぽりしこしこよろしくヤッていた。むさ苦しい臭いが漂ってくる。
「うひょー!こんな所も本当にあるんだな!俺はここで降りるぜ!我慢できねぇ!」
あのタンクトップのおっさんが服を脱ぎながら一目散にドアへ向かう。
「お!姉ちゃん、アンタもどうだい?こんな良い所そうそう無いよ!選び放題試し放題だ!」
顔は脂でテカテカ光っていて、ずっといじっていたのか鼻は真っ赤だ。Yは何も答えず男を汚物を見るような目で睨む。しかしそんなのはおかまいなしに、小太りの男は黄ばんだ服だけを電車内に残し、肉の林へと消えていった。突然の不快極まりない出来事に言葉を失うYだったが、次の停車地はこの場所とは比べ物にならない程陰惨だった。
人が殺し合っている。血しぶきが窓を赤く染め、叫び声が四方八方から聞こえて来た。なにが一番衝撃だったかと言うと、ここで降りる人間が居た事である。スーツ姿の男がブツブツ呟いている。
「……ここでは私を咎める物は何も無い。今まで必死に我慢してきたけどもう気にしなくていい。何が苦しいのか自分で知る事も出来るし、他人に試す事も出来るしゾクゾクする。ただ死んでも生き返るのが難点だ。そのうち慣れちゃうのかな、それは嫌だな。でも他の場所よりはずっと良い」
おぼつかない足取りで彼は降りていった。
(降りたい所で降りれば良いですって?そんな良い場所全然無いじゃない!最後の二つに至っては変態しか行かないわよ!ふざけてるの?信じられない!)
走ってる間、相変わらず外は真っ暗だ。いつの間にか窓にこびり付いた鮮血の痕は消え、ガタガタと車体が揺れる音だけが聞こえる。まばらに居た人もここまで来ると大分降りて減っていた。
Yの心の中に次の場所への期待も薄まって来た刹那、車内が白く力強い光に包まれた。さながらゆっくりとしたフラッシュの光のように、電車の前方から徐々に床・壁・天井・Yの顔を照らし出し、一瞬ではあるが車両内の影を全て取り去り、まばゆい白一色にした。反射的に目をつぶるがその光の圧で、眼球が押されるように鈍く痛い。目の前も自身の血の色と光線で白に近いピンク色だ。少し収まってきたので、Yは恐る恐るまぶたを開く。
雲と同じ高さだ。そこに居る人々は雲の上に体をあずけ、音楽を奏でたり本を読んだり、にこやかに談笑したりしている。燦々と照る太陽は、先ほど感じた押しつぶされるような鮮烈さは無く、優しくこの世界を見守っていた。その有無を言わせぬ絶対的な美とも形容出来るこの場所に、ほぼ全ての乗客が降車していく。Yもふらふらとドアに近づいた。しかし真っ白に染まった彼女の思考に、まるで新品の半紙に一点の墨汁がしみ込むように、指の腹に刺さった小枝を抜いた時にじわりと出てくる小さな血の玉のように、一つの邪念が生まれた。
(ここでこれだけ凄いなら次はもっと凄い場所なんじゃない?ここで降りるのは勿体ない)
外に出していた片足を戻し、Yは車内へ踵を返した。もう写真を撮るのは忘れた。扉が閉まり、先ほどまでの神聖な明るさはいとも簡単に追い出され、陰鬱なほの暗さの中、電車の走る音だけが響く。
Yは誰が残っているのか確認する。もう彼女以外に一人しか居ない。しめた、これで次で降りればその場所をほぼ独り占め出来る。するとどうだろう、残り一人の着物の老婆が手招きしているではないか。遠目だがその手は骨と皮だけで、ゴツゴツした関節が目立つ。一瞬無視しようか悩んだが、次に停車する、恐らく楽園であろう場所に対する期待感から、結局Yはその老婆の居るクロスシートの向かいに座った。
「あなたも最後まで残ったのね、ふふ」
黒板を引っ掻いたようなキンキンした声が耳障りだ。そして間近でみるとこの年老いた女性の醜さが際立つ。髪は手入れされておらず艶を失っていて、櫛を入れようものなら全ての白髪が抜け落ちそうだ。目も落ち窪んでいて、眼球から放たれる僅かな光だけが彼女が生きている事を証明している。
「はい、次がどんな所か楽しみです」
気味悪さに少したじろいだYだったが、老婆の問いに答えた。
「次も何もずっと私達は見ているじゃありませんか」
ニヤリと笑う。しわだらけの弛んだ皮膚がさらにしわくちゃになり、数本の生え残った黄色い歯があらわになった。
「ずっと?」
「そうです。ずっとです。この外、暗いでしょ?ここが最後です」
彼女はそう言うと窓へ目をやった。この人は何を言っているんだ。Yが眉をひそめ口を半開きにし、不満をあらわにする。
「あの、どういう事ですか?」
「何も無いのが終点です。それが一番良いんですよ、あなたもそれが分かっていて、ここまで残ったのでしょう?」
「はあ?そんなのつまんないし地獄と一緒じゃない!」
堪りかねたYが激高する。
「その通り!やはりあなたはよく分かっていらっしゃる!」
突然大きな声を出し、Yの手を握る。老婆の手は冷たい木の皮のような感触がした。
「素晴らしい!あなたにはやはりこの最後がふさわしい!そう、天国も地獄も同じ所なんです。欲深い人にとってそこは何も無くて苦痛です。でも私達のように達観した人間にとって何も無い事こそ至高なのですよ!中庸そのものです!」
Yは言葉を失った。今になって激しい後悔の波が彼女の心に押し寄せて来た。
「そろそろ着きますよ、さあ降りましょう!私達は似た者同士です。こんな嬉しい事はありません。そうでしょう?」
老婆がYの腕を掴んで出口へと向かう。「やめて!」と叫んで振りほどこうとするがその力は強く、この電車に乗った時と同じように痛みは無いが、血流が滞るのを感じた。
「さあこっちです。お先にどうぞ、さようなら」
開かれたドアの前でYの背中をドンと押し、彼女は暗闇へ放り出された。電車の光が遠のく。Yが落ちて行くのか電車が上に行っているのか最早分からない。Yは一縷の望みに賭けて顔をつねろうと右手を動かそうとするが、既に彼女の四肢は闇に溶けており、確かめる術はもう無かった。