ロゼ(よあけ)10
昔話を終えると、外から漏れ入る闇は随分と濃くなった。ロゼが口を噤むと、部屋はしんと静まり返り、隅に溜まった暗がりから囁きが聞こえてきそうなほどだった。揺れる蝋の灯りを前に、ノキノはほうっと溜息をついた。
「じゃあ、あんたはそのカイって子がヴィクイーンだと言うんだね」
「はい。だから、迎えに来ました」
背筋を伸ばして答えると、向かい合って座るノキノは指先で目頭を押さえた。
「ずっと会っていなくて、確信なんて持てるはずがないだろう」
「間違っていたら、仕方ありません。できることなんてないので、帰ります」
「帰るったって、ヴィクイーンに会って、生きて帰れる保障なんてないだろうに」
ノキノの諫言に、ロゼには思わず苦笑が浮かんだ。彼女の言う通りだった。馬鹿なことをしている自覚は痛いほどにあった。それでも、ここで退くわけにはいかないという、全く根拠のない予感が胸を支配していた。徒労に終わっても、最悪の結果が待ち受けていたとしても、悪魔と呼ばれる青年と話がしたかった。
椅子の下で組んでいた足首をほどいて、ロゼは身を乗り出した。
「今、あんなに苦しんでいるカイの元に行かなければ、俺、一生後悔すると思います。カイを見捨てたまま幸福になる自分自身を、きっと許せない。それが多分、俺の一番の不幸だから」
自分の幸せを、他人に決めさせてはいけないよ。祖母の声が脳裏に蘇る。
この十五年は、ロゼにとってあっという間だった。カイを見捨てたという事実と折り合いをつけるのに忙しく、それだけで精一杯だった。
まだ子どもだったからだとか、唐突な出来事だったからだとか、言い訳を重ねるのは易しくとも、遂に受け入れることができなかった。抱く思いは日々大きくなった。カイに会いたい。会って、謝りたい。それから、ぶん殴ってやりたい。
「厄介なこったね」
両手で顔を覆い、ノキノは弱々しい声で言った。
「最も愛する者を弔うために、最も憎んでいる者を救わなきゃならんなんて」
「ノキノさん……」
「あいつが、どれだけの人間を傷付けてきたのか、分かっていて物を言っているんだろうね?」
指の股から、鋭い眼光が覗いていた。ロゼはぐっと息を呑む。兎の首を折った、幼いカイの指の節を覚えている。血と泥に濡れることに何の呵責も感じなかった彼は、人を殺めることだって躊躇いはしないだろう。それを知っていてもロゼの心は決まっていた。
「見捨てていい人間なんて、この世に恨まれていたとしても、俺はカイの元へ行きます」
すっとノキノが席を立った。立ち去る足音に、ロゼは拳を握った。
全ての人に自分の志を理解してもらおうとは思っていなかった。けれど、行く当てもなくエグタニカを彷徨っていたロゼへ宿を貸してくれたノキノに、恩も返さないうちに拒絶されてしまうのはあまりにも悲しかった。
項垂れていると、威勢の良い足音が響いてきた。再び部屋に顔を出したノキノは、夜の闇さえ払うような力強い声で言った。
「一眠りしたら、早速行こうか。私も人に返したいものがあるんだ」
日焼けして染みが広がった顔に浮かぶ笑みには迷いがなく、隆々とした筋肉を纏ったその両腕の中には、いかにも高級そうな光沢を放つ、蒼穹の色をした衣装が抱えられていた。
「魔導師に会いに行けば、幼馴染にもあえるだろうさ」
こともなげに言い放つ彼女を前に、ロゼは立ち上がり頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……!」
深く背を屈めたロゼの肩に、武骨な手の平が乗せられた。温かな熱が布越しに伝う。
「あんたの願いは、きっと多くの人を救うだろうよ」
優しい声音に、涙が滲む。唇を噛みしめていると、ふっとノキノが気を緩めた。
「何にせよ、まずは睡眠だよ。体を休めないと始まらない。少し寝て、早朝に立つよ」
「はい」
顔を上げると、ノキノは既に就寝の準備を始めていた。水を飲んでいた椀を片付けながら、感慨深げに言った。
「それにしても、ヴィクイーンに家族がいるとは思っていなかったよ。そうか、あの子にも心配してくれる人がいたんだねえ」
続いた彼女の言葉に、ロゼは呼吸を忘れた。
「ああ、そういやヴィクイーンには変なことを聞かれたね。『君の願いは、何だい?』って。ありゃ、何をしたかったんだろうねえ」
自然と瞼が閉じられた。愛おしさとも哀れみともつかぬ感情が溢れ出し、胸を塞いだ。奥歯を噛んでいないと、涙が滲みでてしまいそうだった。
ロゼは心中でカイを呼んだ。口下手なところも、心の機微に疎いところも、気を許した相手には深い愛情を注いでくれるところも知っている。ロゼはよく知っていた。
ノキノが明かりを消したのか、煙の煤けた臭いが辺りに広がった。すんと鼻を鳴らし、瞼を強く擦った。感傷に浸っている時間などなかった。暗闇に慣れた瞳でロゼは寝台に向かい、横たえた体を毛布で包んだ。




