メアリ(きずな)11
街は煙に飲まれ、血の匂いがした。地を低く這う呻き声が、怨嗟のように蔓延っていた。
コルネリエは路地に横臥した怪我人たちを、一人ずつ丁寧に手当して回ったので、通りを一本抜けるのに途方もない時間が掛かった。彼女はアリスバーグを征服するために来た帝国の兵士にも、同様の処置を行った。
彼女の治癒魔法は、若葉のような薄黄緑をしていた。血を流す傷口や、赤黒く腫れた内傷に手を翳し、己の手首から先を硝子で覆った。若草色に透き通った硝子は、太陽を反射してきらきらと光り、細かい粒子となって傷の上に降り注ぐ。すると、傷がぞわぞわと脈打ち、時間が巻き戻っていくように癒えていくのだった。
息のある者の手当てを一通り終えた頃、光の届かない細路地の前でコルネリエは足を止めた。闇に溶け込むように、四肢が投げ出され、その顔と胴には無造作に簾が掛けられている。コルネリエが悲しい瞳で簾を取り払うのを、メアリとオズは息を殺して見つめていた。
現れたのは、壮年の男だった。紫に近い唇がだらしなく開いており、乾いた涎が顎に白く残っている。その双眸は驚愕に見開かれたまま固まっており、眉は苦悶に歪んでいる。そして、太く頑健な首には大きな手で絞められた跡がくっきりと残っていた。
誰も何も言葉を発さなかった。
静かにコルネリエは男に簾を巻き付け、その遺体を肩に担ぎ上げた。街を背に森へ向かって歩き出すその背中に、二人の弟子は黙って付き従う。
小さく、メアリは呟いた。
「殺されるほど、恨まれていたのかな」
薄青の空に黄昏が垂れ込め始めていた。山際が金に光り、雲が紫の影を帯びている。つむじ風が砂塵を巻き上げ、喉を粉っぽさが刺した。
コルネリエの返答は、夜を待つ空気にどこか痛々しく響いた。
「それは、殺した相手しか分からないよ」
簾から染み出た体液が、コルネリエのローブを汚していく。濃い異臭が鼻を突く。眩暈がして、メアリは首を振った。
思い出すのは、ユウと過ごした日々だった。あの日常がずっと続けば、いつか、メアリがユウを殺すか、メアリがユウに殺されただろう、という漠然とした予感があった。
「先生は、殺してしまいたいほど、人を憎んだことある?」
コルネリエの息は上がっていた。汗が短い髪を濡らし、こめかみを伝って流れていく。
「あるよ」
彼女は前方から目を逸らさなかった。苦しげに一歩一歩進んでいく。
「そうなんだ」
「ちなみに、殺したこともある」
「えっ」
驚いて見上げても、コルネリエは表情一つ動かさずに、淡々と歩き続けていた。オズと顔を見合わせると、彼も目を丸くして瞬かせた。
「誰? どうして?」
勢い良くメアリが訊くと、コルネリエはふっと頬を緩めた。
「強盗に、恋人を殺されたから。家族と折り合いが悪くて、彼女と故郷を飛び出してから、すぐだった。その犯人を殺したんだ」
「でも、魔導師が復讐をしたら、悪魔に堕ちるんじゃ……」
以前教わった知識を尋ねれば、彼女はメアリと視線を合わせ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。犬歯が小さく口元に覗く。
「魔法を使っていないから、大丈夫。ナイフでこう、ひと突き」
メアリは戸惑いながらも、言葉を紡いだ。
「でもそれって、大尊師と一緒で凄いことなんじゃない?」
復讐に飲み込まれたが、鋼の意志で自我を取り戻し、聖団を開いたアルダ・アザロの逸話が脳裏をよぎる。
「うーん、思いとどまる方が、よっぽど凄いよ」
静かに落とされた苦笑が切なくて、メアリはきゅっと唇を引き結んだ。
森に入る頃には赤く燃え立つ夕映えに照らされて、樹木が黒々とした影を大地に伸ばしていた。樹冠に巣を作る鳥の囀りや羽ばたきは奥に進むにつれ聞こえなくなり、代わりに虫の音や葉擦れが静寂に溶けて、重厚な空気を作り出していた。
しばらく歩いた先の大樹の前で、コルネリエは足を止めた。幹に背を寝かせるように、ゆっくりと遺体を下ろす。
彼女の荒い息が大気を揺らす。脈打つ鼓動さえ聞こえてきそうだった。
コルネリエは無言で瞼を閉じた。その唇が音を乗せずに何かを唱えると、遺体付近の地面から、植物の芽が頭を出した。
新芽は宵闇を纏い始めた森の中で透明にきらきらと輝いた。それは硝子の植物だった。いくつもの美しい芽が土を割って芽吹き、葉を開かせ茎を伸ばし、蕾を結んでいく。夕陽の紅がほころんでいく花弁を鮮やかに染め上げていく。瞬く間に、遺体を覆い尽くすほどの硝子花の群れが現れ、風にそよそよ揺れて煌めきを放った。
コルネリエが、胸の前で指を組んだ。メアリとオズもそれに倣う。すると、ぴちゃん、と澄んだ雫の音が森閑とした空気に響き渡り、まるで大地が水面に変わったように、遺体が波紋を広げながら地中へと吸い込まれていった。
幻想的な光景だった。遺体が沈みきった後に残されたのは、満開の透明な花だけだった。木々の合間を縫って差し込む、茜色が眩く硝子の縁を照らしていた。
オズが小さくメアリに耳打ちした。聞き取ると、メアリは祈り続ける師へと遠慮がちに問い掛けた。
「オズが、後悔しているかって聞いてるよ」
祈りを途切れさせることなく、穏やかにコルネリエは言葉を紡いだ。
「うん、そりゃね、後悔はしてますよ。だけど、もう一度やり直せるとしたって、やっぱり犯人を殺すと思う」
その声に葛藤はなかった。何度も深く悩み抜き、嘆き憤り、自責し、虚無に打ちひしがれた後の凪が、彼女からは漂っていた。
「彼女を殺した人間が平然と生き長らえるのが許せなかった。殺しても彼女は帰ってこないし、彼女はきっと復讐なんて望まないだろうけど、私には殺すか狂うしか道がなかった」
コルネリエは振り返り、弟子を見つめた。夕焼け空を背負った彼女は、どこか心許なく、泣きそうに見えた。
「頼りない先生で、ごめんね」
オズとメアリは、静かに師へと歩み寄った。両脇から彼女に寄り添い、その汚れた手に自分のものを絡めた。
コルネリエの手の平は熱く、燃え立つ夕空に染められてしまったようだった。彼女の肩が震えていた。
「私の生まれた村ではね、縁が深い人は前世からの繋がりがあるって信じられていたの。そして、今世で縁が深いと、来世でもきっと出会えるはずだって」
目を焼くほどの夕陽に掻き消されそうりなりながら、潤んだ声が言う。
「だからずっと、来世で彼女と会えることだけが私の救いだった。でもね、今は大切な教え子が、私の生きる理由だよ」
応えるべき言葉を、メアリもオズも持たなかった。代わりに、繋いだ手に願いを託して力を込める。夜の帷が三人の存在を完全に覆い隠すまで、固く繋いだ手をほどく者はいなかった。




