フェレ(しんじて)09
キュカが目を瞠り、手を出しかけて引っ込めた。彼女の逡巡が表情に浮かび、滲む。
女の声がだんだんと大きくなってきた。
「欲が全ての悪の根源なのです。他者からの承認を求める、快楽を欲する、裕福な暮らしを夢見る、それらは全て大罪です」
それにつれて声援と楽器の音も激しくなる。
「捨てる心が魂の位を高めます。今の己に不満があるなら、それは全て自らの穢れが原因です。欲を捨て、身を清めねばなりません」
香から薄紫の煙が立ち上り、暴力的な甘い匂いで思考を奪っていく。込み上げる恐怖に、フェレは小さく身を震わせた。女の太い声が響き渡る。
「さあ、清き魂を秘めている者たちよ、この場でそれを証明するのです!」
すると、聴衆たちは雨に濡れた地面に膝をつき、自らの衣服をほどいて女の立つ絨毯を不格好にも編んでゆく。後方に立つ者たちは、食べ物や硬貨などを絨毯に向かって投げ込んでゆく。その異様な後継に、キュカは息を呑み、フェレは後ずさった。
熱狂の中、女が両手に香を持ち上げた。顔の周囲に煙を纏わせ、背を反らせ空を仰ぐ。
「いけない」
キュカが囁いた。
女の巨体がぐらりと揺れる。香が絨毯にこぼれ雨に消えるのと、彼女が前のめりに崩れ落ちるのが同時だった。すると、キュカの袖から素早く樹根が伸び、女の体が地面に打ち付けられる前に支え上げる。
ざわめきが広がるより先に、キュカが飛び出した。女の体を素早く仰向けに返し、喉元に手を添え治癒魔法を発動する。
その淡い浅葱色の光に、怒号が放たれた。
「穢らわしい魔導師め! その方に触れるな!」
「神聖な場に土足で立ち入るんじゃない! 早く降りなさい!」
罵声と小石がキュカを中心に飛び交った。俯く彼女から血が滴ったのが目に映った時、フェレは夢中で渦中に躍り出ていた。喉が裂けるほどに叫んだ。
「あなたたちに、人の血は流れているの! キュカを見て! 破れた肌から流れる赤い血を! それでもあなたは自分が善良な人間だと言えるのか!」
フェレは最前列の痩せこけた男を指さした。
「あなたのことを言っています!」
大柄な男に隠れた背の低い女が目を見開く。
「あなたも!」
若い男たちの中心で大きく口を開けていた男が表情を強ばらせた。
「あなたも!」
絨毯の端が燃え上がった。青い炎に包まれながら、キュカは淡々と治療を行う。乱れた息で、フェレは一気に言った。
「あなたたちの顔、一人残らず絶対に忘れませんから」
沈黙が落ちた。誰もが、何を言うべきか分かっていないようだった。そわそわと顔を見合わせる者も、気詰まりに俯く者もいた。静寂を破ったのは、キュカの声だった。
「炎を収めろ。あんたは自分を律することを学ばなければいけない」
「キュカ……」
呆然と声の方を向くと、治療を終えたらしきキュカが炎を挟んで立っていた。
「わたしが、間違っていたの……?」
眉一つ動かさず、彼女は言った。
「間違っていようがいまいが、人を傷付ける魔法は出すべきじゃない」
答えを継げず、フェレは黙って頷いた。燃え盛っていた炎が、雨に打たれて萎んでいく。
「帰るぞ」
路地を歩き出した背中を追いかける。時折り後頭部や背筋に石が投げられたが、罵声が飛ぶことはなかった。
暗がりを進むと、先ほどキュカが助けた痩せた女が、家の壁に背を預け眠っていた。雨の滴る幸せそうな寝顔に胸が詰まり、フェレは顔を覆った。
「わたし、魔導師になれないと思う」
揺れる声に、キュカが足を止めた。
「だから、そう言っただろう」
「キュカは、魔導師になれてよかったと思う?」
返答がなかった。雨がだんだんと強くなる。ぬかるんだ地面を雨粒がばしゃばしゃと弾く音が響いた。両手を外してキュカを見つめると、濡れた翡翠の双眸が虚空に縫い止められていた。
「よかったなんて、思うわけないじゃない」
無防備な声が、雨音に紛れて落とされた。
「魔法なんて欲しくなかった。魔導師なんて大嫌いだ。選べるのなら、普通に生きていきたかった」
キュカの顔が伏せられた。フェレにはそのフードの奥に、涙が伝っているのかは分からなかった。
「違う生き方ができるフェレが羨ましいよ」
か細い声だった。フェレは、果たして自分が正しく聞き取れたのか自信がなかった。
キュカが踵を返し、歩き出した。その姿が小さくなる頃、ようやくフェレも足を踏み出すことができた。
路地を抜けると、人の流れを滞らせながら、ユルク聖導師とキュカがフェレを待っていた。フェレは胸を張り、ローブの表面を濡らして佇むユルクと向き合った。
「わたしを、弟子にしてください」
キュカが舌打ちを放った。けれど、フェレは聖導師から視線を離さなかった。
「魔導師になりたい。なります」
ユルクは鷹揚に頷いた。
「お前は良い魔導師になる」
その言葉に、フェレは全身の強ばりが解けていくのを感じた。
「どうして……そんなことを言えるのですか?」
不安だった。覚悟を決めた後も、本当にこれで間違っていなかったのか疑念が拭えなかった。しかし、ユルク聖導師は灰色の瞳を細め、はっきりとした口調で言い切った。
「師である俺がお前を信じなくて、誰がお前を信じられるというんだ」
光のような言葉だった。誰からも信じてもらえなかった日々を、自分でさえ自分を信じられなくなりそうだった日々を、その言葉は優しく照らし出し、記憶を覆う氷を温かく溶かした。
「これからよろしくお願いします、師匠」
紡いだ声は不格好に震えたが、顔は自然とほころんだ。この人の元でなら、孤独に身を捧げるのも怖くないとさえ、思えた。




