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メアリ(きずな)20

 逃れようと真っ先に思いついた場所は、やはり平和な歳月を過ごしたあの洞窟だった。転移魔法で久方ぶりに帰った洞窟は、明かりもなく静まり返っていたが懐かしい匂いを纏っていた。メアリが岩肌に触れ、その記憶よりも低い温度にぱっと手を離すと、傍らでオズが息を呑んだ。

「待っていたぞ、コルネリエの弟子よ」

 聞き慣れない、しかし聞き覚えのあるざらついた声。ヴィクイーンがメアリの服をきゅっと握った。体を強ばらせて振り返ると、壁に寄り添うようにヘルゲ=フロム尊師が佇んでいた。その居住まいの自然さは達観を感じさせ、透けもしない体は彼が実体であることを示している。そして、彼の盾になるように四人の魔導師が立っていた。彼らはローブのフードを深く被り、口元すら表情が見えない。

 顎に貯えた豊かな髭を揺らしながら、尊師が口を開いた。

「悪魔を引き渡せば、汝らの命は助けよう。それが儂らにできる最大の譲歩じゃ」

 ヘルゲの言葉を引き金に、魔導師たちが戦闘態勢に入る。大鎌や短剣といった武器を具現化させて構える者、色とりどりの火花や蜘蛛の糸に似た美しい繊維を手の平から噴出させる者に分かれた。鋭い緊張が洞窟に走り、メアリはヴィクイーンを庇うように抱き寄せた。

 沈黙を押し退け、口を開いたのはオズだった。彼は一歩前に進み出ると、片手でヴィクイーンを隠して言う。

「その条件は呑めません。ヴィクイーンは僕らの家族です」

 家族、という響きに、メアリは一瞬窮状を忘れた。温かな懐かしさの中に重苦しい鉛を沈ませ、心が引き攣る苦々しさの中に褪せない憧憬を孕んだ、両価の言葉。命からがら逃れたのにも関わらず、また惹き寄せられる蛾誘灯。そして、自分たちのこの関係を家族と呼んでも良いのだという、清廉とした発見が胸を吹き渡った。その驚きは、メアリの中で凝り固まった葛藤を許し、傷を生み続けるしがらみを癒していく。

 その一瞬の気の緩みが、腕の力を弱めた。メアリの腕を解き、オズの体を掻い潜り、ヴィクイーンが前に飛び出す。

「メアとオズをいじめるな!」

 咆哮に似た幼い叫び。メアリが伸ばした手が宙を切る。オズが駆け出そうとして体勢を崩す。か細い体躯が魔導師に向かっていく。魔導師たちが武器を振り翳す。

 一陣の風が走った。

 気付いた瞬間には、全てが終わっていた。剣も盾も出すことさえできなかった。メアリとオズが呆然と目に映したのは、風の刃に体を幾重にも切断され、肉塊として横たわる尊師と魔導師の姿だった。

 血潮が盛大に飛び散っていた。メアリは自分の頬にも生温かいものを感じた。フードにその表情を隠していた魔導師も、無防備に素顔を晒して事切れている。尊師の双眸が虚ろに濁っていた。血溜りに散乱した四肢。体の正面をべったりと赤く染めたヴィクイーンが振り返る。その顔にはあどけない笑顔が浮かんでいた。

「メアとオズは、ヴィーが守ってあげる」

 メアリはその場に崩れ落ちた。オズは無言で立ち尽くす。ヴィクイーンが首を傾げ、二人の表情を覗き込んだ。

「どうしたの?」

 唇を震わせ、メアリは思った。何と言えば良い。不相応に強大な力を持ち過ぎた、この無垢な幼子に、どんな言葉を掛ければ良いのだ。

「駄目だよ」

 やっとのことで口から漏らした声は掠れていた。

「傷付けるようなことをするのは、駄目なの」

 きょとんとした顔は、血にまみれてさえいなければ、年相応の無邪気なものだった。

「変なの。いじめてきたのは、あっちなのに」

 小さな手が指差した骸は、噎せ返るほどの鉄の香りを放っている。

 オズが、黙ったまま歩き出した。血溜りに汚れるのも構わずに、肉塊の前に膝をつき、指を組んで祈りを捧げる。そのかんばせは蒼白で、酷い憔悴を浮かべていた。

 やがて彼は立ち上がり、弱々しい笑顔でヴィクイーンに歩み寄り、その頭を撫でた。

「僕らを守ってくれたんだ。ヴィーは優しいね」

「うん!」

 誇らしげにヴィクイーンは返事をし、乱暴に頬を拭う。

「でもね」諭すオズの声はあくまで穏やかだった。「ヴィーが人を殺すと、僕らは悲しい」

 メアリはヴィクイーンの汚れた手を握った。

「もう誰も殺さない。約束できるよね」

 縋るような問い掛けに、ヴィクイーンは小さく頷き、メアリの手をきゅっと握り返した。

 

 それから三人は、様々な場所を転々とした。人気の少ない場所をいくら選んでも、聖団や帝国からの刺客が現れ、転居を余儀なくされることの繰り返し。ヴィクイーンはメアリとオズの前で殺人を犯すことこそなくなったが、目を離してしばらくすると彼女は血液を付着させて姿を現し、辺りには死体が放置されているということが数知れずあった。

「誰にも迷惑を掛けずに、ひっそりと暮らしていきたいだけなのに」

 川辺で泣き崩れたメアリの肩を、オズは黙って引き寄せた。

 人を殺してはいけない。メアリやオズにとっては自明のことでも、ヴィクイーンにとっては違う。ましてや、こちらの命を本気で狙いにきている相手である。強大な力を手にしている彼女にとって、それを行使することでなぜ責められなければいけないのか分からないのだろう。幾多の言葉を掛けたところで、砂に水を注ぐように、染み込むことなく流れ出るだけだ。

 岩場を蛇行する川の水は澄み渡り、底に敷き詰められた色とりどりの小石の群れをきらきらと輝かせている。風が木々の梢を揺らすと、森全体が共鳴して歌を歌っているようだ。陽光が大地の日向を温め、柔らかな匂いを立ち上らせる。どうして平和に生きられないのかと、悲壮な嘆きが胸を衝いた。

 川面で反射した光を頬に映しながら、静かな表情でオズは言った。

「ヴィーの心に欠けたものがあるのなら、それを埋めてあげるのも僕らの役目なんだろう」

 彼の黒髪が風にそよぎ、白い首筋を無防備にする。彼の肩に頭を預け、メアリは木立の葉が踊るように揺れるのを眺めた。

「でも、わたしもヴィーのことを言えない」遠くを見つめる瞳から、新たな涙が零れ落ちる。「どんな悪いことをしてもいい、誰を傷つけてもいいから、あの子にだけは生きていて欲しい。そう思ってしまうの。わたしは最低最悪の人間だね」

 オズの手に力がこもる。横顔が痛ましく翳った。

「ヴィーを幸せにしたい。僕らの願いはそれだけなのに」

 瞼を閉じ、陽射しが透かした血管の赤さに目を眩ませながら、熱いため息を吐く。胸を覆う淀んだ重苦しさは、晴れる日を知らない。

「オズー! メアー!」

 元気な声が割って入る。ヴィクイーンが片手を上げて駆け寄ってきた。その手には、動かなくなったウサギが握られている。

「捕まえたんだ。晩ご飯に食べよう」

 そう言って無邪気に緩んだ笑顔の、頬に散った血液を手の平で拭き取って、メアリは小さな体を抱き締めた。

 この子は悪くない。念じるように、祈るように、メアリは心の中で何度も何度も呟いた。

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