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フェレ(しんじて)01

 彼以外、誰も信じられないと思っていた。

 雨の国アレイゼン共和国に生まれたフェレは、幼少期誰もから嫌われていた。それが何故なのか、自分ではよく分からなかった。誰に迷惑をかけているわけでもない。髪を背中まで伸ばすことも、口調が柔らかいことも、他者を傷付けるようなことではないはずだった。けれど存在が不快である、ということは、悪意を向けられる大義名分になり得ることを、フェレは嫌というほど学んでいた。


 身体的な暴力がなくとも、精神を抉る言葉がなくとも、嗤うだけで人間の尊厳を奪うのには十分なのだ。

 寄越される好奇の視線。囁かれる含み笑い、わざと声を張られた下卑た大笑い。一歩家から外に出るとそうだった。汚いものを見るような侮蔑の目、気の毒そうな同情の眼差しはまだましだった。嗤われると、それだけで自分が見世物にでもなったような、他者とは一番下がった惨めな存在になったような気になってしまうのだった。


「フェレちゃん、大丈夫? か弱い女の子なのに、薪拾いなんてできるの?」

「おい、男なんだから、それくらいできるに決まっているだろ」


 フェレが籠を背負って家から出ると、近所の悪餓鬼が集まってくる。嫌らしい笑みを含んだ声がフェレに纏わりつく。


「男? こんなのが、ほんとに男なのか?」


 空は広く薄墨色で、霧のような雨が降っていた。フェレがフードを深く被り直して、早足でその場を立ち去ろうとすると、子どもの一人が下品なにやけ顔でフェレのスカートを捲り、下着を摺り下した。


「やめてよっ!」


 甲高い叫び声は、どっと沸いた大笑に掻き消される。


「やめてよ、だってさ」

「見ろよ、縮み上がってるぜ」

「可哀想、フェレちゃん、泣くんじゃないか?」


 胃痛に襲われ、フェレは膝を折った。悪意に屈したようで、恥ずかしかった。一つの反撃もできず、蹲る自分が情けなかった。


「ぐえ」


 胃の中身がせりあがってきて、口内に酸の臭いが満ちた。思わず両手で地面を掴む。げえ、と醜い音を立てて、吐瀉物が喉の奥から零れ落ちた。


「汚ねえ」

「臭せえな」


 気を緩めたら、口元を吐瀉物で汚して地面に蹲る自分は、それを見下す彼らよりも劣った人間なのだと思ってしまいそうだった。悔しかった。力でも口でも勝てないのならば、せめて精神の敗北だけは避けたかった。けれど、価値のないものとして扱われることに慣れてしまうと、自分の価値さえ疑い始めてしまうのだった。

 胃の内容物を全て出し終えたとき、誰かの足がフェレの背を蹴った。


「感謝しろよ。俺達が遊んでやらなきゃ、お前みたいな汚物は誰も相手してくれないんだからな」


 何を言っているのか、よく分からなかった。同じ言語を使っているのか疑問に思うほど、フェレと彼らの物語は交わらない。絶望に眩暈がしそうだった。

 囃し立てる虐めっ子が去ってどのくらい経ったのだろう、泥で汚れた爪をぼんやりと眺めていると、優しい声が降ってきた。


「姉ちゃん、大丈夫?」


 見上げると、そこには弟が立っていた。


「レネ」


 呼び掛けると、彼は小さく微笑んだ。亜麻色の細い直毛に、はしばみ色の優しい瞳。彼は手拭いを取り出すと、フェレの口周りをそっと清めた。その繊細な手付きに触れると、緊張の糸が緩み目元にじんわりと涙が滲んだ。


「姉ちゃん、泣かないで」


 温かい手に背を撫でられると、限界だった。不格好な嗚咽が漏れ、顔が歪んで次々に頬を幾筋もの雫が濡らした。


「可哀想に、こんなに汚れて」


 レネがフェレの手を取った。爪先をなぞられ、伝う温度に唇が震える。暴力的な笑い声に踏み躙られて潰れた心が柔らかく膨らんでいくのを感じた。


「洗わなくちゃね。一度帰ろう」


 弟に優しく手を引かれれば、もう立ち上がれないような気がしていた足でさえ、すんなりと動いてくれるのが不思議だった。


「いつもありがとう、レネ」


 か細い声でそう告げると、愛しい横顔が振り向き言った。


「きょうだいだからね。当然だよ」


 どんな不運に襲われても、レネがいてくれるから絶望に染まらずに済んだ。どれだけ心身を打ち砕かれても、レネときょうだいとして生まれることができただけで報われると、フェレは思っていた。



