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メアリ(きずな)21

 リスサンチオでも雪が降るのだと、メアリは初めて知った。彼らは追手から逃れ、リスサンチオ帝国北部のハスバル地方に身を隠していた。暗い山小屋の中を、暖炉の炎が橙に照らす。外では吹雪が戸を叩く音が響いている。ヴィクイーンはオズの膝に座り、鹿の毛皮を膝に包んで談笑していた。メアリは凍った木の実を炉で溶かしながら、長い息を吐いた。

 ここに来るまでに、ヴィクイーンが一体何人を殺したのか、考えるのも恐ろしい数になった。これほどの罪を重ねながらも、一向に先の見えない深い闇に、今にも足を取られそうになっていた。気を抜けば、明日にも正気を保っている自信がない。歪みは確実に三人を蝕んでいた。

 一番初めに異変が現れたのは、オズだった。夜、眠れなくなったのだ。ヴィクイーンがいなくなるのを恐れるあまり、微睡を怖がるようになった。目の下に濃いクマを作り、今も僅かにふらつきながらヴィクイーンと会話をしている。

 次に変調をきたしたのは、ヴィクイーンだった。スープを飲みながら、「これ、味しないよ。変なの」と訴えた。味覚を失ってから、彼女は食事を嫌がるようになった。空腹も感じないのか、骨が浮き出るほどに痩せ細っても、中々食べ物を口にしてくれない。

 メアリは、胸の中に鬱屈が蔓延るようになった。何があっても無感動、何にも興味が湧かない、起き上がることさえ面倒だった。増え続ける犠牲を礎にして、生きていくことに意味があるのか。そんな問いが昼夜消えない。あと一滴でも憂鬱が溢れれば、今にも裸足で雪山に投身してしまいそうな、自分のものとは思えない衝動が足元で燻っていた。

 誰もが精神の病を抱えている中だったから、そのノックの音も幻聴だと思った。一度音が止み、礼儀正しいノックが二度、三度と続く。新手の刺客かと緊張を走らせ、オズはヴィクイーンを抱きかかえ、メアリは素早く扉近くに移動した。剣を構え、「どなたですか」と声を張り上げた。

「やあ、久しいね」帰ってきた声は、思いもよらぬものだった。「わたしだよ。コルネリエだ」

「先生?」

 メアリはオズと目配せを交わし、ドアを開けた。吹雪に吹かれ、髪や肩に粉雪を積もらせたコルネリエが、そこには立っていた。

「ハスバルは寒いな。南育ちにはきつい。君らはよく耐えているよ」

 旧知の友人に会ったような気さくな口ぶりで、コルネリエは笑う。「入ってもいいかい」と尋ねる声に、メアリは考える余裕もなく頷き、暖炉に歩み寄る背中にやっと、「どうして」と訊く。

「先生が困っている教え子に会いに来るのが、そんなにおかしいことかな」

 なんてことはないように、コルネリエは言ってオズとヴィクーンの隣に腰を下ろした。オズの顔を見ると、眉を下げて笑った。

「君、酷い顔だなあ。また一人で溜め込んでいるんだろう」

 温かな声音に、オズは湿った声で「……はい」と言った。

「ヴィクイーンも久しぶりだね。わたしのこと、覚えているかな。メアリとオズの言うことを、ちゃんと聞いていたかい?」

 コルネリエを見つめて首を傾げるヴィクイーンに、メアリが通訳をする。

「ヴィー、わたしたちの先生だよ。いい子にしてた? って訊いているの」

 メアリの言葉に、ヴィクイーンは満面の笑みで「うん!」と大きく頷いた。コルネリエも満足げに、「そうか、偉いな」と小さな頭を撫でた。ヴィクイーンも気持ちよさそうに、目を細めている。

 山羊のミルクを差し出すと、「ありがとう」と言って彼女は口を付け、ほっと白い息を吐いた。両手で椀をさすり、おもむろにコルネリエは言った。

「メアリとオズの望む道を歩ませてやりたかった。だけどさ、もう辛いだろう? 二人きりで抱え込むのは止めにしよう。皆で最善を考えるんだ」

 メアリもオズも呼吸を止めた。コルネリエは、大らかに笑う。

「君らの抱えるものを、私にも背負わせてくれよ」

 清涼とした風が、胸の澱みを浄化していくようだった。温かい感情が、溢れて止まらない。行き止まりの壁が崩れて、清潔な光が溢れる。

「先生、わたし……」

 コルネリエに縋り付こうと、メアリが腰を浮かせたとき、鮮血が舞った。

 視界が赤く染まる。生温かい液体が、顔面を汚した。

 師の体が倒れていく。疾風がその肉を切り裂いたのだと分かったのは、一拍遅れて、前髪を飛ばす風を受けたからだった。

 ヴィクイーンの目が鋭く光っていた。返り血を浴びたその表情は、悪魔と呼ぶに相応しい。

「ヴィーのくらしを、誰にも邪魔させない」

 メアリは弾かれたようにコルネリエの上体を抱き抱えた。ぐったりと自律を放棄した体は、冷たく重い。腹部が、衣服ごと大きく引き裂かれていた。そこから大量の熱い血液が湧き出でて、床の血溜りを大きくする。

「先生、嘘、嘘だよね……」

 膝からヴィクイーンを下ろし、オズも茫然と意識のない師に近寄る。彼の顔は絶望に染まっていたが、それを振り切るように両手を突き出し、血の吹き出す傷口に翳した。淡い光が溢れ出す。

「無理だよ、こんなに血が出てるのに」

 震える声でメアリが言うと、オズが涙を零しながら首を振った。

「駄目だ、諦めちゃ駄目だ」

 溢れる薄緑の光は、次第に大きくなっていく。メアリは恐怖をこらえて、オズの手に自分のものを重ねた。光は更に強くなる。眩しさに傷の断面は隠されたが、体の組織がゆっくりとほどけていき、その身を伸ばして互いき引き合っていくのが分かる。魔法の光に促され大きな傷口が修復されていく。永遠にも思えた時間が過ぎ去ると、光が収束していき、コルネリエの肌は引き攣れた跡が残るのみとなっていた。

「……どこか安全な場所に移動させないと」

 オズの声が、酷く掠れていた。

「……麓の医術師の所へ」

 自分の喉から発せられた声も、老婆のものと聞き紛うほど枯れている。

「行っちゃ駄目」

 二人を引き留めたのは、俯き立ち竦んだヴィクイーンだった。深く落ち込んでいるのか、それとも極度に殺気立っているのか判別がつかない。

「ヴィクイーン」真剣な声で、オズは言う。「すぐ戻るから。いい子で待てるね?」

 顔を伏せたまま、彼女は答えようとしなかった。

「先生」メアリはコルネリエの耳元で囁く。「転移魔法で麓まで下ります。行けますか?」

 師はぐったりとしたままだったが、微かに頷いて見せた。そしてヴィクイーンを残し、三人は光に包まれた。

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