フェレ(しんじて)03
胸が苦しくて、水を吐いた。何度咳をしても、喉と鼻の痛みは取れない。全身がびしょ濡れで、氷水に浸かったように冷たかった。かじかむ手足を動かすと、歯列がかちかちと音を立てた。
「おい、早く火を付けろ」
少女の声がして、小さな拳をフェレが小突いた。震える顔を動かし見上げると、闇の中に二つの翡翠の瞳が見えた。
「わたしが薪を集めてやったんだ。火ぐらい自分でつけろ」
「え……?」
フェレが戸惑い、逡巡していると、少女は舌打ちをして顔を背けた。
「さっきは馬鹿みたいに燃えていたくせに、肝心な所で役に立たん」
言うことを聞かない体を無理やり起こすと、少女が積んだ薪に片手を翳していた。その細い指先に微かな明かりが灯り、木の枝を伝って橙の炎を立ちのぼらせた。風に揺れる火の粉を見つめていると、抉るような痛みがこめかみに走った。
「火……青い、炎……」
現実に起きたこととは思えなかった。けれど、炎の剣で切り付けた感覚と、耳朶を揺らした悲鳴はあまりにも生々しく、フェレは吐き気を覚えて口を押えた。
少女がフェレに視線を向けた。焚き火に赤く染まっていても、あざ黒い肌と澄んだ緑の双眸がはっきりと見えた。縮れた灰髪を肩で揺らし、彼女は言った。
「あんたも早く火に当たれよ。寒いんじゃないのか?」
「あ……さっきの人は……? 死んでないよね……?」
フェレのか細い声に、少女は忌々しげに眉を寄せた。前髪を分けた額を掻き毟り、吐き捨てるように言った。
「自分が殺そうとしたくせに、今度は心配か。身勝手な奴だな。師匠が向こうで手当てをしているだろ」
少女が鋭い視線を向けた先に、地面に倒れ込んだ盗賊と、その片方に手際よく包帯を巻くローブを纏った男の姿があった。
「わ、わたし……殺そうとなんか……あの時は必死で……」
混乱したフェレが口走ると、再び盛大な舌打ちが響いた。
「御託はいいから、案じる心が残っているなら様子を見てきたらどうだ。酷い火傷だったぞ」
言われ、さっと血の気が引いた。今まで傷付けられることばかりだった。虫も殺せないと思っていた弱い自分に、こんな凶暴な一面が潜んでいたのが恐ろしかった。凍り付いたように固まった足を叱咤して立ち上がる。震える足取りでローブの男に近付き、邪魔にならないようその脇で膝を折った。口の開閉を数度繰り返し、やっとの思いで声を振り絞った。
「傷の具合は……どうですか?」
男はフェレを一瞥し、手を止めないまま言った。
「悪い。だが、命に別状はない」
その固い言葉に、フェレは細く息を吐いた。人を殺していなかった。安堵が涙を盛り上がらせた。
「あの……ありがとうございます。この人たちを助けてくれて……」
礼には一言も反応せず、彼は黙々と爛れた傷口にすり潰した薬草らしきものを塗り付けていた。男の髪は完全な白色で、後ろ手に束ねられ、月光を浴びて妖しく艶めいていた。その横顔は決して老人というわけではなく、それでも落ち窪んだ目の下は濃い影をたたえていた。声は低く掠れているが、皺枯れているというには張りがあった。ふと、その響きをフェレは思い出した。
「わたしを止めたのは……あなたなのですね」
体を縛った水の中、鼓膜を揺らすことなく頭に直接届いた音を、フェレははっきりと覚えていた。そうだ、と短く答えた声は、どこか微かに苦しげだった。
フェレは仰向けに眠る盗賊たちを見つめた。その顔を見ても、憎しみは湧かず後悔だけが募る。服を剥がされた皮膚に鎮座する、まだ包帯を巻かれていない火傷は痛々しかった。血と、焦げた肉の臭いが鼻孔に張り付いて離れない。
まるで、獰猛な獣が引き裂いたかのような凄惨な跡だった。フェレはぐしゃりと顔を歪めた。
「これ全部……わたしがやったんですね……」
記憶は青い靄に霞んで曖昧だった。しかし怒りに身を任せ、このまま殺してもいいとさえ感じた衝動の残り火は、まだ胸の底で燻っていた。その心の残忍さに、喉奥から嗚咽が込み上げた。
「何故、泣く。思いが遂げられて満足だろう」
重厚な問いに、フェレは必死に首を振った。
「確かにそうですけど……違うんです……願ったとしても、手を染めるべきではなかった……わたしは間違っていたのです……今になって身に染みても遅いでしょうけど……」
「悔やむのか」
「わたし、怖いです……自分が自分でなくなったみたいで……制御できなくて、またいつか暴走してしまったらと思うと……」
沈黙が落ちた。計られるような、見透かされるような無音に、鳥肌が立つ。やがて静かな声が宙を割った。
「畏れを忘れるな」
フェレは男を見上げた。濁った双眸が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「人の中には悪魔が棲む。お前のそれは特に強大だ。畏れる心をなくせば、たちまちお前は食われ、支配されるだろう」
「悪魔……」
「抑える術が知りたいか」
認めたくなかった。自分が酷く残忍なものを飼っているということを。無力で善良だと思っていた自己が、凶悪な色に塗り潰されていく感覚だった。認めてしまえば、何も知らなかった頃には戻れないのが恐ろしかった。何もかも忘れて凡庸に生きて行きたかった。
けれどフェレは、自分が目を背らす資格がないことを知っていた。目の前に横臥する怪我人が、その醜い傷跡が、フェレの逃げ道を闇に隠し、一本の道を照らし出していた。望もうが望むまいが、もうその道しか残されていなかった。
「知りたいです」
どこへでも行けると思った瞬間が懐かしかった。残った行き先は、とても希望に満ち溢れたものには思えなかった。それでも自分自身から、自分の犯した責任から逃げるよりも、遥かに真っ当な道に思えた。
「教えてください」
風に森がさざめいた。頭上には、ぽっかりと空いた穴のような満月が煌々と輝いている。背後で薪の燃える音がして、火の粉と塵になった炭が、月に気圧され小さく瞬く星屑の間をゆらりと漂い、フェレの足元に音もなく舞い降りた。




