終わりと始まりの夜、つつじの宮市にて
物書きとしての挑戦も兼ねてこちらの長編小説を書いてみる事にしました。
小説を書き始めた時からずっと温め続けてきたネタです。
色々とクセの強い内容になるかと思いますが、少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。
――20××年 4月1日 1人の男が死んだ。
その男の死は日本中に衝撃を与え、大々的に報道された。
そうして日本はまた、1つの時代を終えた。
“汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ“
ダンテ・アリギエーリ著『神曲 地獄篇第3歌』より
目が覚めるとオレは、見知らぬ街の路上に転がっていた。冗談で言っていると思われるかも知れないが、本当に「此処は何処?私は誰?」と言いたくなるような状況だった。オレには今自分が居る場所も、そして自分自身の事すら何も解らなかった。唐突に知らない街の路上なんかで目が覚めたから気が動転しているのかも知れない。そう思ってオレは重い体を起き上がらせると、もっと気が動転するような光景が目の前に広がっていた。
「―――――ッ?!」
ざっと数えて5匹くらいの犬が倒れていたオレを囲んでいた。大型犬、中型犬、小型犬、その犬種は様々だった。偶然にも野良犬の集会場にお邪魔してしまっていたのだろう。それだけならワンコ達に謝りつつ退散すれば良いだけの話だが、オレは目の前の犬たちに声も出せなくなる程の恐怖を感じた。
――犬に、人間の顔がついている……?!
「な……あッ、アアァアアア――――?!」
震える喉から漸く絞り出せた声は、自分の耳で聞いてもなんとも情けない叫び声だった。でも仕方ないだろ。警察犬みたいな大きくて細身の犬にも、若い女がペットとして飼っていそうな白くてふわふわした毛並みの犬にも、それよりももっと小さな子犬にも、どいつもこいつも犬の体には余りにも不釣り合いな中年男の顔のパーツがそのまま顔面に張り付けられていた。動揺しているオレの幻覚か、はたまた周りが薄暗くて何かと見間違えただけかも知れない。今この瞬間はまだそう思えた。だけど、目の前の光景が決して幻覚でも見間違いでも無い事を決定づける出来事が起こった。
「なんだこの人間、起きやがったぞ」
「眠っているままの方が食事するには楽だったんだが」
「まぁいい、コイツの悲鳴を聞きながら喰う肉も案外美味いかもしれねぇぞ」
―――人面犬が、人間の口で、人間の言葉で喋っ……!
今のは意識がハッキリしている状態で見たから間違いない。確かに、犬の顔に張り付けられた人間の口が動き、中年男の低い声で、オレの耳で聴いても理解出来る人間の言葉で話していた。しかも話の内容からして、オレの肉を喰おうとしている。
これで白黒ハッキリついた。こいつらは犬じゃ無い、人間でも無い、オレの理解の範疇を遥かに超えた化け物だ――!
「ちく、しょう……ッ! どけ! どきやがれツ!!」
此処は何処?私は誰?状態のまま怪物に喰い殺されるなんてまっぴらごめんだ!オレはがむしゃらに両腕を振るい、勢いよく立ち上がりその勢いのまま走り出す。何処に逃げるかなんて決めてないが、兎に角この場から立ち去れるのなら何処でも良い。だが動揺やら恐怖やらで足が上手く動かず、たった数歩走っただけでオレは躓いて再び路上に倒れ伏す事になった。当然の事ながら、腹をすかせた人面犬どもはまたしてもオレの体を囲み、人間の鼻を近付け人間の口で囁きかけて来る。
「無駄な足掻きを」
「馬鹿な人間め、何処に逃げようというんだ」
「まずは頭から頂くか」
「俺は耳から引き千切ってやるぜ」
終わった……人生終了……そんな言葉がオレの頭にゆっくりと浮かび上がる。恐怖に支配された四肢はもうぴくりとも動かない。そもそも人間の足で犬の走る速度に勝てるはずが無かった。本当に無駄な足掻きだった。気色悪い中年男の声と吐息が耳元まで近づいてくる。口が人間って事は歯も人間だよな?じゃあただ噛みつかれるだけならそんなに痛くないよな?いや、いっその事犬の歯でさっさと食いちぎられた方が楽なのかも知れない。完全に死を覚悟したオレは、最早そんな事しか考えられなかった。
