フェレ(しんじて)16
気付けば、宿に戻っていた。奇妙な感覚だった。頑丈な床に立っているはずなのに、まるで大波に揺られているようだった。ふと隣を見ると、キュカも困惑して立ち竦んでいた。翠玉の瞳と視線が絡む。フェレとキュカの胸を真っ直ぐに、金色の糸に似た光が繋いでいた。
「そうか……お前達は……」
低い声に振り向くと、ユルク聖導師の瞳が悲しい色をたたえていた。彼の顔色は淀み、一気に老け込んだように感じられた。
「いがみ合う絆を恐れたが、こうも容易く惹かれ合うとは……」
隣でキュカが息を呑む気配があった。
「絆断ちをする」
重苦しく響いた声に、フェレが首を傾げた。
「絆……断ち……?」
「待ってください、わたしとフェレが絆を結んだなんて、そんな、何かの間違いです!」
悲鳴に近い声でキュカが捲し立てた。
「だって、わたしは誰との絆も必要としていないのに! そんな心、とっくの昔に捨てたはずなのに!」
「お前たちの胸を繋ぐ金の光を見ろ。それが、揺るぎようのない証拠だ」
ユルクの言葉に、キュカは光を掻き消すように手を振った。輝きは空に霧散していく。
「絆断ちとは、何ですか」
フェレは師を仰ぎ、尋ねた。彼は深く溜め息をつき、重い口を開いた。
「相互に強い思いを抱いた時、その二人は絆で結ばれる。しかし、魔導師として生きるならば、孤独を貫かねばならない。選べ。絆を断つか、魔法を捨てるか」
「そんな……」
息を詰まらせ、フェレは呟く。
「それってつまり、キュカへの想いか、魔法に関する記憶の全て、どちらを手放すか選べということですよね……?」
誰も答えなかった。沈黙が辺りを支配する。重苦しさに耐えきれず、フェレはその場にへたり込んだ。
部屋の外では、人の往来の気配がある。時おり、楽しげな笑い声が聞こえるのが苦しかった。緊張を破って音を発したのはキュカだった。
「分かりました。絆を断ちます」
弾かれたように、フェレはキュカを見上げて叫んだ。
「どうして!二人で築いたものに、意味なんてなかったの?」
キュカの反論も獣じみていた。
「そうだ!前に進むことに比べたら、大したことじゃない!そうでなければ、の何の為に痛みに耐え、何のために誓いを立てたんだ!」
感情が一気に溢れ出し、フェレは顔を覆い俯いた。どんなに声を殺しても、抑えきれない嗚咽が涙と共に零れて止まらなかった。キュカの声音に困憊が滲んだ。
「泣くな。あんたは強い。絆なんかなくたって生きていける」
わななく口元と胸の痙攣を押して、必死に声を振り絞る。
「そんな事言ったって、感情が勝手に溢れて止まらないんだもの、仕方ないでしょう。この思いも消してしまうべきだなんて、そんなのってあんまりだよ」
「じゃあ、魔導師の道を諦めるのか」
厳しい問い掛けに、思いが揺らいだ。
「できないよ……」
誰も何も発さなかった。感情が暴れて、冷静に思考することなどできそうになかった。それでも、胸の内に渦巻く濁流に手を掻き入れ、やっと掴み取った決断は苦渋に塗れていて、握った手が焼き付いた。
「わたし、キュカを忘れたくない。この想いが色褪せたとしても。絆を断つわ」




