フェレ(しんじて)06
繋いだ手は冷たく、幾筋もの雨粒が伝った。フェレの手が滑り抜けないように力を込めながらも、痛みを感じさせない配慮を感じる加減に、フェレは頬を緩めた。
「どうして、都にいるのでしょう」
問い掛けると、喧騒の狭間、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
「お前が都へ向かうと言ったのだろう」
「わたしは特別な理由があったわけではないのです。都へ行けば選べる道が多いかなと……。あなた達の旅の目的地もこちらだったのですね」
「目的地などない。人を救うという目的があるだけだ。魔導師を必要としている者は至るところにいるものだ。お前のように」
言われ、フェレは自分が魔導師になるか否のかの岐路に立っていることを思い出し、口を噤んだ。大通りを北へ進んでいくと、香辛料を絡めた料理の香りが漂ってくる。道端に輪になって座り込み、賭け事をする柄の悪い男達が咆哮をあげた。カードと札束が宙を舞う。
辻風が吹き抜け、砂埃が立ち上る。布屋の娘が、風に流されそうになる薄布へ手を伸ばした。雨雲を透かした陽光が砂塵と繊維に反射し、きらきらと輝かせる。
フェレは細かい雨で濡れた唇を開いた。
「あなたは何故、魔導師になったのですか?」
返ってきた答えは酷く単調だった。
「他に道がなかったからだ。湧きあがる憎悪も魔法も、自分でどうにかできるものではなかった。運が悪かった」
フードで陰った目元を瞬かせ、フェレは言った。
「運って、それだけの理由で、一生の孤独を受け入れたのですか?」
「違う。俺は、俺の人生や運命と正面から向き合い、受け入れたのだ。浅慮ではないし、後悔もない」
奥歯を噛みしめ、フェレは思った。ユルクが語った受容は、フェレとは縁遠いものだった。フェレの中にはいつまでも怒りと悲しみが渦巻いて、残り火のように煙っていた。
どうして、誰も自分を信じてくれなかったのか。他者と異なるということは、それほどに罪深いことなのか。他者が穏やかで平和な日常を編んでいる傍らで、理不尽に負わされた運命に、どうして翻弄されなければいけないのだろう。
「人を導くのは、良い気分ですか」
苛立ち紛れに問うた声は、自分が予想していたよりも刺々しく響いた。ユルクはしばらく口を噤んで、何か思案をしているようだった。雨と雑踏が沈黙を埋めてくれた。
「迷ってばかりだ。正しき道など分からぬ、自分一人さえ導き難い。他人の生を引き受けるなど、血反吐を吐くような思いだ」
一言一言を選り抜くような慎重さでユルクは告げた。
「ただ、他者の必死の生に寄り添い、その輝きの片鱗に触れることができるのは、何物にも替え難い喜びだ」
不意に羞恥が込み上げ、顔がかっと火照った。ユルクの真摯な回答に、フェレは自分の八つ当たりの幼稚さがはっきりと浮かび上がるのを感じ、唇を噛んだ。雨が運んだ大気の香りが、口内にじんわりと広がる。
「わたしも誰かの力になれるのでしょうか」
幼い精神のまま、痛みから逃げ出してきた。その孤独と苦しみに意味を付けて愛おしむには傷口がまだ生々しく、失った無邪気さと人を信じる心が惜しかった。できるならば、こんな思いなどしたくなかった。痛みに価値があると認めてしまえば、理不尽に負わされた不条理を肯定してしまう気がした。それでも、願った。
「わたしはわたしを救って、同じように苦しむ誰かを援けられるでしょうか」
傷付けられたまま、押し寄せる痛みから心を庇い蹲り続ける人生など、まっぴらだった。
雨の勢いも弱まってきた頃、ユルクがフェレに問い掛けた。
「この奇妙な紋様は何だ? 店の開設証か何かなのか?」
フェレは辺りを見渡し、ああ、と小さく嘆息した。それは店先に掲げてある布や板に絵が描かれたものだった。黒く太い線で楕円が描かれ、その中に幾重にも正円が連なり、中心が黒く塗り潰されている。白と黒だけの単純なものから、鮮やか色を散らばめたものまで、様々な種類がある。
「あれは、目を象っているのです。一種の魔除けですよ」
フェレは母から教わった記憶を頼りに語った。
「わたしの村でも収穫祭の時などに掲げていました。アレイゼンでは、人の多く集まる場所には災厄が集まりやすいと考えられていたので、大事な場所には魔が入り込まないように見張る『目』を置くのです」
「呪いのようなものか」
「ええ。あと、集まった人への牽制の意味もあるみたいですね。見られているんだから、羽目を外し過ぎるなよって」
ふむ、とユルクが声を低めた。
「人の集まる場所には魔も集まるとは、言い得て妙だな」
彼はフェレの手を引き、細路地に滑り込んだ。陽の射さない暗がりと、不潔な悪臭に思わずフェレは眉をしかめた。
「え、あの……」
戸惑うフェレの手を離し、ユルク聖導師はそっとフェレの背を押し、路地の奥へと導いた。振り向くと、明るい大通りを背負った彼は逆光の中、目を細めて言った。
「行ってこい。キュカが、魔導師とは何たるかを教えてくれるだろう」
恐ろしかった。選択を迫られているのも、知る前には戻れなくなるのも。けれど、傷を負ったからといって、前に進むことを諦める人間にはなりたくなかった。人生を襲った理不尽に屈し、未来を捨ててしまいたくはなかったのだ。
フェレはゆっくりと体を反した。暗がりに向け、路地を歩き出す。水捌けの悪い土は雨を吸って撥ね、フェレの長靴を容赦なく汚した。
進むにつれ、腐臭がどんどん濃くなっていく。路地の奥からは、野良犬の吠える声が響いてきた。人と暮らす犬の持つ穏やかさや親密さをなくした、獰猛な獣の咆哮だった。
怯えに足が竦んだ。しかし、遠目にぐったりと地面に横たわる女と、それを介抱する少女の姿に勇気を奮い立たせ、駆け寄った。
少女のあざ黒い肌と、翡翠の瞳に見覚えがあった。蒼白な顔の中年女性の喉元に片手を掲げ、治癒魔法を施しているのがキュカだった。彼女のすぐ後ろで、縄張りを主張するように、野犬がけたたましく吠え続けていた。
「キュカ!」
高く叫ぶと、牙を剥いた犬がこちらへ突進してきた。頭に血が上り、恐れは微塵も感じなかった。左手の平が焼けるように発熱した。不思議とその痛みが心地よい。
左手を振り翳すと、指先から甲までがぼうっと青い炎に包まれた。その光と熱に、野犬が怯み足を止める。足を踏み出し、炎を犬の鼻先に掲げると、か細い悲鳴を上げて野犬は走り去っていった。
その後ろ姿を見届けると、ふっと緊張が解け、煙に巻かれるように炎が立ち消えた。
「キュカ、大丈夫?」
フェレはキュカの隣にしゃがみ込んだ。問い掛けに応えることなく、真剣な表情でキュカは女に向き合っている。




