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ロゼ(よあけ)08

 久方ぶりの雨が降った。細糸が天と地を繋いでいるような淡い雨だったが、飢え渇き口裂けた大地を癒すには充分な潤いだった。

 ロゼは雨水を貯めておくための桶を庭に並べると、シュリに餌遣りをしているカイに声を掛けた。


「市へ行こう。雨季の始まりに皆浮き足立っているから、乾酪が良い値で売れるかも知れない」


 シュリの首元を撫でていたカイはのっそりと顔を上げ、しかめっ面でロゼを見た。


「一人で行きなよ」

「水汲みのための瓶を持って欲しいんだ。俺だけじゃ二つも運べない」


 渋々腰を上げたカイと並んで井戸への道を歩く。空は銀色で、雲が薄い部分が白く光っている。すっかり枯れ果て、黄色く縮んだ道端の雑草が露に濡れているのを眺めながら、ロゼはぼんやりと言った。


「そういやお前が倒れていたのって、この辺だよな」


 見知らぬ行き倒れの少年を家に連れ帰ったのが、つい先日のようにも、遠い過去のようにも感じる。しかし、背中を大きく裂いて血にまみれていた人物と、瓶を重そうに抱えながら隣を歩くカイが同じ人間だとは到底思えなかった。


「そういや、お前何でこんなとこで倒れていたんだ?」


 問うと、明らさまにカイが鬱陶しそうな顔をした。むっとして言い募る。


「そろそろ、お前のこと教えてくれたっていいだろ?」


 しとしとと水滴が肩に、頭皮に染み渡っていく。じわじわと重くなる衣を捻って、カイの顔を覗き込んだ。


「俺とお前の仲じゃん。俺ら、もう、家族だろ」


 驚いたように口を開いた間抜け面がこちらを見つめ返す。可笑しくて含み笑いをすれば、怒ったのかカイが顔を背けた。けれど、微かに赤くなった耳を晒しながら、彼は答える。


「うん」

「じゃあ」

「でも、嫌だ」


 ええ、と嘆息するロゼをカイが笑った。


「家族だからって、何でも打ち明けるわけじゃないだろ」

「まあな」


 ぬかるみに足がはまって泥が撥ね、色褪せた革靴に飛沫を残す。濡れて滑り落ちそうになる瓶を、ロゼは膝を使って抱え直した。


「魔導師と何か関係があるのか?」


 問い掛けは一拍、宙に浮いた。


「ないよ、そんなの。あるわけないじゃん」


 白々しい繕いに、ロゼは口を噤むしかなかった。ロゼはカイの力になりたいのであって、困らせたいのではなかったから。

 井戸につくと、近くの休憩所でリー爺が休んでいた。頭髪の残っていない染みまみれの顔に、濁った緑色の双眸が印象的なこの老人は、ロゼが物心ついた時からそれなりの年齢のはずなのに、一向に衰えていく気配のない不思議な人だった。

 リー爺を見つけると、カイが一目散にリー爺の隣を陣取った。瓶を抱えながら、どっかりとベンチに腰掛ける。


「おはよう、リー爺さん」


 呼び掛けられても、聞こえているのかいないのか、リー爺はにこにこと微笑むだけだった。それでもカイは満足げに、日除けの下で顔を扇いだ。


「こっちも頼んだぞ」


 そう言って、ロゼはカイの正面に瓶を置いた。


「どっちも僕が水を汲むわけ?」

「買い物に関しては役立たずなんだから、それくらいしろよな」


 人が嫌いだからと、いつも井戸端から離れようとしないカイに水汲みを押し付けるのは、毎度恒例のことだ。嫌々ながらも頷いたカイを残し、ロゼは体に縛り付けた包の中の乾酪と共に、露天の立ち並ぶ方へ足を向けた。

 色褪せた木台の上に様々な商品が売られている。お世辞にも賑わっているとは言えないが、人口の少ないミスォーツでは、市場が立つ日は、月に一度のハレの日だった。


 ロゼは辺りを見回し、山羊を売っている人はいないか探した。梔色のスカーフを巻いた芳年の娘が、綺麗に毛を梳いた小柄な山羊を数頭、首で紐を括り、杭に繋いでいた。


「こんにちは。この痩せっぽち、雄だよね? 乾酪と交換してくれない?」

「嫌だよ。もう少し色を付けてくれないと、相談に乗ってあげられないねえ」

「でも、こんなに量があるんだよ。質もいいし。ちょっと見てくれないかな?」


 そう言って包を掲げた時、ふくらはぎの辺りに何かが触れるのを感じた。振り返ると、漆黒の長いローブを着た男がロゼの後ろを通り過ぎるところだった。フードで覆われた後頭部と広い肩に邪魔をされ、横顔はちらりとしか見えなかったが、日焼けした肌、豪快な目鼻には見覚えがあった。


「アトル……?」


 呟いた声に確信が持てなかったのは、彼のあれ程に冷徹な表情を知らなかったからだ。その眼差しの怜悧さは、見るもの全てを射殺さんとでもしているようで、強張った頬は鎧のように固く顔に張り付き、どんな感情も一滴さえ滲みはしていなかった。

 立ち去っていく黒い後ろ姿に悪寒を覚えたロゼは、強迫的な衝動に押されて周囲を見回した。すると、まばらだか確かに買い物客の合間に黒いローブの人影があった。


「何、あいつら」


 呆然とした声に、山羊飼いの娘が頭を掻いた。


「ああ、気味悪いよ。半刻前ごろ、突然現れたんだ。きっと、魔導師の男の仲間なんだろう」


 ひゅっと喉が鳴った。カイのところへ戻らねば。虚ろな思考の中で、浮かび上がった確信が警鐘を鳴らす。ごめんなさい、山羊はまた、今度にする。舌が勝手に口走って、ロゼは井戸の方へと走り出した。

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