ロゼ(よあけ)06
「アトルの師匠ってどんな人?」
荒地を進む空白の合間にロゼが問い掛けると、隣を歩くアトルが「あ?」と横目でロゼを見た。空は高く澄んで、遮るもののない日光が燦々と降り注いでいる。遠くの荒れた山脈に目を移し、アトルが意地の悪い顔で言った。
「鬼婆だ。血も涙も情もない。孤独が魔法を強くすると言うが、お師さんの魔法は一級品だ。誰にも、自分自身にさえも心を許していない」
ロゼの体の陰に隠れているカイが、きゅっとロゼの背のあたりを掴んだ。その微かな衝撃に、厳しい祖母の姿が脳裏に閃いた。滲み出そうになる涙を瞬きでこらえ、ロゼは肘でカイを小突いた。
舌が乗ったのか、頬を緩めながらアトルが続ける。
「俺なんか、初めは怪我を癒すだの体調不良を治すだの興味も才能もなかったんだ。だけどお師さんが、目の前で本当に困っている人の役に立たない魔法など、覚える必要がないって毎日睨んでくるもんだからさ。まあ俺は適材適所でいいだろって今も昔も思うけど、お師さんに根負けしたってわけ」
愚痴のような言葉尻とは裏腹に、アトルの言葉は弾んでいた。家が近付くにつれ大きくなる不安を吹き飛ばすように、ロゼは明るく言った。
「でも、師匠のこと好きなんだね」
「はあ?」
頓狂な顔で声を上ずらせるアトルに、言い募る。
「話してるの、楽しそうだから」
「よせよ。俺らの関係はそんな甘っちょろいもんじゃねえ。何しろ、喧嘩別れで飛び出してきたようなもんだからな」
顔の前で大きく腕を振ったアトルの表情は満更でもなく、過去を懐かしむ穏やかさがあった。
「一人ぼっちで、寂しくないの?」
問うた声は頼りなくて、ロゼは自分で恥ずかしくなった。祖母の待つ家がもう目前まで迫っていた。
「……憎しみを飼い慣らすのに、忙しいからな」
返答も静かだった。太陽は相変わらず暴力的にぎらついているのに、空の青さだけが清廉として薄く広がっている。生暖かい風を浴びながら、玄関の戸から少し離れたところにアトルは足を止めた。訝しんで顔を覗き込むロゼを一顧だにせず、声の調子を落としてアトルは言った。
「すまねえ、ロゼ。やっぱり、山羊は貰えねえわ」
「どうして」
焦りと絶望が沸き上がり、ロゼを急き立てた。腕にしがみつき揺さぶるロゼにされるがまま、アトルは俯く。
「俺は鼻が良いんだ。水の香りも、食いもんの匂いも、生の芳香もすぐ分かる。そして、この家の中からは死がぷんぷん臭ってきやがる」
「お願い。諦めないで」
大気は酷く乾いているにも関わらず、声は滑稽な程に湿っていく。喪失の重さに耐えられず、ロゼはその場に座り込んだ。申し訳なさそうに、アトルは言葉を落とす。
「悪いな。でも、俺の力がどうこうって話じゃないんだ。寿命だよ。夕日が沈むように、ばあちゃんの命が潰えていく時期なんだ。体のあちこちが腐っていってる。お前のばあちゃんには、もう俺の魔法を受け止める力も残っていない」
ロゼは両手で顔を覆った。瞼を閉じても、次から次へと涙が零れ出た。止まらない嗚咽のせいで呼吸もままならない。震える肩を寄せて耐えていると、痛烈な叫び声が響いた。
「でたらめ言うな!」
カイの声だった。
「ばあちゃんのこと見殺しにしようとしてるんだろ! 卑怯者! お前みたいな社会のゴミ、生きてる価値ねえよ。ぶっ殺してやる」
憎悪と悲嘆にまみれた言葉だった。ロゼはそっと顔の覆いを外した。あんなにアトルのことを怖がっていたカイが、真正面からアトルと対峙していた。苦しげに歪んだ顔は真っ直ぐにアトルを睨み付け、肩は怒り、握られた拳はわななき、足は今にもアトルへと駆け出しそうに軋んでいた。
先程まで薄青に澄み切っていた空に、どこから現れたのか雲が渦巻いていた。雲は次第に厚く大きくなり、黒く染まって大地に濃い影を落とした。遂に暗雲は空を覆い隠し、太陽さえも飲み込んで世界を夜に押しやってしまった。
「おい」
ロゼは驚いてカイに声を掛けた。あまりの衝撃に涙も引っ込んでいた。
声が届かなかったのか、カイは変わらず獣のように歯を剥き出しにして唸っている。荒々しい風が美しい銀髪を乱す。
「嘘だろ……」
アトルが悄然と呟いた。今までの豪快な態度が一変して、その表情は恐怖に染まっていた。長い脚は気弱に後ずさり、節くれ立った指先が小刻みに震えている。
緊張の糸を引き裂いて、カイが大きく足を踏み出した。アトルの腰が抜け、その場に崩れ落ちる。ロゼは眉をしかめ、ぴしゃりと言い放った。
「カイ、やめろ」
金縛りにあったかのごとく、カイが動きを止めた。ふーっと歯の隙間から息を漏らし、低い声で告げる。
「許さない」
「もう、いいんだ」
「よくないだろ!」
カイが吠え、きつく目を瞑った。顔がくちゃくちゃになるほど、強く痛みに耐えていた。
地面が揺れている気がした。狂った平衡感覚の中で、ロゼはふらつきながらも立ち上がり、カイの方へ歩み寄った。強く歯を食いしばるその頬に、柔く触れる。
「よくないけど、いいんだ。ばあちゃんを悲しませるつもりか」
縋る視線がロゼに向けられる。彼の双眸が潤んでいた。吐息が絡む距離で、ロゼは額をカイと合わせた。熱い体温が流れ込む。苦しくても、無理やり笑った。
「笑顔で見送ってやらなくちゃな」
うん、とカイが言った気がしたが、その響きは涙と吐息に紛れ、淡く霞んで宙に溶けた。