「ちょっと、また外で吐いたの?」


 家でフェレを出迎えたのは、苛立った母の声だった。


「嫌だ、また掃除してこなくちゃいけないじゃない。いい加減にしてよ」


 古机を拭きながら、白髪交じりの髪を束ねた母が言う。顔を顰めた彼女に、レネは言った。


「大丈夫だよ。僕が行くよ。母さんは休んでて」

「もう、レネったらフェレに甘いんだから」


 居間には父の鼾が響いていた。フェレからは床に寝そべった父の太い足だけが見えた。レネが小声で囁く。


「姉ちゃん、行って。着替えを取ってきなよ。母さんの相手は僕がしているから」

「うん。ごめんね、レネ」


 泣きそうな声で言うフェレに、いいから、とレネは笑った。

 箪笥のある奥の部屋に引っ込んだフェレは、はたと手を止めた。フェレの吐瀉物を拭ったレネの服は、果たして汚れていなかっただろうか。彼の着替えも必要かもしれない。確かめるためフェレは足音を忍んで居間に向かった。

 部屋の手前、母の大きな溜息が耳に届いた。


「わたしは恥ずかしくて仕方ないよ。あんな男のなり損ないが自分の息子だなんて」


 フェレは思わず足を止め、息を殺した。


「自分で産んだ子なのに、気色が悪くて敵わない。育て方が間違っていたのかねえ」

「そんなことはないよ。俺は母さんに育てられて、感謝してるよ」


 レネの声がした。


「それに、嫌悪感を持ってしまうのは、自然なことだよ。僕もちょっと普通じゃないと思うし。でも、感じ方は自由だからね。悪いことではないよ」


 聞いてはいけないことを聞いている気がした。フェレの知っている弟の姿とは、あまりにかけ離れていて理解が追い付かない。


「レネは本当に優しい子だよ。わたしはあの子には愛情なんて掛けられない」

「だって、兄ちゃんは皆の気を引きたくて、あんなことを言っているんでしょう。だから、騙された振りをしてあげないと、可哀想じゃないか」


 聞かなかったことにしてしまおうかと、一瞬、思った。それは強烈な誘惑だった。


「おい、うるさいぞ」


 父の寝ぼけ声がした。どうやら、昼寝から起きたようだった。


「早朝から畑仕事をしていた俺を少しは気遣おうとは思わんのか」

「ちょっとあなた、そんな言い方はないじゃない。私が働いていないとでも思っているの」


 憤る母を、レネが宥める。


「落ち着いて、母さん。父さん、ごめんね。もう静かにしてるから」

「レネは本当に物分かりが良いな。お前も無理して母さんやフェレになんか付き合わなくたっていいんだぞ」


 母の甲高い声がした。それも全て遠い出来事だった。

 自分はおそらく傷付いているのだろうと、冷静に思う。けれど眼球は乾き、夢のように実感がなかった。


 選択を迫られているのだと、はっきり分かった。何にかは知らないが、試されている気がした。

 何も聞かなかったことにしてしまえば、平穏は保たれる。レネは優しい弟で、母は気難しいがフェレを完全に突き放すことはしないし、父は厳しいけれど一家の大黒柱を張ってくれている。不満がないとは言わないが、生きるに不自由のない生活。手放してもいいのかと、逡巡が脳裏を走る。


 お前は何を見ているのかと、心の中で誰かが喚いた。

 母はフェレを愛していないし、父はフェレに興味がなく、レネは可哀想な兄の面倒を見ている自分に満足しているだけだ。初めから、誰も己を信じてなどいなかったのだと、他でもないフェレの声が言った。

 悲しみが身を浸し、峻烈な怒りが胸を焼いた。静かな思考を満たしたのは諦観だった。

 どうしようもない。ここは行き止まりだ。ここにいては、どこへも行けない。


 汚れた爪を握り込んだ。捨てるには愛着を持ち過ぎた。しかし置いて行かなければ、フェレはここで腐っていく確信があった。

 足を踏み出す。喉が震えた。レネと目が合う。彼の瞳が揺れた。体が引き裂かれるようだった。たとえ偽物の優しさでも、それにフェレは生かされてきた。

 ありがとう。そして、さよなら。

 綺麗な言葉で終わらせたかった。けれど、喉元から溢れ出そうになる言葉は、低俗なものばかりで、フェレはぐっと歯を食いしばり耐えた。


 糞野郎。大嫌いだ。最低最悪。そんなものに、今まで自分は縋ってきたのか。反吐が出る。

 目元が痛んだ。鼻の奥がつんと引き攣る。母が、父が何かを言っていた。けれど誰もフェレの手を取って引き留めようとはしなかった。玄関を抜けると、既に雨は上がり、空が青く晴れ渡っていた。先程外に出た時には気が付かなかった。世界は広く、美しかった。その気になればどこへでも行けるのだと、天を旋回する鷹が謳っていた。


 水田に挟まれた小道を行くと、水鏡に眩い空が映り、一層自由な気分が高まった。

家から離れると、やっと涙が滲んだ。零れた一筋を拭うこともしなかった。痛くても、辛くても、これでいいのだと思えた。それが酷く、誇らしかった。

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