でも、自分が何処の誰かすら解らないまま死ぬなんてそんなのって……どんだけツイてねぇんだよオレの人生………。
「―――ねぇ、」
瞼を閉じた真っ暗闇に閉ざされた世界の中、頭上から女の声が降りかかった。
通行人が助けに来てくれた?!こんなタイミングで?!逆にツイてるぞ、オレの人生!オレはすぐさま瞼を開けて、頭を上げた。だが頭上から降りかかったのは希望の光などでは無く、更にどす黒い恐怖の闇だという事を一瞬で察する事となった。
「私、キレイ――――?」
目の前の少女は真っ赤なコートを身に纏い、コートに負けない程強烈な紅色の髪の毛を風に靡かせている。今がどの季節なのかオレの頭ではそれすら解らないけれど、少女が着ているのは真冬の一番寒い時期に着るものと思われるくらい分厚い生地のコートだった。コートのサイズは女には些か大きすぎるのか、ボタンを一番上まで留めていると女の口元まで隠れてしまっている。
赤いコート、長い髪、口元を隠して夜の路上で「私、キレイ?」と聞いてくる女――その正体が何なのか、自分の事すら解らなくなっているオレですら瞬時に理解出来た。
「く、口裂け女ァッ?!」
「…………」
口裂け女は無様に路上で蹲っているオレを無感情な目で見下ろして来る。しまった、この質問の答え方はアウトな奴だったか?!何て答えれば良いんだっけ、えーっと……えーっと……駄目だ流石にそこまでは頭が回らねぇ!!
「お前、口裂け女……?!」
「チッ!何でこんな時に!」
恐らく日本の都市伝説史上最恐の怪物の登場に動揺しているのはオレだけでは無く、人面犬の連中も同じ様だった。口裂け女の視線がオレの方から、オレを囲んでいる人面犬達の方へ移る。その視線の動きには一切の感情が含まれておらず、ただひたすらに機械的な目の動きだった。
「……お前達、コイツを今から喰うところか?」
「ああそうだよ、テメェの餌はテメェで確保するんだな!いくら口裂け女が相手だからって折角ありつけた獲物をホイホイ譲る訳にはいかねぇ!」
「……そうか、なら―――」
―――ガンッッッ!!
口裂け女の声が途切れると同時にオレの右隣で何かが蹴飛ばされる音がした。音がした方に顔を向かせると、其処にはさっき目の前に立っていた筈の口裂け女が居た。右隣に居た筈の大型犬の人面犬はすぐ向かいの建物の壁に全身を強く殴打し、ぐったりとしたまま動かなくなってしまっている。
「―――私は今からお前達を殺す」
「な……ッ?!」
「やめようぜ!流石に相手が口裂け女だなんて分が悪すぎる……!」
あの大型犬がボスだったんだろう。ボスを一瞬の一撃で戦闘不能にされてしまい、中型犬と小型犬の子分は完全に委縮してしまっている。戦う前から降参と言わざる得ない程の圧力が口裂け女の全身から発せられていた。結果として助けられた側であるオレでさえ、氷みたいに冷たい彼女の声音を聞いているだけで背中がゾクッとする。
「チィッ、行くぞお前ら!」
「命拾いしたな、人間!」
まさに敗北したチームの子分と言った感じのお約束の台詞をオレに向かって吐き捨ててから、人面犬たちは数メートル先まで蹴飛ばされたボスの方へ走って行ってしまった。……何でオレはさっきまで人間の顔をしているだけの犬にあんなに恐怖していたんだろうか?とじわじわと冷静さを取り戻して来た頭で思い始めていた。自分への脅威を感じなくなった瞬間、人面犬という化け物では無く人の顔をしているだけの犬にしか思えなくなって来た。不思議なもんだ。それもこれも、突如として現れた口裂け女に助けて貰ったお蔭だ。
「逃げたか……私の脚なら追いかければ追い付くだろうが……今は……」
口裂け女は何やらぶつぶつと独り言を言っている。今の連中を追いかけて仕留めても良いが、今はオレの救助を優先すると判断してくれたんだろう。人間味の欠片も感じられない無表情さだが、案外優しいところもあるらしい。オレの口裂け女に対する警戒心が徐々に緩和していった。
「……あの、どうも有難う。お前が来なかったら危うくアイツらの餌にされているところだった」
オレはすっかり震えがおさまった脚に力を込めてゆっくりと立ち上がる。口裂け女は立ち上がったオレを何も言わずただ無表情で見上げて来た。
………えっ、小さ?!いやオレが大きいだけか?!
