人面犬から市民を護れ!
「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしておりますね!」
丁度オレ達が帰る時間に美羽は休憩時間という事で、オレ達を見送るついでに店の外まで出て来た。いつもは厨房の両親に賄い飯を作って貰うが、たまに気分を変えて別の店の食事を買う事もあるらしい。今日はまだ何を食べるか決めていないとのことで、ウエイトレス衣装のまま周辺の商店を見てまわるそうだ。
「ああ勿論、また近い内に来る」
「今日も美味しかったって厨房の皆さんにも伝えておいてね!」
「……ごちそうさまでした」
そう言って店をあとにしようとした時、スタッフ用出入口であろう裏口付近に異様に大きな犬っぽい影が視界の端をちらついた。いつもならただの野良犬だろうと気にも留めないのだが、今調査している内容が内容なだけに、少し嫌な予感が胸を掠める。オレは何も言わず犬の影が見えた裏口の方へ歩み寄る。「アキラさん?」「何かあった?」と言いながらてねと光と美羽もオレの後を追う。
裏口は壁と壁の細い隙間にあり、他の建物の影になっている影響で昼間でもそこだけが薄暗い。スタッフ用出入口のすぐ目の前がゴミ捨て場になっていて、近付けば近付くほど色んなゴミの嫌な臭いが鼻につく。暗い、臭い、人通りが無い、いかにも害獣や害虫が寄り付きそうな場所だ。そんなオレの考えを読み取ったかの様に、害獣はまだそこに居た。ゴミ袋に鼻を擦り付け、今日の餌を探している最中であろう異様に大きな犬の背中が。なまじ犬だから耳が良いんだろう。オレが数歩近付いただけで、すぐに後ろを振り返った。其れはまだ記憶に新しい顔。昨晩オレを襲い、湊に蹴飛ばされた人面犬連中のリーダー格の大型犬だった。
「――――ッきゃああああああ!!」
誰よりも真っ先に悲鳴をあげたのは一番後ろから見ていた美羽だった。オレは既に一度見た顔だから其処まで驚きはしなかったが、矢張りそう簡単に見慣れるものでも無い。まだ日がある明るい場所で見ると、顔面の不釣り合いな気色悪さが際立って見える。光も、こんな仕事をしているから奇怪人という存在は見慣れているんだろう。少し驚いた風に体をびくつかせただけで、声は出さない。てねの方は、驚くどころか逆に昂奮した様子でカメラを手に取った。
「どうして……まだ夜じゃないのに……?!」
「確かに! でもこんな明るい内から本物の人面犬と遭遇とか超レア体験!写真いっぱい撮っておかなきゃ!」
光は人面犬そのものにビビっているというよりかは、戦闘要員が居ない状況で奇怪人に出会ってしまった事に焦っている様子だった。てねは一切空気を読まずにカメラのシャッターを押しまくっている。オレは兎も角後ろの3人から少しでも人面犬を遠ざけようと、3人を隠すように腕を広げた。
「お前、昨晩喰い損ねた人間か。自分から再び俺達の前に姿を現すとは殊勝な心掛けだ」
案の定、人面犬はオレに語り掛けて来た。昨晩の恨みもある事だろう、このままいけば真っ先に襲われるのは恐らくオレだ。
さて、どうするか。オレは見ての通り何の力も持たない一般市民。更に一般市民の美羽も居る。てねと光は奇怪人らしいが、戦闘能力は無いに等しいと昨晩言っていた。まずは今一番精神的ダメージを負っている美羽を安全な場所に避難させるべきだ。幸い、今のオレにはそれが容易に出来る。
「なら昨晩の追いかけっこの続きでもするか?ちゃんとオレの事を追いかけて来いよッ!」
声高らかに挑発すると、人面犬はオレの狙い通りオレの方をめがけて走り出した。オレも走り出すと同時に一番怯えている美羽に向かって声を張り上げた。
「美羽ッ! 店の中に戻れ、そして1人も店の外に出すなッ!」
「――アキラさん!」
「オレは大丈夫だから心配するなッ!!」
何て格好つけて言ったは良いものの、全速力で逃げる事以外の対策なんて全然考えちゃいない。だが思いっきり人目がある商店街だ、戦いは人目の無い夜の間に行うという奇怪人同士の暗黙のルールがあるなら、相手だってそんな無茶な事はしてこないはず……だよな?そういうもんじゃねぇの?
