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フェレ(しんじて)08

 霧雨が更に細かくなっていくと、まるで水中を歩いているような気分になる。全身の肌がしっとりと潤っていく不快さに、フェレは手の甲で首を拭った。先を行くキュカを今度こそは見失わないよう、極力その後ろ姿から目を離さないでいたが、どうしてか出会った頃より、その背中が小さく頼りなく見えた。不安な思いが喉元に込み上げ、フェレは「ねえ」と声を掛けた。

「どうしてキュカは、この先一生孤独でいなくちゃいけないなんてことに、耐えられるの?」

 振り向く動作もなく、掠れた答えが投げられた。

「弱い者を救うには、強い力を手に入れる必要があったからだ」

「後悔してない?」

 彼女の声音には、何を当然のことを訊くのだという苛立ちがあった。

「後悔するかしないかは、自分の行動次第だ。自分の決断を殺さないための道を進み続けるだけだろう」

 正論を突きつけられ、自分が大きな間違いを犯してしまったような気になり、フェレは口を噤んだ。するとキュカが畳み掛ける。

「あんたはどうなんだ。どうせ、大した覚悟もなく、魔法を手にしてしまったからという理由だけで魔導師になろうとしているのだろう。やめておけ。生半可な意志では魔法に押し潰されるぞ」

「どうして決めつけるの。あなたにはわたしの思いなんて、分からないじゃない」

「ああ、なよなよした話し方すんな。もっとしっかりしろよ。鬱陶しい」

 先ほどの光景が美しかっただけに、裏切られたような思いが胸の中に広がった。

「あなたこそ、乱暴な話し方じゃない。直した方がいいと思うけれど」

フェレが言い返すと、キュカはふん、と鼻を鳴らした。

「言うことだけは一人前だな」

 反論しようと口を開きかけたとき、路地の先で太鼓が、どん……どん……鳴るのが聞こえた。耳を澄ませば、太鼓の合間に鈴のしゃん、という細い音が交じっているのが分かる。

「何、この音……」

 フェレが訝しんでいると、何やら甘い香りが漂ってきた。それは、林檎を蜜で狐色になるまで煮詰めた、甘露煮の香りだった。その芳香が鼻孔に満ちると、フェレは自然と顔が綻んでいくのを感じた。

「この匂い、きっとチュロだよ。わたし、前に買ってもらって食べたことがあるの。キュカ、お金もってる?久しぶりに食べてみたいなあ」

 言いながら、足が小走りになっていく。甘い匂いに頭がくらくらして、ふわふわと浮かれた気分になる。

「おい、あまり嗅ぐな」

 キュカの静止も聞かずにフェレは走り出した。路地の奥へ進むにつれて、匂いがより濃くなっていく。けれど、フェレはふと違和感を覚えた。この甘い香りには果実の酸味が微塵もなく、どこかハーブのような清涼感を纏っている。これは本当にチュロの屋台なのか、という疑問は、しかし芳香の甘美な暴力性に打ち砕かれていく。匂いの源が何だって良かった。ただ、永遠にこの幸福感を届けてくれる香りに満たされていたかった。

 路地の先に細い光が見えてきて、それが段々と大きくなりフェレは路地を抜けた。途端、喧騒と曇天の光に包まれた体へ衝撃が走った。

「フェレ!」

後方で、キュカの怒鳴り声が響いた。けれど、フェレは振り向くこともできなかった。なぜなら、胴を大きな樹根で雁字搦めにされていたからだ。ぎりぎりと肌に食い込むそれに、フェレは顔を顰めた。息を荒らしたキュカが追い付き隣に並ぶと、彼女のローブの袖から何本もの樹根が伸びてフェレへと巻きついているのが分かった。

 不意に拘束が消え去り、フェレは地面に崩れ落ちた。その衝撃で、頭の芯がずきりと痛む。そして、むせ返る甘い香りに吐き気が込み上げた。思わず口元を抑えたフェレのこめかみに、響くような痛みが走った。

「え?」

 顔を上げると、そこは演説会場のようだった。路面に綿で編まれた絨毯が敷かれ、その上には首と腹に贅肉を蓄えた女性が仁王立ちになっている。その両隣に香が焚かれ、甘い香りが立ち上っている。絨毯を囲む大勢の観衆は、その手に小振りの太鼓や鈴を持って打ち鳴らしている。

痛みが走ったこめかみに手を当てると、雨に交じって血が付着した。首を傾げていると、次は額に衝撃が襲った。

 眇めた目を開くと、小石が転がるのが見え、石を投げられたのだと分かった。

「なに……」

 全身に突き刺さる睥睨する視線に、思わず肌が粟立つ。絨毯に立つ女、それを囲む観客全てがフェレを睨み付けていた。肥えた女が傍らの壷を抱えあげ、フェレに向けて勢いよく塩のような粉を撒いた。粗い粒子が頬を叩く。女は大きく口を開けた。

「その汚れた手を退けよ!」

 怒鳴られ、フェレはぱっと自分の手を胸の前で握り込んだ。どうやら、指先が絨毯に触れてしまっていたようだった。

 理解すると同時に、かっと頭に血が上った。色褪せた糸で編まれたその絨毯は、雨降る地面の上に直接敷かれており、お世辞にも清潔とは言い難い。それにも関わらずフェレを汚いと罵ったのは、もはや清濁の問題ではなく、フェレの存在そのものを穢れとして扱った証拠だと分かってしまったのだ。

 興奮したまま立ち上がり、口を開きかけたフェレの肩を、キュカが押さえた。

「やめておけ」

 こめかみから血が垂れ、頬に流れる感触がある。

「この屈辱に、ただ黙って耐えろと言うの」

「あんたは魔法が使えるんだ。同じ立場でない者と対等な喧嘩などできないだろう」

 周囲に喧騒が戻っていく。舞台の女が張り上げる声、太鼓や鈴の音。

「魔導師だって、人でしょう」

 声に出しながら、酷く悲しい思いが溢れた。キュカが手を離した。

「人ならざる力を手にした存在を、人とは呼べまい」

 まるで死刑宣告のようだ、とフェレは思った。もしくは、あなたはもう死んでいる、幽霊なのだと教えられたような。

 フェレはぐっと両手を握り、唇を引き結んで、静かに片足を踏み出した。地面についた爪先で、音もなく絨毯の端を踏む。

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