地面に蹲っている時はあんなに大きく見えていた口裂け女は、オレが立ち上がるとオレの胸元より下に頭が来るくらいの低身長だった。そう思ってよく見ると、顔立ちも「口裂け女」というより「口裂け少女」と言った方が正しいくらいの顔立ちだ。大人用のコートを子供が無理矢理着ているからコートがやたら大きく見えるし、口元どころか長い前髪で右目まで隠れている。しかし、顔の四分の一しか見えていないのにハッキリと美少女だと解るのは相当元の顔が良い証拠だろう。
「………何だ?」
「あ、いや、口裂け女なんて初めて見たからつい色々観察したくなっちゃって……気分悪くしたか?」
余りにもオレにじろじろ見られたから口裂け女が怒った……という訳でも無さそうか。その声にも顔にも怒りの感情が浮かんでいる様には見えない。先程、人面犬を相手にしていた時も一切の感情を持たずただ機械的に相手していた。もしかしたら彼女は人間では無く本当に機械なのかもしれないとさえ思える。最近のアンドロイド技術は馬鹿に出来ないから、そう思う方が何だかしっくる来てしまうな。
「えーっと、口裂け女さんは名前とかある……? オレは―――」
そう言いかけたまま口が動かない。しまった、オレは自分の名前すら思い出せない状況に陥っていたんだった。人面犬騒動から解放されてやっと気分が落ち着いて頃だというのに、オレは相変わらず何も解らない状態だ。
自分の名前すら思い出せないとか有り得ないだろ?と自分でも思うが、どんなに頭をひねってもやっぱり名前の最初の一文字すらちっとも思い浮かばないのだ。もしかしたら、目覚めた矢先あんなショッキングな出来事に巻き込まれてしまったから益々ドツボにはまって思い出せなくなってしまったのかも知れない。人面犬め、やっぱり許すまじ。
「っ……悪い、駄目だ……オレ完全に記憶喪失ってやつになっちまってる……! 自分の名前も、此処が何処なのかも、何であんなところで寝ていたのかもわからねぇんだ……ふざけてる訳じゃ無くてマジなんだけど、信じてくれるか?」
「………信じる」
「そっか! ありがとな!」
口裂け女(というより口裂け少女)はこくりと頭を上下させ頷いてくれた。なんか機械とか人形みたいでちょっと不気味だと思っていたけれど、とりあえず話は通じてくれるみたいで助かった。オレの余りにも必死過ぎて泣きそうな顔を見れば、機械や人形でも「可哀想なヤツ」って認識してくれたのだろう。
「放っておくと多分また死にかけるだろうから、私の本拠地に案内する。ついて来い」
「お、おう……何処に行けば良いのかすらわかんねぇから、とりあえずお前について行く事しか出来ねぇよ」
「それと「口裂け女さん」でも「お前」でも無く、私の名前は暮内 湊だ。湊と呼ぶと良い―――アキラ」
「………えっ?」
アキラ―――今、オレの事をそう呼んだのか?
目の前の少女こと、湊はさもオレの名前を最初っから知っていたみたいにごく普通の出来事の様にそう呼んだ。
不気味な程人気のない路地裏に一陣の風が吹き込む。湊の長い紅い髪が全て後方に流れ、激しく揺れるコートの隙間から口元が見え隠れする。右目を覆い隠していた前髪の下には分厚いガーゼと白いテーピングで更に右目を隠していた。少女の顔面の比率を大きく占める医療具の存在が、その怪我の痛々しさを一瞬で察せる程大きく主張している。しかし右目以上に目を引くのがやはりその口元だ。裂けている訳ではなかった。だが、治りかけの傷を無理矢理縫合してそのまま放置したみたいな不格好で一種グロテスクな傷痕は、彼女の陶磁器みたいな白い肌の上にはあまりにも目立つ。右目の怪我に加えて口元の傷痕、一体この子はどんな不幸な人生を歩んで来たんだ?などと余計な心配で頭がいっぱいになってしまう程に、彼女の顔面には強いインパクトがあった。
だが何よりも不可思議なのが、それほどまでに痛々しい傷が2つも存在しているにも関わらず、それでも尚「美少女だ」と思わせるほどの彼女の強い美しさだろう。