オレは後ろも振り返らず、ただ追いかけて来る足音だけで相手の存在を把握しながらがむしゃらにただ真っ直ぐに走り続ける。何人もの住人の視線が全身に刺さってくるのを感じるが、そんな事に構っている場合でも無い。挑発するだけして、あっさりと喰いつかれる様じゃ格好悪すぎる。だが相手はバイクの速度にだって追い付いてしまうような怪物だ。気合の全速力だけでは当然限界が来る。
「――――ッぐ、あ?!」
右脹脛に熱い痛みを覚え、その場で全身が崩れ落ちる。わざわざ見て確認しなくても解る。人面犬がオレの右脹脛に噛み付いているんだ。熱い痛みは秒ごとに深まっていく。歯がどんどん肉の深いところまで喰い込んでいる。痛みよりも恐怖が全身を駆け巡り、硬直して動けなくなる。生きたまま喰われる恐怖。嘘だろ、こいつ本気でこんな往来のど真ん中で……?!
――――バシッッ!!
瞬間、何かが勢いよく吹き飛ぶ音と共に人面犬の歯が脹脛から離された。音がした方に目をやると人面犬は右前足を失った状態で蹲っていた。
「ッッグ、あああぁあ……!! 貴様、怪人アンサー、か……!!」
「致命傷は与えられないけど、足止め程度ならボクだって出来る」
「光……サンキューな……っ」
「お礼は良いから、湊さんが駆けつけてくれるまで何とか此処で喰いとめないと!」
「ヒュー! 光、カッコいいぞー! 体の一部と言わず四肢全部頂いちゃえー!」
人面犬の前足を吹き飛ばした光と、だいぶ遅れててねが走って追い付いて来た。脹脛の噛みつかれた傷が結構深くて立ち上がるのも一苦労だが、痛みを言い訳にいつまでも倒れている場合では無い。幸いにも、がむしゃらに走り続けて辿り着いたのは殆ど人気のない静かな住宅街だった。此処でなら一般市民を巻き込まずに人面犬の退治が出来そうだ。湊がいつ気付いて駆けつけてくれるか解らないが、オレ達3人がかりなら犬が逃げないように抑えつけておく事くらいは出来る。
と、思っていた矢先に人面犬の体に異変が起こった。ただでさえ大きな体が、更に大きく膨らんでいる。そういえば、昨晩見た時よりも明らかに体が大きく育っている様な気がしていたがオレの見間違いでは無かったのか。
「湊……あの口裂け女の名だな?流石に俺も馬鹿じゃない、ただで2度も口裂け女に敗北してなるものか」
「何だよ……一晩のうちに口裂け女対策でもしたっていうのか?」
そういえば口裂け女には意外と弱点が多い。ポマードが嫌いで、犬が嫌いで、飴を投げられると食べずにはいられない。其れは吸血鬼と同じ原理で、人間が怪物を恐れる余り自分たちにも対策が取りやすい都合の良い弱点を作り出して安心しようとする。それほど現代日本人にとって口裂け女は脅威だったのだ。しかし、犬が嫌いな癖に人面犬の事は平気で蹴飛ばしていたんだから、湊にとっての弱点と口裂け女にとっての弱点は違うんじゃないだろうか。
「ククク……確かに我々一匹一匹の力は弱い……ならば分散している力を一所に集めれば良いだけの事……」
「まさか……喰い合ったのか、人面犬同士で……」
そうしている間にも、人面犬の体はどんどん膨張していき、やがてオレの背丈以上の巨大な獣に変化していった。此処まで来ると最早犬の原型は無い。ただの人面の毛むくじゃらの化け物だ。1つ欠けて3つ足になってはいるが鉤爪は異常に発達し、その一本一本が鎌のように鋭く歪んでいて、人間の肉体でしかないオレなら一度切り裂かれただけで絶命は免れないだろう。いや、それでも絶命はしないんだからもっと事態は深刻だ。
「まずは昨晩の人間、貴様から喰らってやるぞ!貴様を目の前で喰らってやればそこの女と子供も恐怖の余り俺に刃向かう気力も無くなるだろうさ!!」
「――――……ッ!」
矢張り最初の標的はオレか。いや、寧ろそれで良かった。奇怪人は奇怪人に致命傷を与えられれば消滅すると光は言っていた。だったら奇怪人からの攻撃を受け止めるなら一般市民のオレの方が適している。オレが死なない盾になっている間に湊が駆けつけてくれれば、それできっと何とかなる。オレはグッと強く瞼を閉じ、想像を絶する苦痛に耐える覚悟を固める。
