ロゼ(よあけ)09
足が地面を蹴る度、内臓が揺れて捻られ、息が上がる。足がもつれ、体が投げ出されそうになる。骨を伝う振動が、鼓動を速める。人だかりが見えてきた。その後ろで腰を丸めたリー爺がロゼを見た。皺だらけの口許が、もごもごと動く。
「カイ坊が……!」
鼓膜を震わせた音が恐怖を高まらせる。人を掻き分け最前列に躍り出ると、ロゼは驚愕に呼吸を忘れた。
カイが地面に倒れ込んでいた。その体には幾重にも木の根が巻かれ、締め付けるそれから逃れようと、死に際の虫のようにのたうち回っている。銀髪が乱れ、砂と泥にまみれた顔で彼は叫んだ。
「ああああああ……!」
瞬間、がくんとカイの体が揺れ、地面に打ち付けられた彼は勢いよく咳き込んだ。木の根が引かれたのだ。カイを縛る樹根の先を辿っていくと、彼の後ろに仁王立ちする黒いローブの袖に行き当たった。それを纏うのは、灰の縮れた髪をした、初老の女だった。
目許や口周りの皺は薄いが、弛んだ皮膚が顔周りの輪郭を崩していた。肩口で切り揃えた灰髪が揺れ、青みがかった緑色の双眸がぎょろりとロゼを射抜いた。
鋭い眼光にたじろぎ、ロゼは思わず半歩後ずさった。心の裏側まで見透かされ、己の矮小さを見下されているような気分だった。いつか家の中から見た、狼の群れを率いる長に似た、風格と激烈さを漂わせた女だった。
「ロゼ」
カイの声に弾かれ、ロゼはカイを見た。汚れ、ぐったりとした顔に浮かぶ喜色。縋る視線。緩んでいく頬。ロゼはもう一歩足を引いた。
――俺ら、もう、家族だろ。
自分の声が蘇る。もし、捕らわれているのが祖母だったなら、ロゼは迷わず飛び出しただろう。何を失うのも、どんなに傷付くのも厭わず、力の限り祖母の元へ駆けたに違いない。
けれどもカイは、得体の知れない少年だった。満身創痍で道端に倒れているのを連れ帰った時から、ロゼがどれだけ心を開示しても、カイは頑なに自分のことを話そうとはしなかった。呵責なく生き物を殺し、不可解な力を使った。
どうして、ロゼを信頼して打ち明けてくれないカイのために、ロゼが全てを投げ出さなければならないのか。
「ロゼ?」
呼ぶ声が、不安げに揺れた。はっと意識を引き戻すと、紫にも緑にも光る瞳がロゼを真っ直ぐに見つめていた。
見開かれた両目に映る希望が、失望に移ろう瞬間を見た。乾いた唇が、静かに動いた。音にならない呟きは、それでも確かに「どうして」と嘆いた。
それは、初めて会った時、血濡れのカイが漏らした問いと同じ響きだった。
「あ、あ……」
口がわななく。ロゼは乾酪を取り落した。心拍が上がり、頭が真っ白になって、足裏が砂の上を後ずさった。手先の感覚が消え、体が空洞になったようなのに、足だけが素直に踵を返し、人を縫って駆け出した。闇雲に地面を蹴って、でたらめに走り続けた。地面を濡らすだけだった雨は次第に強くなり、いよいよ本降りになっていく。
流れる景色の中、とりとめのない思考が浮かんで消えた。
雄山羊を迎えたなら、カイと話し合って名前を決めようと思っていたのに。いつかは、ミュリと番い、仔を産むかもしれなかった。言葉にしなくても、カイが楽しみにしていたことをロゼは知っていた。
雨粒がロゼを叩く。責めるように、肩で、顔で、頭皮で弾け、肌を濡らし伝っていく。
苦しくなっていく呼吸に紛れて、ロゼは思う。
もう、終わりだ。嫌われた。見損なっただろう。こんな状況になってまで、自分のことばかりだ。
祖母が死んだとき、カイは言ってくれた。
――ロゼが辛い時、僕がそばにいるから。
抱き締めてくれた彼の、腕の細さを覚えている。
――僕が助けて欲しい時、ロゼは助けに来てくれる?
か細く揺れた、カイの声。
――当たり前だろ、馬鹿。
答えた自分の声は、どんな風に響いていたのか。
その時、足が捻れ、体が傾いた。倒れる、と覚悟した瞬間には半身に衝撃が襲い、顔面に飛び散った砂が口に入った。骨がじんと痺れ、擦った関節の皮膚がじくじくと痛んだ。
這うように腕を使い頭を起こせば、世界は雨に煙っていた。
言い訳ばかりが頭を巡る。あの恐怖の中、動けなくても仕方なかった。自分一人がカイの元に駆けつけたところで、何が変わるというのだ。どちらにせよ、助けられるはずがなかった。
しかし、どれだけ理由を重ねても、自分がカイを裏切ったという事実は変わらない。
家族だろ、そういった時、仄かに赤らんだ彼の耳。
――うん。
相槌に込められていた感慨。その声の柔らかさ。
カイと共に過ごす温かで平穏な日々が、ずっと続いていくと思っていた。しかしもうそれは、記憶の中でさえ優しくは息づかない。壊したのは、紛れもなく自分自身だった。
砂粒で苦い口内に、嗚咽が込み上げる。歯を食いしばり、きつく目を瞑ると、熱い涙が瞼を割って滲み出た。喘ぎ声と共に息を吐くと、限界だった。情けない声と涙が滂沱のごとく溢れ、けたたましい雨に溶けていく。
両親が出て行ったとき、強くなりたいと願った。大切な人を失っても、一人で生きていけるほどに。失う痛みを知ってもなお、また誰かを大切に思えるよう。大切な誰かを、自分の手で守れるように。
それなのに結局、自分は何も出来ない、臆病な人間だと知ってしまった。恐怖を前に、大切な友人さえ救えない。駆けつけるために、足を踏み出すことさえできない。
悲しいのか、惨めなのかも分からなかった。ただただ涙が止まらなかった。自分で自分を責めることしか出来ないから、雨が冷たいことだけが幸いだった。
どれほど経ったのか、泣く気力もなくなった頃、ロゼは重い足を引いて誰もいない家に帰った。そして数日後、リー爺からカイが魔導師たちに馬車で連れ去られたことを聞いた。




