ベラ(つるぎ)01
その昔、稀代の悪魔が出現し、強大な帝国を滅ぼした。
夥しい血が大地を濡らし、海を黒く染め、数多の嘆きが虚空を裂いた。破壊と混沌の果て、若き二人の魔導師が、その魂を以て悪魔を封じた。死の間際、二人は予言を残した。
「大災厄が復活する時、我らもまた再来し、世に平穏をもたらすだろう」
千年の時を経て、伝説の悪魔が再誕した。次々に都市が消されていく。救済の魔導師は、まだ現れない。
海沿いの道を、長身の娘が一人歩いていた。肩の上で揺れる短髪は、真昼の太陽のような金色で、揃いの色の丸い双眸は、緩やかに凪ぐ海をまんべんなく映し取るために、せわしなく動いていた。
「この波は、一体どこから来るのだろう。どうして川は無色なのに、海は青く見えるのだろう」
ベラは海を初めて見るわけではなかった。しかし彼女の故郷は、短い春を除いた一年を雪に閉ざされる極寒の地で、彼女の知る海は厚い氷の広がりだった。優しく波打つ海面を、いままで彼女は知らなかったのだ。
千年の時を越え再来した大災厄の始まりとなったエグタニカ王国は、実に穏やかな土地だった。暖かい陽気の過ごしやすい気候、大地に繁る豊かな緑、遠く透明な青い海。傷が癒えないのは、人とその文明だけだった。
七年前の悪魔の襲撃によって、多くの人々が身近な者を失った。海沿いの商業地区は復興の様相を見せているが、旧王都近郊は移り住んで行った者達が残した倒壊した家屋があちこちで雨風にさらされていた。
彼女がこの国にやってきてから、まだ二月も経ってはいなかったが、ベラはこの歪な土地を愛し始めていた。痛みを抱えた人達は、悲しみに後ろ髪を引かれながら、日常を紡ぎだそうと努力している。その姿を、美しいと思った。
その時、一陣の風がベラの金髪を揺らした。塩辛くどこか生臭い、生と死の境のような香りが、彼女の頬を撫でる。ふと目の前が陰り、ベラは思わず足を止めた。
「え……」
唐突に、若い男が立ちはだかった。銀色に波打つ髪は長く、紫と緑が入り混じった双眸が異様にぎらついている。細身はぼろ布のような衣に包まれ、裸のまま地面を噛んだ足が土に汚れていた。彼の薄い唇が三日月を描いた。
「久しぶりだね、ディクソール」
呆気に取られていたベラは、首を傾げた。
「人違いじゃないですか? あたしはそんな名前じゃないし、あなたのことも知りません」
「君はディクソールだよ。僕が覚えてる」
笑みを含んだ声に、ベラは身を強ばらせた。
「会いたかったよ。今度は女の子になったんだね、可愛い」
男はベラに手を伸ばし、爪で彼女の顔の輪郭をなぞった。その冷たい感覚に思わずベラが後ずさると、強い圧迫感が彼女を襲った。
息ができない。一拍遅れて痛みが訪れる。固い壁に押さえ付けられているような感覚。気付けば、首を絞められていた。
男の指が肌に喰い込む。足先が宙に浮いた。ベラは喉を掴んだその手を掻き毟りながら喘いだが、彼女の苦痛はなんの音もなさなかった。
「ずっとこうしたかった」恍惚として男は言った。「ディクソール、君を殺す日を待ち望んでいた」
ベラは身体から力が抜けていくのを感じた。手足が痺れ、意識が白む。
そんな彼女を叩き起すように、鋭い声がその場を割った。
「手を離せ、ヴィクイーン!」
幼い声音だった。けれど、似つかわしくない憎しみを帯びていた。
ベラと男の間に、赤色が舞い踊った。
長い赤髪。褐色の肌。臙脂色のワンピースが広がり、革靴が鋭い音を立てた。白刃が振り下ろされる。
圧迫感が消え、ベラの体が重力に従って崩れ落ちた。気管を空気が通った。喉を押さえ、思わず咳き込む。涙で眩んだ視界でベラが捉えたのは、後ずさった男と、長剣を構えた少女の姿だった。
いつでも蹴り出せるように踵を浮かせ、重心を下げた姿勢で少女は言った。
「待っていたわ、ヴィクイーン。貴様をこの手で殺せる時を」
前屈した後ろ姿に、殺気が漂っていた。対してヴィクイーンと呼ばれた男は、だらしなく両腕を肩から下げ、片足に体重をかけて首を捻った。
「君は、ああ、あの時の仔猫ちゃんじゃないか」唇が、吊り上がる。「そうか、君がルノアールだったんだね」
男が大きく足を踏み出し、上体を下げた。それを皮切りに、少女が走り出す。しかり、振り上げた刃が男に届くことはなかった。
ヴィクイーンの右手が、強く空気を掻いた。瞬間、突風が吹き荒れた。
吹き飛ばされる感覚に、ベラは思わずきつく目を閉じた。背中に衝撃があり、風が皮膚を押さえ込む。道端の柵に、叩き付けられたようだった。
あの少女はどうなったのか。
腕で庇いながら薄く目を開けると、半身を下げながら両足を踏ん張り、剣で風を切り裂く少女が見えた。じりじりと押しやられながらも、その紅の瞳は強い意志を失っていない。
少女が風の切れ目を捕らえた。
しなった足が弓のように弾けた。小さな体躯が走り出す。上背と剣を低く構え、矢のように少女は男に向かう。力強く足を踏み切り、少女が跳び上がった。
真上から剣が振り下ろされる。
その切先が男の額に届くかと思われた。しかしヴィクイーンの反応は早かった。彼は胸の前で腕を交差させ、宙を爪で引き裂いた。気流が少女を襲う。刃先がもがいたが、少女の体が反転し地面に叩き付けられた。
ゆらりと、男が少女に歩み寄る。
「ルノアール」
忌々しげに、ヴィクイーンは呟いた。屈み込み、気を失った少女に手を伸ばす。長い指が赤い前髪を梳いた。
「駄目!」
ベラは叫んだ。昏い双眸がこちらを見つめた。息を呑んで見つめていると、ヴィクイーンが膝を伸ばした。彼の足が、こちらに向かう。
「来ないで」
地面を噛んだ両手が震えた。無表情で男が口を開く。
「君も戦いなよ、ディクソール」
大きな掌が顔面に近付く。
「どうして私をディクソールと呼ぶの」
固まった舌で、辛うじて問う。しかし彼は答えなかった。
「戦え」
冷たい声が響くと同時に、衝撃が襲う。視界が暗転し、ベラは意識を手放した。