「何してるんだよアキラ! そんなところで突っ立ってないで逃げないと!!」
「アキラさん、自分が標的になっている間はウチらに被害が及ばないから湊が駆けつけるまで1人で耐え抜くつもりなんだ……」
「そんな作戦無茶苦茶だ! いくら死なないからって、1人の人間が耐えきれる苦痛には限界がある!体は修復出来ても精神が耐え切れなかったら……!!」
「そっか、体の修復に精神の方が追い付かない場合もあるんだ。うーんそれはまずいね、どうしようか」
オレの後ろで光とてねが話している声が聞こえる。2人の反応の差はかなり意外性があった。年齢不相応に冷静沈着な光がオレの身を案じていて、一番一般的な感性を持っていそうなてねの方は異常に落ち着いていて余りオレの身を心配していなさそうに感じる。
何なんだろうか、この温度差は。奇怪人としての歴の差?つつじの宮で暮らしている日数の期間の差?もしオレの精神状態が正常のままこの場を切り抜ける事が出来たらその辺りの事もちゃんと聞いてみたいところだが、ああまずい、巨大人面犬の鉤爪がオレの首にかかった。次の瞬間意識が遠のくくらいの激痛に襲われるんだろう。完全に諦めの境地の中で、オレは自分の意識がどんどん薄らいでいくのを感じていた。草食動物は肉食動物に捕まった時点で自ら意識を失う事が出来る体質になっているらしい。多分オレも今そういう事をやっている。
それじゃあおやすみ。次に目が覚めた時は全部丸く収まっていると良いんだが。
―――グシャッッッブヂュ、ブシャアアアアア……ッ!!!
「グ、ギッ――――?!?! ギガ、ア"ア"ア"ア"アアアァアアアアアアア――――ッッ?!?!!!!」
いつまでもやって来ない激痛。その代わり耳に入ったのは脳が震えるほど喧しい男の絶叫と、肉が切り裂かれ大量の血が噴き出しているみたいな音と、錆びた鉄に似た血肉の臭い。オレの血か?でもその割には痛みも無いし何処かが切り裂かれた感じもしないぞ?もしかしたらまた湊がナイスなタイミングで駆けつけてくれたんだろうか。兎に角現状を把握するためにゆっくりと瞼を開けると、オレの足元に体から切り離された人面犬の首が転がっていた。転がって来た首には完全に生気が失われていたが、凄まじい苦痛を味わったまま絶命したであろうことが、苦悶の表情のまま固まった表情筋から見て取れる。
「………は? え?」
オレはまた土壇場で助かったのか……一瞬でこんな芸当が出来るのは恐らく湊くらいだろうと思い湊を姿を探そうとするが、何処を見回しても赤いコートの少女の姿は無い。見つけられたのはただひたすら呆然とした顔のまま硬直しているてねと、血の気の引いた顔とまるで恐ろしい殺人鬼を見るような目をオレに向けている光。
何で2人してそんな顔でオレを見ているんだ。光にいたっては人面犬を見た時よりもビビってるじゃねぇか。釈然としない気持ちで首から切り離された巨大な獣の体に目をやる。そしてオレは、2人の表情の意味を漸く理解した。
「………なんだ、これ………ッ?!」
地面の上に横たわった巨大な獣の体は、腹の肉が縦一直線に切り裂かれ、中の内臓が四方八方に飛び散っていた。ただ殺すだけなら首を切るだけで良い。だがこんな風にわざわざ腹を切り裂いて内臓を1つ1つ取り出してから殺すなんて、悪趣味なシリアルキラーがやりそうな殺し方だ。
酷い、誰がこんな事を……と言いたいところだが、てねと光から受ける痛いくらいの視線がオレに注がれている事から鑑みるに……
「オレ、なのか……?」
震える喉からそんな一言がぽろりと零れ落ちた。地面に向かって呟かれたその一言に応えてくれるものは、この場には誰も居ない。
活け造りにされた魚みたいな巨大人面犬のグロテスクな屍は、修復が追い付く筈も無く数分間死臭を撒き散らした末に跡形も無く消えていった。